幕間 蠢く炎

 ――飢えが、渇きが、満たされてゆく。


 食とは、こんなにも多幸感を与えてくれるものであったか――頭を過ぎった驚愕と感心も一瞬で忘れる程、目の前の料理に惹かれてしまう。


 柔らかな部分に歯を立てると、溢れ出る熱く甘美な液体が口内を潤していく。そのまま一口大に噛み切ったものを緩慢ゆつくりと咀嚼する。柔らかくも歯応えのある絶妙な弾力が、癖になる程堪らない。そして嚥下えんか。また、満たされる。

 単純な一連の所作。今はただ只管ひたすら無心でその反復だけに没頭していたい。


 咀嚼。嚥下。咀嚼。嚥下。咀嚼。嚥下。咀嚼。嚥下。咀嚼。嚥下。咀嚼。嚥下――


 幾度かの繰り返しを経て、料理のほとんどが胃袋に収まった。名残惜しさに舌嘗め擦りをしていると、不意に視界に影が差した。


「見付けたぞ!」


 同時に背後から甲高い声が響く。この食事場――高層建築物ビルヂングに囲まれた真暗まつくらな路地裏には似付かわしくない、凛凛りりしく張り詰めた澄んだ声だった。


 振り返ると、そこにはわずかな月明かりを遮るようにして仁王立ちしている若い女がいた。年の頃を測るまでもなく、御丁寧にも学生服ブレザーを着用している。声どころか出で立ちまで、余りにもこの場には不釣り合いだ。思わず嘲りの笑みが漏れる。


「さあ観念しろ、この――」


 威勢良く声を張り上げていた少女の言葉が、急に尻窄みになった。

 暗闇に目が慣れてきたのか、それともこの狭い路地裏に充満する臭いの正体にでも気が付いたのか――いぶかしげに表情を強張らせている彼女の為に、答え合わせをしてやることにした。


 立ち上がりながら、人目を避ける為に最小限に弱めておいた力を開放する。足元から赤い炎が湧き上がり、両脚に宿る。


「ひっ――」


 炎が照らし出した光景に、少女の顔が恐怖で凍り付いた。嗜虐心と食欲を同時に刺激され、唾液の分泌量が増したのが分かる。

 折襟シャツの袖で口元を拭うと、その白い生地に赤黒い液体がこびり付いた。


 背後には、食事の跡が残っている。

 壁には激しく飛び散った赤い飛沫。地面には夥しい量の同色の液体が大きな水溜まりを作っている。所所に沈んでいるのは、僅かな肉の切れ端だ。

 鮮やかに彩られた背景の中心に横たわっているのは、首から上を残し、全身の殆どが剥き出しの骨だけになった若い女の死骸だった。


 からだを分解せずに肉を食べ切るにはかなりコツが要る。今回は中中に上手くいった方だ。食事の後で骨格標本のようになった残骸を見ると、満腹感以外にも達成感のようなものを得られた。


「な、なんてことを……」


 少女が青褪めた顔で引きった声を漏らした。嘔吐感を堪えているようにも見える。

 そんな少女を眺めていて、ふと、後ろに転がっている生ごみも、捕らえた時は同じ制服を着ていたことを思い出す。――至極、如何どうでも良い事であった。


「許さん!」


 己に喝を入れるように、少女が一際大きな声を張り上げる。同時に、学生服の胸元から何か紙のような物を取り出した。


 それを一瞥して、成程、と思う。少少面倒な相手のようだった。


 少女が身構えるよりも早く、靴の爪先で軽く地面を小突く。

 両脚に纏わり付いていた炎が猛烈な勢いで膨れ上がり、爆ぜた。

 背後の残飯が一瞬で消し炭になる。熱風に煽られて少女が体勢を崩した隙に、垂直な高層建築物の壁を素早く駆け登る。


 屋上の金網に取り付き、その上に腰を落ち着けた頃に、下の方から「逃げたな!」と云う憎憎しげな金切り声が聞こえてきた。

 顔を背けていたのか、此処まで登ってくる姿は見られなかったようだ。居場所を気取られないように、また最小限まで力を抑え込む。宙に遊ばせた脚に宿る炎が、徐徐じょじょに火勢を弱めて点火装置ライターの火程度に治まる。


 路地を出て見当違いな方向に走り去っていく少女の姿を見下ろしながら、思わずまた舌嘗め擦りをする。

 ――実に美味そうな少女であった。学生服を着る年齢にしては非常に良い肉付きをしていた。

 ただの食後の運動相手では、彼女には役不足だ。あれ程の上質な食材を喰らわない手はない。しかし、腹八分目の今では存分にその味を堪能出来ないだろう。それは余りにも惜しい。


 幸いなことに、焦らずとも餌の方が自分を捜そうとしてくれている。今後も適当に痕跡を残しておけば、いずれまた彼女の方から現れてくれることだろう。


その時こそは――

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