Ⅰ.おもしろくない
1
仕事にやりがいは感じている。
手応えだってある。
私は警察官に向いている。
子供の頃からずっと思っていたことだけど、最近ますます強く思う。
天職だと思っている。
そりゃ確かに、出張先の大阪では数多くの失態を演じてしまった。
そのことでは、
それでもこの仕事には日々充実感がある。
世間知らずのお嬢さんだとか、プライドしかない腰掛けのエリートだとか、くだらないことを言うやつはたくさんいるし、言わせておけばいい。
そんなことでいちいち腹を立てることはただの無駄だと、遅ればせながらようやく分かった今は、以前のような居心地の悪さもなくなった。
でも何故だろう。何が変わったというのだろう。
……ううん、何も変わってないはず。
そう、つまりこの職場だ。
何度も言うが、居心地は悪くない。
ただ……おもしろくない。
どこが?
……そう。きっと、ここには彼らがいないから。
「――みるちゃん、それはきっと恋のせいよ」
昨夜一緒に食事したとき、
幼稚園から高校までずっと同じ学校で、同級生と言うより幼馴染みと言う方がしっくりくる。穏やかで純粋無垢で、おっとりとしているようで実はしっかり者で、ご両親でなくても自慢したくなるような娘さんだ。負けず嫌いで気の強い私のことをどういうわけか気に入っているらしく、こんな大人になっても昔と変わらず付き合ってくれる。
今は暇つぶしに出身大学で教授の秘書をやっているけれど、そのうち日本人なら誰が聞いても知っている大企業の跡取り息子と結婚することが決まっている。自分で言うのも何だが、「そこそこのセレブ」であるうちの家なんかとは比べものにならない由緒正しき名家のお嬢さんだ。
「職場がおもしろくないってことが? どう繋がるのよ」
私は沙織に訊き返した。
「だって、みるちゃんの新しい彼氏も警察官なんでしょ」
「その『新しい』っていうの、強調しないでくれる? なんだか男をとっかえひっかえしてる軽い女みたいだし」
沙織はハッとした表情でその白い手を自分の口元に当てると、またすぐににこにこと笑って言った。
「ごめんごめん。でもとにかく、その人がいないからよ、みるちゃんの今の職場に」
「前からいないけど」
「もう! 理屈っぽいなぁみるちゃんは。だから東大なんか行っちゃダメだって言ったのよ」
沙織は今度はぷっと膨れた。
「なんで今頃その話?」
「しかも官僚なんて……知らないよみるちゃん。気をつけないと、そのうち頭、コチコチになっちゃうよ」
……なんだか、面倒臭くなってきた。
「分かった分かった。つまり沙織はわたしが、彼のいた大阪と同じ状況をこっちの刑事課に求めてしまって、それでおもしろくないと思うようになったんだって、そう言いたいわけね?」
「そうよ! それ以外考えられないじゃない」
「そうなのかしら……」
「だって、話を聞いてるだけでも刺激的だったもん。空き地で犯人と格闘して足を怪我したり、土砂降りの中で殺人犯に襲われて、みるちゃんがもうダメだ、って観念しそうになったらその彼が助けに来てくれたんでしょ。まるで映画じゃない」
「まあ、ね」
私が同意すると、沙織はさらに目を輝かせて続けた。
「泥だらけになったり、びしょ濡れになったり……いかにも、現場でがむしゃらにやってます、って感じ。それがみるちゃんにはとっても新鮮だったのよ」
嘘じゃないんだけど、なーんかすこーし気に障るなぁ。
「そういうこと、今までのみるちゃんには無かったものね。そりゃ、今までだって同じ所轄署にいたけど、意味が違うじゃん。現場にいるのは一時的なもので、そのうち本庁に戻るんだもの。その次は
そこで沙織は、何かひらめいた表情になった。
「そうだ、そう言えば前の彼も警察官だったね! 忘れてた」
! ! ! 何でそこで思い出す? ねえ、何で?
