第3話「事件の発端」

  ◆ プロローグ的何か 信用について3


 最近、ずっと考えていることがある。信用とは何かということだ。

 僕は信用されやすい。九天きゅうてんという少女は、女子のあいだで信用がないらしい。

 この不思議な信用という存在は、二人以上の人間がいた場合に発生する。信用は非対称だ。人を信用しているからといって、信用されるわけではない。逆に、誰も信用していない人が、絶大な信用を得ることもある。

 信用は絶対的な値ではない。相対的な値だ。個別のノードとして計測される。そして、集団的な価値を持つ。

 芸能人のように、多くの人が知っている人間は信用される。周囲の人が信用している人物も、信用される。一度も会ったことがない相手でも、人は心を許す。

 情報社会では、多くの人が顔を合わせずに繋がっている。そして信用の網を張り巡らせている。

 信用をデザインすることは、情報社会では必須の能力だ。それを使いこなせる人間は、他人の心や行動を操れる。



  ◆ 人間信用順位


 白い壁で覆われた部屋の中央には、事務机が並んでいる。その上には十台のデスクトップパソコンがあり、電脳部の部員たちが自由に使っている。横浜の進学校。コンピュータサイエンス部。部室の机の島の奥には、三つ編み眼鏡の二年生が座っている。

 彼女が主に利用しているのは、部室の共用パソコンではない。自分で持ち込んだノートパソコンだ。彼女は、プログラムの腕でお金を稼いでいる。バイトに寛容なこの高校では、そうしたことは咎められない。僕の女神である桜小路恵海さくらこうじえみ先輩は、今日も真剣な顔で、自身のウェブサービスの改良をおこなっている。

 部室でパソコンに向かう平原光ひらはらひかるは、そっと顔を上げて先輩を見る。

 先輩のネット上の名前は、PRUNUSSEAだ。名字の桜に、名前の海。桜は英語ではなく、学名のサクラ属である。

 性別は公言していないが、高校生であることは知られている。小学生の頃から、いろいろと作っているので、開発者の中では、知る人ぞ知る存在になっている。

 小学生時代からウォッチしている人ならば、PRUNUSSEAが女の子だと把握している。中学校に入ってから、性的なメッセージを送りつける大人が出てきたために、性別を公表しなくなった。悲しいことだが、そういう大人がいるのだ。

 彼女が避けようとしたのは、性的なメッセージだけではない。勘違いした大人も拒絶しようとした。

 プログラムの書き方を教えてやる。企画を与えてやるから指示どおりのものを作れ。エディタはこれを使え。開発ツールは、これ以外は許さない。

 ――若くて未熟な少女を、俺が導いてやる。

 アイドルのストーカーと同じだ。

 光は、入部後に調べた先輩のことを思い出す。

 先輩も、最初からすごいソフトを作っていたわけではない。小学生の頃の作品は、簡単な学習ゲームだった。それでも、同年代で同じレベルのプログラムを書ける子供は少なかった。彼女は、小学生向けのコンテストで入賞して、文部科学大臣に表彰されている。

 中学生になった桜小路先輩は、ウェブサービスの開発を始めた。サーバーの無料枠を利用しての参入だ。コンピュータを持ち、ネットに繋がる環境さえあれば、大人と同じことができる。彼女は、ネット時代の申し子だ。

 最初に作ったサイトには、人があまり集まらなかった。しかし、学生の特権である時間を用いて、次々とサービスをリリースして経験値を溜めていった。

 高校生になってから、数個のウェブサービスを売却して、百万円以上稼いだ。彼女が使っているノートパソコンは、そうしたお金で得たものである。既に親からお小遣いをもらう時代は卒業している。欲しいものは自分の資金で購入する段階に入っている。

 先輩が最近力を入れているのは、自身が開発した『ヒューマン・トラスト・ランク』というウェブサービスだ。

 略称は『トランク』。日本語に訳すなら『人間信用順位』といったところだ。

 ある分野における信用度を可視化したサービス。ネットのインフルエンサー何人かが話題にしたことで、ユーザーが増えて、サービスとして軌道に乗りつつある。

 トランクの仕組みはシンプルだ。利用者はユーザー登録する。そして、質問を送ったり、質問を受け取ったりする。

 サイトに登録した直後は、ランダムに既存ユーザーの質問が届く。誰からの質問かは分からない。送った方も、誰に届いているのか知らされない。質問が届いたユーザーは、答えても答えなくても構わない。

 質問は複数の人に送られる。質問者はいくつか回答をもらい、内容を見てそれぞれ点数をつける。その情報をもとに、AIがユーザーの得意分野をカテゴライズしていき、人物の重要度を評価していく。そして、徐々に最適な質問が届くようになる。

 最終的にユーザーは、特定分野のエキスパートであると人工知能に保証され、周囲に示される。各種分野の信用度が可視化されるのだ。

 様々な人に送った回答は、点数の集計が終わったあと公表される。その文章がコンテンツになり、検索エンジンから人が流入してくる。ネットには、トランクを応援するコミュニティができており、サービスの普及に一役買っている。

 トランクを開発、運営しているPRUNUSSEAは、三十代、四十代の開発者や経営者とも、物怖じせずに渡り合っている。

 光は、ノートパソコンに向かう桜小路先輩をながめる。

 彼女の見ている世界は、高校という小さなものではない。そうした目の肥えている先輩に、自分が信頼されるのは難しいと感じている。

 高校生同士の恋愛が成立するのは、狭い閉じた世界の中で、互いを認識しているからだ。もし、選択肢が広がれば、同年代を選ぶ必要はなくなる。最も価値ある相手を、パートナーにすることができる。

「おい、ヒカル。おまえ、また先輩のことを見ているのか?」

 横から声をかけられて、慌てて顔を向けた。

 親友の須崎しょうだ。金髪ピアスのモテ男。女子からの人気は、学内で三本の指に入る。DTMに凝っていて、パソコンを使うために電脳部にも籍を置いている。小学校時代から行動をともにしており、光が桜小路先輩を好きなことを知っている。

「急に声をかけるなよ。びっくりしたじゃないか」

 光は、自分が上の空だったことを棚に上げて、文句を言う。

「今日も、ヒカルの女神様は開発で忙しいご様子だな。それでおまえ、告白はしたのかよ」

「しないよ」

「じゃあ、先輩のことは諦めたのか?」

「諦めちゃいないよ」

 自分では釣り合わない。そう思っているだけだ。

「そうか。桜小路先輩のこと、諦めたと思っていたぞ」

「何でだよ」

 光は毎日、エミペディアに桜小路先輩の記録を取り続けている。そうした光が、彼女のことを諦めているわけがない。

「でも、おまえ、最近嫁ができたと評判だぞ」

「えっ? 嫁ってどういうこと」

 光は、ぽかんとした顔をする。

「来栖と一緒に下校して、彼女の家に入り浸っている。周囲には公認のカップルだと思われているぞ」

「いや、それは違うんだ」

 彼氏彼女の仲ではないんだと、必死に説明する。その声をわずらわしそうに聞いたあと、翔はぽんぽんと光の肩を叩いた。

「何事も経験だ。高嶺の花に憧れ続けるのもいいけど、経験を積むことも大切だぞ。そういうお年頃だからな。発散しなきゃ、溜まったものは」

 指で卑猥な形を作った翔に、そんなことしないよと、顔を赤くして言う。

「まあ、エミペディアなんか作って、ストーカー行為をしているよりは、よほど健全だと思うぜ」

「うっ」

 痛いところを突かれて押し黙った。

 二人で小さな声で話していると、桜小路先輩が、手を止めて立ち上がった。一番奥の席を使っている先輩は、入り口目指して歩き始める。

「先輩、開発は順調ですか?」

 近くまで来たので声をかける。少しでも会話しようと思い、トランクのことを話題にする。

「うん。新しい機能の要望が多く来ているんだけどね。全部実装したら、支離滅裂なサービスになってしまって、メンテナンス性も落ちるでしょう。だから悩んでいるの。

 シンプルさを維持しながら、絶えず改良されているように感じてもらう。それって難しいなあと思っている。今はね、そうしたことを考えながら、ちょっとした使い勝手を、ひたすらよくしているの。

