絡新婦
ながる
絡新婦
しとしと。しとしと。
そぼ降る雨が助六の蓑と笠を濡らしていた。
無言で泥を撥ねるつま先を見つめながら、先を急ぐ。
雨のせいで辺りはいつもより早く暗さを増していた。
隣村まで使いを頼まれた帰り道、別件で手紙を託されていたのを思い出して、一度戻ったのが尾を引いている。
帰り着くには一山越えねばならない。大きな山ではないが、灯りの無いまま進むのは少々厄介であった。
ときには野犬や追剥が出たり、最近では、若い衆がひとりふたりと行方不明になっているのだ。
田舎で小金を稼いだからと、黙って大きな町に出ていったのだろうと年嵩の者は眉をひそめたが、それを確かめられた者はいない。
助六の友人の友人の友人だかもひとりいなくなっていて「そんな奴じゃないはずだって言うんだがなぁ」と零しているのに適当な相槌をうったのを覚えている。
そんなことを思い出して、ますます足は速くなった。聞こえるのは雨が葉を叩く音とどんどん荒くなる自分の息遣い。一瞬泥に足をとられてたたらを踏み、なんとか踏みとどまったところで顔を上げた。
額にじんわりと浮かぶ汗を拭う。肩で息を吐きながら腰を伸ばすと、山向こうからやってくる灯りが見えた。
峠まではもう少し。息を整えるあいだ下りてくる灯りをぼんやりと眺めていると、すれ違いざま、その男が足を止めた。
「なんね。灯りはどうした。下りるなら、一緒に行かんか? 最近この辺りはいい噂を聞かん」
愛想は良くないが、提灯も持たない助六を心配してくれているようだった。
「ありがてぇが、越えるところだ。下りになれば、足も速まる」
助六は軽く会釈してまた山道を登り始めた。
「気ぃつけぇ! 直に日が暮れる!」
背に浴びせかけられた言葉に、助六は小さく頷いた。
峠を越え、緩い下りを弾むように下りていると、雨音の中に人の声が混じったような気がした。するすると宵闇が迫っていて、前にも後ろにもそれらしい人影は見つけられない。少し足を緩めて首を巡らすと、左手の木々の奥に、ぼんやりとした灯りが妙な揺れ方をしていた。
思わず足を止めて、狐火かと目を凝らす。
今度は先程よりもはっきりと女の悲鳴が聞こえた。
灯りはポンと飛び上がったかと思うと、そのまま落ちてころころと転がり、じわりとその面積を増やしていく。
あれは狐火なんかじゃない。
咄嗟に助六は灯りに向かって駆け出した。
どうやら草は踏みしだかれ、けもの道が続いているようだった。
十間(約18メートル)ほど走ったところで、燃える提灯の傍らで揉みあう二人が見える。ガリガリに痩せた男が女に馬乗りになって、その細首に手を伸ばしていた。
餓鬼のように骨と皮ばかりになっている男に体当たりを食らわす。男は信じられない程飛んで、ぬかるみの中に落下した。
「大丈夫か」
女を助け起こすと、濡れた瞳が助六を捉えた。乱れた髪から覗く瞳は白目が青みがかり、黒目がちで吸い込まれそうだ。上気した目尻がこんな時だというのにやけに色っぽく見えて、助六の心の臓を高鳴らせた。
何か言いたげに小さく開いた唇は、紅も塗っていないのに赤々としていて、こほこほと咳込むたびに震えている。
なんだか気恥ずかしくなって視線を外し、誤魔化すようにべったりと泥のついた女の背をさすっていると、泥の中に倒れ込んでいた男が呻き声を上げた。
ぎしぎしと音がしそうなほど緩慢に身体を起こし、泥だらけの顔は化物のように目だけがぎょろついている。女を庇うように立つと助六は出来るだけ凄んで見せた。
「……
しばらく助六を睨みつけるように見ていた男は、助六が拳を振り上げると、片足を引きずりながら振り返り振り返り街道の方へと去っていった。何があったのか知らないが、食うや食わずであんな姿になり、女ならば勝てると襲い掛かったのだろうか。
「……ありがとうございます」
か細い声に助六が振り返ると、女は立ち上がり深々と頭を下げていた。
乱れた胸元に視線が行って、慌てて逸らす。
「怪我はないか? 提灯は燃えてしまったが……何処から来た?」
暗がりに連れ込まれたのだと思っていた助六は、女がすっと木々の奥を指差したのに怪訝な顔をした。
「この、奥に
濡れたように透き通る瞳で見つめ、綺麗な声でりんりんと言葉を紡ぐ女に、助六は少々ぽぅっとしながら頷いて、近くに落ちていた風呂敷包みを拾い上げた。
* * * * *
女の手を引き、辿り着いた家は小ぢんまりした一軒家で、それでも助六の住んでいる長屋に比べればまだ立派に見える。こんな所にと思いはしたが、ぽっかりと開けた空間に小さな畑もあって暮らしに困っている様子はない。
女は助六の戸惑いを感じ取ったのか、引き戸を開けながら俯き気味に口を開く。
「主人に先立たれまして……ふたりここまで辿りついて、やっと暮らしに慣れてきたところだったのですが……」
