壱ノ一 猫宮ほたる

 目が覚めてまず視界に飛び込んできたのは、もうすっかり見慣れた――それでいてどこか居心地の悪さを感じる真っ白な天井だった。


 猫宮ねこみやほたるは、眠い目を擦りながら緩慢な動きでベッドから上体を起こした。枕元の時計に視線を落とすと、時刻は午前九時を少し回ったところ。洗顔と歯磨きのためにベッドを出ようとしていたほたるは、少しだけそれらを先送りにすることにした。もうすぐ午前の回診に担当医師がやってくるからだ。


 氷室ひむろ病院入院病棟五〇三号室――それが、今のほたるにとっての自室だった。白い天井、白い壁、白いベッドシーツに白い枕――そして、ベッドのかたわらには無骨な車椅子。無機質な冷たさをたたえた殺風景な部屋の中で、枕元のラックに置かれた色鮮やかなフラワーアレンジメントだけがひどく不釣り合いだ。過剰な潔癖さに気疲れしてしまうような空間だが、一人部屋なので誰に気兼ねすることもなくくつろげることが唯一の救いだった。


 ほたるはいつものように枕元のポーチから折り畳み式のくしを取り出すと、寝癖で乱れた髪を丁寧にとかし始めた。細く柔らかい毛質の色素が薄い髪は、軽く歯を通しただけですぐに綺麗に整った。肩甲骨の辺りまで伸びた後ろ髪を肩越しに前に流し、白いリボンで二つに結わう。

 ほたるが手鏡で身だしなみの確認を済ませたところで、タイミングよく病室のドアがノックされた。「はい」と短く応じると、スライド式のドアがゆっくりとレールの上を滑った。


 女性看護師を二人率いて病室に入ってきたのは、白衣を着た、黒縁眼鏡の若い男だった。


「おはよう、ほたるくん」


 男は白い歯を見せながら、気さくな調子でほたるに朝のあいさつを投げかけた。


「おはようございます」


 ほたるは白衣の男――自身の担当医である二階堂にかいどうあきらに向かってぺこりと軽く頭を下げる。


「どうだい、体調に変わりはないかな?」

「えと、はい、おかげさまで」


 答えながら、ほたるはまた頭を下げる。


「そうかそうか、それは結構」


 二階堂はからからと明るく笑って、つむじを向けているほたるの頭を少し乱暴になでた。ついさっき整えたばかりの髪がまたくしゃくしゃに乱れてしまったが、彼の掌から伝わる温もりは心地よく、嫌な気持ちにはならなかった。


「先生、そんな風にしたらほたるちゃんがかわいそうですよ」


 されるがままになっていたほたるを見兼ねたのか、看護師の一人が背後から二階堂をいさめた。


「おっと、こりゃ失礼」


 二階堂は少し大げさな素振りでほたるの頭から手をどける。


「せっかくこんな綺麗に髪を結ってるんですから。ねえ、ほたるちゃん」

「いえ、そんな……」


 同意を求めるような看護師の言葉に、ほたるは少し反応に困って曖昧にはにかんだ。それを照れ隠しとでもとらえたのか、看護師は苦笑しながら血圧計の準備作業に戻った。ほたるがあらかじめ看護師の前に右腕を差し出しておくと、すぐにその上腕にカフが巻きつけられる。


「最近はだいぶ容体も落ち着いてるみたいだね。体温、血圧、脈拍、ここ数日はどれも異常なし。うむ、素晴らしい」


 二階堂はカルテをめくりながら、わざとらしく大仰に頷いてみせた。


「その様子だと今日も大丈夫そうだしね」

「はい、ほんとに、おかげさまで」


 血圧測定を受けながら、ほたるは柔らかい笑顔で応える。彼の言葉通り、ここしばらくは病状が安定しており、比較的落ち着いた生活を送れていた。

 最後にひどい発作を起こしたのは、ちょうど二週間前の激しい嵐の夜のことだった。当時のほたるの病室は、現在の五〇三号室からは少し離れた五〇九号室だった。その日は、夕食をとった直後から喀血かっけつをともなう咳が止まらず、鋭い胸痛と呼吸困難で何度も意識が途切れた。日付が変わる頃に完全に意識を失ってしまったのだが、朝になって目を覚ますと、前日の苦痛が嘘のように発作は治まっていた。


「――うん、今日も問題ないわね。じゃあ次、検温するからねー」

「はい」


 ほたるは看護師の指示に従って、受け取った体温計を服の中で腋に挟んだ。そうしながら、あの朝のことを思い起こす。

 あの日――あの事件のことを。



 まだ空が白み始めたばかりの時間に意識を取り戻したほたるは、極端な体調の変化に戸惑いつつもベッドから上体を起こした。窓の外を見ると、前日あれだけ荒ぶっていた嵐はもうすっかり治まっていた。風雨は収まり、空には雲もほとんど残っていなかった。