 ねえ、平原くんも開発しよう。プログラミングの勉強もしているんでしょう。面白いよ」

 先輩は、眼鏡の奥の目を輝かせながら言う。

「いやあ、僕は先輩みたいに高度なプログラムを書けませんし」

 勉強しているといっても、駆け出しのプログラマーというレベルだ。RPGなら、レベル一か二ぐらい。ハローワールドの呪文を唱えて、ファイル入出力でセーブやロードができて、コピペでデータベースを召喚できるぐらいだ。少し複雑な処理になると、何がどうなっているのか分からなくなる。

「大丈夫よ。私がやっているのは、全然高度なことじゃないもの。計算量を厳密に考えて、処理を書いているわけじゃないし、新しいアルゴリズムを考案して論文を書いたりしているわけじゃないから」

 そうした台詞が出てくる時点で、僕にとっては雲の上の存在ですよ。

 既に見ている世界が、素人のレベルではないんだよなと、光は思う。光は必死についていこうとして話に応じる。先輩の話は止まらない。

 しばらく話し込んでいると、先輩はもじもじし始めた。

「ごめん、ちょっと席を外すね」

 おそらくトイレに行くつもりで立ったのだろう。途中で開発話で盛り上がってしまい、尿意を忘れていたのだろう。

 桜小路先輩は、そういうところがある。好きなことについて語っていると、どこまでも話し続けてしまう傾向がある。

 慌てて飛び出した先輩を見送ったあと、スマートフォンのロックを外す。エミペディアのページを表示して、先輩と話した内容、トイレに行ったことを記録する。

 隣の翔は、やれやれといった表情をしている。自分でも、よくないことだとは分かっている。しかし、桜小路先輩の記録を残すことを、やめられないでいる。

 光は顔を上げて、そっと廊下の音に耳を澄ませた。先輩はまだ戻って来る気配はない。

 席を立ち、部室の奥に向かう。本棚があり、プログラミング言語の解説書や、開発手法の書籍が並んでいる。

 桜小路先輩が入部するまで、棚には子供向けの簡単な本しか並んでいなかったそうだ。しかし、彼女が来てから変わった。本格的な本が大半を占めるようになった。

 棚から一冊取り出す。その場で読む振りをして、先輩のノートパソコンの画面を覗く。エミペディアの情報を充実させるための、涙ぐましい諜報活動である。

 画面には、グーグルカレンダーのページが表示されていた。開発の進捗絡みの予定が多い。光は、今日の欄を見て硬直する。

 ――十九時、QLNとホテルコルチェスター。

 ホテル?

 驚きで思わず本を取り落としそうになる。あたふたとしたため、部室にいた人たちの注目を浴びる。何でもないことを身振りで示したあと、ぎくしゃくとした動きで棚に本を仕舞う。自分の席に戻ったあと、光は力なく座った。

 桜小路先輩が、誰かとホテルに行く。

 嘘だ。信じたくない。しかし、高校生という枠組みを超えて、世間を見ている先輩のことだ。実はとても進んでいて、僕には想像できないような、あれやこれやを経験しているのかもしれない。

 頭の中が真っ白になり、燃え尽きた灰のように、気力が根こそぎ消失する。

 トイレに行っていた先輩が戻ってきた。椅子の上で脱力している光を怪訝そうに見たあと、自分の席に座り、作業を再開する。

 ホテル、ホテル、ホテル。

 言葉が頭の中で、ぐるぐると回る。

 桜小路先輩のあられもない姿を想像して、不謹慎だと思い、必死に頭から追い払う。不純異性交遊。桜小路先輩に限ってそんなことはない。信じる。信じたい。信じさせてくれ! 心の中で絶叫しながら、椅子の上で体育座りをした。

 部室の扉が開く音がした。

「ぴかりんいる?」

 九天が扉のところで光を呼ぶ。

「平原の嫁だ」

「嫁が来た」

「嫁のお出迎えだ」

「くそっ、リア充め」

「爆発しろ」

 部室の中で、複数の声が聞こえた。

 いや、だから、そんな関係ではないって。彼女の兄に弟子入りしているだけなんだよ。心の中で叫びを上げる。

 しかし、経緯を語るわけにもいかないので、荷物をまとめて、すごすごと帰る準備をした。

「ねえ、平原くんも開発しようよ」

 桜小路先輩が、先ほどの会話の続きとして言う。

 ホテル、ホテル、言葉が回る。先輩は、プロダクトの開発とともに、違う方面の開発もごにょごにょ。光は涙目になり、九天と一緒に廊下に出た。

「どうしたの」

 怪訝そうに九天が聞いてくる。

「いや、どうしようかなと思って」

 熱に浮かされたような頭で言う。

「何なのよ話してみなさい。聞いてあげるから」

 九天は、相変わらず尊大な口調で言う。

 兄の仕事を手伝っている九天なら、尾行も情報収集も得意だろう。冷静ではいられない光に代わって、桜小路先輩のことをしっかり観察してくれるに違いない。

「ねえ、九天。今日の夜、一緒にホテルに行って欲しいんだ」

 ――桜小路先輩の行動を調べるために。

 じっと見つめると、九天の顔が見る間に真っ赤に染まった。口元は、あわあわとしており、足元が覚束ない状態になっている。

 どうしたんだろう。

 不思議に思いながら九天の姿を見つめる。

「馬鹿っ」

 拳を握り、腹にパンチを放ってきた。重い一撃を受けた光は、悶絶して廊下に転がる。

「ぶはっ、なぜ」

 床を這い回りながら九天を見上げる。恥ずかしそうに顔を真っ赤に染めて、ぷるぷると震えている。

「ふ、不純異性交遊男めっ!」

 九天は目をつむり、よく分からない罵倒の言葉を発する。

「いや、だから、桜小路先輩が今日ホテルに行くみたいだから、あとをつけようと思って」

 必死に事情を説明した。

 九天の様子が、みるみると冷めたものになる。

「ふんっ、最低最悪の糞ストーカー男ね」

 吐き捨てるように言ったあと、九天は怒った様子で背を向けて、廊下を歩き始めた。

 ううっ、どうして僕は殴られたのだろうか。納得がいかない。そんなひどいことを言っただろうか。

 光は、痛みが治まるまで、廊下で涙を流しながら丸くなり続けた。



  ◆ 女子高生とホテル


 夜になった。学生服のままではまずいと思い、私服に着替えて家を出た。

 地域のハブとなる大きな駅。そこから川沿いに歩いた先。ホテルコルチェスターの場所は、あらかじめ調べて来た。光は、血涙を流しそうな気持ちで、ホテルの入り口が見える茂みに、身を潜めている。

 スマートフォンの時計を確認する。十八時五十分。予定の時刻の十分前に、桜小路先輩が現れた。学生服姿だ。そうか学生服でのプレイか。妄想は暴走し、心の中のもう一人の自分が、魂の叫びを上げながら荒野を駆け回る。

 先輩は、腕時計を見ながら誰かを待っている。五分が経った。一人の男性が現れて、桜小路先輩に声をかけた。二十代半ばから後半ぐらい。すらりとした肢体に整った顔、肩ほどもある長さの髪。

