ハッピー・ハッキング・ハイスクール

雲居 残月

第1話「ナイン電脳探偵事務所」

  ◆ プロローグ的何か 信用について


 高校生になって以来、考えていることがある。信用とは何だろうか。

 他人への警戒を緩めて、自分への権限を解放する。セキュリティの敷居を下げる。ある人にはそれをおこない、ある人にはおこなわない。なぜそうした違いが生じるのか。

 人間は、どうして他人を信じるのか。その答えを、僕はまだ見つけ出せないでいる。



  ◆ 女子高生とストーカー


 放課後。部活動の時間。

 部屋の中央には、島を作るように事務机が並び、デスクトップパソコンが十台置いてある。

 会社のオフィスのようだが、ここは高校の部室だ。部屋にいるメンバーも、スーツではなく学生服やセーラー服を着ている。部員は二十名ほどいるのだが、よく来るメンバーは、その半分ほどだ。

「ヒカル、おまえ、何検索してんの?」

 声をかけられて、平原光ひらはらひかるはモニターの前で顔を上げた。

 光は、親しい仲間からはヒカルと呼ばれている。小学校時代には、ぴかりんという呼び名もあった。これは黒歴史だ。

 光は、数ヶ月前まで中学生だった。今は高校一年生で、横浜の進学校に通っている。

 所属はコンピュータサイエンス部。しかし生徒の中で、その名を使う者はほとんどいない。電脳部。そちらの方が通りがよい。

 肩口から声をかけてきた須崎しょうが、光の隣の席に座った。

「ネットストーカー対策?」

 翔は画面の文字を読む。翔は光の親友で、電脳部の異端児だ。金髪ピアスで、女子に絶大な人気を誇っている。軽音部との掛け持ちで、DTM――デスクトップミュージック――に凝っている。翔は、学校でパソコンが使えるからという理由で、電脳部にも籍を置いている。

「ヒカル、おまえストーキングされてんの?」

「僕じゃないよ」

「ははーん、いつもの依頼か」

「そう。でも、上手くいってないんだ。いろいろと調べているんだけどね」

「みんな、ヒカルのこと、ネットの専門家と勘違いしているよな」

「そうだね。ただの素人、ただの高校生なのに」

「ヒカルが悪いんだぜ。人の依頼をほいほい聞くから。だから周りの奴が勘違いするんだよ」

 翔に言われて、光はため息を吐く。

 光は昔から他人に信用されやすい。小学生時代、よく先生に、戸締まりをお願い、と言われて鍵を渡された。近所のおばさんたちに、留守番を頼まれることも多かった。

 中学生になってからも、そうしたことは続いた。高校生になってからは、コンピュータやスマートフォン、ネットのトラブルの、相談を受けるようになった。

 理由は電脳部に所属しているからだ。しかし、コンピュータにそれほど詳しいわけではない。プログラミングは初心者だし、ハッカー的知識は、素人に毛が生えた程度だ。部室にいて、パソコンのモニターの前で、ネットサーフィンをしているのが関の山だ。

 実力がないのに信用される。その苦しさを光は痛感している。

「依頼主は女の子?」

「正解。同じ学年の斎藤さん」

「可愛いよね。ちょっと派手だけど」

 翔は、子犬のような笑みを浮かべる。

「斎藤、彼氏いるの?」

「知らないよ。自分で聞けよ」

「何だよ、ちゃんと聞いとけよな」

 翔は軽い口調で言う。

 童貞を小学生の頃に卒業した翔は、女性にアタックし続けるミサイルマンだ。ロックオンしたら、ホーミングミサイルのように追跡して、相手をものにする。

 女子たちのお尻を追い回す翔が、ストーカーと呼ばれないのは、美形で明るい性格だからだ。どれだけ相手に付きまとっても、好意を持たれればストーカーにはならない。それは単なるじゃれ合いになる。

 人間社会は理不尽だ。同じことをすれば犯罪になる者の方が多い。地味でネットに耽溺している僕は、どちらかというと後者に属するだろう。

「そうかヒカルは、斎藤には興味なしか。まあ、おまえのお気に入りは桜小路さくらこうじ先輩だしな」

 耳元で告げられ、光は顔を真っ赤に染める。二年生の桜小路恵海えみ。部室の奥にいる彼女に視線を向ける。

 桜小路先輩は、眼鏡に三つ編み姿の女性だ。清楚な外見で、この学校の濃紺のセーラー服がよく似合う。

 そうした先輩は、電脳部の人間としては、かなりハイレベルなスキルを持っている。小学生の頃からプログラムを書いていて、既にいくつかのウェブサービスをリリースしている。特に、数ヶ月前に公開した『ヒューマン・トラスト・ランク』、通称『トランク』というサービスは、大人の開発者たちのあいだで話題になっている。

