壱ノ三 困惑と思惑

 唐突にどこかから聞こえてきた男の声で、ほたるははっと我に返った。

 きょろきょろと部屋中を見回してみても、声の主の姿は見当たらない。そもそも、この殺風景な狭い個室の中では、人が隠れていられるほどの死角など存在しなかった。


「だれか、いるの?」


 重ねた問いにも、返事はない。室内は息が詰まるほどの静寂に包まれている。何者かの姿どころか、人の気配すら感じない。

 しかし、先ほどの声はただの空耳ということでは納得できないほど、あまりにもはっきりと、確かな響きを持っていた。間違いなくこの部屋のどこかから――まるで耳元で囁かれたかのようにごく身近な場所から、その声は発せられたのだ。


 どくん、と一際大きく心臓が跳ねた。冷たい汗が頬を伝い滑り落ちる。


 ここにいたって、ようやく理解が追いついた。

 理解の範疇を超えた何かが起きているということを理解した。


 室内の異様な空気が、嫌でも二週間前の事件を想起させる。

 あの時、窓から侵入してきたであろう何者かは、――。


 今ほたるの身に降りかかっている現象は、これまでの日常の中でつちかわれてきた常識や固定概念といったものを根底から覆そうとしているのかもしれない。

 漠然とした非日常への予感に、ほたるは恐怖心とも好奇心ともつかない感情を押し殺しながら、もう一度姿に声を投げかけた。


「あなたは、だれなの?」



                  ◆



(厄介な事になりやがった)


 かすかに震えている少女の声を聞きながら、焔は頭を悩ませる。


 彼女は既に何者かが――焔が自身の近くに潜んでいるということを確信しているようだった。


 焔は今己がすべき最善の行動は何なのかを考える。

 このまま此処で息を潜めていれば、彼女やその周囲の人間がどれだけ騒ぎ立て、捜し回ろうとも、焔の存在が明るみに出ることは先ず在り得ないと断言出来る。

 しかし、これまではただ傷が癒えるのを待って身を隠していれば良かったものが、つい今し方その状況は一変してしまった。


 外に出られない――その原因を究明し、何らかの解決策を見出さねばならない。それを思えば、現状は余りにも不自由過ぎる。何より、その不確定な期間をこの窮屈な環境で過ごさなければならないという心的負荷ストレスは、想像するだに耐え難いものであった。


 思考を重ねた結果、最終的には己の精神衛生面への憂慮が決め手となり、焔は今後の方針を固めた。


(……やれやれ)


 可能であれば頭を抱えたい気持ちであったが、今の状況では、その鬱憤は言葉に乗せて発散するしかなかった。――故に、


「ねえってば、だれか、いるんでしょ?」


 誰も居ない虚空に向けて声を投げ掛け続けている彼女を、八つ当たりであることは重重承知の上で罵ることにした。


『――全く、やかましい餓鬼だ』

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