幕間 鈴の音

 多くの人々で賑わう夕方の繁華街。下校途中の寄り道を楽しんでいる、自分と同じ制服を着た若者達を尻目に、足早に人混みの真ん中を抜ける。自分がここにいる目的は、ファミレスでもクレープ屋でもカラオケでもない。


 まだ夜のいかがわしさを感じさせない陽気な喧騒の中で、一筋の不穏な気配を辿る。


 かすかな妖気ようき。――近い。


 繁華街の中心を貫く大きな通りの中ほど、とある路地の手前で足を止める。路地と呼ぶには余りに狭い、居並ぶビルの僅かな隙間だ。覗き込んでみても、夕日も街のネオンも届かない暗闇の奥までは見通すことが出来ない。


 髪留めの鈴が、耳元でりん、と一声鳴いた。間違いない――ここだ。


 一度目を閉じ、呼吸を整えて気を引き締める。

 先日、初めてと対峙した時の光景が瞼の裏に蘇り、背中にじわりと冷たい汗が滲んだ。

 しかし、これ以上の被害を防ぐ為にも、自分が臆している訳にはいかない。


 ――いや、何を臆することがあるだろう。いざ戦闘となれば、自分の方が勝っているに決まっているのだ。事実、敵は自分が闘う構えを見せた途端に逃げ出したではないか。それだけ力の差があるということだ。


 意を決し、鋭く前を見据えて暗がりへと足を踏み入れる。


 思っていたよりも、路地は奥行きがあった。

 街の音が遠のき、薄闇に目が慣れ始めた頃に、視線の先で何かが不気味に蠢いた。


 小さな赤い炎が低く浮かんでちらちらと揺れている。

 そこに、大きな影がうずくまっていた。


 路地裏のえた臭いに混じって、それとはまるで別種の異様な臭気が鼻を突く。

 決して覚えたくはない、それでいて一度嗅いだら絶対に忘れることの出来ない臭い――血と臓物と汚物の混じった臭いだ。


 まさか――


 勇んで一歩踏み出した足が、何かを踏んだ。


 視線を落とすと、ローファーの下から人間の手指がはみ出していた。


 肌が粟立ち、全身が石のように硬直した。

 そこにあったのは、手首の辺りで引き千切られた人間の左手だった。


「何だぁ、遅かったじゃねえか」


 唐突に放たれた声で我に返る。致命的な隙であったはずだが、愚鈍か傲慢か、いずれにせよ相手の軽挙によって救われた。

 焦らすように緩慢な動きで、影が立ち上がった。その足元に転がっているものが視界に飛び込んできた瞬間、頭を殴られたかのような衝撃と共に凄まじい嘔吐感に襲われた。


 それは、仰向けに横たわる少女の死体だった。

 両脚は付け根から失われ、両の乳房は抉り取られ、解剖台の上の蛙のように切り開かれた腹部には、中身がほとんど残っていない。上半身に絡み付く衣服の残骸には、自分が着ているものと同じ校章の刺繍が縫い付けられていた。


 無惨な亡骸の虚ろな瞳と目が合うと、堪え切れずに思わずその場に嘔吐した。


「おいおい、大丈夫かぁ?」


 またしても大きな隙を晒してしまったが、飛んできたのは嘲るような気安い言葉だけだった。


 滲んだ視界の中で、が血塗れの歯を剥き出しにして笑っていた。


「間が悪いねえ、どうも。先刻さっきまで嬢ちゃんの為に腹ぁ空かしておいたんだが――我慢出来ずに喰っちまったよ」


 男がおどけたように肩を竦める。

 嬢ちゃんの為に――という言葉の意味を理解した瞬間、名も知らぬ少女の死体に自分の顔が重なった。悪夢のような錯覚に、全身からどっと汗が噴き出す。


「こっ、この――化物め!」


 唇の震えが全身に伝播する前に、無理矢理己を奮い立たせて声を張り上げる。

 これ以上相手のペースに呑まれてはいけない。精神的な揺さ振り、駆け引きを許してはいけない。自分は無力な女子高生とは違う。実力行使で片を付けるのだ。一刻も早く。


 ブレザーの胸元に手を入れ、内ポケットに忍ばせた霊符れいふを引き抜く。一晩掛けて霊気れいきを込め続けた、並の妖怪なら一枚で跡形もなく消滅する代物だ。


「止せって。今嬢ちゃんと遣り合う気はねえよ」


 男はつまらなそうに眉をひそめて一歩後退する。

 やはり、直接的な闘いを恐れているのだ。相手よりも勝っているという自信が、恐怖を怒りへと昇華させた。


「貴様は、今ここで殺す!!」

「やれやれ、勇ましいねえ……」


 あくまでも軽薄な男の態度が火に油を注ぐ。


「喰らえ!」


 霊符を放つ直前――こちらの動きよりも一瞬速く、男の足元から猛烈な火勢の真っ赤な炎が湧き起った。強烈な光が血に染まった路地裏を照らし出す。肌を炙る熱風に煽られ、堪え切れずに地面に投げ出された。


「くっ……」


 顔を上げると、男の姿は消えていた。


「次は俺の我慢が続いてる内に見付けてくれよ」


 黄昏の空へと続く薄闇から、男の笑い声だけが響き渡る。


 一度ならず二度までも取り逃がしてしまった。己の不甲斐なさに腹が立って、ビルの壁を殴り付けた。

 辺りに充満する焦げ臭さに顔を顰める。その臭いの元に気が付いて、また嘔吐した。


 ――絶対に許さない。

 制服の袖で口元を拭い、男が消えて行ったビルの隙間の狭い空を睨み付ける。


 奴は自分のことを喰らうつもりらしい。上等だ。


 次こそは、必ず――

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蒼焔の轍 @silver_9tails

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