「それは……では、ひとりでここに……」
女は口元に手を当てふふと笑うと、身振りで助六を促した。
「それも、もう、大分昔の話です」
昔、というからには女は見かけよりも年がいってるのかもしれない。こんな場所でひっそりと暮らし始めたというのだから、何か訳有りなんだろう。詮索はするべきではないと助六は頷くだけに留めておいた。
「ひとりならば、俺のような者を泊めてはいかん。提灯のひとつでも貸してもらえれば充分故……」
「生憎、最後の提灯が先程燃えてしまいました。遠慮せず、さあ……」
撫でるように助六の手を取り、軽く引くと、女は気付いたように微笑んで蓑を外しにかかった。
ああ、こういうことに慣れているのだなと腑に落ちた助六は身を任せる。女ひとりで暮らしていくのだ、これだけ美人ならば男を利用するのも、手玉に取るのも、簡単なのかもしれない。
「風呂に入られますか? 冷え切ってはおられませぬか?」
「俺はいい。手を洗わせてもらえれば充分だ」
「左様ですか。では、どうぞ。私は失礼して身を清めさせていただきますので……そちらの奥でお休みくださいまし」
女は水瓶の蓋を開けて柄杓を助六に手渡すと、囲炉裏の奥に見える少し開いた襖を指差した。そのまま軽く会釈をして土間を奥へと進んでいく。
それを少しの間見送って、助六は水瓶から水を掬い上げた。
示された襖の奥には布団が敷かれていた。それだけで部屋を埋めてしまうほど狭いところだったが、寝るだけならば充分だ。布団は新しいのか、ふかりとしていて、ほんのりと金色を帯びている。誰か金持ちの後ろ盾でもあるのだろうか。こんなところで生活が成り立つからくりを見た気分だった。
汚してはいけない気がして入口で着物を脱ぐと、助六はそろりと布団に横たわった。身体が沈み込む感覚が慣れないと思ったのも少しの間。山道を急いだ身体は休息を求めていて、包み込まれる気持ち良さに意識は微睡んでいった。
「…………お……おぉ…………」
微かな呻き声に助六は意識を浮上させた。自分の口から出たものかと思わず口を塞ぐ。しんと静まり返った様子から雨も止んだのだと窺えた。
どのくらい眠っていたのだろう?
辺りは闇が下りていて、いつの間にか火の入っている行灯の灯りが隙間風にゆらりと揺れていた。
「あぁ…………あっ……あああ!」
今度は先程よりはっきりと声が聞こえて、助六は半身を起こして身構えた。男の声。押し殺した、呻き声のような。
耳を澄ましても、それ以上何も聞こえてこない。あの暴漢が戻ってきたのではないかと、息も止めて助六は耳に意識を集中させた。
やがて、襖を開く音、衣擦れの音が耳を掠めた。ゆっくりと床が軋む音が近付いてくる。すぐにそれは、助六の寝ている部屋の少し開いている襖に手をかけた。
半身を起こしたまま、固まったように動けなくなっていた助六だったが、その手は白く細かった。するすると音も立てずに襖を開くと、襦袢一枚の女が入ってくる。半身を起こしている助六に気付いても、女は気にせず、そのまま助六のかけていた着物に滑り込んできた。
下ろした髪からふわりと石鹸の香りが漂う。そっと助六の胸に頭を寄せてから、女は潤んだ瞳で助六を見上げた。
「一時の夢を見せて下さいまし」
囁くような声で言うと、赤い唇を重ねてくる。理性の一端を引っ張り出して彼女を少し押しやると、哀しそうな顔をされた。
「……男の、声がした。誰かいるかもしれん」
それを聞くと、女は可笑しそうにふふと笑い、自分で唯一の腰紐をほどいた。
「心配いりませぬ。誰も邪魔などしに来られませぬ」
どういう意味だと問う前に、彼女は肩から襦袢を滑り落とし白く張りのある乳房を露わにしてもう一度助六に口づけを落とした。
息もつけぬ長い長い口づけの途中、女は舌先で梅干し程の大きさのぶよぶよとした塊を助六の口の中に押し込んだ。なんだと思う間もなく喉の奥に押しやられ、ごくりと喉が鳴る。
「な……なんだ……?」
「精のつくもの」
女は妖艶に微笑むと、自ら助六に跨った。くぐもった声を漏らしてから、先程聞こえた声の主に思い当たる。他の男もいるのか。けれどすぐにそんなことはどうでもよくなっていった。女の手練手管か飲まされた物のせいか、助六は快楽に溺れていく。
いつの間にか意識を失っていて、次に気付いたのは日も高く登った頃だった。
起き上がろうとするが身体は怠く、ふかりとした布団は吸い付くように助六を放さない。
女は助六が起きたことに気付くと、つつと寄ってきて額に手を当てた。
「少し熱があるやもしれませぬ。雨に長く当たったせいでしょう。今しばらく、休んで下さいませ」
そう言って甲斐甲斐しく世話を焼く。粥を作り、便所まで肩を貸し、夜にはまた助六の布団にやってきて、濃密なひと時を過ごすのだ。
