第5話「過去との邂逅」

  ◆ ハンプティ・ダンプティ


 四ツ谷駅で電車に乗った。電車に揺られながら平原光ひらはらひかるはメールを確認する。

 アラートが届いている。登録キーワードを含むニュースが登場すれば、知らせるように設定しておいたものだ。

 桜小路恵海さくらこうじえみ。彼女の名前を含むニュースの記事。

 光は、リンクを開いて記事を読む。

 ――女子高生プログラマーが、CTOとしてベンチャー企業に参画。

 会社の名前はプラチナバリュー。予想していた展開だ。画面をスクロールして先を読む。プラチナバリューが仕掛けるビジネスを見て、光は思わず声を上げて驚いた。

「どうしましたか、平原くん」

 横に座っていた来栖九地くるすきゅうちが声をかけてくる。先ほど道を歩いていたときから、だいぶ経っている。九地の表情は、いつものように穏やかな状態に戻っていた。

「九地さん、このニュースを見てください。ジラフさんの狙いが分かりました」

 スマートフォンを渡して記事を読んでもらう。九地の顔に驚きの色が浮かんだ。

「なるほど、これが狙いでしたか」

 唸るような声が九地の口から漏れる。

 ICO――イニシャル・コイン・オファリング。日本語に訳すなら、新規仮想通貨公開。新しい仮想通貨を発行し、それを多くの人に購入してもらい、資金を得るという資金調達の一手法だ。

 株を上場して公開するのとは違い、まだ実績を上げていない企業でもおこなえる。そして、独自のルールで、多くの人たちから資金を集めることができる。

 単なる資金調達に留まらず、そのビジネス主体とシナジー効果を発揮できるなら、将来有望の投資先と判断して、大量購入する者も出てくる。

 スマートフォンを返してもらった光は、ニュースの内容を要約する。

「トランクに独自仮想通貨を導入して、決済に利用するつもりみたいですね。無名だけど実力のある専門家に、ネット経由で仕事を依頼できる決済手段として用いるようです」

「小さなコミュニティで流通する通貨――地域通貨のようなものですね。意味のある仮想通貨の使い方だと思いますよ」

 九地の言葉に、光はうなずく。

「女子高生CTO。インフルエンサーによって支持されているトランクというサービス。ビジネスとして稼働しそうな専用仮想通貨。

 見た目だけは、まっとうですよ。きちんとビジネスを成長させるのならば、一定の市場を得られると思います」

「ええ、正しく伸ばすつもりがあるのならですがね。

 問題は、このビジネスを仕切っているのが、ジラフだということです。彼は、高く持ち上げた卵を落とすことに、喜びを見出す人間です。そして表には出ず、縁の下の力持ちを演じようとする。ジラフは、桜小路さんを広告塔として、全てを回そうとするでしょう」

「そうなれば、世間の非難は一人に集中します。桜小路先輩に」

「耐えられるでしょうか彼女は。まだ高校生にすぎない桜小路さんが、この先起きる苦難を乗り越えられるでしょうか」

 九地の言葉は重い。

 先輩が、そんな苦難を負う必要はない。

 光は、桜小路先輩やトランクのことを検索する。大きな話題になっている。大人たちは無責任に絶賛している。そのうちの何割かは、フェイクニュースやボットなのだろう。世論を操作する機械的な書き込みを利用しているはずだ。

 ジラフは、人の信用を操作する術に長けている。彼は情報技術の力を借りて、自身の能力を拡張している。そして、より大規模に世間を誘導しようとしている。

 光は、桜小路先輩のことを考える。

 無数の人からお金を集めて、資金を抜き取る。先輩は傷つくだろうが、絶望にはいたらないだろう。

 彼女はあくまで技術屋だ。世間に対して済まないと思うが、それ以上の感情は抱かないのではないか。他者を気の毒に思うとともに、自身も被害者だと考え、心を慰めるのではないか。

 お金が理由では、桜小路先輩の心は壊れない。

 自分がジラフなら、どうやって桜小路先輩の心を破壊するか。

 攻撃者の思考を探ることは、防御の基本だ。攻撃の目的や手法が分からなければ、根本的な対策を立てることはできない。

 自分自身が作ったプロダクトで、直接人々を傷つけさせる。

 そのためには、積極的に開発に取り組ませないといけない。決済ページを、外部に飛ばすような手法では駄目だ。

 何よりも桜小路先輩の書いたコードの量が重要だ。トランクの深部まで、仮想通貨が浸透するように、彼女自身が知恵を絞り、プログラミングしなければならない。

 光はエミペディアを開く。ログの解析は対策の基本だ。桜小路先輩とジラフが会った直前に遡り、何が起きたのか情報をたどる。

 疑問に思った行動に行き当たる。

 先輩は、部室のパソコンに、USBメモリを差していた。何かをインストールしているように思えた。それはおそらく、ホテルで会った相手からもらったものだと想像した。

 なぜ、部室のパソコンに?

 自分のノートパソコンに入れればよいのではないか。

 わざわざ、部室のパソコンにインストールしたのはなぜなのか。

 光は考える。

 自分のノートパソコン以外の場所に、入れる必要があったからだ。

 通信。クライアント用ソフト。二つ以上のパソコンが必要だった。

 桜小路先輩が、もらったもの。彼女の作ったウェブサービスに、まだ備わっていない機能。プラチナバリューに参画することで実現した新サービス。桜小路先輩は、トランクと仮想通貨を結びつけるための開発に取り組んでいた。

「あっ」

 ジラフの本当の絵図が分かった。

 仮想通貨は、ウォレット――財布――と呼ばれるソフトウェアをインストールすることで、自分の手元でも管理できる。

 未知の実行ファイルをパソコンに入れさせるには、二つの方法がある。一つはセキュリティホールを突くこと。もう一つは配布元を信用させることだ。信頼してインストールしたソフトにウイルスが混入していれば、多くの人が無防備に感染する。

