弐ノ四 心の距離

「――あ、あのー……焔くん?」


 長い沈黙の重圧に、先に音を上げたのはやはりほたるの方だった。


 ロビーを出た後の焔はなにを話しかけても生返事ばかりで、六、七階まで上ってからもほとんど言葉を発することがなかったので、ただでさえ病室しかないフロアの案内はわずか数分で終わってしまった。

 ほたるの病室まで戻ってきてからはいよいよその生返事さえもなくなり、息が詰まりそうな沈黙がかれこれ十分以上続いていた。


「お、起きてる、よね?」


 ほたるは掠れた声で問いかける。緊張感に満ちた空気で喉がからからになっていた。


『――何だ』


 わずかに間をおいて返ってきたのはひどく不機嫌そうな低い声で、ほたるはその態度に小さく身をすくめた。とはいえ、今のところ焔の上機嫌な声など聞いたことがないので、それだけでは心情を量ることもできない。


「え、えと、なんだか急に静かになっちゃったから、どうしたのかなって――」


 恐る恐る言葉を続けると、その言葉尻に長く大きな溜息が重ねられた。


『別に、何でもねえよ。少し考え事してただけだ』


 心底鬱陶しそうな調子ではあったが、まともな返答をもらえたことにほたるは少しほっとした。また自分のなにかが焔の機嫌を損ねてしまったのではないかと気が気ではなかったのだが、どうやらそういうわけではないらしい。


「そ、そっか、邪魔しちゃってごめんね。じゃあ、わたし黙ってるね」

いや、もうい』

「へ?」


 予想に反した応えに、思わず間の抜けた声が漏れた。


『んだよその阿呆あほ面は。考え事はもう済んだから別に構わねえっつってんだよ』

「あ、あぁ、そう……そうなんだ」


 まさか焔の方から身を引いてもらえるとは思っていなかったので、かえって言葉に窮してしまった。もし本当にその考えごとに区切りがついていたのだとしても、あれほどほたるとの会話を疎ましがっていた焔が、あえてわざわざ発言を許す意図が読めない。

 それに、続く話題など考えていなかったので、いざいきなりしゃべってよしと言われても困ってしまう。


『――何か、俺に訊きてえ事があるんじゃねえのか』


 ほたるの困惑を推し量ってか、ため息をひとつ挟んで焔の方から質問を投げかけてきた。


「訊きたい、こと……?」


 少し考えて、すぐに焔の言わんとしていることに思い至った。

 恐らくは、先ほどテレビで見た事件についてのことを言っているのだろう。


「え、えぇっと……あの、その……」


 しかし内容が内容なだけに、いったいどういう切り口で話を進めるべきなのかがわからない。こういう時、ほたるはいつも自分の口下手さを恨めしく思う。

 言葉が見つからないままほたるが口をもごもごとさせていると、苛立たしげに鋭い舌打ちが飛んできた。


『うざってえ餓鬼だな。いてえ事を云えっつってんだからさっさとそうすりゃ好いだろうが。莫迦ばかの癖に妙な気ぃ遣おうとするんじゃねえ』

「うっ……」


 焔の容赦ない辛辣な言葉に少し泣きそうになったが、それでも、それが彼なりの気づかいであることもしっかりと伝わってきた。


「じゃ、じゃあ――訊くね?」


 緊張で渇いた唇を小さく舐める。


「……ほ、焔くんはさ、隣のビルであった事件のこと、なにか知ってるの?」


 思い切って気になっていたことをストレートに質問してみた。

 焔による病院への侵入と、隣のビルでの死体遺棄事件とが同日、ほぼ同時刻に起きている以上、やはりその二つが無関係とは思えない。

 昨日の時点で気づくべきだったのかもしれないが、焔との出逢いがあまりにも衝撃的すぎて、ついさっきまで死体遺棄事件のことは完全に頭から抜け落ちてしまっていた。


『――知ってるの、ねえ……』


 焔はすぐには何も答えず、意味ありげにほたるの言葉を反復した。


『ま、手前てめえにしちゃく云えた方か』


 つまらなそうに吐き捨てられた言葉にはどこか嘲るような響きが含まれていて、ほたるは少しだけむっとする。


「な、なにそれ。わたしはちゃんと訊きたいことを訊いたのに……焔くんこそ、言いたいことあるならハッキリ言ってよ」


 自分でもびっくりするくらい反抗的な言葉が口をついて出てしまい、言いきってからはっと口元を押さえた。

 しかし言ってしまったものはもう遅い。


『ほう――』


 低く絞り出された声にほたるは真っ青になる。ただの感嘆詞でここまで怒りを表現できることを、ほたるは今まで知らなかった。続けざまに嵐のような罵声が飛んでくるのだろうと肩を縮こまらせる。


