弐ノ五 病
『ならこれからお前が遣るべき事だが――』
ほたるは気を取り直して背筋を伸ばした。焔が言っていた通り、なによりもまずは自分のできることから協力していくべきだ。
『取り
「えっ」
意外な言葉にほたるは目を丸くする。
『こうなっちまった原因を探るにしても、こんな場所に引き籠ってたんじゃ不便で仕方がねえだろ』
「でも、もう病院は調べなくていいの?」
ほたるを叱咤した今朝のやり取りは別問題として、焔はまだこの病院に留まりたがるものだと思っていた。ほたるが判断できることではないが、先ほどの簡単な案内だけでは調査として不十分ではないのだろうか。
『まあ念の為に一応見て回りはしたが、
「そうなの?」
『
億劫そうなため息は、講釈を始める合図でもあるようだった。
『
「う、うん」
ひとまず頷きはしたが、ほたるは今に至るまでこの問題に何者かが介入している可能性など考えたこともなかった。
『だとするなら、この場所に原因はねえ筈だ。此処の土地や建物は特殊な霊場って訳でもねえし、誰の手も加わることなく俺に干渉するような何かが起きるとは思えねえ』
聞き慣れない単語も混じっていたが、なんとなくその説明に納得することはできた。
「――ってことは?」
では焔はこれから何を手がかりとして原因を探っていくつもりなのだろうか。
『相変わらず察しが悪ぃな。要するに原因はお前にあるってことだよ』
「えぇっ、わたしっ!?」
『
「で、でも、そんなこと言われたって、わたし何も知らないし、何もしてないし……わからないよ……」
『まあそりゃそうだろうな。もしお前が意図的にそんな
「は、はは……」
あまりにストレートな焔の物言いに、渇いた笑いが漏れた。
『お前の意思なんかとは関係ない、もっと先天的な何かが原因の筈だ。
「家系とかは、別に普通だと思うけど……」
猫宮家は両親と一人っ子であるほたるのごくありふれた核家族である。祖父母も父方母方ともに健在で、特に家柄に関する
生活習慣についても、ほたるの境遇を考えれば一般的とは言えないのかもしれないが、寝食などの基本的な生活リズムはこの病院の規定に
『なら矢張りお前自身の何かだろうな。肉体か、魂か――』
「それって――」
焔が不自然に言葉を切った瞬間、ほたるはひとつの可能性に思い当たった。恐らく、焔も言いながら同じことに気がついたのだろう。
「それってもしかして、わたしの病気のこと、かな……?」
『有り得ねえ、とは
焔が忌々しそうに舌打ちする。
平凡な少女に過ぎないほたるが生来持ち合わせている個性など、この原因不明の病くらいのものだ。
「そっか――」
ほたるは小さくつぶやいて肩を落とす。
「わたしのせい、だったんだ……」
自分の身体が焔にまで迷惑をかけてしまっているかもしれないと思うと、いたたまれない気持ちで胸が締めつけられるようだった。
『おいおいおいおいおい、止めろ止めろ』
「ふぇえぇ!?」
いきなり自分の両手で頬を引っ張られて、思わず妙な声が漏れた。
『一一辛気臭え面しやがって、何なんだよ
「いひゃいいひゃい!」
早口でまくし立てられる罵声を浴びながら、両方の頬を
『責められてもいねえ事で勝手に凹んでんじゃねえ。
突き放すように両手が解放された。
「うう……ごめんなさい……」
前々から半ば自覚していた悪い癖を厳しく非難され、ほたるは散々いたぶられた頬を揉みほぐしながら深く反省する。
面と向かってだれかと会話をしている時は暗い表情を見せないように気を配ってきたつもりだが、どうも焔に対しては、姿が見えない分その意識が薄れてしまっているようだ。
とはいえ、仮に表情だけ取り繕っていたとしても、焔にはあっさりと看破されていたようにも思う。
『仮にこの状況の原因がお前の病にあるとするなら、俺が出て行く方法を調べることは病の治療法にも関係してくるかもしれねえ。そうなりゃお前にとっては一石二鳥――それで良いじゃねえか』
「それは、まあ……」
『物事の悪い面ばかり気にしてたって、
力強くきっぱりと言い放った後で、焔はふっと息を吐いた。
『
軽い調子で言い捨てられた言葉は、それでもほたるにはとても頼もしく聞こえた。
「前向き、か――」
その言葉を噛みしめるようにしっかりと頷く。
「うん、そうだよね」
焔の言う通りだ。
進むことを恐れて立ち止まっていた臆病な自分には別れを告げたのだ。これからは自分の意志で、染みついてしまった卑屈な考え方を変えていかなければならない。
自分のために、両親のために、そして、そのことに気づかせてくれた焔のために――。