 全員がウォレットを導入するとは限らないが、新し物好きの人間たちは面白がって入れるだろう。

 攻撃対象は、ネットで大きな金額の取り引きをしている人たちだ。被害は、ICOで購入した仮想通貨の金額に限られない。被害金額は青天井になる。

 そのウォレットの核になる部分だけもらい、外側のユーザーインターフェース部分を自分で実装したらどうだろうか。それは自分の作ったソフトになる。自分が開発したソフトウェアが多くの人を傷つければ、桜小路先輩は自身を強く責めて絶望する。

「九地さん」

 光は自分の考えを語る。

 九地は、目を大きく開けてうなずいた。

「平原くん。部室のパソコンは、部員なら誰でも使えるのですか?」

「はい。先輩がいつもいる席のパソコンも、ログインできます」

「ソフトを入手してください。その内容を私が解析します」

「分かりました」

 光は、このあとの予定を組み立てる。

 電車が停車した。まだ目的地ではないのに、九地が立ち上がる。

「先に戻り、部室のパソコンを調べておいてください」

「九地さんは?」

「引き返して、調べたいことがあります。ショックの大きさに、重要なことを忘れていました」

「何を調べるんですか?」

「登記簿です。会社の代表が変更されたのならば、ジラフの現住所が分かる可能性があります」

 九地は背を向けて、電車を降りた。

 扉が閉まり、発車する。九天きゅうてんに連絡しようとして電話する。保留になった。どうしたのかなと思うと、メッセージが届いた。

 ――今、授業中。

 そうだった。今日は学校をさぼって来た。光は、今回の件の背景に、九地の宿敵のジラフがいること、そして桜小路先輩は、学校のOBとしてジラフを信じていることを、メールで知らせる。

 乗り換えのために東京駅で降りたところで電話が鳴った。九天からだ。電話を受けると、大きな声が耳に響いた。

「おにいちゃんは!」

「登記簿を取りに行った。直接電話をかければいいじゃないか」

「何度もかけたわよ!」

 焦りに満ちた声が耳を震わせる。

 連絡がつかないことの意味が分かり背筋が凍る。九地は、ジラフの居場所を突き止めて復讐しようとしている。九天はそのことを警戒しているのだ。

「引き返す」

「お願い。おにいちゃんを止めて!」

 努力すると答えて、光は再び電車に飛び乗った。



  ◆ 能力の輪郭


 電車を降りて、反対のホームに立った。連絡を絶つために、九地はスマートフォンの電源を切る。

 引き返す電車が来るのを待ちながら九地は考える。頭に浮かんでいるのはジラフのことだ。

 高校時代の親友。そしてベンチャー企業時代の同士だった男。

 ジラフに初めて会ったのは、高校一年のときだ。同じ学年だったがクラスは違った。図書部に入ったことで、彼のことを知った。

 九地が図書部に入ったのは自然な流れだった。軍学者の家系で育った九地は、幼い頃から漢文や古文を読んでいた。受験勉強で目にするような本ではない。兵法や軍学の書物。そうした生活を送っていたため、本に囲まれるのが当たり前だと思っていた。

「きみは本のにおいがするね」

 初めて語りかけられたジラフの言葉だ。図書部で知り合ってから数日のあいだ、彼は九地に話しかけてこなかった。他人との会話をじっと聞く。そうした態度を取り続けた。

 ――本のにおいがするね。

 その台詞で、九地はジラフに引き込まれた。

 彼にはそうした嗅覚があるのだろうか。九地は、ジラフから目を離せなくなった。そして、彼を特別な存在だと感じるようになった。

 全てを知った今ならば分かる。ジラフは九地の話す内容から、情報を集めていたのだ。何でもないような会話でも、丁寧に情報を組み合わせれば、相手の素性や内面を探ることができる。当時の九地が、本に耽溺していることを、見抜いての言葉だったのだろう。

 彼は他の生徒の心も、そうした手法でつかんでいった。しかし、功を奏する相手と、奏さない相手がいた。

 早瀬あかりは後者である。彼女は理解者を必要としていなかった。裏表がない早瀬には、内面と外面の差がなかった。だからジラフに、特別な何かを感じなかった。

 ジラフは、そうした結果を楽しんでいた。自分の能力の輪郭を確かめる。彼は自覚的に、自分とは何かを探ろうとしていた。

 高校時代、ジラフはもてた。美しい外見、的確なやり取り。女性たちの多くはジラフに心を奪われた。しかし彼は誰とも付き合わなかった。九地は、その理由を聞いたことがある。

「適切な距離を保つ練習をしているんだ」

 九地にはジラフの答えが理解できなかった。しかし今なら分かる。ジラフは、人の心をどうコントロールするか、実験していたのだ。

 高校二年生のとき、九地は進路に悩んだ。漠然と、家系の軍学を研究するのだと思っていた。文学部。それも史学科。しかしそれでは食えない。そもそも現代に軍学は求められていない。いったい誰と戦うのか。そうした悩みをジラフに相談した。

「今の時代、きみは情報工学に向いていると思う。論理的思考という奴かな、それと内的世界に没頭できるのが、きみの強みだ」

 まるで考えていなかった進路だった。少し興味を持ち、図書館の本を読んでみる。すぐにプログラムを書いてみたくなった。蔵書管理のコンピュータを利用して、簡単なプログラムを作成した。

 ジラフは、他人の能力を的確に計量できる才能を持っていた。また、適切に言語化できる能力も有していた。グループに一人いれば、メンバーの力を増進させてくれる。九地の目には、ジラフはそうした人物に見えた。

 ベンチャー企業を立ち上げたい。社会人数年目に、仲間たちで準備を始めた。開発者だけでは、いずれ行き詰まる。経営や営業、広報ができる人間が必要になる。開発者と社会を繋ぐ、ハブとなる人材が欲しかった。