 トランクは、専門領域への貢献度や信頼度を数値化してくれるウェブサービスだ。情報技術の世界では、コミュニティへの貢献や協力の度合いが、コードの投稿などで可視化される。そうした仕組みを、他の領域にも持ち込もうというのがトランクのコンセプトだ。

 ここ最近の桜小路先輩は、このサービスを改良するために、多くの時間を費やしている。部室でも延々とコードを書いて過ごしている。

 桜小路先輩は、僕のように、中身がないのに信用されている人間とは違う。周囲から本物の信用を得ている人物だ。

「いつアタックするんだよ、おまえ」

「手の早いショウとは違うよ、僕は」

 恨むような目を翔に向ける。僕のような中身のない人間が、桜小路先輩に釣り合うわけがない。

 翔はへらへらと笑って、目の前のパソコンの電源を入れた。

 冷却ファンの音が勢いよく響き、OSが起動するまでの待ち時間が入る。モニターに顔を向けたまま、翔が声をかけてきた。

「斎藤、あいつネットストーキングに遭ってんの?」

 先ほどまでのふざけた態度とは違い、真面目な声だ。光も表情を引き締めて返事をする。

「うん。相手はおそらく成人男性。斎藤さんのツイッター、インスタグラム、フェイスブック、その他全てのSNSやブログに現れて、絡んでいる」

 光はマウスとキーボードを操作する。ツイッターのページを開いて、斎藤への発言を検索して表示した。

 ――この数日、投稿が多いね。生理なの?

 ――チラ見せじゃなく、裸の写真を投稿しろよ。

 ――ねえ、会わない? 駅前で待ち合わせしようよ。

 ――このあばずれが。無視すんなよ。

 目を覆いたくなるメッセージが並んでいる。大人が子供に投げてよい言葉ではない。

「ブロックすればいいじゃん」

「そうしたら、アカウントを変えて同じことをしてくる」

「イタチごっこか」

「おかげで、斎藤さん、疲弊している」

「SNSやめればいいじゃん」

「それも嫌みたい」

「承認要求か」

「そんなところ」

 斎藤のアカウントはフォロワーが多い。女子高生の赤裸々な日常を綴っている。写真も多数投下している。顔出しはしていないが、体の入った写真がタイムラインに並んでいる。

 人気が出るのは分かる。彼女をアイドルのように持ち上げて、ちやほやする大人たちがいる。その中に、頭のおかしな人物が紛れ込んでいる。人数が集まれば、必ずそうした相手が一定数いる。

「何とか、なりそうなのか?」

 首を横に振り、画面をスクロールする。

 ――無視すんなよ。俺は、おまえがどの学校に通って、どこに住んでいるか知っているんだぜ。

 斎藤は、この投稿を見て怖くなって、光に相談してきた。

 もし本当だったら危うい。しかし、どうせ嘘だろう。斎藤はネットに、名前も顔も出していない。そうした状況で、学校や住所を知る術はないはずだ。

 しかし、万が一ということがある。こいつを、どうにかして欲しい。それが斎藤の依頼だ。

「はあっ」

 光はため息を吐く。警察が動いてくれる案件ではない。実害がない。脅迫になるかどうかも怪しい。

 目の前に困っている人がいるなら助けたい。それは人間の本能だろう。

 自分に実力があればよいのに。信用だけが高騰している現状を、光はどうにかしたかった。



  ◆ 探偵はスマホにやって来る


 黄昏時、長い影を引きながら、光は学校から家への道をたどっている。

 今日も学生としての一日が終わる。代わり映えのない日常だった。クラスの話題は、ゲームやユーチューブ。そうしたものばかりだ。

 誰それがスポーツの全国大会に出たという話もない。国民的アイドルが学校にいて、大事件が起きるといったこともない。

 代わり映えがないのは、ネットストーカーの件もそうだ。

 結局、斎藤から依頼された調査は、何の進展も見せていない。光は、スマートフォンをながめながら、ゆっくりとした足取りで進んでいる。

 歩きスマホは危ないと分かっているが、やめられない。せめてもの配慮として、なるべく壁沿いを歩いている。

 周囲から見れば、スマホに耽溺している陰キャだ。しかし、下校時間が無駄に思えて、気づくとネットを確認している。きっと自分は、重度のネット中毒患者なのだろう。

 今表示しているウェブページは、自作のエミペディアというものだ。桜小路先輩のことを記録するためだけに作ったウィキだ。

 ウィキペディアと同じ、ネット百科事典の体裁を取っており、自分だけが書き込みや閲覧をできる。光が手に入れた桜小路先輩の情報は、全てエミペディアに投稿している。

 このページの存在を知っているのは、親友の翔だけだ。もし本人に知られたらドン引きされる。不毛だと思いつつも、先輩の情報が増えることが嬉しくて、入部以来ずっと続けている。

