2
そしてとうとう、来て欲しくない朝が訪れた。
六時半過ぎに目覚めた直後から、私は泣き始めた。
彼が「目が腫れて、やばいことになる」と言ってなだめてくれるのだが、とうてい涙は止まらず、言いたいことも言葉にならず、もう、どうしようもなかった。
ゆうべはあのあと一時間くらいしてから、結局私は眠ってしまった。
キスは多分、三十回くらいしたと思う。彼も相当疲れていたみたいだったが、私が求めると必ず応じてくれた。おかげで、私の身体の洋服で隠れる部分には、かなりの数のキスマークが残った。
目が覚めたのは私が先だった。隣で静かな寝息を立てている彼の美しい寝顔を見た途端、こみ上げてきた思いが涙となって溢れてきたのだ。
どうして、こんなに好きになってしまったのだろう。
初めて会ってからまだひと月半ほどしか経っていないのに、そのわずかな間に、この
声を押し殺したつもりだったが、切なさの波の方が大きすぎたのだろう。私のすすり泣く声で、彼は目を覚ました。
「……何で泣く?」
彼は訊いたが、答えられるはずもなかった。自分でも良く分からない。
彼は「じゃあ、残りの分な」と言ってまた何度かキスをしてくれたが、そのうち私が彼の胸にしがみついて離れなくなったので、そのままひたすらに私の背中を撫でてくれた。
彼はさすがに困り果てた様子だった。支度を終えてからもベッドの端に腰掛けてぽろぽろと涙をこぼす私の隣に座って肩を抱いてくれるのだが、いつまでもそうしていられるはずもない。
「どうしたらその涙止まるんだ? どうして欲しい?」彼はまるで懇願するように訊いてきた。
私は少し考えて、
「……言葉にして欲しい。わたしのことどう思ってるのか。ちゃんと言って」
と答えた。
「女って、いつもそれ言うよな……」彼は溜め息をついた。「そんなの、わざわざ言わなくてもいいだろ」
「よくない。言ってくれないと不安になる。離れてるんだもの」
私は彼を見上げた。「……寂しくて死んじゃう」
すると彼は目を見開いて、ははっ、と笑った。
え、もしかして今、わたしのこと可愛いって思った? ね、そうでしょ?
「なぁに?」私は甘えた声で訊いた。
「いや……」
そして彼はゆっくりと私を抱きすくめ、耳元に頰を寄せて柔らかい声で言った。
「……好きだよ。可愛いと思ってる」
私は一瞬で溶けそうになった。ね、やっぱり。ただその直後、自分がねだって言わせたくせに、猛烈に恥ずかしくなった。
でもって、また可愛くない私が出て──
「……あなたが言うと嘘臭い」
「くっそ、じゃ言わせんなよ」
彼はがっくり項垂れた。 そして諦めたように身体を離すと、
「だったら、次に会うことを考えようぜ。次の休み、いつだ?」
と今度は明るい声で言った。
「……分からない」私は弱々しく答えた。
「分からないって、そんなことねえだろ。まだ決まってないのか?」
「決まってるけど忘れた」
「そんな……」と彼は溜め息をついた。「そうあっさり諦めんなよ。思い出せるだろ? おまえ東大出てるんだし」
「……バカにしてる。東大のこと」
「してねえって。俺なんかどうひっくり返っても入れねえもん」
「入りたいなんて、思ったことないんでしょ」
私は言い返しながらも、彼が次の休みを訊いてきたことに少し明るい展望を見いだしていた。ガラステーブルに置いた自分のカバンを指さし、「携帯取って」と彼に甘えた。
彼は私と手をつなぎながらも、空いた手を伸ばしてカバンを引き寄せ、中から携帯電話を出してきた。
受け取った私が彼を見上げて「四十回目」と言うと、彼はにこっと笑って私の頬に短く“Chu”と音を立てた。
こういうところの絶妙さ。少し気持ちを持ち直した私が今、求めていたのはまさにこの軽さだった。女の扱いに長けている、と言えば簡単だけれど、きっと彼は計算していない。もはや、持って生まれた才能かも。
私は電話を開いてスケジュールを呼び出し、涙を拭いながら次の非番の日を確認した。
「日曜日」
「日曜日っていやあ、あと四日だ。じゃあそんとき、大阪へ来いよ」
「行っていいの?」
「いいに決まってるだろ。どう、それまで持つよな?」
「……分かった」
「いいコだな」
そう言うと彼は私を抱きしめた。よしよし、という感じで頭を撫でると、ゆっくりと身体を離して私の顔を覗き込み、「四十一回目」と言って少し軽めのキスをくれた。
そのとき、私の携帯電話が鳴った。画面を見ると、見慣れない番号が表示されていた。
「誰かしら」
訝しげに電話を覗く私を見て、彼は言った。「出てみりゃ分かる」
私は彼と手をつないだまま、通話ボタンを押して耳に当てた。
「もしもし」
《──一条警部?》
どちらかの電波状態が悪いのか、聞き取りにくい男の声だった。
「ええ、そうですけど」
《ボクです、二宮です》
「二宮くん?」
私は言って、彼に振り返った。彼は眉を上げてちょっと面白くなさそうな顔をしたが、相手が職場の人間であることを察していたのか、すぐに表情を戻してそっとつないだ手を解くと、立ち上がってバスルームに消えた。
《朝早くからすいません。あの、警部、今ご自宅ですか》
「えーっと、違うんだけど」
《あ、もう出られましたか》
「どうしたの? とにかく用件を言ってくれない」
《警部、一昨日の放火、あれやっぱり別口ですよ》
「何か分かったの?」