 最初、九地はジラフのことを忘れていた。高校を卒業して長い時間が経っている。その後多くの人間を見て来た。

 ジラフを思い出したのは、両親の葬式で地元に戻ったときだった。地元の友人たちに多くあった。ジラフには会わなかったが、その噂を聞いた。コンサルタント会社で働いている。既にいくつものビジネスを成功に導いている。

 ジラフと連絡を取ってみよう。メールアドレスは知らなかったので、彼の実家に電話をかけた。ジラフの親は、息子に知らせると約束してくれた。その日のうちに折り返しの電話があった。「両親の件は聞いたよ。残念だったね。話を聞こう。前向きに検討するよ」ジラフは、優しい声で言った。

 会社の末期を思い出す。社内は荒れ果てていた。床にはゴミや食べ物が転がっていた。髭を剃らず、服を着替えない者が多かった。目の焦点が合っていない者もいた。ちょっとしたことで怒号が飛び交った。

 その中で一人だけ、清潔でスーツ姿のジラフは、奇妙な存在だった。彼は慈母のような態度で、人々を慰めていく。悲しみや苦しみを訴える社員たちの言葉を、涙とともに聞く。そうした姿が作られたものだとは、当時の九地には分からなかった。

 ある日、九地はジラフに声をかけられた。

「ありがとう、ナイン。僕は今、貴重な体験をしているよ」

 苦境の中で、親友が笑顔を浮かべて言う。この悲惨な境遇を、貴重な体験と言ってくれている。

 すまないジラフ。九地は思った。ありがとうジラフ。そうも考えた。九地は、ジラフの心の広さと優しさに、感じ入った。

 しかし、全てを知ると、その言葉の意味は裏返った。

 ――ありがとう、ナイン。僕は今、貴重な体験をしているよ。

 ジラフは笑顔でそう言った。嘘偽りなき気持ち。本心の吐露。その言葉は、真の喜びから出た言葉だった。


 扉が開き、電車に乗る。座席に座って発車を待つ。

 考えては駄目だ。感情を殺すんだ。妹の許可なく怒ってしまった自分を戒める。決断は妹に任せると決めている。

 自分を暴走させないための仕掛け。ジラフを前にしても、その仕掛けは正常に作動するのだろうか。

 可能なら、見つからないでくれ。そうであれば、落胆こそすれ、我を失うことはないだろう。

 自分はジラフに会いたいのか、会いたくないのか。

 九地は、自分の心が分からなかった。



  ◆ 電脳鑑識


 電車で移動するあいだに、九地がどこで登記簿を確認するのか当たりをつけた。

 東京法務局新宿出張所。大久保駅を出て三分。電車を降りた光は、大通りの切れ目を抜け、その先の建物に飛び込んだ。

 もう出たあとかもしれない。建物内を探し回ると、白いシャツに緋色のサスペンダーが目に入った。

 九地だ。急いで駆け寄り、逃がさないように腕をつかむ。

「平原くん?」

 驚きながら九地は光を見下ろす。

「九天に言われて追ってきました。電話が繋がらないと言われましたので。いったい、どうしたんですか」

 少し考える仕草をしたあと、九地は苦い笑みを浮かべた。

「心配をかけたようですね。大丈夫ですよ。誰にも邪魔されず、静かに考えたかっただけです。武器を持って襲いに行こうというわけではありませんから」

 安心させるように九地は言い、スマートフォンを出して電源を入れた。

「ジラフさんの住所は」

 九地は首を横に振る。

「会社の代表はジラフではありませんでした。別の人物の名前が書いてありました」

「偽名ですか?」

「いや、おそらく名義貸しですね。住所を調べたところ、シェアハウスがヒットしました。今から行ってみますが、ジラフはいないでしょう。そして確定しました。ジラフは、この商売を長く続ける気はありません。仕掛けを成立して、桜小路さんが苦しむ姿を見れば、再び闇の中に消えるでしょう」

 九地は、念のためにシェアハウスに寄ってみるという。そして、光には学校に向かうように言う。

「本当に、大丈夫ですか」

「安心してください。そして九天にも、心配をかけてすまなかったと伝えてください。ジラフがいないことを確認すれば、すぐに事務所に戻ります。たとえいたとしても、武器を持って襲いかかったりしませんよ」

 九地は、ゆっくりとした足取りで歩き始める。

 光も並んで建物を出た。九地の言うように、ジラフはシェアハウスにいないだろう。

 簡単にはたどり着けないのか。あの男は今どこにいるのか。光は駅に引き返し、電車に乗った。


 横浜の駅に着いた。コインロッカーに預けていた制服に着替えて、学校に向かう。

 並木道の向こうに校門が見えてきた。この時間から登校するところは、先生たちに見られたくない。校門から入れば、運動場を突っ切ることになり、校舎から丸見えになってしまう。

 道路に面した、ネットの破れた場所を知っている。そこから潜り込んで、勝手口を使い、建物の中に入る。

 先生に会わないように注意しながら、廊下を移動する。部室の前まで来た。鍵は持っている。部員たちは、おのおの勝手に複製を作っている。電脳部のセキュリティはざるだ。

 部室に入り、一番奥のパソコンを起動する。パスワードは部内で共通だ。データも盗み放題だし、ウイルスも入れ放題だ。安全よりも利便性を優先した運用。セキュリティの専門家が見たら、卒倒しそうな状態になっている。

