弐ノ二 外道の理

 どうも本格的に躰が此処の生活周期リズムを覚えてしまったらしい。

 霞掛かった寝起きの視界に無遠慮に降り注ぐ朝日を忌忌しく思いながら、焔はそのようなことを考えた。

 わずかに遅れて、今の自分に躰と呼べるものがないことを思い出して、一層不愉快な気分になる。


 夜間に活動していた分、正午頃までは眠っている心算つもりだったのだが、どうやら昨日とほぼ同じ時刻に目が覚めてしまったようだ。半覚醒状態の意識で、少女と医師の声を聞いた気がした。


(まあ、あのいけ好かねえ野郎の面を拝まずに済んだだけ増しか)


 気休め程度ではあるが、そう思うことで多少なりとも溜飲が下がった。

 あの二階堂という優男には、生理的嫌悪感を禁じ得ない。笑顔、声音、立ち居振舞い、すべてが鼻に付く。焔は自分の猜疑心さいぎしんが強いことにいてはある程度自覚的であるが、それを差し引いて考えたとしても、あの如何いかにもと云わんばかりの聖人君子然とした雰囲気を額面通り鵜呑みにしろという方が土台無理な話である。

 何かを腹のうちに秘めているに違いない。よもやこの貧相な小娘に劣情を催しているなどということはないだろうが――いやし事実そうであったならそれ程愉快な話はあるまい。


 焔の下世話な想像を咎めるかのような時機タイミングで、少女がはなを啜る音が聞こえた。


 少女は枕に顔を埋めて、小さく肩を震わせていた。焔は起床してから彼女のことを全く気に掛けていなかったので、その様子には今初めて気が付いた。

 嗚咽は堪えているようだが、泣いているのは一目瞭然だ。

 これまで余り負の感情を表層化させることがなかった少女に涙を流させる程の事態に興味が湧かない訳でもなかったが、それ以上に、ただ単純に面倒臭いと思う気持ちがその興味を大きく上回った。


 起きていることを気取られない内にしばらく二度寝をして遣り過ごそうと決めた矢先に、ふと違う考えにも思い至る。

 このまま彼女が意気消沈していては、今日これからの調査活動に何か差し障りがあるのではないか、という懸念が頭を過ぎったのだ。


 そう云った可能性が浮上した以上、少女に構う煩わしさを天秤に掛けるまでもなかった。所詮それは焔自身の気持ちの問題でしかない。この場は我慢して彼女の気を紛らわせる為の役に徹した方が合理的である。焔が相手になって事態が好転するかどうかと云うのはまた別問題だ。


 そこまで考えて、焔は大きく息を吐いた。今日も溜息の尽きない一日になりそうである。


『――おい、何めそめそしていやがる』


 焔がぶっきら棒に声を掛けると、少女は顔を伏せたまま大きく肩を跳ね上げた。焔が未だ寝ていると思っていたのか、抑抑そもそも焔の存在自体を忘れていたのか、少女は枕で乱暴に目許を拭いて、勢い良く顔を上げた。


「ほ、焔くん、起きてたんだ。お、おはよっ」


 視線を宙に彷徨わせながら、少女は笑顔を作ってみせる。略泣き笑いである。


「ごっ、ごめんね、なんでもないから――」

『鼻水出てんぞ』

「えっ!? やっ、うそっ」


 少女は顔を真赤まつかにして、寝間着の袖で鼻の下を拭う。


『汚えな』

「うう……」少女は恥ずかしそうに顔を俯ける。「で、でも、ほんと、なんでもないよ」


 不器用な笑顔で飽くまでも白を切ろうとする彼女の態度に、苛立ちが募る。本気で誤魔化す気があるのか判断に困るような露骨な空元気が余計に腹立たしい。

 責めてもう少し巧い演技をしてくれたのなら、此方こちらとしても身を引くことを考えないでもないものを。何も好き好んで彼女の事情に首を突っ込んでいる訳ではないのだ――怒鳴り付けてやりたい程の不満を呑み込み、焔は努めて平静を装う。


『あのなあ、お前は妖怪の俺にまで気を遣って、そうやって感情を押し殺し乍ら生活していく心算なのか?』どうにも呆れまでは隠せそうもない。『確かに俺は長居する気はねえとは云ったがよ、そんな調子じゃあ俺が出て行く前にお前心的負荷ストレスで胃に穴空くぞ』