「わたし、がんばってもっとポジティブになる!」
ほたるはぐっと拳を握りしめ、高らかに決意表明をした。
『――
呆れたように短く応えた焔の声には、わずかに愉快そうな響きが含まれている気がした。
『まあ何にしても方向性が定まったのは良い
気を取り直したように焔が話題を戻す。
『実際、俺が憑依してからお前の病が
「あ、たしかに……」
焔の冷静な考察を聞いて、ようやくほたるは気がついた。
最後に発作を起こしたのは、焔がほたるの病室に侵入してきた日のことだった。これまでの闘病生活の中でも一番酷い、本当に死を覚悟するほどの苦しみだったにもかかわらず、夜が明ける頃にはその苦痛は夢のように消え去っていた。
目を覚ましたほたるはそこで焔の痕跡を発見することになるのだが――今になって思えば、発作が治まったのは焔が憑依したから、と考えることもできる。事実、その日以来ほたるの身体には病の症状が表れていない。
「じゃあ、最近身体の調子がいいのは、焔くんのおかげってこと?」
『だろうな』
焔の返答に迷いはなかった。
『抑抑、病気ってのは文字通り気を病むことを云う』
「気?」
『魂が発する
ほたるは真っ先に有名な少年漫画の戦闘シーンを連想したのだが、果たしてそのイメージで合っているのだろうか。
『それが何かの拍子に変調を
「へえー」
常識的に考えれば荒唐無稽な話なのだが、そもそも語り手が妖怪という超常的な存在なのだから、そういうものなのだと言われればほたるには疑問を挟む余地などない。
『お前の気がどんな
「そう、なんだ……」
つまり、今回の退院は焔のおかげということらしい。
ほたるは、妖怪との出逢いという劇的な非日常を経て、長い間失われていた己の日常を取り戻したのだ。
人間的な感情を無視した焔の強い言葉によって、諦念の檻に囚われていたほたるの心は救済された。それだけでも、焔には返しきれないほどの恩義を感じている。
その上、現代の医学に半ば見放されていたこの体まで救ってもらったのだとしたら、一体自分はどうやってその恩に報いればいいのだろう――。
◆
「わたし、退院します!」
力強くそう宣言した少女の声を聞きながら、焔は今後の方針に就いて頭を悩ませていた。
時刻は午後六時――例のいけ好かない医師による回診の最中だった。少女の決意に嬉しそうに応じている優男の笑顔は、矢張り
当面、問題解決への糸口は、少女の病に焦点を絞って探っていくことになりそうだ。今にして思えば、真っ先に其処に思い至るべきであったのだ。少女との会話の段階までその可能性に考えが及ばなかった自分の愚かさに苛立ちさえ覚える。
――
思考を切り換える。
無論、一時的にせよ指針が定まったのは良い傾向である。この不自由極まりない状況下、暗中模索では限界は
しかし、幾ら明確に方向性が決定しようとも、それに対する具体的な方策を持ち合わせていなければ何の意味もないこともまた事実である。
少女の病が妖怪への拘束力を内包する程の超常的なものであるとしたなら、原因の究明と事態の解決には
しかし、霊能者の介入は焔にとって相当に危険な賭けになる。その場で即座に
一部の物好きを除いて、彼等にとって怪異とは
一部の物好きに該当する当てがない訳でもないが、確証もなく迂闊に接触を図るのは余りにも
状況は早くも大きな壁に直面していた。
「他の先生やほたるくんの親御さんとも相談しなくちゃだけど、とりあえず今週末くらいを目処に退院出来るように話を進めてみるよ。なるべく早く退院したいよね」
「はい、よろしくお願いします」
『手前等にゃ何も出来ねえんだから明日にでも退院させろ』
「っ!?」
男には届かぬ声で不満を発散すると、少女が飛び跳ねるように肩を浮かせた。
「ん? どうかした?」
「い、いえ、何でもないです……」
医師から背けた顔で抗議の意を示す少女を無視して、焔は思考を続ける。
何れにせよ、今此処でどれだけ推論を並べていても、
先ずは退院してから自分達がやるべき事を一つずつ考えていくのが建設的だろう。
昼間に見た
人間の警察組織がどれだけ優秀であろうと、あの事件が公的な解決を迎えることはない。焼死体の数はこれからも増え続けていくだろう。
記憶の中で、赤く燃え盛る炎が嘲うように揺らめいた。
――一刻も早く、この手で奴を止めなくてはならない。
焔を急き立てる衝動は、決して義憤ではない。
それは、ただ
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