「あ、でも、前の彼はみるちゃんと同じキャリア組だったね。じゃ全然ダメじゃん」
沙織は勝手に納得している。
「ダメって、何が」
「泥まみれ、濡れねずみの状況には縁遠いってことよ。すなわち刺激とは無縁」
そう言うと沙織はうんうんと頷きながら運ばれてきたデザートを口にした。
「みるちゃんもついにそういう恋に落ちたってことね。後先を考えない、情熱に身を任せた恋。泥臭くっていいなぁ。憧れちゃう」
この無邪気さのせいで、ときどきこいつを無性に殴りたくなる。
「みるちゃん、あたし応援するよ。おまけにその彼氏、超イケメンなんでしょ。いいなぁ〜見てみたいッ」
そう言うと沙織はジェラートを食べていたスプーンを握って嬉しそうに目をぎゅっと閉じ、すぐにパッと開いて言った。
「うーん! 美味しいこれ。ねぇねぇ、みるちゃんも早く食べてごらんよ」
「……そう。そうするわ」
私は意味もなく笑った。
刑事課のデスクに向かって捜査員の提出した報告書に判を押しながら、私は今朝からずっとこのことばかり考えている。
仕事にやりがいを求めたとしても、楽しさまで求める必要はない。
そんなことは前から分かっている。
楽しく仕事がしたいんじゃない。仕事とは元来、厳しいものだ。しかもこの職業ならなおさらだ。
ただ、うまく説明できないけど──
おもしろくないのはいかがなものか、と思う。
昨夜沙織はこうも言った。
《──大阪では、そんな厳しい状況にいながら、すごくおもしろかったんだね》
あの無邪気さは癇に障るが、時にこんな言葉が出てくるから、彼女は私にとってかけがえのない友人なのだ。
「一条警部」
声をかけられて振り返ると、一係の係長がデスクから言った。
「実は、大阪の件なんですが──」
「はい」
まだ何かあるのか、と思う。
「お手数なんですが、警部が上げられた報告書、もう一度揃えておいていただけないでしょうかね」
申し訳なさそうに眉を下げているが、忙しそうに扇子を動かしながらの態度に彼の本心が表れている。
「全部、ですか?」
「ええ」
「紙で? データじゃなく?」
「はい。お手数ですけど」
係長は表情を変えない。
「本部宛てのものも?」
「もちろん、それは写しでかまいませんよ」
「……つまり紙なんですね。分かりました」私はため息をついた。
「申し訳ありませんね。本当なら警部には、昨日の放火事件に当たっていただきたいんですが」
「いいえ。報告書云々が無くても、わたしはどうやらそちらには不要のようですし」
「そんなことありませんよ」
何を言うか。大阪での一件のせいで、私はこのところできるだけ現場から外されるようになったことくらい、ちゃんと自覚している。
「なにしろ、本店がしつこくてねぇ。大阪とのプライドのぶつかり合いなんでしょうが、なかなかあの一件を収めようとしない。そのせいで今日も大阪から一人、こっちに来るって話ですよ」
「大阪から? わざわざ?」
「ええ、わざわざ」
そんな呼び出しにのこのこ出向いて来るなんて、大阪府警本部にも暇なやつがいるものだ。
「監査というところは、どこも暇なんですね」
私は溜め息をついて書類に判を押した。
「いえ、向こうから来るのは監査じゃありませんよ」
「じゃあどこから来るんです」
「そりゃ、この前あなたが行ってたところですよ」
「……
私は思わず声を上げて係長を見た。係長は驚いたような顔をしていた。
「そうですよ」
係長は頷くと手元にあったメモ用紙のようなものを見ながら言った。
「えっと……主任が来るみたいですな」
「ああ、あの主任ですか」
私は
あの島崎主任に会えるのか。細やかな楽しみがひとつできた。
「では警部、お願いしますね」
「分かりました」
係長は席を立って部屋を出て行った。
ほんと、ここはおもしろくない。
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