『なら確然はつきりと云ってやるよ』


 しかし、意外にも焔の声はとても静かなものであった。ある種の不気味ささえ感じるほどに。


『――手前が本当に訊きたいのは、事件の犯人は俺じゃねえのか、って事だろ』

「へっ?」


 まったく想定外の言葉に、すっとんきょうな声が飛び出した。


「なんで?」

『あぁ?』

「わたし、そんなこと、全然思ってなかったけど……」


 言葉尻が沈黙に溶けて消えていく。

 核心を突くように鋭く断言した焔にはなんだか申し訳ない気持ちになったが、本当にそんなことは考えてもみなかった。


 逃げ出したくなるような――どこへ逃げようと焔からは離れられないのだが――長い間を置いて、焔はわざとらしく大きく息を吐いた。


『――何故、そう思わない?』


 続く声はわずかに震えていた。押し殺している感情は怒りなのか呆れなのか、それともそれ以外の何かなのか、ほたるにはわからない。


先刻さっき報道ニュースを見ただろうが』

「見た、けど……」

『なら、俺が死骸をばら撒いた後で、この病院に侵入して身を隠してたんじゃねえのかって、普通はそう考えるだろ』

「それは――」


 言われてみれば、そうなのかもしれない。いや、焔の言う通り、普通はそう考えるのだろう。


 それでも――その可能性を突きつけられた今でさえも、やはりほたるにはそんな風に考えることはできなかった。


「わたしは、焔くんはそんなことしないって、信じてるから」

『はぁ?』


 素直に自分の考えを打ち明けたほたるに対し、焔の甲高い声は露骨に不理解を示していた。


『信じてるから、その可能性すら考えなかったってことか?』

「う、うん。おかしい、かな?」


 おかしい――のだろう。それはほたる自身も薄々気づいている。


『気が触れてるとしか思えねえな。信じる信じない以前に、抑抑そもそも手前は俺に就いて何も知らねえだろうが』


 焔の意見は、ほたるの感情論よりもよっぽど人間的な理に適っていた。

 たしかに、ほたるが焔について知っていることなど、ほとんどありはしない。だから、いったい何を拠りどころとして焔にそこまでの信頼を置いているのか、ほたる自身にも説明することはできなかった。

