壱ノ四 邂逅
「ひぇっ!?」
突然返ってきたぶっきらぼうな反応に、ほたるは自分で呼びかけておきながら跳び上がるほどに驚いた。やはり最初に感じた通り、声の出所はどこかすぐ近くのようだった。
幽霊なのか、透明人間なのか、はたまた、ほたるの知識や想像も及ばないような全く未知の存在なのか――いずれにしろ、今相対しているのが超常的な何かであることは間違いない。
「ど、どこ? どこにいるの?」
改めてベッドの周囲を見回してみても、特に目に見える異常は確認できない。
『鈍い餓鬼だな。此処だ、此処』
「ここ、って――きゃっ!?」
突如ほたるの意思を離れて右腕が勝手に動き出し、人差し指でこつこつとこめかみの辺りを小突いた。
「……え? なに、これ……」
いきなり予想を遥かに上回る超常現象を見せつけられ、ほたるは愕然とする。
『俺はお前の中に居るんだよ』
男の声は端的かつ明確に衝撃的な事実を突きつけた。
『まあ、
言葉を失っているほたるを小馬鹿にするように、右手がひらひらと顔の前を踊る。
「や、やめてっ!」
抵抗を試みようとすると、思いのほか簡単に右腕は自律的な動きを失い、ベッドのシーツの上に落ち着いた。恐る恐る手を握ったり開いたりしてみると、特に違和感なく自分の意思通りに動いた。
「……あ、あなたは、なんなの? ゆ、幽霊、さん?」
どこに向ければいいのかわからない視線をさまよわせながら、震える声で何者かに問いかける。これまで見聞きしてきたフィクションの知識を総動員しても、結局思い浮かんだのは最も短絡的であろうその単語だけだった。
『幽霊、か。まあ人間からすりゃあ同じようなもんかもな』
返ってきた答えは、ほたるの無知をあざ笑うかのような色を孕んでいた。
改めて意識してその声を聴いてみると、たしかに鼓膜を振動させる物理的な音とは違い、脳内に直接訴えかけるような不思議な響きであることに気づかされる。
「幽霊さんじゃないなら、なに?」
含みのある返答に、少し
面倒そうなため息をひとつ挟んで、
『――俺は、妖怪だ』
気だるそうに紡がれた言葉に、ほたるはざわめき立っていた恐怖心も忘れ、きょとんと目を丸くした。
「ようかい……? 妖怪って……あの?」
『あの、ってのはどのことだよ。俺はこの妖怪以外は知らねえぞ』ほたるの間の抜けた質問に、呆れたような声が返ってくる。『
どうやらほたるが思い浮かべたもので間違いないようだ。
妖怪――日本の歴史に古くから伝わる、異形の総称である。
ほたるがたしなんでいる創作物は西洋のファンタジーにかたよっているため、国内の民間伝承であるそれらに関しては、特別造詣が深いわけではない。それでも、今例に挙がった天狗や河童など、比較的知名度の高いものであれば、名前やある程度の特徴くらいは知っている。
「妖怪って、ほんとにいたんだあ」
ぽかんと口を開けたほたるは、またどこか間の抜けた感想を漏らした。
『……
「う、うそなの?」
『
男の言葉はどうにも煮え切らない。ほたるは相手の言いたいことをなんとなく察した。
「も、もちろん、びっくりはしてるんだけどね――」呑気そうな反応ばかりしているが、ほたるとて動揺していないわけではない。「うん、と、なんていうのかな……、もともと幽霊さんなのかなって思ってたくらいだし、そういうの、ちょっとだけ心の準備できてたっていうか……」
平時でさえ、ほたるは物事をはっきりと伝えることが苦手なのだ。このあまりにも異常な状況下ではそれはより困難なことであったが、どうにか自分の考えを整理しながら、
「……そ、そんな感じ、です」
要領を得ない説明であることを自覚しながら、おずおずと消え入りそうな声で締めくくる。
わずかな間をおいて、男は短く鼻を鳴らすような声を漏らした。
『……まあ、一から
納得したのかどうか、いまいち判然としない反応だった。
『兎に角』男が仕切り直すように少し声を張る。『俺は妖怪で、今は訳有ってお前に取り憑いてる。其処までは良いな?』
「う、うん」
改めてひとまとめに説明されると、とても自分の身に起きていることとは思えない現実感のなさだ。
「――うん?」
ふと、今の言葉の中に、これまでの会話に出てこなかった表現があったことに気がついた。
『何だよ』
「あ、あなたは、わたしに、とりついてる、の?」
『今そう云っただろうが』
あっさりと肯定され、ほたるは表情を強張らせる。