 今日の情報を入力したあと、エミペディアを閉じた。光は、ニュースの確認を始める。

 新しい製品、開発情報、そうしたものを流し読みしていると、一つの広告が目に入った。

 ――ナイン電脳探偵事務所。ネットのトラブル解決します。

 一瞬、足を止めて考える。なぜ、こうした広告が表示されたのか。

 すぐに理由が分かった。ターゲティング広告だ。

 斎藤の件で、このスマホでも、ネットストーカーについての情報を調べまくった。そのとき様々なキーワードで検索して、多くのページを閲覧した。そうしたネットの行動履歴に連動して、電脳系の探偵事務所の広告が表示されたのだろう。

 何か、有用な情報があるかもしれない。たとえば、トラブル解決の事例が掲載されているとか。そのものズバリ、ネットストーカー対策がまとめられている可能性もある。

 ヒカルは広告をタップして、リンク先を表示する。

 ――横浜で起きた、ネットのトラブルは、お任せください。

 探偵事務所の住所とアクセス方法が目に入る。学区内に事務所がある。駅から徒歩で十五分ほどの立地だ。

 スマホの位置情報を利用しているのだろう。この地域で、ネットストーカーについて調べている人に、広告が表示されるようにしているのだ。

 地域性のある商売なら、こうした広告手法は有効だ。自分はその作戦に、見事にはまったわけだ。

 親指を動かしてページ内を移動する。サイトの作りが、流行に沿ったものになっている。電脳探偵事務所と謳っているだけあり、ウェブサイトにも力を入れているようだ。

 ――初回相談無料。

 ――学生割引。

 心がぐっと引きつけられる。

 それにしても、探偵事務所で学生割引があるところは、どれぐらいあるのだろうか。ネット関係のトラブルに強いということで、学生からの依頼を見込んでいるのか。もしかしたら、大学生からの相談が多いのかもしれない。

 グーグルマップが埋め込まれているので、場所を確かめる。徒歩で行っても、それほど遠くはない。画面の地図を見ながら、道順を頭に浮かべる。

 専門家の意見を聞いてみたい。そうした欲求が、心の中で大きくなる。

 信用と実力がかけ離れている自分の現状。その状態を、少しでも改善したかった。

 ページには、アポイントメントのためのフォームがあった。メールアドレスを入力する。名前の欄には、Lightというハンドルネームを書き込む。本文の欄には、なるべく近くの日時で相談ができないかと書いて、送信ボタンを押した。

 一分も経たずに返信メールが届いた。

 自動返信システムを構築しているのか。確認すると、今からでもよいと書いてある。

「どうなっているんだ」

 思わず声をこぼす。

 自動応答ではないようだ。あまり流行っておらず、パソコンの前にずっと貼りついているのか。

 あるいは大きな事務所で、いつでも対応できるとか?

 すぐにその考えを否定する。

 ネットのトラブルだけで、そんなに人員を抱えることはできないはずだ。多くても二、三人。おそらく一人。どちらにしても、こぢんまりとした場所に違いない。そして、経費を節約するために、探偵自らがウェブサイトの更新をおこなっているはずだ。ウェブページの限られた情報から、勝手な想像をする。

 ――それでは今から行きます。

 初回相談無料だし、話を聞いてもらってもタダだし。

 気軽に返事を書いてメールを送る。

 ――お待ちしております。

 すぐにメールが返ってきた。



  ◆ 撞球の部屋


 地域のハブになっている大きな駅。駅ビルは、大型商業施設になっており、建物を出てすぐの場所には、バスターミナルやタクシー乗り場がある。

 光は、スマートフォンの地図を見ながら道をたどる。ファーストフード店やドン・キホーテ、雑貨店や洋服屋が並ぶ通りを抜け、三車線の大きな道路を渡った。

 周囲の賑やかさが一気に引ける。細道に入ると住宅街になった。

 こんな場所に、探偵事務所があるのだろうか。

 住所は合っている。地図も読み違えていない。何より、地図アプリのナビを見ながら歩いている。GPSが狂いでもしなければ、迷うことはないはずだ。

「ここだよな」

 画面と目の前の建物を見比べる。木造二階建ての古びた集合住宅だ。

 建物名はエスポワール。名前から、鉄筋コンクリートの立派なビルを想像していたが、完全に名前負けしている。このアパートが目的の場所であることは、入り口の看板で分かる。白い板にカタカナの筆文字で、エスポワールと記してある。