 それは、理屈の上に成り立っている感情ではないのだ。


 しかし、そんなほたるにも、ひとつだけ確信を持って言えることがあった。


「でも、焔くんが悪い妖怪じゃないって、わたしにはちゃんとわかるよ」


 今朝のやり取りを通じて、焔の言動からは乱暴ながらも確かにそのまっすぐな心が伝わってきた。

 焔がどんな妖怪で、どんな事情を抱えているのかはわからない。それでも、あの厳格な信念をぶつけられた時に抱いた焔への印象は、決して間違ってはいないと思うのだ。


「焔くんが悪い妖怪なわけ、ないよ……」


 噛みしめるようにもう一度つぶやく。あるいはそれは、確信と言うよりは願望だったのかもしれない。


『――莫迦莫迦しいな』


 短い沈黙を挟んで、焔が冷淡な声で吐き捨てた。


『善悪なんざ、所詮は只の価値観の違いでしかねえ。価値観も倫理観も何もかもが違う妖怪と人間とで、善いも悪いもあるもんかよ』

「そう、かな?」


 言わんとしていることは理解できるが、少なくとも今の段階で、ほたるにはそれほど焔との感性の相違があるようには感じられなかった。


『じゃあ訊くが、抑抑手前の云う悪い妖怪ってのはどんな奴のことだよ』

「それは、その……」


 結局は漠然としたイメージでしかないので、そう問われると言葉に詰まってしまう。


「たとえば――」真っ先に思い浮かんだ例を挙げてみる。「人間を食べちゃう、とか?」


 ――その瞬間。


 ほたるは胸の奥でなにかが激しくざわめき立つのを感じた。

 自分のものではない感情が自分の中から湧き上がってくる不快感。

 これは憤怒と言うのか、それとも憎悪と言うのか――ほたるはこの感情を形容する言葉を知らない。


 自分自身ではこれまで抱いたこともない、どす黒い負の衝動だ。


「焔、くん……?」


 目眩、鳥肌、発汗、動悸――あらゆる器官を総動員して、全身が危険信号を発している。すさまじい感情の奔流に呑みこまれて意識を失いそうになる。


「ほ、焔くんってば! どうしちゃったの?」


 この得体の知れないプレッシャーを放っているのが焔だとは思いたくなかった。

 どんな罵声でも構わないから、早く今までどおりの焔の声が聞きたい。


「焔く――」

『人間を喰う妖怪が』


 三度目の呼びかけを遮り、ようやく焔が言葉を発した。その叩きつけるような強い調子に、ほたるは思わず身をすくませる。


『――人間を喰う妖怪が、すなわち悪、って訳じゃねえだろ』


 まるで自らを落ち着かせるかのように、焔は改めてゆっくりと言葉を紡いだ。

 ほたるが知っている焔からの返答に、一気に肩の力が抜けた。あの心臓を鷲掴みにされているかのような感覚も、嘘のように消え去っていた。


 ほっと胸をなで下ろしたところで、遅れて焔の言葉の内容が頭に入ってきた。人間を食べるという恐ろしい行為を容認するかのような言い分に、また背筋が凍る。


「それって……どういうこと?」

『人間も家畜を殺してその肉を喰ってるだろうが。肉食動物が狩りをして他の動物を喰うのだって同じ――なら妖怪が人間を喰うのも摂理の一つに過ぎない。お前はそれが悪い事だと思うのか?』

「それは……、そう言われると、違う、のかもしれないけど……」

『種の違いってのはそう云うことだ。主観が違えば、それに基づいた色んなもんが変わってくる。善悪なんて、抑抑の判断基準が曖昧なもんなら尚更な』


 すっかり元の調子を取り戻した焔の弁舌は、口下手なほたるが反論できるような余地のない説得力を持っていた。


「じゃあ――」


 言いかけて、ほたるは口をつぐんだ。


 考えたくもない想像が頭をよぎる。

 焔が悪い妖怪――焔の指摘を受けて言葉を改めるとするなら、とするべきなのだろうか――でないということについては、直感的ながらも半ば確信していた。

 しかし、人間が牛や豚や鶏に悪意を持って接しているわけではないように、もしも焔がなんの悪意もなく人間を捕食の対象とするような妖怪なのだとしたら、ほたるにはそれを見抜く術などないだろう。妖怪にとってはそれが当たり前の行為であって、個の性質とは一切因果関係のないことであるのなら、これまでの触れ合いの中でほたるが感じ取ることのできた焔の一面など、なんの意味もないことになってしまうのだ。