 細身のスーツに身を包んだ美形の男に、桜小路先輩は笑顔を向ける。

 ああっ、と思わず声を漏らしそうになる。

 スーツは高級そうだ。身のこなしも優雅だ。外見、社会的地位、能力、その全てで自分は劣っているのだろう。戦う前から敗北は確定だ。近代兵器に竹槍で対抗するようなものだ。悲観のスパイラルに入る。心は絶望のどん底に落ちていく。

 あの男が、予定表にあったQLNという人物なのだろう。

 先輩は楽しそうにQLNに笑いかけている。二人は並んでホテルの入り口へと歩いていく。僕は涙の尾を引きながら、彗星のように夜の街を走りだした。


 ぽつぽつと街灯が点いている道を、とぼとぼとした足取りでたどっていく。

 憂鬱だった。定期試験でヤマが大きく外れたときでも、これほど落ち込みはしなかった。お年玉をまとめて落とした、小学四年生のときに匹敵する絶望具合だ。

 アパートが近づいてきた。家に帰ったら、そのまま布団にダイブしよう。家事を何もしていないから、お母さんに怒られる。しかし、知ったことではない。

 心の大切な部分をギロチンにかけられたような気分だ。精神的去勢。EDまっしぐら。気を抜くと、先輩があの男とよろしくやっている姿を想像してしまい、涙がこぼれてくる。

 暗がりを歩いていると、道の先に女性の人影があることに気づいた。壁に背を預けて、スマートフォンを覗いている。こんな暗いところで、そんなことをしなくてもいいのに。そう思い視線を向けると、顔を上げてこちらを見た。

 九天だった。こんな夜更けにどうしたんだと思い、近くまで行き、声をかける。

「夜遅くに、女の子が出歩いたら駄目だよ。悪い男の人に、襲われてしまうよ」

 九天の手にはスマートフォンがある。ディスプレイからは光が漏れている。光を下から受けた九天の顔は、目つきの悪さと相まって、ホラー映画にそのまま出られそうだった。

「さすがに悪いと思ってさ」

「何が?」

「糞ストーカー男って言ったこと」

 真面目に言う九天の顔を見て、光は思わず腹を抱えて笑いだした。

「何がおかしいのよ」

 不満そうに九天は言う。

「糞ストーカー男は事実だしね」

 目からは涙がぽろぽろと溢れている。

「ねえ、ちょっと話をしない?」

 光は涙をぬぐい、近くの公園を指差す。

「コーヒーを奢ってくれる?」

「甘い奴?」

「ブラックで」

「苦いのが好きなの?」

「甘いのが嫌いなだけ。飲み物も人間も、甘い奴は反吐が出るから。だから、ブラックコーヒーがいいの」

 九天は吐き捨てるように言う。

 相変わらずだなと思い、自販機でブラックコーヒーと炭酸飲料を買う。二人で公園に入り、光はブランコに腰を下ろした。

「いったい、何があったの?」

 立ったままコーヒーをすすり、九天が尋ねてくる。九天は背が低いので、それほど見上げずに話ができる。

「実はね、盛大に失恋をしてきたんだ」

 今日、予定表を盗み見たことと、ホテルにこっそりと行ったこと、そこで見た出来事を話す。

「はあ、呆れるわね」

 九天が、心底くだらないといった様子で言う。

「呆れるだろう。僕の馬鹿さ加減に」

 光は、苦笑しながら応じる。

「ぴかりん。あんた、おにいちゃんから何を学んでいたの?」

「えっ」

 九天の台詞の意味が分からず声を漏らす。

「桜小路先輩の服装は?」

「学生服だった。学校帰りなんだろうね」

「やっぱり、あんたは馬鹿ね」

 ため息とともに九天は言う。

「あんた、ホテルコルチェスターについて調べたの?」

 首を横に振る。

「私も使ったことがあるから、どういうところか知っているわ」

 九天がホテルを使った! 赤面すると、思いっきり殴られた。

「痛いなあ。何で頭を叩くんだよ」

「あんた、いかがわしい想像をしたでしょう。この不純異性交遊男め」

 ばしばしと頭を叩いてくる。

 反撃する気もなかったので無抵抗でいると、すぐに攻撃はやんだ。

「あそこの一階には喫茶店があってね、商談でよく使われるのよ。上の方は、出張などでよく使われるホテル。あんたが想像するような目的で利用する客はいないのよ基本的に。

 そういう目的なら、駅の周りに、いくらでもラブホがあるわ。それに、そうした行為をするなら、学生服なんかで行くわけがないじゃない。

 調査力も観察力も想像力もゼロ。だから馬鹿と言っているのよ」

 なるほど。自分の馬鹿さ加減に、光は気づく。

「じゃあ、桜小路先輩は潔白ということなの?」

「まあ、そうとは限らないわね。桜小路先輩、滅茶苦茶嬉しそうだったんでしょう?」

 九天は意地悪そうに言う。

 うっ、あれは商談というレベルを超えていた。知らない相手に見せる笑顔ではない。

「それで、その男の写真は撮ったの?」

「えっ? いや、そんなことはしていないよ」

「使えない男ね」

 ため息とともに九天は言う。

「ごめん。でも、そんな写真どうするの?」

「まあ、写真はなくてもいいけどね。どういう相手か、素性を知りたいじゃない」

 九天は、邪悪そうな表情をする。

 好奇心なのか、光の恋の支援なのかは分からない。

 九天は、同学年の女子たちから、蛇蝎のごとく嫌われている。その評判の悪さから考えて、桜小路先輩の弱みを握ろうとしているのかもしれなかった。

「ついてきなさい。行くわよ」

「どこに?」

「ホテルコルチェスターよ」

 目を見開いて九天を見る。

「興味があるんでしょう。相手がどんな男なのか」

 悪巧みの表情。

 断るべきだと思った。しかし、エミペディアの情報を充実させるチャンスだとささやく自分がいる。

「行こう」

 心を決めて歩きだす。光は九天に従い、歩いてきた道を引き返し始めた。



  ◆ プラチナバリュー


 高校生が出歩くには、際どい時間になっている。光も九天も制服のままだから、補導されてもおかしくない。幸いなことに、声をかけられることなく、二人はホテルコルチェスターに着いた。

 コルチェスターは、イギリスの街の名前だ。ケルト語での名前は、カムロドゥノン。戦の神カムロスの要塞という意味を持っている。

 ローマのブリタニア征服で要塞が作られ、一時期はブリタニアの首都とされた。アーサー王伝説の、キャメロット城の跡地という話も出ている街だ。

 その戦の神の要塞に、これから攻め入る。戦闘に臨む心持ちで、光は入り口をくぐり、喫茶店に入った。

「コーヒー二つ」

 席に着いたあと、慣れた様子で、九天は注文した。

「僕は、甘いジュースがよかったんだけど」

「そう? だったら、すぐに注文を遮ればよかったのよ」

「そうだね」

 仕方がない。相手は九天だ。諦めて周囲を見渡す。

 客の入りは半分ぐらいだ。桜小路先輩の姿はない。あれから一時間近くが経っている。既にQLNと別れて帰ったあとなのかもしれない。

「桜小路先輩、いないね」

「ちょっと席を外すわ」

 トイレかな。そう思い、視線で追うと、九天はレジカウンターに行き、店員に話しかけた。

 二人の姿をながめていると、店員が姿を消した。九天は大胆にもカウンターの中に入り、うろうろしたあと戻ってきた。

「何をしているんだよ九天」

 小声で突っ込みを入れる。

「店員を追っ払って、予約ボードを見て来たのよ」

「どういうこと?」

「さっき公園で話したけど、私はこのホテルを、何度か商談で利用したことがあるの。そして、レジカウンター内のホワイトボードで、予約を管理しているのを知っていた。

 だからレジに行き、邪魔な店員にこう言ったの。忘れ物の件を、電話で店長に伝えたんだけど、店長いますか、と。そして、店員に確認に行かせている隙に、ボードを見て戻ってきたというわけ」