「それは――」


 焔としては大分優しい気遣いの言葉を掛けてやった心算であったが、少女はなおも遠慮しがちに語尾を濁す。

 人間の少女相手の御機嫌取りは早くも限界を迎えそうだ。


『おい――』

「ごっ、ごめんねっ」


 焔の声に含まれる棘を敏感に察したらしく、文句を言う前に機先を制して頭を下げられてしまった。

 今にも泣き出しそうな思い詰めた表情を見せ付けられては、頭ごなしに厳しい言葉を浴びせるのも気が引ける。抑抑、焔が今こうして積極的に少女に関わろうとしているのは、彼女が抱えている悩みか悲しみか、いずれのそう云った要因を多少なりとも払拭する為なのであって、ここで無理矢理に口を割らせようとするのはかえって逆効果であるようにも思えた。


 気勢を殺がれ、焔は閉口する。人間にける思春期と呼ばれる多感な時期の少年少女は、精神的に非常に不安定でぎょがたいということは知識として知ってはいた。

 してや、彼女の特殊な境遇を思えば、感情を吐露することが不得手だったとしても何ら不思議ではない。


 ――そのようなことを黙黙と考えていると、唐突に凡てが莫迦莫迦ばかばかしく思えてきた。

 焔は少女の家族や友人でもなければ、心理相談員カウンセラーでもないのだ。親身な振りをして話し相手になっているのは、彼女をおもんぱかっている訳ではなく、飽くまでも焔自身の都合を最優先に考えた結果に過ぎない。

 しかし、一旦醒めた頭で改めて考え直してみれば、今後の活動に取り立てて少女自身の意思を要する場面などほとんどありはしない。必要なのは、躰だけだ。泣きべそを掻いて殻に閉じ籠っていたいのであれば、そうしていてくれて一向に構わない――否、むしろ余計な遣り取りがない分、その方が好都合であるとさえ云える。彼女の性格を鑑みれば、その間に焔がこの身体を使うことを拒否するとも思えない。

 焔は己の判断を悔いる。人間の少女の相談役を務めようなど――寝惚けていたのだ。


 結論が出た途端に、少女の顔色を窺うことを悶悶もんもんと考えていた先程までの自分の滑稽さに無性に腹が立った。少女に当たり散らして鬱憤を晴らすのは簡単だが、気落ちしている今の彼女を下手に刺激するのは得策とは云えないだろう。

 当面、問題解決の糸口を掴む前に、今後の関係性に影響し兼ねない禍根を残すのは避けねばならない。


 憤りを沈める為に、長い溜息を吐く。


『――まあ、話したくねえなら別に構わねえけどな』


 努めて無感情な声で云う。この言葉を非難の意と捉えられてしまうと、また話が拗れてくる。無関心を装うのが無難だ。


『俺はお前と慣れ合う気はねえし、お前の私的な問題に立ち入って穿鑿せんさくする心算もねえ』


 淡淡と感情を殺した言葉を紡ぐ。少女は痛みに耐えるような表情で枕を凝乎じつと見詰めている。


『俺は二度寝でもしてるからよ、その間に泣き喚くなり独りで愚痴を溢すなり、まあ好きにしてろ。そうやって黙って溜め込んでるよりは幾分か増しだろうよ』


 彼女が裡に秘めている鬱懐うっかいの根源に就いては分からず終いだが、小一時間も放っておいてやれば少しは落ち着くだろうと思い、投げ遣りにそう云い残して会話を終了させようとした。


 ――その言葉が少女の心にどのように働き掛けたのかは定かではないが、ふと、張り詰めていた彼女の緊張の糸が緩んだように感じた。


「――ありがとね、焔くん」


 焔は少し反応に困った。別段感謝されるようなことを云った心算はない。


「…………さっきね、先生から、退院していいよって言われたんだ」


 僅かな間を置いて、少女は訥訥とつとつと語り始めた。

 あれだけ頑なだった彼女の唐突な心境の変化に一瞬戸惑ったが、焔はぐにその真意を汲み取った。


(独り言、か――)


 少女の言葉は焔に向けられている訳ではない――少なくとも、そう云う体裁の下で彼女は喋っているのだ。

 何とも詰まらない意地の張り方をしたものだと呆れはしたが、焔としてもこの方が下手な相槌を打つ必要もないので楽ではある。聞くに堪えない下らない話であれば、先の宣言通り勝手に寝てしまえば良い。

 話し出した手前、焔が反応を返したとしても今更彼女が語りを止めるとも思えないが、暫くは少女の演じる茶番に付き合ってやることにした。


「もちろん、病気が良くなってるのは嬉しいんだけど……、退院して普通に生活するなんてこと、できるのかなって、ちょっと不安で……」


 少女のかおに掛かる翳りが濃くなったように感じた。


「わたしの両親ね、二人とも会社を経営してて、忙しくてなかなかお見舞いとかに来られないんだ。でも、治療費とかで大変なのはわたしのせいだし、それは仕方ないことなんだけどね」