そんな日が三日も続くと、さすがに助六はおかしいと思い始めた。体の怠さは日に日に増していく。女の相手をしてはいけないと自分に言い聞かせるのだが、女の手が口がそれを許さない。そうしてふかりとした布団が思考力も徐々に奪い、やがて助六は一日中微睡むだけになっていった。
細くなっていく腕や足を微笑みながらさする女を、不気味に思いつつ跳ね除ける気力も体力もない。このまま口に運ばれる食べ物をついばむだけの人形になるのかと思うと、情けなさと同時に薄ら寒さも覚えた。
* * * * *
ある朝、助六は猟銃の音で目を覚ました。まだ目が覚めることにほっとして、少しだけ開いた襖に顔を向ける。
無遠慮な足音がどかどかとやってきて、勢いよく襖を開けた。
「生きとるか!」
どこかで見たようなその男は目が合うと、助六を布団から引き剥がして腕を肩に回して支えてくれた。
「他にも、だれ、か」
声にならない声を絞り出してそういうと、男は小さく首を振るだけで助六を外に連れ出し、家に火をかけた。
「おんな、は」
「あれは女でねぇ」
男の視線を追うと、畑の向こうに黒と黄色の縞模様が見えた。こちらも炎に包まれ、時々もぞもぞと動いている。もしかしたらまだ夢を見ているのか、その大きさが人の身の丈ほどもあるような気がする……
「あれは、女郎蜘蛛だ。長く生きすぎて人を襲うようになり、
骨と皮ばかり。そう聞いて助六の頭に雨の日の光景が甦る。あの、化物のような男は。首を絞めようと伸ばされた手は。そうだったのかと涙が頬を伝う。
「使いのものが帰らんと山向こうから来た者がおってな。すぐにお
助六はゆっくりと頭を持ち上げて男の顔を見た。提灯をもってた、あの男? よく覚えてないが、そうと言われればそうかもしれない。
「あの街道まで出たら駕籠を用意してる。うちの村の方が近いから、とりあえずそっちで養生しろ」
ありがたいと、助六は無言で頷いた。
駕籠が山を下りて、やっと平らな道になったかと思うと、順調だった足取りが突然止まった。駕籠が大きく揺れ、衝撃が伝わる。助六は何事かと頭を乗り出して前方を窺った。
村の入口はすぐそこなのに、その入り口付近の道いっぱいに黒っぽい霞のようなものが蠢いている。なんだとよく見ようと目を凝らすと、その霞のようなものはこちらに向かってくるようだった。
誰も動けない。
先頭にいるものが、ひっと息を呑んだ。助六を助けてくれた男が「松明!」と声を荒げる。明るいのに、何故。と助六はますますこちらに近付く霞に目を凝らした。
霞みが立てるカサカサという微かな音が聞こえ始めると、
波が打ち寄せるようにやってきたそれは、黒に黄色い色が混じって見え、それが全て子蜘蛛なのだと悟ると助六の口から弱々しく掠れた悲鳴が漏れ出した。
駕籠に登ってくる子蜘蛛に嫌悪感を覚えて手足を縮こまらせる。来るな来るなと呟きながら足で払い、潰す。すぐに松明が差し出され、助六は奪うようにそれを受け取った。
右に左に近付く蜘蛛の子に炎を近づけて追い払う。周囲の男たちも駕籠を囲うようにして火を振るったからか、やがて子蜘蛛は駕籠の前で左右に分かれて草叢へと消えて行った。
肩で息をつく一行は、あの数の子蜘蛛が何処から来たのかと顔を見合わせる。助六を助けてくれた男が厳しい顔で駆け出した。駕籠はその後を慌ててついて行く。
村の中、人々が遠巻きにしている家に飛びこんだ男は、その場で仁王立ちになった。
家の前に駕籠を下ろされても、入口には男が立っていて中の様子は窺えない。
そろりと、振り向いた男が囁くように聞いた。
「何か、食わされたか」
どきりと胸が鳴る。
「……粥を……」
ああ、違う。それじゃない。高鳴っていく心臓と、こめかみが脈打つ感覚に頭痛がし始める。嫌だ。確かめたくない。そう思うのに、助六はそろそろと駕籠から這い出していた。
立ち上がれない。だが、見なくてはいけない気がした。見たくはないのに。
「見るな」
ほら、男もそういっている。止まれ。止まれ。
ガンガンと頭は命令するのに、手も足も冷や汗も止まらなかった。
男の足にすがりつくようにして頭をもたげ、助六が見たものは――
腰を抜かす医者と思しき年寄りと、手伝いの女、そして。
そして、そこに寝かされているのは。
ガラガラに痩せた……ぽっかりと腹の中が空洞の――
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※絡新婦=じょろうぐも
妖怪の一種。美しい女の姿に化けることが出来ると言われている。女郎蜘蛛とも書く。
絡新婦 ながる @nagal
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