 なるほど。監視の目を、一時的に取り払ったというわけか。

 九天は紙ナプキンを一枚引き抜き、ボールペンで字を書き始める。

 ――プラチナバリュー、地井。

「これが、桜小路先輩が会っていた相手よ。あんたが目撃した時間に予約があったのは一件だけ。間違いないはずよ」

 スマートフォンを出してエミペディアに記録したあと、会社の名前をウェブで検索する。

 結果は数十件。検索結果が異様に少ない。

 法人情報をまとめたサイトのページしかない。何をしている会社か分からない。桜小路先輩が会っていたのだから、IT企業の人だと思っていた。まともなIT系の会社なら、ウェブサイトを公開して、業務内容を掲載している。違う業種の人間なのだろうか。

「ねえ、どう思う九天?」

 画面を見せて意見を求める。

「非IT系? 何か、謎の会社ね」

 首をひねって九天は答える。

「とりあえず、住所を見てみなさいよ。法人情報のサイトに載っているはずよ。国税庁のサイトでも調べられるわ」

 検索結果から、適当な法人情報のページを開く。住所を入手できた。東京の新宿区にある。代表社員の名前は分からない。

 所在地の文字列をコピーして、検索サイトで調べる。マンションの一室のようだ。九天と九地きゅうちのエスポワールと違い、鉄筋コンクリートで十階以上ある建物だ。

「場所は分かったけど、何をやっているのか不明ね」

 謎の会社の人間と会い、桜小路先輩は何をしていたのか。

 先輩は騙されているのではないか。疑問がむくむくと大きくなる。

「僕は、このプラチナバリューという会社を信用できない。判断の手掛かりとなる情報が不足している段階で、まともな会社だと考えることはできない」

 光の言葉に、九天も同意する。

 まあ、情報がきちんと提示されていても、信用してはいけないことは九地から学んでいる。相手に渡す情報を意図的に組み替えたり、制限したりすることで、正しい情報しか与えなくても、容易に人を騙すことができるからだ。優秀な詐欺師ほど、吐く嘘は最小限で済ませる。

「先輩が会っていたQLN――地井さんって人、大丈夫なのかな。悪い人じゃないのかな」

 九天に意見を求める。

「心配なら、直接聞いてみればいいじゃない」

 面倒くさそうに九天は返す。

「駄目だよ。そんなことをしたら、予定を盗み見たことがばれてしまう。尾行していたことも知られてしまう。そうなったら破滅だよ。僕の恋は終わってしまう」

「スタートラインにも立ってないんじゃない?」

 鋭い突っ込みを九天はする。

「いや、まあ、そのとおりなんだけど」

 光は、夏の日のアイスクリームのような顔になる。

「はあっ、相変わらずね。うちに初めて来たときと同じじゃない。後先を考えずに行動するから、指し手を間違えてしまう」

 確かにそうだ。他人からの相談事を、勝手に探偵事務所に持ち込んだ。そのせいで依頼主に報告をするのが難しくなった。

「でも今回の件は、軽率な行動をしたからこそ手に入った情報だよ」

「まあ、そうね」

 興味なさそうに九天は答える。

「ねえ、九天。桜小路先輩が会っていた相手について調べられないかなあ」

 呆れた目で、九天は光を見る。

「完全にストーカーね」

「うん、そうだよ。でも気になるじゃないか」

「社会人は十万円。学生は一万円」

「ぐっ」

 高校生にとって一万円は高額だ。払えない金額ではないが、多くの欲しいものを諦めなければならない。

「ねえ九天。社員割引ってないの?」

「あんた、ただの押しかけ弟子でしょう。社員じゃないわよ」

「そうか、安くならないのか」

 下を向き、大きくため息を吐いたあと、ふと気づいて顔を上げる。

「あれ、そういえば九天は、何でこの依頼を受ける前提で話をしているの? 九地さんの仕事は、九天が決めるんだよね。僕のろくでもない仕事を、引き受けてもいいと考えているのはなぜなの?」

 大きな力を持つ九地と、それを制御する九天。彼女たち兄妹は、そうした役割分担をしている。

「ろくでもない仕事って自覚はあるんだ」

 蔑む目で光を見る。ハイヒールで頭を踏みつけられたような気分になり、光はぷるぷると震える。

「気になるのよ」

「九天も、桜小路先輩が会った人が気になるの?」

「違うわ。そのQLNという人間が、どうやって彼女の信用を勝ち得たかよ」

 光は興味を持ち、九天を見つめる。

「私たちがネットで検索して見つかった情報からは、信用を勝ち得るのは不可能。それなのに、ぴかりんの話を聞く限り、桜小路先輩はQLNに心を許している。

 何か、表からは分からない理由がある。心をハックした方法がある。手品のタネが、どこかにあるはずよ。

 まあ、昔からの知人って線もあるでしょうけどね。従兄弟とか親類かもしれない」

「でも、それじゃあおかしい。予定表にQLNなんてハンドルネームを書いたりはしない」

「あら、珍しく頭が働くわね」

 九天は、感心した声を出す。

「おそらくQLNは、ネット経由で知り合った人物。そして、表に出している情報ではなく、直接渡した情報で相手を信用させた。

 打ち合わせの場所からして、やり取りの内容はビジネス絡みの話。会社はマンションの一室ということから、規模は最大でも数名程度。下手をすると一名しかいない会社。

 今のところ犯罪のにおいはしないけど、調べてみる価値はあると思うわ。悪人が出てこない調査なら、おにいちゃんも大鉈を振るう必要はないわけだしね」

「もし悪人がいたら?」

 緊張とともに光は尋ねる。

「地獄の裁きをくだすだけよ」

 九天は、意地悪な狐のような顔で答えた。



  ◆ 実在証明


 九天を通して、ナイン電脳探偵事務所に、桜小路先輩の件を依頼した。

 前金の五千円を支払った。お年玉貯金がぐっと減った。後払いの五千円も控えている。夏休みにはバイトをした方がいいかもしれない。面倒だな。疲れるな。光は一万円の重みを感じる。

 九天と別れて家路をたどるあいだ、自分は何をやっているのだという思いを強くした。桜小路先輩のことを、延々と調べている。あまつさえ、その安否を気遣い、会っていた相手の身上調査をしようとしている。

 馬鹿だ。果てしなく馬鹿だ。

 自分の行動の支離滅裂さに嫌気が差す。

 これが世に言う恋なのだろう。それとも僕は、ただの偏執狂のストーカーなのだろうか。

 街灯の間隔が広い夜道を歩く。どうせ、少し調べれば分かるような、落ちが待っている。開発会社の子会社の社長とか、オープンソースソフトウェアの、コミュニティの人とか。

「はあっ」

 光はため息を漏らしながら、重い足を動かした。


 翌日学校に行った。授業は上の空で聞いた。いつもと変わりがないと言われれば、そのとおりだ。しかし、輪をかけてぼうっとしていた。昼飯を食べ損なうほど、ぼんやりとしていたのは、自分でも本当に驚いた。