妖怪に取り憑かれているという状態は、果たして自分にとってどういった意味を持つのか――乏しい予備知識から想像するに、あまり良いイメージでないことは確かだ。
じわりと掌に汗がにじむ。ごくりと一つ息を呑む。
「……そ、それってもしかして、わたしの病気をひどくしちゃおう、とか、こ、ここ、ころしちゃおう、とか、そういうこと……?」
『はあ?』
いきなり極端な例を持ち出したほたるに対し、男はやや上擦った調子ですっとんきょうな声を上げた。
『何だそりゃあ』
そんな発想すらなかったとでも言いたげな反応だ。
「あ、あれ? 違うの?」
自分の恐ろしい想像がまたあっさりと肯定されてしまうのではないかと身構えていたほたるは、肩透かしを喰った気分になった。一気に緊張が解ける。
『
「そ、そっかあ……」
乱暴な言葉を吐きかけられながらも、ほたるは安堵のため息を漏らす。
しかし、それでは何の目的があって自分に取り憑いているのだろうか。
『別にお前個人に用はねえ』ほたるの内心を見透かしたかのように男が言う。『傷が癒えるまで休憩してただけだ』
まるで想定外の言葉だった。ほたるは小首を傾げる。
「けが、してるの?」
『まあ、な――』声の雰囲気がわずかに
男の声はひどく悔しそうに、低く呻くようにつぶやいた。
「そう、なんだ……」
男の事情を知らないほたるはかけるべき言葉が見つからず、気まずそうに言葉尻を濁す。続く言葉を探しながら、そわそわと手持ち無沙汰に両手の指先を合わせる。
「その……、けがは、もうだいじょうぶなの?」
結局、話題を掘り下げる勇気を出せなかったほたるは、当たり障りのない質問で話を進めることにした。
『
短い答えだったが、声の調子が元に戻っていることはわかった。ほたるはほっと胸をなで下ろす。
「じゃあ、もう出ていっちゃうの?」
『そうしてえのは山山なんだがな……』
重ねた問いかけに、心底うんざりしたような調子の声が返ってくる。重々しいため息が一度言葉を区切る。
『――どう云う訳か、出られねえんだ』
「へ?」
ほたるは口を半開きにして首を傾げたまま硬直した。
「でられない……っていうのは、つまり?」
『詰まりも何も言葉通りの意味だろうが。出たくても出られねえ――お前の中に閉じ込められちまったんだよ』
思考が追いついていないせいでとんちんかんな質問をするほたるに対し、男は面倒くさそうな声でより正確に事実を突きつけた。
「えっ、えっ、そ、それってどうなっちゃうの? もしかして、ずっとこのままってこと?」
ようやく男の言葉の意味を認識したほたるは、今更になって
『んな訳ねえだろうが。俺だってこんな処に長居する
「そ、そうだよね」
はっきりと否定する男の言葉がとても頼もしく聞こえた。
『――だが、現状原因に就いて何一つ解っちゃいねえのも事実だ』
「そ、そうなんだ」
一瞬払拭されかけていた不安感が一気にぶり返してくる。
つまり今後の見通しについては一切不明ということだ。それくらいはほたるでも理解できた。
『一応訊いておくが、お前、何か心当たりはねえか?』
「え、ええー、そんなのないよお」
考えるまでもなく、ほたるにこの超常的な事態に関する心当たりなどあるはずもない。先ほどから、男が語る現実離れした話をただ受け入れるだけでも精一杯なのだ。
『ふん、まあそうだろうな』
呆れとも嘲笑ともつかないつまらなそうな声が返ってくる。
「ごめんね、役に立たなくて……」
『端からお前みてえな餓鬼に期待はしちゃいねえよ』
突き放すような冷めた返事に、ほたるはいじけたようにむっつりと頬を膨らませた。
「…………その、ガキって言うの、やめてほしいな」
『あ? 何つった?』
こぼすように小さくつぶやいたほたるの言葉尻に、高圧的な声が重なる。
「うぅ……」
その声音に怯んで、思わず妙な呻き声が漏れる。ごまかしたくなる気持ちを抑えて、ほたるは意を決して言葉を続けた。
「わ、わたしね、ほたるっていうの。
『お前の名前なんざ興味ねえ』
勇気を振り絞った申し出は即座に一蹴された。
『餓鬼に餓鬼っつって何が悪い』
「……だって、それ、なんだかすごくヤな感じだもん」
全く悪びれる様子もない声に、ほたるは唇を尖らせる。
「じゃあ、あなたのお名前は、なんていうの?」
『んなこと
「よ、妖怪さん、だと、ちょっと不便かなって――」
『俺はそれで構わねえよ』
「そんなあ……」
ほたるは泣きそうになった。少しでも良好な関係を築きたいという気持ちは、どうやら完全に一方通行のようだ。
「わたしは名前、教えたのにな……」
『あぁ?