 この二週間見舞い客が現れなかったのはそう云う理由であったか、と焔は得心する。


「二人とも、退院って話が出る度にすごく喜んでくれるんだ。……でも、いつも何日もしないうちにすぐ発作が出ちゃって、結局、ここに戻ってきちゃって、その度に、お父さんとお母さんに心配かけて、会社もお休みしてもらって……」声が震えている。「いいんだよって、またゆっくり治そうねって、言ってくれるんだけど、がっかりさせちゃってばっかりなのが、すっごく辛くってっ……」


 せきを切ったように感情を露にする少女だったが、そこで一度言葉を呑んで強く口を引き結んだ。これが独り言であると云うのならば何を我慢する必要もない筈だが、どうであれ他人に涙だけは見せたくないらしい。強情と云うべきか、熟熟つくづく難儀な性格である。


「……だからね、わたし、もう、このままでもいいんじゃないかなって、思っちゃうんだ」


 落ち着きを取り戻したのか、少女は緩めた口元に卑屈そうな笑みを浮かべた。


 焔は自分の中の何かがささくれ立つのを感じた。


「ぬか喜びばっかりさせて、余計に落ち込ませちゃうくらいなら、いっそ、ずっとこのままで、って……」


 涙声で無様な自嘲の笑みを漏らす少女が――彼女の紡ぐ言葉が、ざらつきとなって焔の神経を逆撫でする。非常に不愉快だ。


「病院も、別にイヤなところじゃないし……。先生も、他の患者さんたちも優しいし――」


 耐え兼ねて、焔は少女の頬を思い切り引っ叩いた。無論、少女自身の右手を借りてだが。


 渇いた音の残響が、病室内の空虚な空間に溶けて消えた。

 少女は何が起きたか理解出来ていないような呆けた表情のまま、赤くなった頬に、その原因となった己の右手を当てている。


『――底の浅え十幾歳いくつの餓鬼が、何を達観した気になっていやがる』


 焔の頭からは、既に後のことを気に掛けるような心遣いは完全に消え去っていた。

 それ程までに、少女の卑屈で捨て鉢な態度が気に喰わなかった。


ぬか喜びさせたくねえだと? 体の良い逃げ口上使いやがって。そんなもんが孝行だとでも云う心算か? あ?』焔の言葉は止まらない。『結局、手前てめえ自身が失望されることを怖がってるだけじゃねえか。それを認めたくねえから、そんな御利口な理屈のもっともらしい云い訳で自分を誤魔化そうとしてるんだろ』


 少女がはっとしたように目を見開いた。

 反論の一つでも出てくるものかと思ったが、結局少女は俯きがちに下唇を噛んだだけで言葉を発することはなかった。

 少女の反応を窺っている間に、焔の頭も僅かながらに冷えてくる。


『あのなあ――』自然と語調も落ち着きを取り戻す。『お前が今云ったこと、矛盾してるってお前自身が一番諒解わかってんじゃねえのか?』


 顔を上げた少女の瞳が揺れる。


『親に負い目を感じてるなら、このままで良いなんて言葉が出てくる訳ねえだろ。糠喜びさせるより、心配掛け続けてる方が良いとでも思ってんのか?』

「そ、そんなことっ、……そんなこと、思ってるわけ、ないよ……」


 ようやくそれらしい感情の籠った反応が返ってきた。


『なら、要するにそう云うことだろうが』

「でも……」

『でも、何だよ』

「うぅ……」


 焔の問い返しに応えることが出来ないまま、少女は押し黙ってしまう。理屈の上での納得と、感情の割り切りは別問題と云うことなのだろう。

 焔は短く息を吐く。


『俺は妖怪だから、人間の感情だとか――俗に云う心なんてもんは解かる訳がねえ。知識として学ぶことは出来ても、精精せいぜいが幾つかの規則性パターンを憶えて理解した気になれる程度だ』


 別段それ以上理解を深めようとも思わないが、と続く言葉は呑み込んでおくことにした。下手に語り過ぎて、ただの前置きを云い訳めいたものと勘違いされても心外だ。


『だから、上辺だけの知識で云わせて貰うがな――』という一言だけ添えておく。『餓鬼の時分なんざ、少なからず子は親に迷惑を掛けるもんだ。その世話をすんのは、親が親にった瞬間に自動的に課される義務であって、本来であれば子の方がそれに責任を感じる必要はねえ』

