同窓会

ながる

同窓会

 飲み過ぎた――訳ではないと思う。

 まだ足元もふらついてないし、電車だって動いてる。明日が休みだから、そりゃ、いつもよりは何杯か余計に飲んだのは確かだが。


 来生きすぎは近道だからと入り込んだ脇道の一角に、場違いな『○○高校代××期同窓会』と手書きで書かれたウェルカムボードを見て足を止めていた。

 薄汚れた、スナックやバーの詰め込まれた細いビルとビルの間に、最近建て直されたのかリフォームされたのかした、小奇麗なビジネスホテル風の建物が建っている。端のくるりと丸まったお洒落な文字で書かれているのは、レストランの名前だろうか、バーの名前だろうか。

 いやいや。そんなことはどちらでもいいのだ。

 問題はそこに書かれているのが自分の卒業した高校の名前で、卒業した期――たぶん――だということ。


 同窓会は連絡があれば毎回顔を出すことにしている。その時の気分やメンバーですぐ帰ったり、二次会、三次会までいたりとさまざまだが、誘われなかったことは無かったと思う。交友の深さは変われど、あの年は酷いいじめや嫌われ者はいない、比較的仲の良い学年だった。

 現に目の前に誘われた記憶の無い同窓会の看板が出ているのだから、もしかしたら来生を誘わない別ルートの集まりが何度も催されているのかもしれないが。

 こんな人目に付かない、判り辛い場所が会場なのだ。何か訳があるのかもしれない。


 多少面白くない気分にはなったが、そういうこともあるだろう。また駅の方に足を向けて一歩踏み出した来生の肩を、ぽんと誰かが叩いた。


「来生? 来生じゃないか。入らないのか? もう行くのか?」


 振り返った来生の目に、人の良さそうな笑顔が飛び込んでくる。お酒でぼんやりしている脳味噌は咄嗟にそいつの名前を思い出せなかったけれど、同じクラスにいたような気がする。


「え。あ、いや。俺は――」

「何だよ。他の飲み会でも入ってたのか? 俺も同じようなもんさ。今回人数少ないって幹事がぼやいてたんだよ。これからでも参加しようぜ」

「いや、俺、知らなくて。たまたま通りかかっただけなんだよ」


 そいつはアハハと陽気に笑うと来生の背中をばんばんと叩いた。


「なんだそれ。幹事のポカかなぁ。だから人数少ないんじゃねぇの? だぁいじょうぶだって。飛び入り大歓迎って回って来てたぞ!」


 答えも聞かずにそいつはぐいぐいと腕を引いてくる。お酒も入ってるのか加減も無くて、それは痛いくらいだった。


 ――こんなに強引な奴だっただろうか。


 名前も思い出せないような同級生だ。社会に出て印象が変わる奴もいる。お酒が入っているなら尚更……少々戸惑いながらも、来生は引かれるがままにそのビジネスホテル風の建物に足を踏み入れた。



  §  §  §



 外観とは違い、中は飲み屋街のビルそのものの印象だった。

 狭い階段を下りて地下に入ると心なしか照明も薄暗い。間接照明にして雰囲気を出したいのかもしれないが、両側の壁が迫り、黒いリノリウムの床が真直ぐ伸びるだけの廊下は、効きすぎた空調も相まって何だか薄気味悪かった。

 通り過ぎるドアは、どれもきっちりと閉められていて物音一つしない。すれ違う人もいなくて、来生は思わず男の袖を引いた。


「おい。本当に、こんな所で……?」

「どれだけ騒いでも大丈夫そうじゃないか。ほら、案内板もかかってる」


 男の指差す先には、確かに店の名と右向きの矢印の案内板がかかっていて、その下に『○○高校代××期同窓会』とシンプルに印刷された紙が一枚張り付けてあった。

 気が進まないというように、上がりきらなかった足が床に擦れてきゅっと音を立てる。

 Tの字になっている廊下の突き当たりで矢印の方を覗き見れば、ピンクや青や緑のネオンカラーで装飾された、けばけばしい看板が目に飛び込んできた。微かに音楽のようなものも聞こえる。