 ウェブサイトに書いてあった事務所の場所は二〇一号室だ。建物の外に設けられた鉄製の階段をのぼり、外部に露出している共用の通路に立つ。扉には、それぞれ部屋番号が書いてある。その番号を確かめながら、二〇一という数字の前で足を止めた。

 ナイン電脳探偵事務所。

 来栖くるすという表札の横に、事務所の看板が出ている。紙に印刷してラミネート加工したものだ。それを両面テープで貼りつけている。

 さすがにこれは、貧乏くさいんじゃないか。

 大丈夫なのだろうかと不安になる。

 インターホンを探す。どこにもない。仕方がない。警戒しながらノックする。

「どうぞ、扉は開いていますから」

 中から若い男の声が響いてきた。

 優しげな声だ。少しほっとしながらノブを回す。

 室内の様子を見て、光は困惑した。六畳の狭い部屋に、青い羅紗の大きなビリヤード台が無理やり押し込まれていた。

 その奥にこぢんまりした木製の机があり、ノートパソコンが載っている。机の前には、目が細く、口元に笑みをたたえた男性が座っていた。

 男は立ち上がり、ビリヤード台と壁のあいだを歩いてくる。

 身長は百八十センチメートルを超えている。白いシャツに緋色のサスペンダー、栗色のズボンといった服装だ。年齢は二十代半ばから後半に見える。どういった経緯で探偵事務所を開いたのか興味を持った。

「先ほどメールをいただいたLightさんですね。ナイン探偵事務所の所長、来栖九地きゅうちです」

 ポケットから名刺を出して渡してくる。古風な字体で、名前と事務所名が書いてある。弁護士や税理士といった士業を思わせるデザインだ。

 光は軽く頭を下げて、名刺を受け取る。そして、部屋を占領しているビリヤード台に目を向けた。

「あっ、これですか。この仕事、待ち時間が長いんですよね。暇つぶしに買ったはいいんですけど、思ったよりも場所を取りまして。正直、持て余しているんです」

 九地と名乗った青年は、恥ずかしそうに頭を掻いた。

 何と言えばよいのだろうか。地に足が着いていない人に見える。

 よくよく部屋を見渡してみれば、何の役に立つのか分からないガラクタが、いたるところにある。

 小型の子午儀。卓上サイズの活版印刷機。二号自動式卓上電話機。

 そうした骨董品の名前を知っているのは、光の趣味が、ウィキペディアをはじめとした、ネットの膨大な情報を読み、雑学を仕入れることだからだ。

 部屋にあるもののほとんどは、使えるかどうか怪しい骨董品だ。その中で唯一生きた道具と呼べるのは、奥の机に載ったノートパソコンだった。

「初回相談無料と書いてあったので来たんですが」

「ええ、そうです、無料です。それで、お茶にしますか。それともコーヒー、紅茶の方がいいですか」

 九地は部屋の一角に顔を向ける。申し訳程度の炊事場がある。コンロのガス口は一つ。料理を作るのは大変そうだ。

 割りと大きめの冷蔵庫もあるので、自宅兼職場なのだろう。部屋の奥には扉が見える。そこが生活スペースになっているのだと推測する。

 男の一人暮らしなのか。それにしては炊事場がきれいに片付いている。家族がいるのかもしれない。限られた情報から、相手のことを想像する。

「水でいいです」

 長居しなくても済むように、すぐに出せるものを頼む。

「お茶や、コーヒー、紅茶も用意しているんですが、なぜかみんな、水って言うんですよね」

 九地は残念そうに、棚からグラスを出す。切り子の高級そうなものだ。

 冷蔵庫を開けて、ペットボトルの水を注ぐ。壁に立てかけた板を持ち上げ、ビリヤード台の上に載せて、即席の机にする。

「どうぞ水です」

 エベレストの万年雪から作った水のように、うやうやしくグラスを差し出す。

「椅子は壁際にありますから、好きなものを選んでください」

 促された先を見る。木製の折り畳み椅子が複数ある。どれもデザインが違っており、統一感がない。その中から一つを手に取り、広げて座る。九地も同じように光の前に腰を下ろした。