 お腹が減っている。早く部室に行って、弁当を食べよう。

 扉を開けると先客がいた。桜小路先輩がいて、荷物を肩から下ろしている。

「先輩、早いですね」

「早く開発の続きをしたいから」

 花がぱっと咲いたように笑みを見せる。

 ずるいよなと光は思う。飾ろうとしない天然の可愛さだ。こうした表情が自然と漏れる人間は、周りから愛される。人々の好意を集めて信用される。

 九天とは逆だな。彼女には悪いが、器が違う。九天は笑顔を見せないだけでなく、いつも何か企んでいる。そうした人間は、油断のならない相手として、距離を置かれてしまう。

 桜小路先輩は、鞄からノートパソコンを出して起動する。それとは別に、部室のパソコンの電源を入れて席に座った。

 光も椅子に腰を下ろし、スイッチを押す。デスクトップが表示されるのを待ちながら、先輩の姿をちらちらと視界に入れた。

 先輩はUSBメモリを持ち、部室のパソコンに差している。何をしているのだろう。ソフトでもインストールしているのかな。

 ネット経由ではなく、USBメモリ経由。

 疑問に思い、桜小路先輩に顔を向ける。

 先輩はそのままノートパソコンで開発を始めた。時折顔を上げてデスクトップパソコンのモニターを確かめている。先ほどのUSBメモリと、何か関係があるのか。あとで画面を見に行こうと思った。

 お弁当を開けて食べ始める。空腹を解消したところで、ウェブブラウザを開き『トランク』にログインする。桜小路先輩が開発している、ウェブサービスだ。

 質問が何件か届いている。誰が送ったか分からないものだ。その内容を見るのは、ボトルメール的な面白さがある。依頼をこなして経験値を積む、そうしたRPG的な楽しさもある。

 光はトランクをまめに利用している。毎回、きちんと調べて回答を書いているので、いくつかの分野の専門家として評価されている。過去に書いた内容は、ブログのように、自分のアカウントに紐づけされて公開されている。そのため、たまにヘッドハンティングのメールが、誤って送られてくることがある。

 部員がぼちぼちと増えてきた。三年生は少なく、一、二年生が多い。

「ようっ、ヒカル」

 親友の須崎翔もやって来た。

「あれ。今日は、おまえの嫁は来ていないのか?」

「だから、九天と付き合っているわけじゃないから」

 否定の言葉を笑顔で受け流して、翔はヘッドホンを装着してパソコンに向かう。

 新しい曲を打ち込んでいるのだろう。軽音部にも所属している翔は、DTMをするために電脳部に籍を置いている。打ち込みのデータは、ネット経由で自宅と共有している。

 USBメモリ。

 自宅とのデータ共有では、あまり使わない。そもそも桜小路先輩は、ノートパソコンを持ち歩いているのだから必要ない。

 誰かにもらったのではないか。もしかして昨日ではないか。それをなぜ、学校の部室のパソコンに差しているのだ。

 理由を考えようとするが思いつかない。

 桜小路先輩が自発的におこなっていることなのか。昨日会った男に命令されたことではないだろうか。

 先輩を視界に入れてあれこれ考えていると、部室の扉が開いた。

「ぴかりん、いる?」

「おっ、嫁が来たぞ」

「違うから」

 翔に突っ込みを入れたあと、面倒くさそうに席を立つ。

「何、九天」

 九天は、親指を廊下の先の玄関に向ける。一緒に帰るぞという合図だ。九天はちらりと桜小路先輩を見る。昨日の件について話があるのだ。

「分かった。ちょっと待ってね」

 荷物をまとめて席を立つ。

 その横で翔が、裏声で演技を始める。

「ぴかりん、一緒に帰りましょう! 九天ちゃん、手を繋いでいきましょう! そして二人は、夜の街に消えた」

 勢いよく鞄を振って、翔の頭にぶつける。

「痛えなあ」

「ショウと僕は違うんだからさ」

 女たらしの翔をにらむ。

「そうかい、そうかい」

 翔はヘッドホンに手を添え、目をつぶって体を揺らし始めた。


 古めかしい集合住宅、エスポワールの二階の扉を、九天が開けた。

「ただいま」

 九天は、声をかけて室内に入る。光もあとに続いて、部屋に足を踏み入れた。

 ナイン電脳探偵事務所。

 部屋の中央には、青羅紗のビリヤード台が鎮座しており、壁際には無数のガラクタが並んでいる。奥には小さな机があり、ノートパソコンが置いてある。その前には、白いシャツに、緋色のサスペンダーの来栖九地が座っている。

「おかえり、九天。平原くんも来ましたね。昨日の件、桜小路恵海さんが会っていた人物についての調査報告をします。まだ途中ですけどね」

 九地は、糸のような目で笑みを浮かべる。彼は席を立ち、ビリヤード台の上に板を載せて、広いテーブルにした。

「まず、プラチナバリューの登記簿を取ってきました。住所は既に知っていますね。新宿区の四ツ谷駅近くです。社長の名字は岩田です。下の名前は、ムサシと読むのか、タケゾウと読むのか分かりません。どちらにしろ、強そうな名前ですね」

 光は印刷された報告書を見る。岩田武蔵。昨日の人物とは違う、新しい人が現れた。

「地井という名字ではないんですね?」

「ええ。ですから、昨日桜小路さんが会った人は、プラチナバリューの代表ではありません。社員だと思います。あるいは、会社名を騙っていただけの可能性もあります。そんなことをして、何の利益があるのかは分かりませんが」

 九地はノートパソコンを持ってきて、板を渡したビリヤード台の上に置く。

「岩田について調べてみました。複数の会社の代表になっています。

 どれも規模が小さな会社です。岩田は、かなり頻繁に法人を登記しているようです。それ自体は犯罪ではありませんが、ちょっと怪しい行動ではありますね」

 謎が飛び火した。怪しいと思って藪を突いたら、その先に迷路が待っていた。

「岩田が代表をしている会社の中で、ネットに情報があるものが一つあります。会社のウェブサイトがあるんです。名前はラングモック。ただし、事業内容は書いてありません。プラチナバリューと同じ住所にあります。

 住所の場所にも行ってきました。最近は、グーグルのストリートビューで確認できますが、一応念のためにというわけです」

 九地はノートパソコンに写真を表示する。マンションの外観だ。一階の集合ポストを撮影したものも示す。実際に部屋の前まで行き、看板を撮ってきたものもある。会社の中の写真はなし。いきなり訪問するわけにもいかないからだ。

「今日までの時点で判明した情報は、こんなところです。平原くん。調査を続行しますか?」

 九地は笑顔を光に向ける。

 すぐに結果が出ると考えていたが、思ったよりも複雑なことになっている。桜小路先輩は、自分が会った相手が何者なのか、把握しているのだろうか。

「続行をお願いします」

「分かりました」

 お節介なのは分かっている。しかし、気になって仕方がなかった。早く問題のない相手だと知り、安心したかった。



  ◆ 軍学の家


 すっきりしない日々が続いている。一昨日は、桜小路先輩がホテルの前で男と会うところを目撃した。その日のうちに、相手がビジネス目的だと推測できた。しかし翌日に、男が名乗っていた会社の持ち主が、謎の人物だと判明した。

 先輩が会っていた美形の男性についての情報は手に入っていない。直接聞けば分かるのだけど、そうすれば僕のストーキング行為がばれてしまう。

 授業が終わり、放課後になった。教室では声が湧き上がり、大声での会話が始まる。

 運動部の人間は、急いで出て行く者が多い。文化部は、もう少しゆっくりしている。どこにも属していない帰宅部の人間は、スマートフォンでゲームをしたり、すぐに帰ったり、それぞれだ。