「な?」


 男は来生の背中をぐいぐいと押しながら、そのドアを開けた。

 うわっと音の洪水に巻き込まれて来生は面食らう。カラオケ、だろうか。誰かの少し調子の外れた歌声が響いている。

 中は照明が落とされていて、ミラーボールの鱗のような楕円形の小さな光が、会場を埋め尽くすようにくるくると円を描いて回っていた。ぼんやりと見える店内は広めのスナックという感じで、同窓会、というよりは二次会という言葉がぴったりだ。


「どこか別の所で一次会やったのか?」

「……えー?」


 聞こえなかったのか、頭を寄せてきた男に来生は小さく首を振る。別にどちらでもよかった。

 立食形式になっているようで、連なったテーブルに乗っている料理を数人が囲んでいる。男は片手を上げながらそこに近付いていった。黒縁の眼鏡をかけた男性がそれに気づいて体の向きを変える。

 見覚えが、あるような、ないような。暗さも手伝ってか、集まっている人々の中に知り合いはいないように思えた。


「……ひさし…………どう……おそ…………」

「まっ…………そっち……どこ………」


 挨拶を交わす二人の会話もカラオケに掻き消されてよく聞こえない。二人は怒鳴りあうように話しているに違いないのに。

 しばらくそうやっていたかと思うと、二人は来生を振り向いた。黒縁眼鏡の男が愛想笑いで近付いて、手を差し出す。


「来て……て、ありがとう!」


 カラオケの音楽が途中でバツンと途切れて、『ありがとう』だけが嫌に大きく響いた。バツが悪そうに頭をかく男の手を取って握手する。ひやりと冷たい手だった。


「すみません。飛び入りで」

「歓迎するよ。どうも、最近集まりが悪くて。幹事の遠山だ。E組だった」

「B組の来生です」

「辻と同じクラスだろ? あいつが誰か連れてくるなんて珍しいんだ。ゆっくりしていってくれよ」


 ああ、そうそう。辻。そんな名前だったと思い出して、最近、ということはやはり何度か開かれている会なのだと納得した。談笑する面々をよく見てみてもやはり親交は薄かったようで記憶にない顔ばかりだった。


「……あ、会費」

「後でいいよ。とりあえず、食べて飲んで! 余っちゃっても仕方ないからさ」


 遠山はにこやかに手近な皿に料理を取り分けて来生に押し付ける。受け取ったものの、先程までの飲み会で散々元を取ったのでお腹に空きはない。また、盛られたのが中華なのか油っぽい肉炒めやから揚げで、とてもじゃないが箸をつける気にはならなかった。

 その箸が手元にないことをいいことに、来生は皿を持ったまま隅に移動しようとして辻に掴まった。


「ほら、箸。食おうぜ。ここの料理結構美味いんだよ。ビールでいいか? 水割りもあるぞ」

「……じゃあ、水割りで……」


 わかった、と踵を返す辻の背中に違和感が拭えない。こんなに世話焼きなイメージがない。どちらかというと休みがちな、おとなしい青年ではなかったか。こちらが話しかけても、一言、二言しか返ってこないような……

 小さく息を吐いて、来生は一杯飲んだら帰ろうと心に決めた。




 戻ってきた辻はお盆を手にしていた。その上にはグラスが三つ。茶色と透明と赤くて丸い物体の沈んだもの。


「ウィスキーと焼酎と店長お勧めの梅割り!」


 どれにする? と聞いてるものの、その手は梅割りのグラスにかかっている。何だろう。この会は自分の勧めたいものを押し付けるのが慣例なんだろうか。特に空気を読む気もなく、来生は焼酎の水割りに手を伸ばした。


「えー! 梅! 梅美味いぞ!」


 ぐいと差し出されるグラスに苦笑する。


「ありがとう。今日はいいよ。散々飲み食いしてきたから、あっさりしたのがいいんだ」


 あからさまにがっかりと肩を落としてお盆を置きに行く辻と入れ替わるように、今度は女性が近付いてきた。高い位置で髪を結って、肩の出た服を着ている。女性は化粧してしまうと本当に誰が誰だか分からなくなるな。