「どういったことがあったんですか?」

「僕に直接起きたことではないんです」

 一週間前に、同級生から相談を受けたことを告げる。そしてこの一週間、解決のために知恵を絞ったが、何もできなかったと説明した。

「女子高生へのネットストーカーですか」

「そうです」

 仕事を依頼するつもりはなく、何かヒントが得られればと思って来たことは、伏せておく。気を悪くするかもしれないからだ。それに実力があるか、今のところ分からない。まずはお手並み拝見というところだ。

「うちで請けている仕事の中心は、サイバーDVやサイバーハラスメントなんです。

 スマートフォンやパソコンといった情報機器を使い、恋人や家族、会社の人間を監視したり、脅迫したりする。そうしたトラブルを解決することが多いんです。

 もちろん、ストーカー案件も手掛けていますよ。ネットで、ある程度有名になった人は、直面する問題ですよね。ただし、依頼の数は少ないです。

 今回のケースで一番いいのは、彼女がSNSをやめることです。でも、わざわざ解決を依頼されたということは、やめるつもりはないんですよね」

「ええ、そうです」

 九地の言葉は丁寧で、態度は一貫している。服装も清潔で、身なりもきちんとしている。部屋は雑多だが、掃除は行き届いており、きちんと整理されている。

 部屋の第一印象で警戒したが、問題はなさそうだ。信用できる人物である。光はそう感じる。

 斎藤のアカウントを全て教えて欲しい。

 九地に頼まれて伝えると、彼はノートパソコンを持ってきて確認し始めた。

「その脅迫している人を、仮にSさんという名前にしましょう。ストーカーという単語の、最初の文字から命名しました。ブロックされるたびにアカウントを変えているようですから、特定の名前では呼びにくいですしね。

 それで、そのSさんについてです。彼は、斎藤さんの学校も、家の住所も知っていると書いていたんですよね?」

 そうですと答えると、九地はエディタを起動した。

 ファイルダイアログを開き、プログラムを読み込む。いくつかの変数の値を書き換えたあと実行した。

「何をしているんですか?」

「画像を全てダウンロードしているんです」

 九地は顎に手を当て、画面を見つめる。

 ダウンロードが終わったようだ。彼は、画像を次々と目視で確認し始めた。

「一昔前までは、大手のSNSの写真から、GPSの位置情報を直接入手できたんです。今はできなくなっています。サーバー側で、自動削除するようになったんです。プライバシーを保護するために。

 だから、簡単に撮影場所を知ることはできません。しかし、被写体から直接情報を得れば、場所を特定することが可能です。写真自体は改変されていないですからね。

 たとえば、この写真です。斎藤さんは、自分の顔が入らないように撮影しています。でも、通っている学校が容易に推測できます」

 光は写真をじっと見つめる。

「制服ですか?」

 九地はうなずく。セーラー服のまま写真に収まっている。制服が分かれば、学校を特定することが可能だ。

「ネットの情報を使って調べてもいいですし、匿名掲示板で、どこの制服か尋ねてもよいです。一日もかからずに答えが得られます。次は、この写真です」

 さらにもう一枚の写真を示す。下校途中のものだ。

「ここを見てください。お店の看板があります。学校は判明しているので、地名と店名を掛け合わせて検索すれば、すぐに位置を特定できます。ここまで絞り込めば、あとは芋づる式です」

 九地は丁寧に説明する。看板などの文字が写っていない写真でも、ストリートビューを使って時間をかければ、どこで撮影したのか分かる。そうした写真が数枚あれば、登校経路を明らかにして、家の場所を推定できる。

「屋外の写真だけでなく、屋内の写真も役に立ちます。これは、おそらく自宅で撮ったものですね。そして窓から外が見えます」

 画像を拡大して、いくつかの場所を指差す。ランドマークとなる建物の配置から、九地は撮影場所を割り出した。高さも大よそ分かるので、マンションの何階当たりにいるのかも推測できる。