 光は友人たちとユーチューブの動画について盛り上がったあと、教室を出た。

 今日は部室で、エミペディアをもりもりと更新するかな。日課になっている桜小路先輩の記録をおこなうために、部室の扉を開ける。

 既に部員が多くいる。一番奥には、電脳部の女神である桜小路先輩が座っている。

 表情が険しい。開発モードに入っている。

 光は、いつもと違う人物が、室内にいることに気づく。部屋の隅に、眼鏡に私服で、お団子ヘアーの女性が座っている。珍しいなと思う。国語の早瀬あかり先生だ。

「あら、平原くん」

 あかり先生は、嬉しそうに笑顔を見せる。彼女は誰にでも愛想がよい。まだ二十代という若さもあって、生徒たちからは、あかり先生と呼ばれて慕われている。

 彼女は電脳部の顧問だが、コンピュータに詳しくない。どちらかというとアナログ人間だ。本も紙で読む。スマートフォンで文字を入力する際は、指先でポチポチと押す不慣れな手つきだ。

「何かあったんですか、あかり先生。普段顔を出さないのに」

「ごめんね、不真面目な顧問で。でも、私、本当にコンピュータのこと全然分からなくて」

 手を合わせて苦笑を漏らす。

 まあ、本当の理由は、以前のトラブルが原因だろう。素人のあかり先生が、延々と桜小路先輩に質問を続けていたら、開発ができないので静かにしてくださいと叱られた。

 口調はやんわりとしたものだったが、あかり先生はひどく落ち込んだ。生徒に叱責を受けたのがショックだったのだろう。一週間ぐらい、授業中も暗い表情のままだった。

「ねえ、平原くん、ちょっといい?」

「何ですか」

「準備室で話をしたいんだけど」

 どういうことだ。疑問に思っていると、翔が笑みを向けてきた。

 何か仕組んだな。どうせ、ろくでもない悪戯だ。翔は、そういった子供っぽいことをよくする。

「はあ、分かりました」

 あまり気は乗らないが、相手は先生だ。きちんと対応しよう。光は荷物を席の下に置き、あかり先生とともに、準備室に移動した。


 隣にある準備室は、部室の半分ぐらいの広さだ。

 スチール製の棚が壁を覆っており、古い機材やコード類、昔の部員が残していったガラクタの数々が収まっている。

 部屋の中央には、作業ができる広い机がある。半田ごてを使っていた時代の名残だろう、天板には焦げ目や穴が無数にあった。

 あかり先生はパイプ椅子を出して机の横に座る。光も同じように椅子を手に取り、斜め向かいに腰を下ろす。

「ねえ、平原くん」

「何ですか?」

「来栖さんと付き合っているって本当?」

「ぶっ」

 思わず噴いて、隣の部屋にいる翔に、恨みの視線を向ける。

 翔の奴、面白いと思って、先生に話したのか。

 それとも、光がいないときに先生が来て、たまたま話題になったのかもしれない。どちらにしろ、あとで苦情を言って、ジュースでも奢らせないと気が済まない。

「いや、九天とは、恋人でも何でもないですから」

「平原くんと来栖さんって、九天、ぴかりんって、名前で呼び合う仲なのよね」

 真面目な顔で、あかり先生は言う。

 駄目だこの人、他人の話をまるで聞こうとしない。

 国語教師なのだから、言葉は正しく受け止めて欲しい。いや、国語教師だからこそ、行間を読んで、妄想を膨らませているのかもしれない。

「それにしても、九天って名前は変わっていますよね」

 光は、必死に話を逸らそうとする。

「孫子の兵法、形篇よ」

 すらりと出てきた答えに驚き、視線を注ぐ。

「善守者、藏於九地之下、善攻者、動於九天之上、故能自保而全勝也。

 ――よく守る者は、九地の下にかくれ、よく攻める者は、九天の上に動く。ゆえに、よく自らを保ちて、勝をまっとうするなり」

 ぽかんとして、あかり先生の次の言葉を待つ。

「守備の上手い者は、地下に隠れる。攻撃の上手い者は、空の上を動く。だから味方を傷つけずに勝ちを収める。そういった意味よ」

「有名な言葉なんですか?」

 尋ねると、あかり先生は首を横に振る。

「名前の由来を聞いたことがあるの。だから知っていたのよ」

「九天から?」

「違うわ、彼女のお兄さんから」

「九地さんからですか!」

 あかり先生はうなずいた。

 先生は遠い目をする。在りし日の記憶を蘇らせるように、しばらくたたずむ。

「来栖くんとは、高校時代に部活が一緒だったの。母校はここ。図書部に所属していたの。同じ学年は三人。そのうちの一人が私で、もう一人が来栖くんだった」

 なるほど。九天だけでなく、九地の名前も変わっている。由来を聞いていれば、おのずと九天についても、同じ理由でつけられた名前だと分かる。

「来栖くんの家はね、軍学者の家系だったそうなの。だから、孫子の兵法にちなんだ名前を親がつけたのね。

 名付けのときに、由来のある言葉を選ぶ。そうした決まり事がある家だって、高校時時代に話していた」

「古風な家系なんですね。でも、今は自由奔放そうな暮らしをしているようですが」

 実家から離れて、兄妹で暮らしているのだろうか。二人の両親には会ったことがない。

 よくよく考えれば、九天の年頃で、親元から離れているのは珍しい。

 二人の生活について触れると、あかり先生は悲しそうな顔をした。

「来栖くんが就職して一年ぐらい経った頃、交通事故があったの。それで来栖くんは両親を失った。妹さんは、まだ小学生だったので、伯父夫婦の家に引き取られたの。

 その後いろいろあって、二人で生活するようになったと聞いているわ。あまり伯父さんたちと馴染めなかったのかもしれないわね。

 人間と人間だもの。必ずしも上手くいくとは限らない。互いに信用し合っていても、すれ違うことだってある。ちょっとしたボタンの掛け違いで、大きく心が離れてしまうこともある」

 光は、あかり先生の話を神妙に聞く。なるほど、親の姿を見たことがないはずだ。事故で既に亡くなっていたのか。

 小学生なら、まだ甘えたい年頃だったはずだ。いろいろと理不尽な思いもしただろう。

 彼女が、世間を斜に見るのは、そうした経験から来ているのかもしれない。

「私は、来栖くんのおうちの事情を知っていた。そして、彼の妹の来栖さんが、この学校に入学してきた。嫌でも注目するわよね。だから、気にかけていたの。

 学校で楽しく過ごせているかな。友達はできているかな。でも、現実は違った。彼女は友人を作らず、同じ学年の女子たちの中で孤立していた」

 あかり先生は、光を優しい目で見つめる。

「恋人と勘違いしてごめんなさいね。でも、ちょっと嬉しかったの。彼女が気軽に話せる相手が見つかったことが。

 来栖さんと仲よくしてちょうだいね。孤独に過ごしているようだけど、それは彼女が望んだことではないと思うの。だからといって、事情を説明して回るわけにもいかないし。

 今の話は、来栖さんには秘密にしておいてね。同情されると傷つくと思うから。それに、生徒の個人情報を漏らすのは、本来は駄目なことだから」

「分かりました。僕でよければ、九天の話し相手になろうと思います」

 あかり先生は、柔らかい笑顔を見せた。

 話は終わった。これで準備室にいる必要はなくなった。

 去ろうとして席を立つ。その直前、自分では無理だが、先生ならできることがあると気づいた。

「あかり先生、最近、桜小路先輩が少しおかしいんです」

「どうしたの?」

「何か、浮ついているというか、知らない人と頻繁にやり取りしているというか」

 光の口から聞くと変なことでも、先生の口から尋ねれば自然なこともある。

 自分と先生では、社会的な信用度が違う。どの経路をたどるかで、情報の入手のしやすさは変わる。

「分かったわ、さりげなく話してみる」

「僕から聞いたということは秘密にしてくださいね」

「大丈夫よ。言わないから」

 発信者情報を隠した。これで自分が黒幕と、先輩に知られることはない。

「お願いします」

 頭を下げて立ち上がる。部屋の入り口に向けて歩きだしたあと、ふと気になったので、振り向いた。

「高校時代の九地さんって、どんな人だったんですか?」

 不意打ちの質問に、あかり先生は頬をわずかに赤く染める。

「とても優しい人よ。情が厚いというか。他人を心から信用する人。もう一人の図書部員の友人と仲がよかったわ。平原くんと須崎くんみたいな関係ね。私はその横で突っ込みを入れる役だった」