「それは……そうだけど……」
ほたるが半べそで拗ねていると、不意に沈黙が訪れる。
にべもない返事の連続ですっかり心を折られたほたるは、何も切り出すことができない。ただ男の言葉を待つのみだ。
たっぷりと数十秒の気まずい間をおいて、その静寂を破ったのはわざとらしい大きな舌打ちだった。
『――
「え?」
いきなり短く何事かを告げられた。あまりにも唐突だったので、ほたるは危うく聞き逃しそうになった。
『え、じゃねえよ。俺の名前を訊いたのは手前だろうが』
苛立たしそうに早口でまくし立てると、男――焔と名乗った妖怪は決まりが悪そうにまたひとつ舌打ちをした。
「――ほむら、くん」
その名を、何の気なしにぽつりと口にする。
『おいこら糞餓鬼、手前何様の心算だ』
すぐさまひどく不機嫌そうな声が飛んできた。
「えっ、あっ、ごめんね、つい――」
『遂、じゃねえだろうが。
「あ……、そ、そっか、そうだよね」
口調や声質のせいでなんとなく年が近いように感じていたが、言われてみれば妖怪は長寿であるというイメージは確かにほたるの中にもある。
「えと、じゃあ、なんて呼べばいいかな?」
『何て、って――』
ほたるの純粋な問いかけに、焔は言葉を詰まらせた。ああ、だとか、ええ、だとか
発音の不明瞭な、意味を持たない声が漏れ聞こえてくる。
『…………好きに呼べ』
重いため息に乗せて吐き出された言葉からは、諦念のようなものがありありと感じられた。
「いいの?」
『しつけえな、構わねえよ』
「それじゃあ――」
投げやりな返答にやや困惑しながらも、ほたるは口元に手を当てて考える。
いくつか頭に浮かんだものを脳内で反芻してみる。そもそもそこまで候補が多かったわけではないが、結局ほたるの中でしっくりくる呼び方はひとつだけだった。
「やっぱり、焔くん、かな」
特に明確な理由があったわけではない。ただなんとなくではあるが、その呼び方が今の――そして今後の互いの関係に一番合っているように思えた。
「いい、よね?」
『……勝手にしろ』
焔からの返事は相変わらずそっけないものだったが、それでも少しだけ距離感が縮まったような気がして、ほたるは自然と表情をほころばせた。
『にやにやしやがって気持ちの悪い餓鬼だな。お前本当に状況
「えっ!? う、うん、わかってるよ――って、今またガキって……」
『お前が俺のことを好きなように呼ぶんだから、俺がお前を何て呼んだって構わねえだろうが』
「ええー、そ、それは……そう、なのかもしれないけどぉ……」
互いに名前で呼び合うことを受け入れてもらったつもりでいたほたるは、思わずがっくりと肩を落とした。どうやら縮まった距離は、ほたるが思っていたよりも遥かに微々たるものだったらしい。
『うだうだ
ほたるの大きな落胆を知ってか知らずか、焔は強引に話を本題に戻す。
『兎に角、今はこうなっちまった原因を突き止めることが最優先だ。諒解ってんなら手前も協力しろ』
「そんな、協力って言われても……」
無論、助力を惜しむつもりはないが、ほたるは自分にできることなど皆目見当もつかない。
『別に何も高望みはしちゃいねえ。俺の云う通りに行動して、必要とあらば体を貸せ。それだけで十分だ』
「体を、貸す?」
聞き慣れない言葉にほたるは首を傾げる。
『
「ああ――」
ほたるの顔に理解が浮かぶ。あの衝撃的なファーストコンタクトの感覚は忘れようもない。
「それくらいなら、別にいいけど」
『……良いのか?』
「え? うん、いいよ?」
問い返された焔の言葉には、わずかに戸惑いの色が含まれていた。これまでの横柄な態度とは異なる反応に、ほたるは不思議そうにまた首を傾げる。ほたるとしては提示された要求を呑んだだけで、別段おかしな返答をしたつもりはなかった。
