弐ノ三 不穏な気配

 声を上げて泣いたのは、いつ以来だっただろう――。


 小学校の高学年に上がる頃には、周囲の顔色をうかがいながら自己表現を抑制する癖が自然と身についていたように思う。

 自分がつらい、苦しい、悲しい、さみしいと言えば、その度に両親を初めとする身近な人たちを困らせてしまう。だから、ほたるはこれまでずっと、それらの言葉を必死に胸の奥に押し留めながら生きてきた。

 時には、ため息をついて独りで落ちこむこともあった。ベッドの上でこっそりと泣いたこともあった。そうした小さな発散を繰り返しながらも、それでも、だれかの前で負の感情を見せてしまうようなことだけは避けてきた。

 自分の身体的な弱さが周りに迷惑をかけてしまうのなら、せめて気持ちだけは強くあろう――強く見せようと努めてきた。


 そんな偽りとごまかしに塗り固められたハリボテの自分は、いつの間にかすっかり歪んでしまっていたのだ。


 本当は、ほたる自身も心のどこかでとっくに気がついていた。


 それでも、認められなかった。


 ままならない肉体へのささやかな反抗として己に課したルールを撤回するのは、なにか決定的な敗北であるように思えてならなかった。身体は病弱で、意志は脆弱――そうなってしまったら、本当に自分には存在価値がなくなってしまう。

 そんな強迫観念めいたものに囚われて、ほたるはすっかり身動きがとれなくなっていた。

 歪みを正すこともできず、歪みきってしまうこともできず、ただ達観したふりをしながら自分をまっすぐであるように見せかけることしかできなかった。


 そうしてほたるを数年間縛り続けていた妄執もうしゅうの枷を、焔は理詰めの言葉だけでいとも簡単に粉砕してしまった。


 人間でないからこそ持ち得る客観。そこから繰り出される、遠慮も配慮もない言葉の数々。

 妖怪である焔が語る理論は、やはり人間のそれとはまるで違っていて――だからこそ、ただひたすらまっすぐに、ほたるの歪な心の芯まで響いてきた。


 もちろん、人間的な感情との折り合いを無視した焔の理屈には、そう簡単に納得できない部分も多々あった。しかし、そんな齟齬はどうでもよかった。

 ほたるが本当に必要としていたのは、筋の通った綺麗事でも、同情的な慰めでも、ましてや無責任な同調でもなく、お前は間違っているぞ――と面と向かって全否定されることだった。卑屈に凝り固まった観念を自分ではない誰かが破壊してくれるのを、心のどこかでずっと待ち望んでいたのだ。


 自らあやまちを認めて自己を否定するような勇気は持ち合わせていない。かと言って、ほたるの精神的な未熟さと弱さの本質を容赦なく暴き立て、あまつさえ糾弾するなど、その境遇を知っている人間にはそうそうできることではない。

 結局のところ、いずれほたるの心の救済には、非人間的な者との出逢いが必要不可欠だったということだ。

 結果的にその相手が妖怪などという文字通り人に非ざるものだったのは、単に最も極端な例が現れただけのことに過ぎない。


 ともかく、どういった形であれ、ほたるは焔の言葉によって長年の呪縛からようやく解放されたのだ。

 その事実を前にして種族の差異を論じるなど、ほたるにとっては全く無意味なことであった。人間でも妖怪でも関係なく、焔には感謝してもしきれないほどの想いでいっぱいだった。


 できることなら、自分もなにか彼のために――



『――おい、何をぼうっとしていやがる』

「ふぇっ!?」


 ぶっきらぼうな呼びかけでほたるは我に返った。


 病院内を焔に案内している最中であった。焔が院内の設備に気を取られている間に、つい物思いに耽ってしまった。


 あの後、ほたるは三十分以上もむせび泣き続けた。悲しくて、つらくて、苦しくて、悔しくて、そして嬉しくて――あらゆる感情が胸の中でぐちゃぐちゃになって、いつの間にか泣いている理由さえわからなくなっても、それでも涙が止まることはなかった。


 ついには心配した隣室の患者からのナースコールで二階堂が駆けつけてきて、そこでようやくほたるは落ち着きを取り戻した。

 二階堂は多くを訊くようなことはせず、ほたるが泣き止んだのを見届けると、いつものように頭をなでてから病室を出ていった。

 そんな二階堂の優しさにまた少し涙腺がゆるみそうになったが、唐突に自分の内側から放たれた『ようやく泣き止んだか』という気だるそうな声に驚いて涙は引っこんでしまった。