《ええ。まだ決定とはいかないんですけど、実はボク、昨日の夜一人で現場周辺を聞き込んだんです。そしたら、被害者宅の娘が最近、ストーカー被害のようなものに遭ってるって事が判ったんです》
「それ、確かなの?」
《まだ証言ひとつですけどね》
「それが本当なら、一昨日の犯人はそのストーカーかも知れないってことね」
《それでボク、警部にお願いがあって電話したんです》
「もしかして、わたしと組んでくれってこと?」
《ええ》
「でも、なぜ? 垣内主任は相手にしてくれなかったの?」
《いいえ。このことは主任には言ってません》
「じゃあどうして──」
《警部と組みたいんですよ、ボクは》
「わたしと?」
《警部は昨日、ボクの推理をちゃんと聞いてくれたでしょ》
「垣内主任だって、一応は聞いてくれたんじゃなかったの」
《適当にね。でも、きっとあれはただの情報収集ですよ。主任は前の四件と同一犯だと思ってる。ただ、ボクには単独説の調べを進めさせておいて、もしもそっちが有力だとなってきたら、乗っかろうと思ってるんですよ。いや、場合によっては手柄を横取りされるかも》
「……そうなの?」
《ええ。この世界、いかに手柄を立てるかが勝負なんだってことが、ボクみたいな呑気者にも少しは分かってきましたからね》
「わたしは違うってこと?」
《警部はキャリアですから。いえ、たとえそうじゃなくても、あなたはそんなことはしない人だ》
「さあ、分からないわよ」私は思わず口元をほころばせた。
《いいえ、ボクには分かるんです。何となくだけど》
「どうして?」
《──大阪から帰ってきて、警部は変わられました》
「わたしが?」
《ええ。以前と全然違いますよ》と二宮は自信たっぷりに言った。《うまく言えないけど……この仕事への覚悟みたいなものができたんじゃないですか》
「そんな自覚はないんだけど」
《ご自身はそうでも、見てる方には分かりますよ。昨日、マクドナルドで強く感じました》
「ただのオタク男だと思ったら、抜け目がないのね」と私は笑った。「それで、どうするの?」
《いいんですか、僕と組んでもらって》
「わたしはいいけど、あなたはどうなの。主任はどうするつもり」
《もともと、ちょっと疎ましがられてましたからね。適当に言って、警部と組ませてもらいます。そのへんは任せて下さい》
「分かったわ。じゃあ、署で」
《あ、ただ──》
「なに?」
《いや、警部は昨日、具合が悪くて早退したんでしょ。ボクは知らなかったんだけど、刑事課で倒れたって──体調の方、もういいのかなと思って》
私は思わず笑顔になった。いいヤツじゃん、二宮くん。
「大丈夫よ。あれから大量のビタミン剤を投与したから」
《何でも大量は良くないですよ》
「ううん、このビタミン剤に限っては、摂った分だけちゃんと効き目があるのよ」
《そんな薬があるなら、教えて欲しいです》
「いいわよ。でも、キミにはそのうちわたしとは別の誰かが教えてくれるわ」
《もったいつけるんですね》二宮は笑っていた。《じゃ、あとで》
電話を切った私がすっかり元気を取り戻したのを見て、彼は安心したのか、今度はちょっと意地悪な眼差しで私を見ていた。少し前にバスルームからこちらに戻ってきていたのだ。
「わたし、行かなくちゃ」
私は言うと、手にしていた携帯電話をカバンに戻した。
「何だよ、俺が必死でなだめても直らなかった機嫌が、ニノミヤくんの電話一本でけろっと良くなってんじゃんかよ」
彼は面白くなさそうに言ったが、すぐに表情を崩すと、今度はわざとらしく怒って言った。「そいつ、連れてこい。俺と勝負だ」
私は小さく笑って、彼のそばまで行くとその両手を取って言った。
「二宮くんのおかげじゃないわ。言ってたでしょ、ビタミン剤投与のおかげだって」
「そんなの飲んでねえだろ」
「いいえ、たくさん飲んだ」
私は右手でつないだ彼の左手の甲に口づけをしながら言った。
「でも、あと九錠足りないの」
彼はその意味が分かったらしく、ふっと笑うとすぐに片目を閉じて言った。
「……もういいんじゃねえ?」
「ダメよ。用量を守らなきゃ、効き目ないのよ」
彼は諦めたように溜め息をついた。私が両腕を彼の腰に回して抱きつくと、彼も私の両肩を抱えてぐっと引き寄せ、顔を上げた私に言った。
「もう俺、正直ヘトヘトなんだからな」
そうして彼は両手で私の顔を持つと、今までで一番乱暴に、それでいてねっとりと甘い、絡みつくようなキスをしてきた。
これまでの九十一回にはない、猛々しさと緻密さ、そして熱い欲情さえもが込められたような口づけだった。唇も舌も、すべて使ってたっぷりと吸い尽くし、こちらが少しでも力を抜く暇さえ与えてもらえない。
あまりの濃厚さと長さで、私の身体は熱を帯び、その場に崩れそうになった。
彼はやっと顔を離すと、本当に腰を抜かしそうになっている私を支えて、
「あと八錠。頑張って持ちこたえろよ」
と言った。
「……もうダメかも」
「いや、許さねえ」
彼は首を振って、得意げに微笑んだ。
──終わり──
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係はありません。
恋する警部 〜Kissを100回〜 みはる @ninninhttr
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