『まあ、話が早えのは此方としても助かるがな……』
焔は歯切れ悪く言葉を濁す。
「あの――」
『何にせよ』ほたるが疑問の言葉を挟むよりも早く、焔が話題を転換させた。『行動を起こすのは明日からだな』
「そうなの?」
出かかっていた言葉を呑みこんで、ほたるは新たな疑問を口にする。枕元の時計が指し示す時刻はまだ十一時にもなっていない。さっそく午後からでも何か指示を言いつけられるものだと思っていた。
『こうして繰っ喋るのも二週間振りだからな。今日はもう疲れた』
そう言って焔は長いため息を吐きだした。今日これまでに何度も聞かされた呆れやわずらいによるものではなく、純粋に疲労を感じさせるようなため息だった。
「そっか――」
思えば、焔は今日までの二週間という決して短くはない期間を、言葉を発することもなくただじっと息をひそめて過ごしていたのだ。長い入院生活で日頃から退屈を持てあましているほたるにしてみれば、その心労は想像に難くない。他者と関わりを持つことにあまり積極的でないほたるでさえ、二週間も誰とも会話をしなければさすがに気が滅入ってしまうだろう。
「じゃあ、今日はのんびりお話でもしてようよ」
『あぁ?』
溜まっているであろうストレスを少しでも解消できればと思って持ちかけた提案だったのだが、ほたるの気づかいに反して、返ってきたのは露骨に嫌そうな声だった。
『手前は話を聴いてなかったのか。話し疲れたっつってんだろうが』
「あ、そ、そっか……」
言われてみればその通りだ。ストレス解消のために疲労を溜めてしまっては本末転倒である。明日以降の活動に差し障りがあっては元も子もない。
「じゃ、じゃあ、テレビ見る? あっ、本とか新聞もあるよっ! えと、それとも――」
『煩え!』
「ひぅっ」
鋭い喝を入れられて、ほたるはびくりと身をすくませた。思わず引きつった声が漏れる。
『指示すんのは手前じゃねえ。俺だ』
「し、指示だなんて、そんなのじゃなくて――」とげとげしい焔の言葉を慌てて否定する。「えと、お誘い、的な?」
『なら御断りだな』
一秒の間もなかった。
『今日はもう寝る。何の心算かは知らねえが、手前と遊んでやる気はねえ』
「うぅ……」
まるで取り付く島もない言い草に、ほたるは返す言葉もなくうなだれる。どうも先ほどから気持ちが空回りしてばかりだ。
『諒解ったなら手前は
「えっ、ちょちょ、ちょっと待ってよ!」
このまま会話を打ち切られそうな気配を感じて、ほたるは慌てて焔を引き止める。
『んだよ!』
「え、えと、えっと――」
舌打ち混じりの怒鳴り声に怖じ気づきながらも、ほたるは続く言葉を考える。
いまだに現状の認識が行き届いていないのだから、訊いておきたいことは山ほどある。わからないことが多すぎて、何から訊くべきなのかもわからない状態なのだ。
「そ、そうだ、焔くんって、わたしがこのまま起きてても寝られるの? わ、わたしも寝た方がいいのかなあ、なんて」
この場の会話を繋ぎとめるために、口からでまかせの適当な質問が飛び出した。
『はあ?』
短い感嘆詞の中に内包されているであろう『面倒臭えな』という言葉がそのまま聞こえてきそうな応答だった。この質問がただの時間稼ぎだと完全に見透かされている。
『だったら本読んでろなんて云わねえだろうがよ。
「あ、そ、そう、そうだよねー。あは、ははは……」
罵倒されるおまけは付いてきたものの、まともな受け答えが返ってきてくれただけまだ救いがあった。会話が成立している内に、とりあえず思いついた質問からそのまま投げかけてみることにする。
「じゃあ、逆にわたしが寝てる時でも焔くんは起きていられるの?」