「そんな――むぐっ」

阿呆アホ、結論を急ぐんじゃねえ』


 はやって口を挟もうとしてきた少女の唇を、彼女自身の人差し指を使って塞ぐ。


『手前等人間がもっと面倒な生き物だってこと位は俺だって諒解ってんだよ』


 なればこそ、焔は今こうして説法の真似事のような詰まらない話をしているのだ。たしなめられた少女は素直にそのまま口を引き結んだ。


『人間は国家や文明の繁栄には何処までも意地汚く貪欲な割に、生物学的な種の繁栄にはとんと無頓着な生き物だ』


 話の先が読めないのか、少女は怪訝けげんそうに眉をひそめた。唇に宛がっていた人差し指を、彼女の鼻先に突き付ける。


『だが、本能じゃねえとするなら、何故人間は理性や感情の下に子を産み、育てようとするのか――』一つ息を吐く。『それは、利己エゴだ』

「エゴ……?」


 短く断言した焔の言葉に、少女はその表情に僅かに不愉快そうな色を滲ませた。その気配を察した上で、猶も自説の展開を続ける。


ああ――子育てなんざ、突き詰めりゃあ根っ子の部分は親自身の利己でしかねえ。極論だが、抑抑、子は生まれたくて産まれてくる訳じゃねえんだからな。まあその観点で云うなら、人間に限らずあまねく凡ての生命は前代の利己の結晶だ』


 少女が何事かを云おうと口を開き掛けて、閉じる。


『だからな――畢竟ひっきょう、親なんてもんは、どんな形にせよ子に期待を寄せ続けるもんなんだよ。親は理想や願望を子に託す代わりに、七面倒な義務を負うんだ』

「……そう、なのかな?」

『そうだろうよ。打算的な押し付けでなくとも、殆どの親は子に健康に育って欲しいだとか、幸せに為って欲しいだとか、そう云う漠然とした願いを無意識的に抱いている筈だ。大抵の場合、子自身の感情と齟齬が発生し得ない部分だから気付かないのかもしれないが、それも結局は折角手間と金と愛情を注いだのだから、と云う親の勝手な自己満足に過ぎない』


 少女は黙したまま口を開こうとはしないが、その表情は露骨に不同意を表している。


『別に無理に納得しろとは云わねえけどな』


 小理屈で下手な反論をされても面倒なだけだ。焔は己の持論が人間の一般的な感性には受け容れられがたいと云うことは承知の上で話している。別に彼女と討論を繰り広げたい訳ではない。


『まあ要するにだな、俺が云いてえのは、お前が生きてる限り、親は何時いつだってお前に何かを期待しているし、期待感がある以上は時には落胆だってするんだってことだよ。お前の望む望まざるに拘わらず、親の都合で勝手に、だ』


 一瞬、少女が肩を強張らせた。焔の持論が、彼女の心に要らぬ重圧を背負わせたのかもしれない。

 だが、それでも構わない――こう云う捻くれた根性の甘ったれた餓鬼には、より直接的な言葉でないと伝わるものも伝わらない。そう思った。


『だからな、親が世話焼いてくれてる間は、餓鬼は迷惑掛けて、心配掛けてる位が丁度良いんだよ』

「でも、わたしは――」

『でも、じゃねえんだよ』少女の震える声に言葉を被せる。『いか、お前のそのザマだってな、何も其処まで特別なもんじゃねえ。他の餓鬼に比べて迷惑と心配と手間と金が余計に掛かるってだけのことだ』


 確然はつきりと云い切ってやると、少女は途端に泣き出しそうな貌になった。


『んな面するんじゃねえ。手間の掛かる餓鬼で何が悪いんだっつってんだよ』

「……え?」

『お前が死んじまったならそりゃあもう取り返しの付かねえ親不幸者なんだろうがな、辛気臭え面のくたばり損ないでもお前はこうして生きてるし、親もそんなお前のことを見捨てずに期待を寄せ続けてる。病が自分の力でどうにもならねえ以上、取り敢えず今はそれだけで十分じゃねえか。なのにお前が下らねえ意地張って何時までもこんな処に引き籠ってたら、それこそ死んでんのと大差ねえだろうが。墓の手入れさせてんのと同じじゃねえか』


 畳み掛けるように持論をぶつけてやる。

 少女は彼女自身が思っている程まだ不幸ではないし、親不幸でもないのだ。


『お前の病状に一喜一憂するのも、結局は親が遣りたくて遣ってることだ。糠喜びだろうが何だろうが、勝手にさせときゃいじゃねえか。肉体的にも精神的にも自立出来てねえ内から、孝行なんて生意気なこと考える必要はねえ』