 椅子に座り、エクスプローラを開く。日時を絞り込んで、その時期に作成されたファイルを探す。

 ウォレットという英単語が入ったパスが見つかった。どうやって持ち出すか考える。

 このパソコンは、ウイルスに感染している可能性がある。

 USB経由でインストールしたプログラムは、アカウントやパスワードを盗む挙動をするかもしれない。もしそうなら、データ転送用のサービスへのログインは、危険な行為だ。

 机を離れて棚を探す。どこかにUSBメモリの一つぐらいは落ちていないかと思い、引き出しや箱の中を調べる。

 見つかった。挿入してデータを移す。採取した検体をポケットに入れて席を立つ。扉をそっと開けて、廊下を窺った。誰もいないことを確認して、部室を出た。


 セキュリティを突破されて汚染されたマシンは、除染する必要がある。

 一つの方法は、ウイルス除去ソフトで、問題の発生した部分を修正することだ。もう一つの方法は、OSを初期状態に戻してクリーンな状態にすることだ。

 二つの方法のうち、より強力なものは後者だ。ウイルスは一つだけではないかもしれない。思わぬところに、自身のコピーを残しているかもしれない。ウイルス自身が、セキュリティの穴を新たに作っていることもある。除去ソフトを稼働させるだけでは、完璧な対策にならないこともある。

 中身をリセットして、きれいな状態に戻す。しかし、それは機械での話だ。

 人間の場合はどうだろうか。信用を欺かれて、犯罪に巻き込まれる。心を改竄されて、不具合を引き起こす。人間では、心を初期化することはできない。

 信用を欺かれて心に侵入された者は、心にセキュリティホールを開けたまま、人生を送ることになる。

 カルト教団の洗脳被害者と一緒だ。危険思想にかぶれて、反社会的活動に手を染めた人と同一だ。だから、大事にいたる前に、救出する必要がある。

 エスポワールにたどり着き階段をのぼると、二〇一号室の扉の前に、九天が座っていた。

 外で待つことになるだろうと思っていた光は驚く。

「待ってたの?」

「中に入っていたら、あんたが来ても気づかないから」

 確かにそうだ。中に誰もいないと思っているから、ノックもせずに外で待っていただろう。

 九天が扉を開けて、二人で部屋に入る。

 まだ九地は戻って来ていない。室内は静まりかえっている。折り畳み椅子を出して座り、九天に今日のことを伝える。九天は熱心に光の話を聞いた。

「驚いたわ。那珂さんが絡んでいたとは」

「ジラフさんのことを知っているの?」

「おにいちゃんのベンチャー企業時代に、何度か会っている。おにいちゃんが信頼していた人。そして、おにいちゃんを地獄に叩き落とした腐れ外道」

 吐き捨てるように九天は言う。

「九地さん、武器を持って襲いかかったりしないって言っていたけど、大丈夫かな」

「分からない。少なくとも私なら、あの男を許さないけどね」

 そうだろう。九地は激しい裏切りを受けた。どんなに警備が厳重な家でも、自ら敵を招き入れれば、セキュリティは突破されてしまう。

「今日の件は仕方がないわ。それと、シェアハウスに那珂さんはいないと思うわ。問題はこれからよ。この先、おにいちゃんと那珂さんを二人きりにしては駄目。何が起きるか予想できないから」

「分かった」

 いざとなれば自分が止める。腕力には自信がないが、死に物狂いでやれば何とかなるだろう。

 しばらくすると、九地が帰って来た。シェアハウスには、やはりジラフはいなかったそうだ。

 九地は、九天が学校をさぼったことを知り、小言を言う。九天は不満顔をした。

「ソフトの方は、どうでしたか」

 光は、USBメモリを九地に渡す。

「ちょっと待っていてください」

 九地は奥の部屋に行き、いつもとは違うノートパソコンを持ってくる。OSを起動したあと、仮想マシンを立ち上げた。

「念には念を入れておきましょう」

 USBメモリのデータを移して、仮想マシンの中で実行する。こうしておけば、仮想マシンの外のOSやファイルに、ウイルスが感染することはない。挙動を確認したあと、仮想マシンを初期状態に戻せば、きれいに対象を消すことができる。

「監視を始めます」

 九地は、プログラムを実行する。黒い背景のウィンドウが現れて、文字列が次々に表示される。

「ウイルスの挙動を調べるための自作ツールです。攻撃を検知して報告するソフトですよ」

 九地は光のために説明してくれる。

「バックドア、キーロガー、盗聴、盗撮。スクリーンショットも、定期的に送っています。

 LANで繋がっているパソコンも危険です。部室のパソコンは、全て初期状態に戻した方がよいでしょう」

 いつものノートパソコンでウェブブラウザを開き、九地はIPアドレスを調べる。ウイルス満載のソフトが、いったいどこと通信しているのか、突き止めようとしているのだ。

 IPアドレスの持ち主はフィリピンの会社だった。ブロックチェーンソーというふざけた名前のところだ。会社名を検索する。仮想通貨に関する技術を有していると謳っている。

 ジラフは以前、アジア圏のベンチャー企業と裏で繋がり、資金のキックバックを得た。彼は、アジア圏にルートを持っている。その中には、直接やり取りしているところもあれば、間接的にアクセスしているところもあるはずだ。

 あの狸親父が。心の中でラングモックの岩田を罵倒する。岩田はフィリピンに太いパイプがある。あのおっさんも、一枚噛んでいるんじゃないのか。知らないと言っていたが怪しい。あいつは裏の人間とも付き合いがある。ジラフの分け前に与るつもりだったのだろう。