「こんばんは。せっかくなんだから、こっちにいらっしゃいよ」

「えぇっと……ごめん。誰が誰だか……」


 彼女はころころと笑って来生の手を引く。その冷やりとした手に、背筋がぞくりとした。廊下だけじゃなく、店の中もずいぶん冷えているようだ。


「ねぇ、冷えてるんじゃない? 冷房押さえてもらおうか」

「あら。寒い? 私は平気だけど……」


 馴れ馴れしく絡められた腕も冷たくて、来生は思わず身震いした。その様子に彼女はまた笑う。


「すぐに慣れるわよ」

「あ、おい。ずるいぞ。来生は俺が連れてきたのに!」


 いや、お前とも店の前で会っただけだけど。心の中で突っ込んだものの、冷たい手が気持ち悪かったからこれ幸いとその手をそっと引き抜いた。


「辻、トイレどこかな。冷えちゃったみたいだ」


 店の外にあるタイプなら、そのまま帰ってしまおうと目論んでみたが、辻と女性は同時に店の奥にある扉を指差した。


「――ありがとう」


 そそくさとそのドアに向かう来生をいくつもの視線が追いかける。気さくに接してくれるものの、なんだか居心地が悪い。どうすれば早く帰れるだろうか。来生の心の中はそんなことで占められていった。



  §  §  §



 一息ついたトイレから出ると、皆の目が一斉に来生に向いた。申し合わせたようなタイミングに気圧されて、思わず一歩後退さる。

 数人が口元に笑みを浮かべて――目が笑っていない気がするのは暗がりだからか――来生を取り囲んだ。

 その手を、背中を、いずれも冷たい手が引いて押す。


「遅かったね。お腹壊しちゃった? ここの料理を食べればすぐに治るよ」

「壊してない。腹も、減ってない」

「そんなこと言わないで。一口食べればわかるよ。すぐに仲間入りだから」


 一本の手を振りほどいても、すぐに別の手が伸びてくる。数人しかいないはずなのに、纏わりつくような手の感触は人数以上あるように思えた。

 気持ち悪い。この馴れ馴れしさはなんなんだ。

 払っても払っても伸びてくる手に、来生はいつの間にか料理の並ぶテーブルの前まで誘導されていた。絡みついていた手は離れていったが、代わりに今度は全員の視線が刺さるほどに感じられる。

 トイレにいる間に人数まで増えているような気がした。


「……何なんだよ!」

「食べてよ。飲んでよ。さあ、ほら」


 一番近くにいた女が皿から生々しい赤黒い肉を持ち上げる。つけられた油がたらりと重力に引かれた。ゆっくりと差し出される箸から顔を背ける。


「本当に、これ以上入らないんだ。勘弁してくれよ!」

「じゃあ、ほら、飲めよ。楽しくやろうぜ?」


 辻がグラスを差し出す。

 中には真っ赤な梅干しがひとつ。誰かつついたのか形が崩れて細かい果肉が焼酎の中を泳いでいる。

 何故それを勧めるのか。飲みたくないのに、そのグラス以外を持ち上げる選択をできずに、来生はグラスを受け取らされた。グラスを持つ手が細かく震えている。

 ミラーボールの明かりが掠めるたびに、形の崩れた梅干しが得体のしれない肉片に見えて、どうしてもそれ以上手が上がらない。

 来生を囲んで瞬きもせずただじっと様子を見守る人々は、不気味以外の何者でもなかった。


「さあ」


 にっこりと笑う辻の声に、誰かの手が来生のグラスを持つ手に添えられた。それが合図だったかのように、添えられる手が増え、頭を押さえつける手が加わり、ゆっくりとグラスを口元まで運ばれる。