『――噫、そうなるな』
「ふむふむ」
ほたるはあごに指を添えながら小さく頷く。どうにもまだこの辺りのお互いの肉体的な関係性について把握しきれていない。一つの体に二つの意識が同居している状態など、常人の想像の範疇を超えているのだから当然と言えば当然なのだが。
「見たり聞いたりとかも、わたしの体を使わないとできないの?」
『否――』考えこむように焔がわずかに言葉を詰まらせる。『この状態を言葉で説明するのは難儀だな……。取り敢えず、見聞きに関してはお前の体を介する必要はない』
「あ、そうなんだ」
どうなってるんだろう――とほたるは少し考える。
妖怪や幽霊に取り憑かれているというと、背後など身近な場所に付きまとわれているというようなイメージがあるが、焔がほたるの中という言葉を使っているからには、少なくともその認識は間違っているのだろう。
ぼんやりと考えてはみたものの、いずれにしても焔からの説明がない限り答えを得ることはできない。
当て所のない考察を諦めようとしたところで――ふと、あることに気がついた。
瞬間的に頭の中が真っ白になる。胸を打つ鼓動が急激に早まり、爆発してしまいそうなほど顔に熱が集まる。
一度その可能性に思いいたってしまったからには、もはや確認せずにはいられなかった。ほたるにとっては、もしかしたらこれまでで一番重要な問題かもしれない。
「あっ、あのっ――」思いっきり声が裏返った。「ほ、焔くんは、二週間ずっと、わたしと一緒にいたんだよね?」
『あぁ? そうだっつったろうがよ』
ほたるの様子の変化を感じ取ったのか、やや怪訝そうな調子で焔が応える。
「じゃっ、じゃ、じゃあっ、もしかして、わたしがお風呂入ってる時とか、とっ、ととっ、トイレ入ってる時とかも、一緒だったってことっ!?」
すでに半泣きのほたるが甲高く叫ぶようにしてぶつけたのは、これまでのやり取りの中でも最悪の想像だった。
これだけは是が非でも否定してほしい。頭の片隅にわずかに残った冷静な部分でこれまでの話を整理してみれば、そういった時にだけ焔がほたるから離れているような道理はないのだが、そうでなくては羞恥心のあまり死んでしまうかもしれない――ほたるは神に祈るような気持ちで焔の答えを待つ。
『あー……』
ほたるの言いたいことを察したらしい焔が、面倒そうにため息混じりの声を漏らした。返答としては、それだけで十分だった。
頭がどかんと派手な音を上げて爆発したような気がした。
「うっ、うわあああああああああんっなにそれえええええええええええええええええ」
ほたるは生まれて初めて本物の絶叫を上げた。枕に顔を埋めてベッドの上を転げ回る。本当に火が噴き出しそうなくらい顔が熱い。
『本っ当に喧しい餓鬼だな……』
絶望のどん底に突き落とされたほたるに反して、焔の態度はあくまで淡泊だった。すっかり呆れ返った調子でまるで他人事のようなことを言う焔に、さすがのほたるもふつふつと怒りがこみ上げてきた。
「ほっ、焔くんのバカっ! えっち!」
『んだと糞餓鬼!』
「むううっ」
焔の鋭い恫喝にも負けじと険しい表情で抗戦の意思を見せる。見えない相手との睨み合いだ。
『大体なあ、手前が素っ裸だろうが糞していようが此方は何とも思わねえっつーの』
「なっ、なっ――」
あまりにもあんまりな言い草にほたるは言葉を失う。
「さっ、最低っ……」
『はっ』
ようやく絞り出した涙声に、小馬鹿にしたような鼻で笑う声が重なる。
『なぁにが最低だっつーんだ。莫迦も休み休み云え』焔は息もつかせずまくし立てる。『俺は妖怪、手前は人間。
「そ、それは…………う~ん……」