 九地が光に顔を向ける。

「ジラフ本人以外は、全てのカードが出そろいました。残るは、桜小路さんを、ジラフから引き剥がすこと、そしてジラフ本人を捕らえることです」

「でも、どうやってやるんですか?」

 光にはその方法が分からない。

「前者は直接説得を試みる。後者は桜小路さんに協力を依頼する。

 桜小路さんが求めれば、ジラフは彼女に会うでしょう。全ての仕掛けが成立するまでは、彼女の信用を保ち続ける必要がありますから」

 それは分かる。問題はどうやって、それらを実行するかだ。

「桜小路先輩を説得する方法はあるんですか?」

 九地は、光に指を向ける。

「説得するのは、きみですよ、平原くん」

「えっ」

「証拠は全てそろえました。説得可能なはずです」

「でも」

「信用が足りないですか?」

「そうです」

「平原くんの日常は、九天から聞きました。きみは、桜小路さんをながめているだけのようですね」

 光は沈黙する。

「いいですか、平原くん。観察者でしかない人間は、信用されることはありません。傷つくことを恐れず、自ら関わろうとした者だけが、真の信用を勝ち得るのです。

 人は、自分のために何かをしてくれる人を身近に感じます。利益をもたらしてくれる相手に、心の扉を開くのです」

 理屈は分かる。しかし現実は違う。嫌われるかもしれない。ながめるだけならば、リスクはない。傷つくこともない。

 九地は安心させるように口元を綻ばせる。

「大丈夫です、平原くん。きみは、信用されるだけのことをしていますよ。切っ掛けはともかくとして、あなたは桜小路さんのために奔走していたのですから」

 優しい声をかけ、九地は大きな手を、光の肩に載せてきた。


 九天とともに学校に戻った光は、部室に隠れて、放課後になるのを待った。二人で椅子に座り、今回の事件について語り合う。

 終業のチャイムが鳴った。九天を残して、光は部屋を出る。ホームルームが終わり、職員室に向かうあかり先生を捕まえて、部室へと同行してもらった。

 少しでも自分の言葉の説得力を高めたい。あかり先生に、援護射撃をしてもらいたい。

 経緯を話す。あかり先生は驚く。電話をかけて九地に繋いだ。あかり先生に直接説明してもらった。

 根も葉もない話ではない。実在の人物の話。

 来栖九地という電脳探偵。那珂麒麟という犯罪者。

 あかり先生は、二人のことを高校時代から知っている。

 光と九天とあかり先生。三人で待っていると部室の扉が開いた。

 三つ編み眼鏡の桜小路先輩が、部屋に入ってくる。

 肩から鞄をかけた先輩は、小首を傾げた。奇妙な取り合わせだと思っているのだろう。彼女は、不思議そうに僕たちを見つめた。

「あかり先生、何かあったんですか?」

「みんなで準備室に行きましょう」

 あかり先生は立ち上がり、全員を促す。桜小路先輩はきょとんとしたまま、素直に従った。


「そんなの嘘よ」

 説明を聞いたあと、桜小路先輩は否定の声を上げた。

 光は、先輩の姿を観察する。唇が震えている。血の気が失せている。体は硬く、石のようだ。指先は服の端を強くつかんでいる。

 気持ちは分かる。自分の目の前にあるものが、全てまやかしだと、言われているようなものだ。信じたくない。その思いが心を支配しているだろう。

 説得のための材料は九地にもらっている。

 プラチナバリューについての調査。ブロックチェーンソーが開発したウォレットの挙動。

 それらをまとめたレポートを、印刷して持って来ている。

 レポートを、桜小路先輩に渡して読んでもらった。読み終えた先輩は力なく、本当なの、とこぼした。

「全て本当です」

「彼が、こんなことをするはずないわ」

 ジラフの信用は、真実より重いのか。そして、真実を提示した自分の信用は、それほどまでに軽いのか。

「資料を信じるに足る、過去の行動があります。QLN――那珂麒麟は、この学校の出身ですよね」

「そうよ」

「彼のことを、桜小路先輩よりも知っている人がいます。那珂麒麟の同級生で、同じ部活に所属していた人が、僕たちの身近にいるんです」

「それは、誰なの?」

「一人はあかり先生。もう一人は、九天のお兄さんの九地さん」

 先輩は、あかり先生と九天を見比べる。二人はうなずいた。

 新たな事実の登場。外堀を埋められていき、先輩は迷うように目を動かす。彼女は逃げ道を探しているのだろう。ジラフに繋がる信用の糸を、懸命にたどろうとしているのだ。

 光は説明を続ける。

「那珂さんが、過去に立ち上げに関わったベンチャー企業というのは、九地さんがかつて参加していた会社です。九地さんが仲間たちと起業するときに、那珂さんを呼んだのです。

 那珂さんはそこで、周囲を破滅に追いやりました。その結果、会社は崩壊して、多くの人が心に傷を負いました。

 彼は狡猾な人物です。元凶が自分だとは気づかれないように行動しました。しかし、九地さんが突き止めたんです。会社が倒産したあと、独自の調査をおこない、事実を探り当てました。

 先輩の前に現れたQLN、那珂麒麟は、情報技術に精通した詐欺師です。桜小路先輩は、騙されているんです」

「嘘、嘘よ」

 桜小路先輩の声はかすれている。唇は青紫になっている。顔は白い。視線はさまよっている。コントロールを失ったラジコンヘリのように、彼女は頼りなく体を揺り動かしている。ジラフへの信用の糸は、あと少しで切れそうだ。

「平原くん。資料、もう一度見ていい?」

「どうぞ。技術的詳細で不明な点があれば、電話をかけますので、九地さんに直接尋ねてください」

 桜小路先輩は、一文字ずつ丹念に資料をたどる。目には涙が浮かんでいる。表情は崩れている。信用とは、これほどまでに残酷なのかと光は思った。

 先輩は呼吸を整えようとする。最初のページの半ばまで読んだところで頬が濡れた。二ページ目に入ったところで目元をぬぐった。その先は、溢れる涙で読めなくなった。桜小路先輩は、机に顔を埋めて、泣き声を漏らした。