 価値観も倫理観も何もかもが違う――という焔の言葉の意味を痛感させられた気分だった。


「じゃあ、焔くんは――」

『おい、それ以上は云うな』

「え?」


 意を決して言葉を続けようとした瞬間、焔の低い声に制されてしまった。


いか、一度しか云わないから能く聴け』


 また、感情が流れこんでくる。


たしかに、人間を喰う事が悪い事だとは思っちゃいねえ――が、俺はそう云う連中と同じに扱われることが死ぬ程嫌いだ』


 今度はそれがなんであるのか、はっきりとわかった。

 激しい怒りと、それ以上の嫌悪感だ。強い負の感情であることに変わりはないが、不思議と先ほどのような恐ろしさは感じなかった。


「ってことは――」

『云うなっつってんだろうが。打ん殴られてえのか』


 自分の意志とは関係なく右手が握り拳を作ったので、ほたるは慌てて口を閉じた。しかし、自然とその口元がほころんでしまうのは抑えることができなかった。


「えへへ」

『んだよ』

「ううん、なんでもないよ」


 焔の態度はひどく不服そうではあったが、ほたるは満面の笑みを隠そうとはしなかった。


 ――やはり、焔はではなかったのだ。


『大体な、俺は本来なら手前みたいなのを相手にするような妖怪じゃねえ――昨日の段階でそう云ってあっただろうが』

「あ……」


 そういえば、たしかに焔はそのようなことを言っていた。

 結局はほたるが勝手に想像を膨らませて、勝手に不安に駆られていたというだけのことだったのだ。


『ったく、手前が下らねえことばかり云うせいで丸で話が進まねえじゃねえか』

「ご、ごめん……」


 舌打ち混じりに焔が漏らした言葉を聞いて、本来の話題が二週間前の事件についてのことであったことをようやく思い出す。

 仕切り直したところで、焔がそれについて語ってくれるものだと思い、ほたるは余計な口を挟まないようにしながらベッドの上で居住まいを正した。


 しかし、そんなほたるの気構えとは裏腹に、焔はなかなかその後の言葉を続けようとしない。


ああ……、否――』わずかな間を置いて、歯切れ悪く曖昧な言葉が発された。『まあ、この話はもうどうでも好いか』

「えぇっ!?」


 思いがけない焔の投げやりな一言に、気を張っていたほたるは思わず上擦った声を上げた。


「な、なんで?」

『疑われたままじゃ何かと都合が悪ぃと思ったんだがな――元元お前は俺のことを疑ってねえんだろ?』

「それは……もちろんそうだけど……」

『なら、こんな詰まらねえ話をする必要もねえ。終いだ終い』


 焔は有無を言わさぬ語調で話を切り上げようとしてくるが、ほたるとしてはこんな中途半端に話を振られたままでは生殺しである。

 その口振りからしても、焔が事件に関係していることは間違いないはずなのだ。


「で、でも、やっぱりわたしは教えてほしいな、焔くんが知ってること……」


 おずおずと申し出た言葉に、ひどく面倒くさそうなため息が重ねられる。


『聞いてどうする』

「どう、って……」

『断言しておいてやるが、あの件はお前とは一切関係がない。それを知って何の意味がある』

「意味は……ないかもしれないけど……」


 しかし、焔からちゃんと話してもらわないことには、この据わりの悪い気持ちは治まりそうもない。


『――好奇心なら止めておけよ』

「へっ?」


 そわそわと落ち着きのないほたるをたしなめるように、焔は鋭い口調になった。


『物騒な問題に態態わざわざ首を突っ込もうとするなっつってんだよ』

「……やっぱり、物騒なこと、なんだよね……」


 その不穏な言葉がほたるの不安を掻き立てる。


『死体がさらわれて解体バラされることが物騒じゃねえなら、人間社会ってのは大概平和だろうな』


 皮肉っぽい軽口を叩きながらも、焔の声からは何も語るまいとする明確な意思がはっきりと感じられた。


『俺を疑ってのことなら仕方がねえとも思うがな、お前がそうじゃねえと言うからにはこれ以上穿鑿せんさくするのは止めろ。――あれは、俺の問題だ』

「――っ、でも、わたしは……」


 最後に付け加えられた言葉がほたるの胸を締めつける。この気持ちは、決して焔が言うような好奇心ではない。


 ほたるはただ――焔のことが心配なのだ。


 焔は昨日、ほたるに取り憑いた理由を怪我だと説明した。その原因がビルで起きた事件にあるのだとすれば、それが穏やかな問題ではないことくらいはほたるにも想像がつく。

 だからこそ、焔が今もまだその危険な出来事の中にいるのなら、なにかしらの形で手助けがしたいと思ったのだ。

 ただの人間――それどころか、あらゆることにおいて人並み以下のものしか持ち合わせていないようなほたるが、焔のためにいったい何ができるのかはわからない。

 それでも、ただ黙って知らないふりをするようなことだけはしたくなかった。


 今朝の焔がほたるの問題を解消してくれたように、ほたるもまた焔の問題の力になりたい――そう思わずにはいられなかったのだ。


「わたしは――」

『手前に出来る事なんざ何もねえ』


 まるで心を見透かされたかのような言葉に制されて、ほたるはなにも言えなくなってしまう。その強い拒絶が、今の自分と焔との大きな隔たりそのものであるように感じられた。


「わたし、は……」


 泣きそうになって、ほたるは思わず顔をうつむける。引きつった喉ではそれ以上しゃべることもできなかった。


『泣くな泣くな、鬱陶しい』

「ぷぁっ!?」


 いきなり自分の右手が動いて、その袖が乱暴に顔を拭ってきた。あまりに突然のことに、決壊寸前だった涙もせき止められてしまった。


『善いか、勘違いするなよ。俺は何もしなくて好いっつってる訳じゃねえからな。むしろ手前にはこれから遣らせる事が山のようにあるんだ。だから、関係ねえ事にまで首突っ込んで出来もしねえ事を遣ろうとしてる暇なんざねえっつってんだよ』


 呆然と固まっているほたるとは対照的に、焔は落ち着きなく早口で一気にまくし立てる。


諒解わかったか!?』

「へっ!? う、うんっ」


 鋭い一喝で放心状態から引き戻された。


「――うん、わかったよ」


 ほたるは自分の心が少しずつ温かい気持ちで満たされていくのを感じていた。

 焔なりの乱暴なフォローが――フォローしようとしてくれたその気持ちが嬉しかった。


 焔と自分との心の距離は、まだよくわからない。

 決定的な隔たりを感じることもあれば、思っていたよりもずっと近くで不器用な優しさを感じることもある。

 わからないから不安になることもあるが、お互いの関係性についてはもっとポジティブに向き合っていってもいいのかもしれない――今はそう思うことができた。

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