「こうした複数の情報を掛け合わせれば、SNSの写真から住所を特定できます。あとは実際に現地に行って、登校時間に、家から出る瞬間を目撃すればチェックメイトです。

 始業の時間は決まっていますから、逆算すれば家を出るタイミングが分かります。張り込み時間は少しで済みますよ。

 学校を知っている。家の住所も押さえている。そうしたSさんの書き込みは本当だと思います。普段から彼女を追っていない私でも、十分程度あれば調べられることですから」

 喉が渇き、グラスに手を伸ばして水を飲んだ。どうやら、九地の実力は本物のようだ。

 そして、ネットストーカーということで軽く考えていたが、リアルの世界で、被害に遭う可能性があるということだ。

 光の強張った表情に気づいたのだろう。九地は優しい顔で語りかけてきた。

「犯罪者が、ネット経由でターゲットを攻撃する方法は、大別すると三つに分けられます。

 一つ目は、セキュリティホールの活用です。OSやソフトウェアに穴がある状態で使い続けることは、家のドアの鍵を壊れたままにするようなものです。簡単に侵入を許してしまい、データを盗まれたり、改竄されたりします。

 こうした被害を防ぐには、利用しているOSやソフトを、常に最新の状態にしておく必要があります。

 二つ目は、信用の利用です。この人は友達だから、仲間だから、そう思わせて警戒の敷居を下げさせる。

 このソフトいいよ、と言われてインストールする。代わりに作業しておくから、と言われてパスワードを教える。ソフトは、データを破壊するためのものかもしれません。パスワードでログインした人は、メールやメッセージを勝手に読むかもしれません。

 どれだけセキュリティホールを塞いでも、自分から犯罪者を家に上げれば、やりたい放題されてしまいます。

 警戒すべきは、ネット経由の相手だけではありません。リアルの知人も、いつ攻撃者に変わるか分かりません。恋人がパスワードを盗む。家族がスマートフォンに侵入する。友人がアカウントを乗っ取る。

 調べてみると、身近な人間が犯人だった。これまで解決してきた案件の多くは、こうした方法でセキュリティを突破されています。

 そして三つ目は、情報の立体化です。人間が長く生きていれば、様々な足跡を社会に残します。ネット社会になった現代では、それらの断片的な情報は、ネットに大量に公開されています。

 そうした情報を組み合わせれば、隠していた個人情報を炙り出すことができます。先ほどのように、公開情報から住所を推測することもできます」

 いつの間にか話に引き込まれていた。光はセキュリティについて、体系的に習ったことはない。部活の顧問は、IT音痴だ。桜小路先輩は開発に没頭しているから、教えてもらえない。両親はパソコンをよく使うが、それはゲームに限定してのことだ。

 光は、これまで師匠となる相手がいなかった。自分が欲しかった情報。欠けていた実力の部分。勉強になると思いながら、どんな攻撃があるのか尋ねる。

「誕生日をパスワードにする人が、一定数いるということは聞いたことがありますか。SNSやブログに、誕生日の話題を投稿していれば、そうした人のパスワードを入手できます。

 また本人がガードを堅くしていても、周囲の人間を経由して情報を得ることもできます。

 たとえば社会人のケースです。SNSの繋がりから高校時代の友人を調べ、学生時代のエピソードを収集する。下調べをしたらターゲットに対して、同じ学校にいた人間としてアクセスします。

 共通の知人、共通の話題、そうした情報を並べることで、記憶にはないけれど近しい相手だと信じ込ませる。上手くいけば、雑談をしながら、多くの個人情報を引き出せます。

 最近では、ターゲットにした人物の親のブログから、大量の個人情報を抜き出すこともできます。

 私が詐欺師なら、こうした情報を利用して、親戚に成りすまして接触するでしょう。また占い師なら、本人も忘れているような過去をズバリと言い当てて、絶大な信頼を得るでしょう。

 サイバー世界のセキュリティを維持するためには、セキュリティホールを塞ぐだけでは駄目です。それとともに本人が警戒を怠らないようにする必要があります。情報技術は人間が使うものです。最大の穴は、人間自身なわけですから」

 いろいろとヒントになることを教えてくれる。来た甲斐があったと、光は思う。

 立て板に水の台詞を熱心に聞いていると、クリップボードを渡された。顧客カードと書いた、連絡先を記入する用紙が挟んである。事務所に来た人間を、客として登録するためのものだ。