 信用の糸が完全に切れた。騙された事実を、先輩は受け入れている。痛みを伴う離別。準備室に、高校二年生の少女の泣き声が響く。

 光は、憧れの女性が嗚咽する姿を見下ろす。光は、かける言葉もなく、彼女をながめるしかなかった。



  ◆ 観劇


 桜小路先輩に一通のメールを書いてもらった。

 ――個室があるホテルのレストランを予約しました。二人でICO発表のお祝いをしたいです。

 QLNを誘い出すためのものだ。

 桜小路先輩は傷心のまま、頼みを遂行してくれた。

 前回と同じホテルコルチェスター。最上階のレストランが予約を取った場所だ。


 ICOのお祝いをしたい。

 桜小路恵海からメールが来た。信用を維持するために、彼女の望みを叶えなくてはならない。那珂麒麟は、電車で移動して横浜まで来た。

 既に夜になっている。駅前の照明が、人々の足元に影を落としている。

 那珂は駅を出て、雑踏を歩き始める。

 すれ違う人々が足を止め、彼の姿を見る。男性は驚きの顔。女性は憧れの顔。昔からそうだ。自分はなぜか人々から注目される。心の中身とは関係なく、絶対の信用を向けられる。

 ゆっくりと歩きながら那珂は考える。洒脱な服装。優雅な動き。均整の取れた肉体。美しい容貌。表情。目線。声。体臭。全ては人の心を動かすサインとなる。人の心を開かせる道具となる。

 那珂は子供時代を思い出す。周囲の人間たちは、勝手に自己の理想を、彼に投影した。

 女性。恋愛。好きだという告白。愛しているという言葉。

 彼の前には長い列ができた。那珂の体は一つしかなく、全員を満たすことはできなかった。要求を受け入れるためには、別離が必要だった。

 彼女たちは、那珂が別れると言うと絶望した。彼女たちは、那珂に心の全てを明け渡していた。信用という手綱を渡し、無残に断ち切られることで心を壊した。

 人間は生きていく上で信用が必要だ。それを裏切り続けては、この社会では生きていけない。

 信用を維持したまま生きていく。そのために、那珂は自らを偽った。信用の抑制。トラブル防止のために、女性との交際を控えた。生きていくために、心も振る舞いも制御した。

 しかし、一つだけ大きな問題があった。

 欲望。

 どうやら、自分はそれを持っているらしい。

 食欲や睡眠欲。排泄欲や性欲。そうしたものと同じように、絶望欲とでも言うべきものが、心の中にあった。

 人が絶望にいたる姿を見たい。

 ――交際を終えると言った瞬間、泣き崩れる表情。

 人の感情が弾ける瞬間は、なぜかくも美しいのだ。

 人は落差に感動する。映画や小説もそうだ。高く掲げた卵が落ちて、割れる瞬間に心を動かされるのだ。

 ――全米が感動した映画。日本中が泣いた小説。

 那珂はそれらに触れてみた。しかし、何の感動も見出せなかった。スクリーンを通した偽物。紙とインクによる模倣物。本物が見たい。舞台の前に椅子を置き、たった一人の観客として、本物の役者による、真実の絶望劇を鑑賞したい。

 しかし、そんな都合のよい公演はなかった。那珂の人生は、幕が上がることなく、ゆっくりと進む。彼は、信用を身にまとった真空だった。何の楽しみもない人生を送っていた。

 機会は突然訪れた。

 親友からの誘い。ベンチャー企業という舞台。自分のために用意された演劇。その特等席に座らないかと声をかけられた。

 ありがとうナイン!

 那珂は感動した。

 全力を尽くして脚本を書くよ!

 親友のために決意した。

 自らが舞台の一員になることで、最良の席に座れる。那珂はナインから学んだ。自分を満たすために、どうすればよいのかを教えてもらった。女性との離別の、何億倍もの感動があることを知った。

 そして始まった観劇人生。

 今は、桜小路恵海という役者と舞台に立っている。彼女の名演に期待して、脇役を演じている。

 彼女は孤高の存在だ。強い自負を持っている。そして周囲から孤立している。

 桜小路恵海の信用を一身に受ける。そして傷つく彼女を最良の席からながめる。絶望にいたった彼女はどうなるだろうか。まだ幼い卵は、これまで以上に美しく割れてくれるだろうと思った。


 その日、桜小路先輩は来なかった。レストランの個室には、大人の九地とあかり先生が控えることになった。

 最初、光と九天も個室に入ると主張した。しかし、これは大人同士の話だからと、外で待つように言われた。二人は、入り口近くの席で見張る係となった。ジラフが来れば、個室の九地に連絡する。そして、もし逃げ出したなら取り押さえる。そうした役目だ。

 光は九天と机を囲み、ちょろちょろと入り口を見ている。光はオレンジジュース、九天はブラックのコーヒーを飲んでいる。

「ねえ、九天。僕の腕力でジラフさんを取り押さえられるかな」

 不安だ。自慢ではないが喧嘩で勝った試しはない。喧嘩を売ることはないので、吹っかけられるか巻き込まれるかだ。いずれにしても敗北しか味わったことがない。

「大丈夫よ。スタンガンを持ってきたから」

 九天は、ポケットをぽんぽんと叩き、物騒なことを言う。彼女の目は本気だった。最大出力で電撃を食らわせるつもりなのだろう。九天は、兄を苦しめた相手を逃がす気はないようだ。自らの手で制裁を加えたいと思っているのだろう。