そう説明されると理屈はわからなくもないが、ほたるとしてはどうにも納得がいかない。
『まあ仮に手前が畜生の糞尿に興奮するような嗜好を持ってたとしても、どの道俺には関係ねえ事だがな』
「やっ、やめてよぉっ!」
そんなとんでもないレッテルを貼られてしまってはたまったものではない。
「うぅ、もういいよ……」
焔の弁舌にいつの間にかすっかり気勢を削がれてしまった。
「でっ、でもっ、これからは絶対に見ちゃダメなんだからねっ!」
『へいへい』
「ぜっ、ゼッタイに絶対だよっ!」
『煩え! 抑抑んなもん誰が好き好んで見るか!』
「なっ、ううぅ……」
それはそれで非常に不本意な物言いだったが、見るなと訴えている立場上何も言い返すことができない。ほたるは涙目になって唇を尖らせる。
『下らねえ御喋りは終いだ。いい加減俺は寝るぞ』
「……うん、おやすみ……」
繊細な心に数々の傷を負ったほたるに、もはや焔を引き止めるような気力は残されていなかった。むしろ今は一人でそっとしておいてほしい気分だ。
焔からの反応がなくなったところで、ほたるは重たいため息を吐き出した。
改めて考えてみると、自分がとんでもない非日常に足を踏み入れてしまったという実感がようやく湧いてきた。
言葉づかいこそ乱暴ではあるものの、焔の語り口はほたるの知る今どきの若者のものとそう大差ないように感じる。会話をする上での意思疎通にも違和感はなく、先ほどのように多少のこと――ほたるにとってはこの上なく重要なことだったが――なら言い合える一種の気安さのようなものも持ち合わせている。そんな焔と接している内に、少し感覚が麻痺してしまっていたのかもしれない。
焔は、妖怪なのだ。
妖怪――ほたるはつい一時間ほど前まで、その存在を信じてはいなかった。信じる信じない以前に、妖怪とは空想の産物であると、そもそもその点を疑ってかかるような発想自体を持ったことがなかった。いわば、ほたるが読んでいる西洋ファンタジーに登場するドラゴンなどと同程度の認識でしかなかったのだ。
しかし、今確かに焔という妖怪はごく身近などこかに存在しており、ほたるに常識では考えられないような超常的な現象をもたらしている。最初の予感通り、焔との邂逅によって、ほたるの中に漠然としてあった常識や固定観念はまるごとひっくり返されてしまった。
しかし、そのことについて、特に悪い気はしていなかった。
病院という狭い世界で、本の中に広がる幻想的な風景に
先ほどは羞恥心のあまりについ言い争いになってしまったが、焔がこれから提示してくれるであろう世界の広がりを思えば、多少の不自由は些細な問題なのかもしれない。
それに、不自由さで言うならば、今は焔の方がよっぽど不便な生活を強いられているのだ。これからの共同生活をつつがなく送っていくためには、お互いに少しずつ譲り合っていかなければならない部分もあるだろう。――ほたるにとって死ぬほど恥ずかしいことであるのは変わりようもない事実ではあるのだが。
もう一度ため息をついて一人で顔を赤らめていると、ふと、割合重要そうなことを焔に訊き忘れていたことに気がついた。
「……焔、くん?」
おずおずとひかえめに呼びかけてみる。
少し待ってみても返事はない。どうやら本当にもう寝てしまったようだ。さすがに起こしてしまっては申し訳ないと思い、ほたるはそれ以上呼びかけるのをやめた。どうしても今訊いておかなければならないというほどの問題でもない。
ぼんやりと天井を見上げながら、ほたるは誰に問うでもなくぽつりとつぶやいた。
「焔くんって、なんていう妖怪なんだろう――」
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