 光は落ち着きを失う。斎藤の依頼のヒントが得られればと思って来ただけで、お金は用意していない。しかし相手も商売だ。話だけして返すつもりがないのは道理だ。

「大丈夫ですよ。取って食おうというわけではありません。それに、仕事を請けるかどうかは、私が決めることではないですから。妹が決めることなんです。

 その妹も、そろそろ帰ってくるはずです。実は長々と話していたのは、彼女が戻ってくるのを待っていたんです」

 九地は笑みを浮かべたあと、玄関に視線を向けた。

「ただいま」

 扉が開き、セーラー服姿の女の子が入ってきた。光と同じ高校の制服。タイの色を見て、同学年だと気づく。

 知らない子だな。少なくとも同じクラスではない。

 小柄で華奢で、日本人形みたいな髪型をしており、目つきが悪い。飢えた狼のような目をしている。できれば関わり合いたくないと思わせる、殺気立った空気をまとっている。

 彼女は両手にスーパーのレジ袋を提げていた。夕食の食材の買い出しのようだ。そういえば、男の一人暮らしにしては、炊事場が片付きすぎていると思った。

「おにいちゃん、お客さん?」

「学割対象の子だよ。本人のトラブルではなく、友人のトラブルで来たらしい。九天きゅうてんと同じ学校の生徒さんだよ。彼のことは知っているかな?」

 九天と呼ばれた少女は、目を細めて光をにらむ。

「平原くんよね」

「知っているの?」

 僕は、そんなに有名人だっただろうかと疑問を持つ。

「須崎翔の金魚の糞として有名よ」

 翔のおまけか。あんまりな記憶のされ方だ。もう少し、ましな覚えられ方もあるだろうにと思い、涙目になる。

「それで、おにいちゃん、依頼の内容は?」

「ネットストーカー。個人情報を解析してきて、卑猥な言葉を投げ続けている」

 九地は妹に、ノートパソコンを向け説明する。

 九天は荷物をビリヤード台の下に置く。そして九地のそばまで行き、斎藤のSNSを確認し始めた。

「平原くん、住所と名前、さっさと書いてね」

 画面を見ながら、九天はクリップボードを指差す。その有無を言わせぬ調子に気圧され、個人情報を記入する。

「平原くん。あんたが、トラブルシューター紛いのことをしているのは、聞いたことがあるわ。そのあんたが、ここに来たということは、素人が事件に手を出して、手に負えなくなって泣きついてきたというわけね」

 容赦のない言葉に、光はしょんぼりとする。

「だいたい合っているよ」

 ため息交じりに声を返す。

 信用に対して実力が足りていない。この状況をどうにかしたいと、常々思っている。

「社会人なら十万円。学生なら一万円。それがうちの料金よ」

「学生は九割引きだね」

「高校生には、それでも高いでしょうけどね」

 九天の物言いは、鉈を振るうようだ。目つきの悪さと相まって、罵倒されている気分になる。人に心を開かせる兄と違い、無用な争いを産み出しそうな妹だ。

 さて、どうするか。

 今の状況を、頭の中で整理する。

 自分のトラブルではない。だから、光自身がお金を払うのはおかしい。それに、そんなに貯金があるわけではない。高額の出費は、負担が大きい。

 だからといって、斎藤にお金の話をするのも避けたい。本人に許可なく他人に相談内容を話している。料金のことを告げれば、そのことがばれて怒られる可能性がある。八方塞がりだ。

「あんた、斎藤に相談なく、ここに来たんじゃない? そして、べらべらと彼女のことをしゃべった。だから困っているんでしょう」

 意地悪そうに九天は言う。

 どうやら頭の回転が速いらしい。きっと成績もいいのだろう。

 さて本当に、どうしたものか。自分の無能さに、ほとほと呆れながら、大きなため息を吐く。

「平原くん、斎藤に電話をかけなさい」

 驚いて九天の顔を見る。

「私が、あんたから無理やり話を聞き出した。そういうことに、しておいてあげるから。あんたは私の被害者ということになり、斎藤に顔が立つ。私は仕事をゲットできる。まあ、ウィンウィンね」

 無愛想な顔のまま、九天は言う。

「でも、それだと来栖さんが悪者になってしまうよね」

「いいのよ、どうせいまさら。学校では嫌われ者で通っているし。さっさとスマホを貸しなさい」

 いいのかな? 言われるがままにロックを解除して、アドレス帳から斎藤を選んで、九天に渡す。

「斎藤? 私よ、来栖。あんた、平原にトラブルの解決を依頼したんだってね。無理やり聞き出したわよ。私のおにいちゃんが、電脳探偵事務所を開いているのに、わざわざ素人に依頼をするとは、どういうつもりなの」