 来生は声も出せず、ゆらゆらと舞い上がる肉片のような果肉からも目が離せない。

 助けて、とその一言が喉の奥に貼りついてしまっていた。

 唇に、冷たいグラスの感触……


「やめろよ」


 傾けられたグラスがその動きをぴたりと止めた。

 誰かが人混みをかき分けてやってくる。

 来生を向いていた視線は、全てその人物に移っていく。


「どういうつもりだ」

「べつに」


 よく知っているような声の主は、来生まで辿り着くとグラスを取り上げて一気に飲み干した。暗くて顔はよく見えない。


「馬鹿来生。知らない人についていかないなんて、今時小学生でも知ってるぞ」


 グラスを置いた手に力強く引かれて、足を縺れさせながらも来生は立ち上がる。彼に引かれるがまま人垣をすり抜けて、開いたドアに身を滑り込ませた。


「後から来たくせに!」


 わらわらと背後から押し寄せる気配。

 店を出て暗い廊下を駆け抜ける。角を曲がると、黒い床の通路がどこまでも続いていた。


「なん……こんな、長く……」


 思わず出た声に、人を小馬鹿にしたような声が重なる。


「そのうち着くから、諦めんなっ」

「……お前……」


 知ってる。知ってるはずだ。でも今は思い出せない。酒でぼんやりした脳味噌と、運動不足でもう息を切らし始めてる身体が思い出すのを邪魔している。

 頭上で蛍光灯がちかちかと瞬いた。


「いいから、今は足を動かすことだけ考えろ」


 走るペースが段々と落ち、ワイシャツの端を何かがひっかける気配がしてる。その度にまた少しペースを上げるのだが、掴まるのは時間の問題のような気がしてきた。


「もう少しだ。頑張れ」


 脇腹が痛い。太腿が痺れたようになってる。解っていても足を出すのが辛い。足がもつれた拍子に、誰かの手が来生のワイシャツの裾を引いた。バランスを崩し、転びそうになる来生を、先を行く手がしっかりと支え直し、一段と強く引く。


「馬鹿来生。いいか。絶対振り返るな。もう、俺の声が聞こえても聞くな。駅まで走れ」


 早口で告げると、その声の主は放り投げるように来生を前方へと押し出した。前を走っていたそいつと身体の位置が入れ替わる時に振り返ろうとして「前!」とぴしゃりと怒鳴られる。そいつの手の感触が離れると、どうしようもなく涙が溢れてきた。


「待てよ来生」「置いてかないでくれよ」「もう大丈夫だ」「止まって」


 前から聞こえてきていた同じ声が後ろから聞こえる。来生は耳を塞いでただ駆け抜けた。

 やがて、細い階段が見えてくる。ほっとすると同時にまた声がかかる。


「よくやった」「ここからは一緒に行こう」「俺も助けて」「来生」「来生」「来生」「きすぎ」「キスギィ」…………


 手すりにつかまりながらどうにか左右の足を出している来生の背中を、甲高い笑い声が追いかけてくる。背中を、袖を、ズボンを摘まんで引かれる感覚がする。涙を流しながら、来生は振り返ることなくそのビルを抜け出した。

 言われたままに駅まで走り抜け、改札の前でへたり込む。迷惑顔の駅員にすみませんと口走ったことまでは記憶にある。次に気が付いたのは自分のベッドの上だった。



  §  §  §



 怖い夢を見ただけだろうか。

 来生はぎしぎしいう身体を何とか動かして冷蔵庫まで辿り着き、ミネラルウォーターを取り出して半分ほどを一気に空ける。冷たいものが喉を通り過ぎ、胃に落ちて広がる感覚に頭も冴えてきた。

 昨日と同じ格好をしてる。着替えもせずにベッドに倒れ込んだのだ。どうやって帰って来たかは記憶にないが、最終には間に合っていたのだから、それに乗ってきたのだろう。やっぱり少し飲み過ぎたのかもしれない。

 着たままだった半袖のワイシャツを脱ぐと、背中に脇に袖に泥のような、チョコレートのような赤茶けた汚れが点々とついていた。服を摘まんで引かれる感覚を思い出して眉をしかめる。

 テーブルの上に投げ出されていたスマートフォンが、通知を知らせる緑のランプを点滅させながら震えて、来生はびくりと反応した。


 手を引いてくれたあの声の主を、あの時何故思い出せなかったのだろう。つい、先週会ったばかりだというのに。病院のベッドの上で、いつもと変わりない調子で、人のことを「馬鹿来生」と呼んだ親友。働き始めてからは会うこともめっきり減ってはいたけれど。

 青い顔をしているくせに「すぐ退院できるから、見舞いなんてくるな」なんて言っていた。

 昨夜のあれが夢であれ現実であれ、来生は彼に助けられた。あの場に彼が来られたのなら、彼は退院できたのだろうか?


 来生はスマートフォンを手に取って、一度深呼吸してから、震える指でロックを解除した。

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