 二階堂とは対照的に、焔はほたるの様子を気づかう素振りも見せずに、病院を案内しろと要求してきた。気づかうどころか、早くしろと急かされたくらいだ。

 ほたるはあわてて部屋着の上に薄手のカーディガンを羽織ると、乱れた髪もそのままに、ベッドから車椅子に移って病室を出た。


 ほたるの病室がある五階から一フロアずつ下りていき、今はちょうど二階の案内をひと通り終えたところであった。


『何だよ、まだしょぼくれていやがんのか』

「う、ううん、全然そんなことないよ。もう平気」


 強がりではなかった。むしろ、これまで感じたこともないくらい清々しく晴れ晴れとした気持ちだ。


『ならけっとしてねえでさっさと下に行くぞ』


 言うが早いか、焔はほたるの両腕を使って車椅子の車輪を押した。


「わわっ、ちょ、ちょっと待ってよ、自分で押すからっ」


 自分で車輪を押しておきながら上体のバランスを崩す様などは、傍から見たら滑稽な姿に違いない。幸いなことに、今は廊下にはほたる以外に人の姿は見えないが。


 焔と連れ立って病室を出るのは今回が初めてのことなので今までは気にかけていなかったが、焔と会話をする際にも周りの様子には注意しなくてはならないだろう。特にこれから向かおうとしている一階は、ロビーや売店があるために人の往来が多いのだ。時間帯的にもちょうど混んでくる頃合いだ。


 エレベーターに乗って階下に降りると、やはり一階ではロビーを中心に大勢の人が行き来していた。外来か見舞い客と思われる着飾った服装の者も多い。

 普段一階まで下りる機会が少ないほたるにとっても、それはやや見慣れない景色であった。ほたるの日常における登場人物は、ほとんどが部屋着か白衣を着ている。


 行き交う人々にぶつからないよう気を遣いながら、ほたるはゆっくりと車椅子を進めた。

 焔の方も周囲の状況を汲んでくれたのか、エレベーターを降りてからは返答を要する言葉を投げかけてくることはなかった。必要に応じて『一寸ちょっと止まれ』などの短い指示が飛んできたので、ほたるは黙ってそれに従った。


 一階の案内――ほとんど言葉を発しなかったのでまともに案内役は務まらなかったのだが――は思いのほか短い時間で終了した。最も設備が豊富なフロアなだけに焔の興味を引くものも多いかと思ったのだが、車椅子の進みを止めたのは三、四回ほどで、いずれも数秒の観察で気が済んだようだった。


「一階はもういい?」


 声をひそめてうかがうと、焔はつまらなそうに『ああ』と短く答えた。

 残すは六階と七階だけだが、そこは病室が等間隔に並んでいるだけで、特に説明を必要とするような設備はない。この病棟の案内はこれでもうほとんど終わったようなものである。


『――いや、一寸待て』


 ほたるがエレベーターの方に向かおうとしたところで、思い出したように焔が声を上げた。


「どうしたの?」

彼処あそこの新聞読ませろ』

「新聞?」


 焔が言っているのは、ロビーのベンチの脇に備えつけられた雑誌コーナーのことだった。

 焔が人間の世情に興味を持っていたことを意外に思いながら、ほたるは通行の邪魔にならないよう車椅子をベンチに横づけして、言われた通りに今日の朝刊を手に取った。


「あ、この人、死んじゃったんだ……」


 一面には【昭和の名優逝く】という見出しで大物俳優の訃報が大きく取り上げられていた。芸能に疎いほたるでもよく知っている名前だった。


『次だ次』

「きゃっ」


 感慨に耽っている間もなく、急かすように腕が勝手に新聞をめくった。思わず声を上げてしまって、慌てて口を閉じる。何度やられてもこの感覚にはどうにも馴染めそうにない。


「ねえ、びっくりするからいきなり手とか動かすのやめてよ。言ってくれればちゃんとめくるから」

うるせえなあ、じゃあさっさと次捲れよ』


 こそこそとほたるが文句を言っている間に、焔は二面にも目を通していたようだ。


「もうっ!」


 こんなに人目の多い場所で揉めているわけにもいかないので、ほたるは頬を膨らませながらも言われるがままにページをめくった。


「あれ、ほたるちゃん?」

「――――っ!?」


 いきなり背後から声をかけられて、ほたるは叫び声の代わりに口から心臓が飛び出すかと思うほど驚いた。

 恐る恐る振り返ると、顔馴染みの若い女性看護師が物珍しそうにこちらの手元を覗きこんでいた。


「こんなとこまで来るの珍しいねー。どうかしたの?」

「あ、いえ……、たまには気分転換でもしようかなって」


 でまかせの返答を疑う素振りもなく、看護師は「ふうん」と頷いてから再びほたるの手元に視線を落としてくる。


「――ああ、その事件おっかないよねー」

「事件?」


 唐突に切り出された話題に首をかしげていると、看護師は背後から少し身を乗り出して新聞記事の一つを指差した。


「ここのすぐ近くで焼死体が見つかったって、これを読んでたんじゃないの?」


 太文字の見出しに記載された見慣れた地名を確認した瞬間、心拍数がわずかに上がり、背中に嫌な汗がじわりと滲んだ。


 事件現場として取り上げられているのは、この病院から徒歩でも二十分とかからない距離にある隣町――ほたるの自宅と、在学中の高校がある町だ。


「ほら、今テレビでもやってるよ」


 顔を上げて、前方の壁に設置されたモニターに目を向ける。

 テレビの中のワイドショー番組では、ちょうどリポーターによる現場中継が行われていた。マイクを持った女性リポーターが、険しい表情で事件の概要や遺体発見当時の現場の様子などを伝えている。その背後に映っている風景にも見覚えがあった。ほたるが登校する際に通っていた道のすぐ近くだ。