 まるで自分の病状をあらわしているようだ――などと考えていたほたるは、ふと、窓のサッシ部分に泥が付着していることに気がついた。

 怪訝に思って窓の周辺を確認してみると、窓際の床には明らかに雨風が吹きこんできた痕跡があり、向きから考えて外から侵入してきたとしか思えないような形で何者かの足跡がはっきりと残されていた。


 それを見た瞬間、ほたるはさあっと血の気が引くのを感じた。病室は建物の四階に位置している。外壁には伝ってよじ登れるようなものも取りつけられてはいない。その窓から建物に侵入することはまず不可能なはずだ。

 ほたるは起き抜けの頭で自分を納得させるような説明を考えたが、考えれば考えるほど、状況の不可解さ、不気味さは増すばかりだった。やがて、自ら結論を出すことを諦めたほたるは、震える手でナースコールを押したのだった。


 その日、氷室病院は大変な騒ぎとなった。病院側の通報によってすぐに警察がやってくると、それにともなってほたるは空き部屋だった五〇三号室へと病室を移された。警察から形式的な事情聴取も受けたが、一晩中意識を失っていたほたるに証言できることなど何ひとつなかった。 

 その後も、警察による院内の探索や、医療器具や薬剤に異変がないかなどの確認作業が行われたが、結果として五〇九号室の足跡以外には院内に不審な点は発見されなかった。被害状況の確認が済むと、警察は見張りの警官を数名だけ院内に残し、昼過ぎにはそのほとんどが引きあげていった。実害が出ていない以上、入院患者の精神面への配慮を優先すべきだと病院側が判断した結果だった。


 ほたるは後になってテレビのニュースで知ったことだが、病院が騒ぎになっているのとほぼ同時刻に、氷室病院のすぐ近くのオフィスビルの屋上で、損壊遺棄された男性の遺体が発見されていた。そのため、二つの事件を関連付けて考える者が入院患者や病院関係者の中に続出し、いたずらに騒動を大きくしていた。噂によると警察も当初はその関連性を追っていたらしいが、院内に一切の変化がないことで、その線を見限ってすぐに捜査方針を別の方向へと変えたようだった。


 結局、それ以降も院内で何かが起きるようなことはなく、氷室病院を一時騒然とさせた不可解な事件は、早くも患者達の記憶から薄れ始めていた。一応の当事者であるほたるも、しばらくは得体の知れない気味の悪さを感じながら生活していたが、丸二週間経った今となっては、そのことについて深く考えることもほとんどなくなっていた。唯一、目にする度に事件を思い起こさせる見回りの制服警官も、今週いっぱいでその任を解かれようとしていた。



 ――あれって、結局なんだったのかなあ。


 ほたるはぼんやりと考える。やはり不思議に思わずにはいられない。あの一件は、全ての謎が謎のまま残っている。ある意味で唯一の被害者ともいえるほたるとしては、あまり気持ちのいいものではない。院内でまことしやかに噂されている遺体損壊遺棄事件との関連性について考えてみたこともあったが、そもそもそちらの一件に関してはニュースで報じられていること以外何も知らないので、どんな推理も結局は憶測止まりだった。


 思考をさえぎるように小さな電子音が鳴る。ほたるは腋から体温計を抜き、液晶パネルの表示を確かめた。


「三十五度六分、です」


 やや低体温気味な体質のほたるにとっては、至って平熱といえる体温だ。


「この調子なら、退院してまた学校に通える日も近いかもしれないね」


 二階堂はにっこりとほほえんで、またほたるの頭に手を置いた。先ほどの看護師の言葉を意識しているのか、少しぎこちないなで方だった。


「そう、ですか……」


 ほたるは小さく応えて、わずかに視線を伏せる。意識がこの場から離れていくような奇妙な感覚。学校――その言葉がずいぶんと遠く感じた。


「ん? どうしたの?」

「あっ、いえ、その――」はっと我に返ったほたるは慌てて顔を上げた。「は、早く学校、行きたいなあ、って……」


 繕った笑顔と言葉。ほたるは自分のこの表情があまり好きではなかった。そして、心の奥でそう感じていながらも、この便利な愛想笑いにすぐ頼ってしまう自分自身が、少し嫌いだった。


「そうだね。しっかりと身体を休めて、さっさと治しちゃおう」


 二階堂はまた笑顔になって、ほたるの頭から手を離した。


「じゃあ、夕方になったらまた回診に来るからね。もし何かあったらすぐに呼ぶんだよ」


 ほたるを気遣うようにそう言葉添えすると、二階堂は二人の看護師と連れ立って病室を出ていった。


 ドアが閉まり足音が遠ざかると、病室にひとりの静けさが戻ってくる。


「学校、か――」


 ほたるはどこか遠くを見るような目で、窓の外の景色をただぼうっと眺めた。

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