 光は入り口に目を移す。宿泊客や恋人たちが時折出入りする。

 まだジラフは登場しない。いつ来るのかと思う。

 一人の男が現れた。ハンドルネームはチーリン。略称はQLN。ジラフというあだ名もある。本名は那珂麒麟という。

 その男は、軽やかにジャケットを羽織っていた。モデルのような体型に姿勢。自信に溢れた表情。誰もが羨む美しい顔。それは信用が服を着て歩いているようだった。

 光はスマートフォンを操作して、個室の九地に素早く連絡を入れる。

 ジラフはレジの前に行き、予約の部屋を尋ねる。店員に案内されて店の奥を目指す。

 扉が開けられた。ジラフは個室の中を見て、動きを止めた。

 部屋の中に、約束していた桜小路恵海はいない。代わりに、高校時代の友人二人が待っている。同じ図書部に所属していた男女だ。

 ジラフは、その一人である来栖九地の人生を壊して、多額の金を手に入れた。

 立ち止まっていたジラフは、部屋に入り、後ろ手に扉を閉める。

 光は立ち上がり、個室の入り口まで移動する。扉に耳をつけた。店員に注意されるかもしれない。しかし、中で何が話されるのか聞きたかった。

 懸命に耳を澄ませていると、耳に何かを突っ込まれた。音が聞こえる。慌てて振り向くと九天がいた。

「盗聴器を仕掛けておいた。席で待つわよ」

 扉を名残惜しそうにながめたあと、光はテーブルに戻る。

 雑音と声。イヤホンを通して、個室内の会話が聞こえてくる。

「――おかしいな。ここは同窓会の会場だったかな?」

 初めて聞くジラフの声は、低く官能的で相手を落ち着かせるものだった。

「ジラフ、今日この場所に、桜小路さんは来ない。いや、今日だけではない。彼女は、きみの計画から下りたんだ。多大なる心労とともにね」

 九地の声だ。いつもの口調とは違う。怒りを抑えているのか、一語一語が芝居のようにはっきりしている。

「那珂くん、聞いたわ。なぜ、来栖くんを裏切ったの。そして桜小路さんを傷つけようとしたの」

 あかり先生の声だ。まだ信じられない。そうした心情が声から分かる。

「そうか、ナイン。きみは僕のしたことを知ったんだな。残念だ。よい友人関係だったのに」

 沈黙が続く。中で何をしているのだろう。物音がする。椅子を動かして座ったようだ。

「なぜ裏切ったのか、なぜ傷つけようとしたのか。ナイン、きみなら分かるだろう」

 再び声が聞こえた。ジラフの声は確信に満ちている。

「どういうことだ」

 重くすごみのある声を九地は返す。

「風の噂で聞いたよ。ナイン電脳探偵事務所。トラブルを解決するという名目で、悪人と断じた相手に鉄槌をくだしている。裏社会の人間の中には、そうした話を把握している者もいる。

 きみがやっているのは正義でも何でもない。ただの私刑だ。きみは、きみのやり方で人生を楽しんでいる。ナイン、きみは他人が滅びる瞬間を見る快感を知っている。執行者としての自分に酔っている」

「違う!」

 怒りの叫び。その声は個室の外まで聞こえてきて、店内が一瞬静まりかえった。

 鼻にかかったジラフの笑い声が、イヤホンを通して響く。

「ナイン。きみは感染したんだ。僕の行為を知った瞬間、世の中にそうした悦楽があると理解してしまったんだ。

 きみは壊れたから力を振るっているんじゃない。新しい思考方法を、行動様式をインストールされたから、そのように振る舞っているだけなんだ」

 ジラフの声は断定的だ。九地は否定も肯定もしない。無言のまま沈黙の時間が流れる。

「ジラフ。この件から手を引け。桜小路恵海を解放しろ」

「仕方がない。そうするしかないだろうね。仕掛けは見破られたようだからね。今から再び彼女の信用を勝ち得るのは、骨が折れることだと思うよ」

 暇つぶしのチェスに敗れた。そう言いたげな口調でジラフは言う。

 椅子の音が聞こえた。誰かが立ったのだ。おそらくジラフだろうと想像する。

「退散するよ」

「昔のよしみで見逃してやる」

「やれやれ、大損だよ。いろいろな人間に動いてもらった。後払いで巻き込んだ裏社会の人間もいた。しばらくは潜伏しないといけないだろうね。愚痴ぐらいは言わせてくれよ」

 個室の緊張が、イヤホンを通して伝わってくる。沈黙ほど重い感情表現はないのだと実感する。

「いいのかい。僕を暴力で痛めつけてもいいんだぜ。力を振るい、相手を壊す快感を、思う存分解放してもいいんだぜ。

 きみが僕を傷つける様子は、早瀬くんの目に、脳に、記録されるだろ。そして彼女も知る。人が壊れるさまを目撃するということが、どれほど楽しいことかを」

 九地は必死に怒りを抑えているのだろう。身を切られそうな気持ちになる。

 再びジラフの声が聞こえる。

「ネット社会になり、人は手軽に力を手に入れられるようになった。そして、誰にも気づかれずに、それを使えるようになった。結果、少なからぬ人が、無関係な他人をこっそりと傷つけて楽しむようになった。

 ナイン、きみもそうした人を多く見てきたんじゃないかな? きみが断罪した人間の多くは、そういう人間たちだったんだろう? 他人が壊れるさまを見るのを、楽しんでいた者たちだ。

 先ほど僕は感染と言った。しかし、それは正しくないだろうね。人には初めからそのプログラムが入っている。あるタイミングで実行されるだけなんだ。そしてそれは、大きな快楽を伴う。僕はそのことに気づいたんだ。

 さあ、僕を傷つけるがいい。そして、早瀬くんのスイッチを押したまえ。きみも僕のようなエバンジェリスト――伝道者になるんだ」

「出て行け! 二度と俺の前に現れるな!」

 九地の叫びが聞こえる。苦しんでいる声。ばらばらになりそうな心を、必死に繋ぎ留めているのが分かる。

「違うでしょう、那珂くん」

 震えるような、あかり先生の声が聞こえた。

 高校時代をともに過ごした友人たちが、目の前で悲劇を演じている。その様子を間近で見たあかり先生は、心をすり減らしている。

「あなたは、エバンジェリストなんかではないわ。人に思想を感染させる力もない。だってあなたは、中身がない人だから――」

 あかり先生の声のあと、長い沈黙が下りた。三人は、どういった表情をしているのだろうか。個室の外にいる光には、その姿を見ることはできない。

 足音が聞こえた。誰かが動き出したのが分かる。

 扉が開いた。何事もなかったように、ジラフが優雅に出てきた。傷つく心も、悩む心もないように見える。空虚な人間。彼は個室に、表情を忘れてきたようだった。

 逃げようとすれば拘束する。そう九地と約束していた。しかし九地は、立ち去るようにジラフに命じた。暴力を振るわず、ことを収める方を選んだ。

 ジラフは逃げているのではなく、ただ帰っているのだ。

 あまりにも当たり前といった様子で歩くジラフを、光は追いかけて捕まえることができなかった。

 光だけでない。九天もそうだ。スタンガンまで用意して殺気立っていたのに、毒気を抜かれたように呆然としている。

 男が机の横を通る。ジラフの姿を間近で見ると、彼が罪を犯すはずがないと、脳が誤認した。九地の頭の中でも、同じことが起きていたのだろう。だから暴力を振るえなかったのではないか。