 しばらくの間、ほたるは看護師のことも焔のことも忘れてテレビに釘づけになっていた。


 番組の形式がワイドショーであるせいか、報道の内容は事件の奇妙さを殊更ことさらに強調したものになっていた。

 今日未明に隣町で発見された焼死体は、今のところ女性であること以外は何ひとつ身元が判っていないらしい。通常では考えられないほどの非常に強い火力で焼かれたらしく、遺体は生活反応の確認や歯型の照合も不可能な状態だった、と番組司会者がおどろおどろしい口ぶりで説明していた。現場周辺には大量の血痕が残されており、警察は殺人事件としての見方を強めて捜査を進めているようだ。


 これだけでもほたるの気分を暗くさせるのに十分な内容であったが、関連して報道されたもう一つの事件の方が一層不可解で不気味で、そしてほたるにとってはより身近なものだった。


 それは、二週間前にこの病院のすぐ近くで起きた死体遺棄事件についての続報であった。


 ほたるはここ最近ニュース番組を見ていなかったので知らなかったのだが、どうやらこちらについては早々に遺体の身元は判明していたようだ。

 発見された遺体は檜山ひやま龍司りゅうじという男性で、ある暴力団の組長であったらしい。

 檜山は先日、癌のため入院先の病院で死亡したのだが、不思議なことに、葬儀の当日に棺桶ごと遺体が忽然と消えてしまったのだという。そしてその翌日未明、葬儀場から数十キロ離れたこの町のビルの屋上で、バラバラにされた遺体が発見されたというのだ。


 初めて事件についての詳細を知ったほたるは、そのあまりの異常さにうすら寒いものを感じずにはいられなかった。

 たしかに暴力団の組長というのは誰かからの怨みを買いやすい立場なのかもしれないが、だからといって、亡くなった者にそこまでのことをするような人間がいるのだろうか。

 そもそも、沢山の人がいるはずの葬儀場から棺桶ごと死体を持ち出すなどということが可能とは思えない。


 そんな得体の知れない不気味さに、ほたるは妙な引っかかりを覚えた。


 これと似たような感覚を、つい最近どこかで――


 そうして、鈍いほたるもようやく思い至る。


 今見ていた番組では取り上げられなかった、同じ日に起きたもう一つの不可解な事件――ほたる自身が当事者であり、そして、ほたるだけが真実を知っている事件。


 常識では考えられないようなことばかりが起きたこの病院での事件の犯人は、多くの人間の常識を根底から覆す超常的な存在――今も自分の中に宿っている、妖怪という存在だったのだ。





 ――また、面倒な事になった。


 焔は心の中で歯噛みしながら、受像機テレビに映る男性司会者を睨み付ける。

 見る者の好奇心と不安感を無闇に煽るだけの下世話な番組の内容に無性に苛立ちを覚えたが、それは只の八つ当たりだと自覚的に考えることによって頭を冷やした。焔は人間社会の報道体制にいて欠片かけら程の興味も抱いてはいないのだ。


 檜山龍司に関する事件が表沙汰になっていることは、病院内に広まっていた噂話で知っていた。

 死体の発見から二週間も経過しているのではなから期待はしていなかったが、何か関連した情報はないものかと新聞に気を引かれたのが、結果として失敗だった。情報の有無に拘わらず、少女がこの事件に意識を向ける前に早早に切り上げる心算つもりだったのだが、無遠慮な女の登場にって大幅に予定が狂ってしまった。


 こうも不可解さばかりを強調した報道を見てしまっては、如何いかにこの魯鈍ろどんな少女といえども、流石に事件と焔とを関連付けて考えざるを得ないだろう。

 いや、其処まではまだ想定内だ。

 本来であれば、病院への侵入と潜伏が露見した時点で、焔は死体遺棄事件との関連性を疑われて然るべきであったのだ。今までそのような追及を免れていたのは、ひとえにこの少女の狂人的な盲目さによってもたらされた偶発的な幸運でしかない。


 しかし、今日未明に発生したと云う新たな事件に就いては、焔にとっても寝耳に水であった。よもや事態が此処まで深刻化して人間社会に波及していようとは思いもしなかった。


 矢張り早急にこの不便極まりない状況を脱する必要がある。一連の事件に決着を付けるのは、自分でなくてはならない。


――それが、自分が果たすべき責任である。


 心の底から湧き上がる激情を抑え込みながら、焔は努めて冷淡にその決意を新たにした。


(しかしなあ――)


 事此処に至り、遂に萌芽の兆しを見せたであろう少女の中の猜疑心さいぎしんが、差し当たって今後の障害となることは火を見るより明らかであった。

 今の自分達の関係性は、極わずかなほつれでさえも致命的な齟齬となり兼ねないのだ。


(全く、面倒なことになりやがった……)

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