壱ノ二 焔

 耳障りな話し声で目が覚めた。


 ほむらは朦朧としている意識の中で室内の様子を確かめた。丁度、若い医師が部屋を出て行く処だった。どうやら眠りを妨げたのは朝の回診の遣り取りだったらしい。

 元来夜行性である焔にとってははなはだ不愉快な目覚めではあったが、此処を一時的な住処と定めてから早二週間――流石にこの生活周期リズムにも少しずつ順応しつつあった。


 氷室病院入院病棟五〇三号室――それが、今の焔にとってのねぐらだった。いや――正確には、部屋の中のが寝床となっていた。色彩を欠いた無機質な空間は叫びたくなる程に居心地が悪かったが、文句を云えるような立場にも状況にもないことは、焔自身が一番諒解わかっている。元より、この部屋は自分に宛がわれている訳ではないのだ。


 焔は――本来の部屋の主である少女の様子を窺う。今し方診察を終えたばかりの少女は、茫然ぼんやりと定まらない視点を窓の外に向けていた。



 この二週間で、焔は彼女に就いて様様な事を知った。


 名は猫宮ほたる。年齢は十六歳。儚げな雰囲気をまとった内気で気弱な少女――というのが、焔が彼女から受けた大まかな第一印象だった。

 生来の病気が原因で、幼い頃からこの病院に入退院を繰り返しているらしい。その病はこれまで確認されたことのない全く未知のものらしく、未だに治療の目処も立っていないようだった。病気の影響で足腰が弱く、移動に際しては常に車椅子を使用していた。


 彼女は基本的に一日のほとんどを寝台ベッドの上で過ごしており、やることと云えば、部屋に備え付けてある受像機テレビを漫然と眺めているか、何かしらの小説を読んでいるくらいだった。どうやら西洋の幻想文学ファンタジイが好みのようで、病室に何冊も溜め置きしている分厚い上製本ハードカバーに毎日熱心に読み耽っていた。


 親族を始めとする彼女の周りの人間関係にいて焔が窺い知る機会はなかったが、少なくとも、二週間の間に彼女の見舞いに来た人間は一人も居なかった。偶偶たまたま親族や友人知人が来られない時期が重なってしまったという可能性も否定は出来なかったが、恐らくはこれが彼女にとってのつねなのだろう、と焔は思った。彼女と接する医師や看護師達から、何処どこか同情的な気遣いのようなものを感じたからだ。


 彼女自身が己の境遇をどう思っているのか、焔には能く判らなかったが、対外的に明るく振舞おうと努めている様子は瞭然はつきりと見て取ることが出来た。病室に独りで居る時は陰鬱な溜息を漏らすことも多多あったが、医師や看護師、他の患者と接している際にそういった態度を示すことは絶対になかった。


 物憂げな表情で独り重たく溜息を吐く彼女と、曖昧な笑顔で何かに媚びるかのように人当たり良く会話に応じる彼女――その二面性を垣間見た焔は、餓鬼の癖して難儀な性格してやがる、と淡泊な感想を抱いた。


 彼女の境遇を不憫に思わないこともなかったが、いずれ焔にとっては無関係と割り切って差し支えのない人間の事情であり、別段それ以上心を動かされるようなことはなかった。

 抑抑そもそも、彼女に関する情報とて知ろうとして得たものではなく、で二週間を過ごしたことで自然と入ってきたものなのだ。元より、彼女に対する興味は皆無に等しかった。もっとも、この二週間、すべての行動――声を発することすらも制限された状況下で、焔の唯一の暇潰しが彼女という人間の観察であったことは事実なのだが。



 ともあれ、そんな彼女との或る種のにも、ようやく終わりの時が訪れようとしていた。


 医師による加療こそ受けないものの、焔が此処に身を置いていたのは、この病院という場所に最も即した目的――すなわち、怪我の療養の為であった。


 二週間前――あの嵐の夜に負った傷。此処に逗留とうりゅうすることを余儀なくされた忌忌しい傷。焔は舌打ちしたい気持ちを抑えながら、その具合を確認する。まだ本調子とまでは云えないが、生命活動に支障を来す程の異常は感じられない。一先ずはそれだけで十分だった。


却説さて、と……)


 改めて少女の様子を窺う。彼女は未だに心此処に在らずといった様子で、窓の外の一点をただ凝乎じつと見詰め続けている。

 少女のもとを去るのであれば、夜を――少なくとも彼女が眠りに就く時を待って動くべきだということは諒解っていた。しかし、焔は一刻も早くこの状況を脱したかった。


 しばし思考する。仮に姿を見られたとして、自らの足で立つことさえもままらない彼女が、焔の行動を阻害することなど出来る筈もない。し人を呼ばれればまた騒ぎにはなるだろうが、その時には既に焔は此処には居ない。そして二度とこんな場所に寄り付くこともないだろう。


 少し許り悩みはしたものの、そういった打算的な考えの上に、焔は本の僅かな危険性よりも己の欲求を優先させることを選んだ。


 此処から脱け出すのに、物理的な動作は必要ない。意識を集中し、水に融け込んだ肉体を一から再構成するような心象イメエジを思い浮かべる。それだけで、この窮屈な仮住まいから出ることが出来る――


(……何?)


 焔はぐに異変を察知した。思い描いた心象が霧散する。或る一定の境界線ラインを越えようとすると、何かに弾かれるかのように元の場所に引き戻されてしまう。


 脱出を試みて初めて気が付いた。

 

――外に出られない。


莫迦ばかな、どう云うことだ』


 想定外の事態に、焔は思わず声を上げた。直後に、しまった、と思う。


「……だれ?」


 その問いを発したのが誰なのかは、確認するまでもなく明らかだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る