 少女の手を借りて人差し指を突き付ける。少女の瞳が大きく歪んだ。


『――それでも、どうしても今お前の中に両親に報いたいと思う気持ちがあるとするなら、ずはこの陰気臭え場所から出ないことには何も始まらねえだろ』


 焔が云い切ると、少女は途端に大粒の涙を溢した。涙はどんどんと溢れだして、やがて少女は大声を上げて泣き始めた。



 寝台ベッドの上で赤子のようにうずくまって泣きじゃくる少女を詰まらなそうに一瞥しながら、焔は昨日感じた彼女に関する幾つかの疑問に就いて答えを得たような気がしていた。


 彼女は端から――焔と出逢うよりもずっと以前から、己の生を放棄していたのだ。

 真当まつとうな人生への望みを捨て去った、、諦念と惰性に支配された日々。


 ――そんなものを、とは云わない。


 だから、焔――妖怪と云う未知に対する興味や好奇心等の肯定的な刺激が、自身の命に関わる直接的な危機感を容易に上回ってしまった。自棄になっていた訳でもなく、恐らくは彼女自身も無自覚の裡に、自然と己の命の優先順位を二の次に考えるようになってしまっていたのだ。

 十数年にわたって彼女を苛み続けた環境や境遇と云った外的要因が、生来備えている筈の本能的機能を狂わせたのだろう。


 相変わらず人間に対して生じる感想は淡泊なものではあったが、それでも、多少気の毒だと思いはした。如何いかに焔が妖怪といえども、その程度の共感性は持ち合わせている。


 しかし、周囲からの慈愛と云う名の圧力に屈して己を歪めてしまったのは、矢張り彼女自身の内面的な弱さであるように思えてならなかった。否、因果関係で云うのならば、そのような環境に置かれていたからこそ、強い意志を育むことが出来なかったのか。


 何れにせよ、少女の生き方――否、いないのであれば在り方と云うべきか――は、焔にはとても認め難いものであった。

 ただ肉体の生命活動を維持し続けるだけの虚ろな生など、機械と同じである。何某なにがしかの役割を持って稼働している分、機械の方がまだ増しだとまで云える。


 思考し続け、己の存在意義を探求し続けることこそが、真に生きると云うことなのだ。


 その理念の下、焔は自身の存在意義を確固たる矜持に代えて生きてきた。

 これは焔が長い歳月の中で確立した一つの持論だが、その論旨の対象に人間や妖怪と云った種族の隔たりはない。寧ろ、高度な知能と発達した文明を併せ持った人間の方が、よりく在るべきだと思いさえする。


 無論、それが焔の個人的な主観でしかないことは承知している。無関係な他者にその価値観を押し付ける心算はないし、同調を求める気もない。

 しかし、一時的とは云えこれから行動を共にしようとしている少女が、したる主義も主張もなく、焔の理念に反する空虚な生に甘んじていることは――況してや、その人生観を口実に卑屈な云い訳を並び立てることは、断じて我慢ならなかった。


 柄にもなく熱くなってしまったと思いはしたが、別段じるようなことでもないだろう。

 不愉快な憤りに任せて手を上げてしまったことも、結果的には彼女にとっても好い気付けになったようだ。


 改めて少女を見やる。

 少女は未だに声を上げて泣き続けている。最早その涙を隠そうとはしていない。長年彼女の胸の奥深くに鬱積うっせきこごっていたものが、涙と嗚咽となって溢れ出しているようだった。


 暫くは落ち着きそうもない。焔は小さく溜息を吐いた。


 それにしても――と、焔は思考を切り替える。


 少女の退院は焔にとっても願ってもない僥倖ぎょうこうである。状況の打開に向けて何か策を講じようにも、病院内ではその手段もかなり限られてしまう。何れは、少女の躰から出るよりも先に、病院から出る方法を考えなければならなくなると思っていた。

 それがよもやこんなにも早い段階で労せずして解決してしまうとは、幸先の良さを感じずにはいられない。これで今後の方策もある程度は指針が定まるだろう。


 先程はやや感情が先行していた為に打算的な考えなど浮かびもしなかったが、結果を鑑みれば、不慣れな真似をして少女を諭した甲斐もあったと云うものだ。


 煩わしさと引き替えに得た満足感で気が緩んだのか、目覚めてから然程さほど経っていないにも拘わらず、不意に強い眠気に襲われた。矢張りまだ少女の肉体を介して活動することに慣れていないのかもしれない。


 少女の調子が戻るのを待つ間、一眠りしていよう――そう思うよりも早く、焔の意識は深い眠りへと落ちていった。

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