 あかり先生は、大切な珠を撫でるような声で言う。

 違和感があった。光は、豹変した九地を知っている。高校時代は、そうした性向を隠していたのだろうか。あるいは卒業後に何かあったのか。

 当時の九天は、まだ年端もいかない子供にすぎない。高校生の兄の行動を決めていたとは思えない。

「好きだったんですか」

 立ち入りすぎだと思いつつ尋ねる。

 あかり先生は、曖昧な表情をした。肯定とも否定とも取れる顔。

 好意はあったのだろう。恋愛までは発展しなかったのかもしれない。大切な記憶。青春の残滓を、心の小箱に収めている。先生は、少女時代を振り返るように微笑んだ。



  ◆ 青春の帰路


 部活を終える時刻になった。

 部室に翔の姿はない。電脳部でデータを修正したあと、軽音部に行って音合わせをしている。

 光はパソコンの電源を落として、スマートフォンを鞄に仕舞う。今日も、エミペディアを更新した。桜小路先輩との距離はさっぱり近づいていないが、情報が増えたことで満足する。

「ねえ、平原くん、一緒に帰ろう」

 桜小路先輩の声だ。

 部室がざわめく。天変地異か。この世の終わりか。光は緊張してあたふたする。

 観察者の立場から、当事者の立場に突然放り込まれた。そのことで、頭が真っ白になる。

「は、はい」

 声は無様に裏返った。

 並んで廊下を歩き、先輩と雑談する。桜小路先輩の話題は、主に開発のことだ。

 変わったユーザーサポートのメールが来た。ロシアのクローラのお行儀が悪くて困る。ドイツからの謎の連続アクセスに悩んで遮断した。

 それらの話に相槌を打ちながら、ネットで得た知識を総動員して会話する。

 玄関に着いた。靴を履き替える。

 運動場に面した屋外に出る。空がとても広かった。

 西の端に夕暮れが落ちかけている。夜がゆっくりと頭上を覆いつつある。時の移ろいを感じた。青春の貴重な時間を、憧れの女性とともに過ごしている。

「今、ビジネスのオファーが来ているの。ベンチャー企業に誘われているの」

 突然の告白に驚いた。

 桜小路先輩は、眼鏡の奥の目を輝かせている。未来への希望で、胸を膨らませている。

「高校や大学に通いながらでもいいって話なんだ。だから真剣に考えているの」

 先輩は、これまでオファーのあった様々な提携話を語る。

 肌が触れそうな距離にいるのに、遥か遠くにいるように感じた。一つ年上の女性は、自分が知らない世界をたくさん経験している。

 二人の世界は乖離しており、容易には交差しない。同じ場所にいても、見ている世界の大きさも形も違っていた。

 校門を抜けて、並木道をたどる。

 ぽつぽつといる生徒の姿は、暮れゆく空に現れた、明るい星々のようだった。

 なぜ、今日に限って自分を誘い、こうした話をしてきたのか。

 桜小路先輩は、この場の空気を壊さないように、繊細な口調で話しかけてきた。

「平原くん、いつも私のことを見ているでしょう。だから先生に、私のことを相談してくれたんじゃない?」

 桜小路先輩も、今日、あかり先生に呼ばれて準備室に行った。

 ばればれですよ先生。

 秘密にしてくれると言ったのに、約束を守ってくださいよと、苦情を言いたくなる。

 ――いつも私のことを見ているでしょう。

 はい、見ています。

 僕は、先輩に下心を見透かされていたことに、赤面しそうになる。

「私は大丈夫よ」

 年上の女性の声で、先輩は言う。年は一つしか離れていないのに、親戚のお姉さんが、幼い子供を諭すような口調だった。

 ホテルで会った人は誰ですか?

 尋ねたくて聞けない問い。

 簡単な質問なのに、口にすることができない。

 心配する後輩と、ストーキングをする後輩。わずかな差でしかないが、信用は大きく損なわれるだろう。

「悪い人に騙されたりしないんですか?」

 大人の世界には、悪人がたくさんいると主張する。

「心配性ね。信用できる人だから」

 先輩は明るく笑う。

 その答えは、とても危ういものに思えた。


 バス停の前で桜小路先輩と別れた。下校する生徒の姿はまばらになる。先輩との会話を思い出して足取りが重くなった。

 足音が背後から聞こえてきた。音は徐々に近づいてきて横に並ぶ。

 振り向くと九天がいた。目つきの悪い顔で、こちらに視線を注いでいる。

「どうしたの九天?」

「岩田とラングモックの情報なんだけど、今聞く? それとも明日の方がいい?」

 光は苦笑する。先輩との会話を、うしろで聞いていたのかもしれない。

 他人に聞かれたくない話は、公共の場所でするべきではない。まあ今回の件は、先輩から振ってきたので、光に選択肢はなかったわけなのだが。

「今話しても大丈夫な内容?」

「非合法な情報じゃないから問題ないわよ」

「じゃあ教えて」

 光は、九天の歩幅に合わせて、歩く速度を落とした。

「ラングモックという会社名は、ランゲージモックアップという名前を略したものらしいわ。代表取締役の岩田は、日本人とフィリピン人のハーフだそうよ。彼は、アジア圏、特にフィリピンから日本に進出する中小企業をサポートする仕事をしている。

 主な業務は、日本法人を作る際の手伝い。法律や商習慣の違いがあるでしょう。先行して場所を確保して、法人登記をして、自分を代表として登録しておく。取引先が進出する際に、登記情報を書き換えて譲渡する。あるいは適当な者を代表に据える。

 ゼロから会社を作るよりは簡単。岩田の方も、繰り返し作業だから特別なスキルは要らない。コネさえあれば、定期的に仕事をもらってお金を得られる。

 顧客は主に海外だから、ウェブサイトで日本人向けに宣伝する必要はない。だから真面目にサイトを作っていなかったのね。情報がほとんどなかったのもうなずける。

 岩田は、そうした仕事をしている。だから自分が作った会社を、一つずつ把握していない可能性もある。

 おそらくプラチナバリューも、数多く登記した会社の一つなんだと思うわ。岩田が代表のままということは、まだ誰にも売っていない。そして、いずれ売却する予定である。その相手が地井という、ぴかりんが目撃した男だと思う。地井は、岩田の顧客というわけ。それが、おにいちゃんの見立てよ」

 九天は説明を終えた。

 光は、九天と並んで歩きながら考える。

 地井は、岩田から会社を買う予定というわけか。新しく作るのではなく、買うということは、存続期間を長く見せたいということだ。つまり、きちんと活動実績のある会社だと、周囲に誤認させたいわけだ。