 真実に勝る信用。脳をバグらせる存在。ジラフは、信用の権化のようだった。

 ジラフが消えたあとも、レストランの入り口をながめ続ける。しばらくすると、背後から肩を叩かれた。

 九地とあかり先生が立っていた。二人の顔は紙のように白い。自分たちは勝ったのだろうか、負けたのだろうか。光は、何が正しいのか分からなくなった。

「これでよかったんでしょうか」

 素直な感想を漏らす。

「平原くん。きみが、桜小路さんを守ったんだよ」

 九地は険しい顔のまま、疲労を交えた声を漏らした。



  ◆ 笑み


 放課後。高校の電脳部の部室。中央には事務机の島があり、その上に十台のデスクトップパソコンがある。

「えー、面倒くさいなあ」

 翔が、口を尖らせて声を上げた。

「部室のパソコンを全部出荷状態に戻して、ソフトをインストールし直すから」

「それ、どれぐらいかかるんだよ。そのあいだ、曲を弄れないだろう」

 不満を口にしているのは翔だけではない。他の部員も、かんべんしてくれよという顔をしている。

 しかし、この部屋にあるパソコンは全て、汚染されている可能性がある。広く世の中に知られていないウイルスだから、ウイルス対策ソフトでも除去しきれないかもしれない。

「じゃあ、全部初期化するから」

 光は部員たちを説得して、パソコンをクリーンにする作業をおこなった。

 この数日、桜小路先輩は学校を休んでいる。今回の件が、よほど心にこたえたのだろう。

 昨日、九天とあかり先生と一緒に、お見舞いに行った。先輩の両親は、娘に起きたことを把握していなかった。先輩は家で、ほとんど親と話さない生活を送っていた。

 身近に、気軽に相談できる相手がいなかったのだ。だから、信用できる大人が現れたときに、すぐに心を許してしまった。先輩の顔色はよかった。そろそろ学校に復帰すると言っていた。

 お見舞いの席で、桜小路先輩は教えてくれた。プラチナバリューへの参画を解消する。そうした内容のメールを、取材を受けた全てのメディアに送ったと。

 桜小路先輩の社会的信用は、今回の一件で大きく落ちただろう。しかし、どこかほっとしたようだった。重圧から解放されたように、表情は穏やかになっていた。


 部室のパソコンをクリーンにした翌日、桜小路先輩が登校した。部活にも顔を出した。これまでとは違い、開発に没頭するのではなく、電脳部の仲間たちと雑談を交わした。思うところがあったのだろう。

 光も、どうでもいいことを話した。ネットのニュースのこと、ユーチューブのこと、話の内容は偏っていたが、先輩は楽しそうに聞いた。

 光は今、学校の屋上にいる。

 本来は鍵がかかっているのだが、九天が開けてくれた。広い空が見たい気分だと言ったら、先生の誰かを脅したようで、鍵を持って来てくれた。

 光は空を見上げる。

 頭上には青い空が広がっている。

 ずっと見ていると飲み込まれそうになる。小さな画面ばかりを見ていると味わえない開放感。その気持ちよさを満喫する。

「九地さんはどう?」

 視線を九天に向けて尋ねた。

 ジラフと会った直後、九地は憔悴していた。ずっと復讐を考えていた敵。その相手と会い、何もせず逃してしまった。悔いているのかもしれない。怒っているのかもしれない。どちらにしろ、心は穏やかではないはずだ。様々な感情が、火花のように心の中で暴れているだろう。

 九天は、扉近くの壁に寄りかかり空を見上げる。

「落ち着いたわ。たぶん、後悔していると思う。ずっと憎んでいたから。でも、あれでよかったんだと言っている」

 九地は、自分の意思で自分の行動を決めた。妹に委ねることなく選んだ結果。それは自らの責任で受け入れるしかない。

 二人で空を見る。雲はわずかしかなく、晴れ渡っている。

「ぴかりん、ありがとうね」

 九天の言葉に、不意を突かれて彼女の姿を見た。

「今回の件で、おにいちゃんは一歩前に進めたと思う。復讐以外の選択をしたことで、変われるような気がする」

 九天は、兄妹の過去を語ってくれた。

 兄の心を守るために、全ての重荷を一身に背負っていた少女。

 彼女は、重荷を少し下ろしたのだ。わずかではあるが、そのことで救われたのだ。

 光は九天を見る。彼女の態度から分かった。九天は光を信用して、こうした話をしたのだと。

 ――信用。

 僕は、信用に値する中身を持っているのだろうか。誰かを助けることができるのだろうか。

「本当に、ありがとう」

 九天が微笑んだ。ぎこちない笑みだったが、光に心を許しているのが分かった。

 胸の奥に、灯りが点る。自分の頬が、わずかに上気したことに気づく。

 光は笑みを返す。

 九天が笑った。

 この学校で彼女の笑顔を見たのは、僕が初めてだろう。そう思うと九天のことが、とても愛おしく感じられた。


 了

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ハッピー・ハッキング・ハイスクール 雲居 残月 @kumoi

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