弐ノ一 ほたるの憂い
「ほたるくん、近い内に退院してみようか」
焔との出逢いから一夜明け――いつも通りの回診の終わりに、唐突に二階堂がそんな言葉を切り出した。
パジャマの胸元を正そうとしていたほたるは、身を固くしてその動きを止めた。
「た、退院、ですか……」
渇いた喉から出てきた声も、ついぎこちなくなってしまう。
「あら、よかったわねえ、ほたるちゃん」「これでまた学校に行けるわね」という看護師たちの祝福の言葉も、どこか遠く耳をすり抜けていく。
「うん。もう二週間ずっと体調は安定してるし、そろそろ外での生活に体を慣らしていった方がいいと思うんだ」
朗らかに応える二階堂の顔を直視できず、ほたるは思わず目をそむける。
「あれ、どうしたの? 嬉しくない?」
困惑したような二階堂の声に、一層胸が締めつけられた。
「いえ――」
いつも通りの笑顔を作って顔を上げたつもりだったが、それが失敗していることには自分ですぐに気がついた。頬が引きつっているのがわかる。
繕う言葉が見つからずに目を伏せると、頭の上にそっと手が置かれた。
「何かあるなら、遠慮なく言ってくれていいんだよ」
優しく髪をなでる温かい掌の感触に、涙腺が緩む。これ以上二階堂たちに余計な心配をかけるわけにはいかない。涙までは見せまいとぐっと堪える。
「……少し、不安で……」
やっとの思いで震える声を絞り出して、また言葉に詰まる。しかし、それだけで二階堂は全てを理解したかのように苦笑した。
「不安な気持ちもよく分かるよ。今回の入院は結構長かったからね」髪をなでる手はそのままに、慈しむような声が少しおどけた調子に変わる。「でも、これまでに二週間一度も発作が起きなかったことなんてなかったし、もしかしたら、このまま何事もなく治っちゃうかもしれないよ。――なんて、ちょっと無責任かな」
普通、医師であればそのように無闇に患者に希望を持たせるようなことは口にしないのだろうが、二階堂はほたるのことを想い、あえてストレートに元気づけようとしてくれている。他者からの気づかいに人一倍敏いほたるには、それが痛いほどよくわかった。
「ありがとう、ございます」二階堂の気持ちに報いようと、今度こそ精いっぱいの笑顔で応える。「ちょっと、弱気になっちゃってるみたいなんです。少しだけ、心の準備をさせてください」
無理に取り繕うことはせず、胸の内を正直に伝えた。
「うん、そうだね」
ぽんぽんと子供をあやすように頭をなでて、二階堂は小さく頷く。
「今日明日中っていう話でもないし、ゆっくりいろんなことを考えてみるといいよ」
「はい。すみません、ご迷惑をおかけして……」
心の底から申し訳ない気持ちでいっぱいで、ほたるは深々と頭を下げる。
「いいんだよ、長い付き合いじゃないか。むしろ、もっと色々と頼ってくれたっていいんだからね」
「いえ、そんな……本当に、ありがとうございます」
明るく笑う二階堂に、もう一度頭を下げる。
「はは、ほたるくんはペコペコしてばっかりだなあ」
からかうような調子ではなかったが、そう言われてほたるは顔を赤くする。
「まあとにかくそういうことだからさ、今日もしっかり養生して、安静に過ごすようにね」
「はい、ありがとうござい、ま、す」
また頭を下げそうになって、咄嗟に思い留まる。
そんな慌ただしいほたるの様子に苦笑しながら、二階堂と看護師たちは病室を出ていった。
一人になってから、今の会話を
自己嫌悪に押し潰されそうで、上体を起こしているのも
真っ白な天井を意味もなく見つめていると、不意に視界が歪んだ。
ずっと堪えていた涙があふれ出して、頬を伝って枕に落ちた。
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