 いったい、なぜそんなことをしているんだ。僕が高校生だから分からないだけで、大人の世界では当たり前のことなのか。

「ねえ、九天どう思う?」

「怪しさ爆発。桜小路先輩は、何でこんな、やばそうな相手を信じているの?」

 自分以外の目からも見ても、やはりおかしな話に見えるようだ。

「騙されていると思う?」

「他人を信用している時点で、全ての人は騙されているのよ」

 身も蓋もないことを九天は言う。

 さて、どうするか。

 桜小路先輩は、地井を信用している。僕はただの観察者でしかない。

 たった一万円の依頼で、九地に動き回ってもらっている。

 そろそろこの仕事をおしまいにするべきだ。僕と桜小路先輩の人生は交わらない。光は彼女のことを、諦めるべきだと思った。



  ◆ ダークウェブ


 平原くんに心配をかけてしまった。

 桜小路恵海は、重い気持ちで家路をたどる。足元は坂になり、傾斜をのぼっていく。繁華な通りを離れると、大きな一軒家が多くなった。

 丘の上にある家の門をくぐる。二台分の駐車場は、今日も空だ。鍵を開けて中に入る。無言のままキッチンに行き、冷蔵庫を開けてペットボトルを出した。

 棚からコップを取り、冷たい麦茶を飲む。テーブルの上のメモを見て、夕食を確認する。お手伝いの佐山さんが書いたもの。昼のうちに来て、家事をしてくれる五十代の女性。

 今日のメインディッシュは、鶏肉のトマト煮込み。鍋を火にかけて食べるように指示がある。冷蔵庫には、サラダが入っている。

 食事を先にするか、お風呂を先にするか、それとも開発を進めるか。

 斜め上を見上げて考える。相談相手は誰もいない。全てを自分で決めるしかない。どの順番でもよいが、両親が帰宅するまでに、ご飯を食べ終えている必要がある。

 開発に没頭して叱られるリスクを考えると、先に夕食にするべきだろう。恵海はコンロの火をつける。炊飯器からご飯をよそい、サラダを冷蔵庫から出した。

 ――いただきます。

 声に出さずに言って、食べ始める。食事中にテレビなどを見てはいけない。そう言われて育てられたので、静かに箸を動かす。食事時間はきっかり十分。使った食器を食洗機に入れて、スイッチを押した。

 お風呂に入ってから開発をしよう。没頭して入り忘れると叱られる。恵海は、給湯ボタンを押したあと、自分の部屋に行く。荷物を置いて、制服を脱ぎ、そのままの姿で脱衣所に向かった。

 服を脱ぎ、体重計に乗る。運動しなきゃ――、そう思うけど、実現したことはない。

 浴室に入り、体を洗い、いつものように五分湯船に入って外に出た。

 さあ、開発をしよう。自室に戻り、ノートパソコンを広げて画面に向かう。すぐに集中する。TODOリストを見て、改良すべき点を、端から順に潰し始めた。

 どういった処理で実現するかは、既に考えている。下校のとき、食事のあいだ、風呂の時間。絶えず頭の中で、開発をおこなっている。

 コードが脳内で完成しているものもあれば、実現方法だけに留めているものもある。ネットにどのようなライブラリやアルゴリズムがあるかは覚えている。必要に応じて検索エンジンでコードを呼び出し、ライセンスを確かめて、自分のプロダクトに組み込んでいく。

 今取り組んでいるのは、完全に新しい機能だ。こうした機能をトランクに関連づけることは想定していなかった。

 サーバーやクライアント向けの実行ファイルはもらっている。APIのドキュメントもある。あとはこちらの実装だけだ。どう組み込めば、最良のユーザー体験ができるかを考える。

 ――全てのユーザーを、精神的にも経済的にも幸福にしたい。

 自分の思考と決断が、多くの人の人生を豊かにすると信じている。

 玄関で物音がした。

 集中して作業をしていたため、車の音に気づかなかった。

 父と母、どちらだ。車の音を聞いていれば、どちらが帰って来たのか分かったのに。部屋からは駐車場が見えない。母なら放っておいても咎められないが、父ならきちんと挨拶をしろと言われる。恵海は自分を責める。何をやっているんだと叫びたくなる。

 席を立って扉に向かった。廊下に出て、階段を足早に下りる。キッチンに向かう父の背中が見えた。

「お父さん、おかえりなさい」

「恵海。家の人が帰ってきたら、きちんと玄関で挨拶をしなさい。家族の基本はコミュニケーションだ。そしてコミュニケーションの基本は挨拶だ。それができない者は、桜小路家の者ではない」

「ごめんなさい、お父さん」

 殊勝に頭を下げると、父は満面の笑みを浮かべた。

「分かればいいんだよ、恵海」

「はい、お父さん」

「恵海はできる子だ。何事も、自分で考えて実行できる。私の自慢の娘だよ」

 相談したいことがある。しかし、言い出せる雰囲気ではなかった。

 父はそのまま背中を向けた。そして夕食を取るためにキッチンに消える。

 今日も話ができなかった。そう思いながら、恵海は二階の自室に戻る。

 会社を三つ経営している父に、店を二つ持っている母。経済的には申し分のない家に生まれた。欲しいと言うと、大抵のものは買ってくれた。

 プログラミングを始めた切っ掛けは、小学生のときにノートパソコンをプレゼントされたことだ。父と母を待つ時間を潰すために、プログラムを書き始めた。

 恵海は才能があるな。父に言われて、もっと頑張ろうと思った。

 ほうっ、さすが私の娘だ。父はビジネスの能力に、価値を置いている。自分でお金を稼ごうと決めた。

 中学も半ばになった頃には、学校の友人たちと話が合わなくなった。彼女たちは、芸能人のことやユーチューバーのことを話す。恵海はそうしたものに興味がない。

 会話の相手は、ネット経由の大人たちになった。しかし、接し方は難しかった。

 彼らは恵海が若い女性だと知ると、露骨なまでに態度を変える。媚びる者、下に見る者、性的な話題を振ってくる者もいた。

 両親に相談したかった。しかし、自主自立を重んじる両親を前にすると、言い出せなかった。

 強い子になりなさい。

 はい、と答える自分。

 本当は、親に優しく守られたかった。誰かに頼りたかった。しかし、自分の悩みを打ち明けられる人間は、周囲にいなかった。

 初めてQLNと出会ったのは、OSS――オープンソースソフトウェア――のコミュニティで活動しているときだった。

 その場所で恵海は、PRUNUSSEAとして発言していた。いくつか分からないことがあったので質問したのだが、勉強不足と叩かれた。そこに現れたのがQLNだった。答えがまとめてある場所を、こっそりと教えてくれた。その場所はダークウェブの中にあった。

 ダークウェブ――検索エンジンにインデックスされていないアンダーグラウンドの領域。QLNが紹介してくれた場所には、恵海が知りたかった脆弱性情報が集積されていた。ソフトウェアのアンチパターンの宝庫だと思った。どういったところに穴が空きやすいのか知ることができた。

 恵海はQLNにお礼を言う。若い人の力になりたいんだと、QLNは答え、ダークウェブの歩き方を、いろいろと教えてくれた。

 闇の世界に精通した人間。彼はアンダーグラウンドの人脈も豊富だった。しかし本人は裏社会の人間ではないという。健全なビジネスマンなのだと主張した。馬が合い、よく雑談した。少しずつ個人情報を明かすようになった。QLNも、自身のことを教えてくれた。

 リアルな世界で一致しているプロフィール。恵海は、自分とQLNの大きな共通点を発見する。

 広大なネットの海の中で、そうした偶然があることに驚いた。そして、QLNのことを運命の相手だと思った。

 本名を聞く。こっそりと調べた。彼の話は全て事実だと知った。手の届くところにいる人だと分かった。

 信用できる存在。これほど近くに、理解し合える人がいたのかと感動する。

 恵海はQLNに、PRUNUSSEAとして開発しているウェブサービスのことを相談した。QLNは的確なアドバイスを返す。尊敬の念が深まる。そうした日々が続いたあと、QLNが提案してきた。

 ――ねえ、PRUNUSSEA。一緒にビジネスをしない?

 ――うん、やろう、QLN!

 父や母よりも私のことを知っている相手。私も彼のことをよく知っている。

 理解し合ったパートナー。何かをする上で、これ以上の相手はいないだろうと思った。

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