壱ノ五 焔の憂い

 目が覚めると、夜になっていた。


 窓帷カーテンの隙間から射し込んだ青白い月光が、細い光の筋となって真暗まつくらな病室を淡く照らし出している。


 焔は今朝の出来事を思い返し、鉛のように重たい溜息を吐き出した。

 人間の体に閉じ込められるという原因不明の異常事態。そして、少女との接触。――本当に、厄介な事になった。


 件の少女は、今は寝台ベッドの上で穏やかな寝息を立てている。大した神経していやがる、と呆れを通り越して感心さえ覚えた。


 しかし、そこで焔は思い直す。


 ――矢張りこの少女は、だ。



 彼女にとって――多くの人間にとって、妖怪とは空想の産物という認識でしかない筈だ。妖怪という単語が持つ意味合いや、そこに含まれる多種多様な分類を知っていたとしても、それは所詮創作物の範疇を出るものではない。


 妖怪である焔の観点から見ても、それは無理からぬ事であるように思える。

 数百年前と比べて、人間と妖怪が接触する機会は格段に減った。人間の文明の発展に伴い、未知が既知へと昇華されていくに連れて、信仰や畏怖に依拠いきょして力を得ていた妖怪達は数多く姿を消した。

 そういった時流の中で残った者達も、不用意に人間の前に現れるような真似はもってしなくなった。

今もなお、この人間社会の淀んだ喧騒に身を置いているのは、人間に関わる何某なにがしかの生来の役目を持った妖怪か、或いは人間を捕食対象とする妖怪だけである。

 人間の寿命は短く、今や実在の妖怪を知る者はことごとく死に絶え、その存在が巷説こうせつの話題に挙がることすらもほとんどなくなった。

 そのような状況下では、妖怪という言葉の響きが本来の意味をうしない、滑稽な創作物の一種に成り果ててしまったのも当然の結果と云えた。

 現代にいて、昔から変わることのない姿勢で妖怪と相対しているのは、精精せいぜいその調伏ちょうぶく生業なりわいとする退魔たいまの人間だけである。



 わずかに逸れていた思考を少女に戻す。


 最初の反応を鑑みるに、彼女も妖怪の存在を知らない大多数の内の一人であったことは間違いないだろう。


 しかし、それにしては事態を受け容れるのが余りにも早過ぎる。


 違和感には、接触してぐに気が付いた。


 もともと幽霊さんなのかなって思ってたくらいだし――という少女の弁が思い起こされる。あの時は深く掘り下げてもせん無い事だと思い形式的に納得した振りをしていたが、抑抑そもそも、前提として幽霊という不確かな存在を認めている時点で、彼女は彼女にとっての異常事態を肯定的に受け止める覚悟が出来ていたということだ。


 少なくとも焔の知る限りでは、人間とは未知に対してそれ程寛容ではない。現代に生きる人間にとっての一般的な感性では、非日常との邂逅かいこうを即座に享受出来るような精神的な土壌はつちかわれていないのだ。


 この少女からは驚愕や困惑の様子は伝わってきたものの、彼女にとって常識の埒外らちがいである筈の異質な存在を排斥はいせきしようとする意志は丸で感じられなかった。


 無論、人間の中には非常に順応性の高い――焔に云わせれば魯鈍ろどんな者もいるのだろう。単純に、彼女がそう云った蒙昧もうまいな人間であるだけならば、それは焔にとってもむしろ好都合だ。


 しかし、この少女は妖怪に憑依ひょういされていると云う事実にいて、一度は明確に生命の危機まで感じている。


 確かに焔は確然はつきりとその可能性を否定したが、常人であればその疑念はそう簡単に払拭出来るものではないだろう。順応性云云うんぬんではなく、それは本能的な危機感に根差す問題だ。


 更には、からだを貸せと云う要求に対する、だ。

 己の肉体を他者が動かすことを、彼処あそこまで軽軽けいけいに許容出来るものだろうか。御丁寧にも、彼女は自身の就寝中に焔が独立して活動出来ることまでも確認してきている。それを知った上で、猶もこのように無防備に眠りに就けるのは、最早暗愚あんぐを通り越して――矢張り異常だ。


 此処は癲狂院てんきょういんであったか、と懸念を抱かずにはいられない。只の小娘でも気が重いと云うのに、狂人の相手なぞ御免である。


 焔はまた一つ長い溜息をいた。先行きはかんばしくない。


 仰向けで眠っている少女の右腕を持ち上げてみる。長年車椅子を扱っているせいか、小柄で華奢な体格に比して、彼女の腕はやや筋肉質だった。その対比は、見る者にっては痛ましくも映るのだろう。

 月光を透かすように天井に向けた掌を、握り拳へと変える。仮令たとえ其処に焔の意志が宿ろうとも、人外の膂力りょりょくまでは再現することは出来まい。


 脚に至っては――このザマだ。本来の己を引き合いに出すのも莫迦ばかげている。


 果たして、この躰と折り合いを付けながら脱出の方法を探ることが出来るのだろうか――考えれば考える程に、憂慮の種は尽きない。


『――飛んだ瓦落多がらくたを引いちまったな』


 声に出して呟いた焔は、それ以上の思考を放棄して、すべての憤懣ふんまんからの解放を求めて睡魔の訪れを待った。

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