 いきなり喧嘩腰だ。

 光は、はらはらしながら会話を聞く。

「料金は一万円よ。何? カツアゲじゃないわよ。正規の料金よ。明日までに心を決めて、うちに来なさい。来ないと平原も含めて、地獄へ叩き落としてやるわ」

 九天は電話を切った。そして、スマートフォンを光に返した。

「いい、平原くん。明日、斎藤と一緒にうちに来なさい。斎藤には、いつもSNSに投稿しているスマホを持ってくるように言っておくこと。分かった?」

「ああ、そうするよ」

 光への指示を伝えたあと、九天は九地の方に向き直った。

「おにいちゃん、仕事請けるわよ」

「ああ。彼は、信用できる人間なんだね」

 嬉しそうに九地は言う。

「そうよ。平原くんは、悪意ある侵入者ではないわ。そして、彼が持って来た仕事も問題ないわ。――今のところわね」

 九天は、鋭い目を光に向けた。



  ◆ 騙し合い


 翌日、斎藤と待ち合わせて、ナイン電脳探偵事務所に向かうことにした。今日は電脳部を休むことになる。桜小路先輩の姿を見られないのが残念だった。

 玄関脇の校舎の壁に寄りかかって待っていると、斎藤がやって来た。

 茶髪、化粧、ピアス。スカートは短くて、鞄は派手にデコレーションしている。斎藤は、光に一瞥をくれたあと、これ見よがしにため息を吐いて、不満を爆発させそうな顔をした。

「まさか、来栖に目をつけられるとはね」

「彼女のこと、知っているの?」

 自分は知らなかったので尋ねてみる。

「女子のあいだでは有名人だよ。あんた男子だから知らないかもしれないけどさ。

 どこの女子グループにも入らない一匹狼で、いじめた相手を、何人か登校拒否にしたそうなんだよ」

「そうなの? そんな話、初めて聞いたんだけど」

「高校になってからの話じゃねえよ。中学時代の話。出身が同じ奴らは、みんな知っている。だから、誰もあいつと、つるもうとしねえんだよ」

 怒った様子で斎藤は言う。

「どうするの?」

 トラブル解決を依頼するには、その九天を頼らなければならない。

 実体の伴わない空疎な信用。自分には、今回の件を解決する能力がない。

「くそ忌ま忌ましいが、一万円払うつもりで持って来た。あいつの家、ネットトラブルの探偵事務所らしいからな。まあ、プロだから、変なことにはならないだろう。

 しかし、腹が立つ。それもこれも、平原、おまえが解決してくれなかったからだよ」

 斎藤は、恨みがましい顔つきで光をにらむ。

「ごめん」

 頭をぺこぺこと下げたあと、二人で歩き始めた。


 派手に遊びまくっている女に、陰キャの男。何人かとすれ違い、奇異の目で見られた。そのたびに斎藤はにらみ返して、そうした生徒たちを追い払う。

 これだけ強い斎藤が、関わろうとしない九天は何者なんだ。昨日会った少女に対して、畏怖の念を抱く。

「それで、斎藤さん。例のネットストーカーの件だけどさ、学校や家の場所を、本当に特定しているかもしれないってさ」

 早めに話しておいた方がいいと思い、伝える。

「おい。住所なんて、ネットに書いていないぞ」

 怒りを露わにする斎藤に、昨日九地が探し当てたマンションの名前を言う。

「えっ。私、平原に住所教えたっけ?」

「来栖さんのお兄さんが、十分ほどで探し当てたよ」

 斎藤の顔が青くなる。ネットストーカーの発言が、嘘ではない可能性があると理解したようだ。

「マジかよ」

「うん」

 彼女は頭を抱え込み、罵倒の台詞を並べ立てた。


 昨日に引き続き、エスポワールの前まで来た。手書きの筆文字の看板に、古びた木造二階建ての集合住宅。軋み音を上げながら階段をのぼり、二〇一号室の扉をノックする。

「どうぞ」

 九地の優しげな声が聞こえてくる。扉を開けて中に入る。中央のビリヤード台の奥に、九地と九天の姿があった。

「あれ。来栖さん、学校は?」

「終わって、すぐに帰って来たのよ。それで斎藤、一万円は用意してきた?」

 不承不承といった様子で、斎藤は鞄の中の財布を出す。

「おい、来栖。本当に解決してくれるんだろうな?」

「素人と違って、うちはプロだからね」

 光を見ながら、素人という言葉を口にした。光は、自分の実力のなさに、しゅんとなる。

「はい、これに住所と名前を書いて」

 九天はクリップボードを出して、顧客カードへの記入を求める。書き終えたところで、九地がゆっくりと立ち上がり、ノートパソコンを持って、光たちのそばまで移動した。

「既に準備は整っています。あとは、斎藤さんの協力が、少しだけ必要です」

 九地は、貴族の執事のように斎藤に語りかける。その態度に斎藤は、まんざらでもないといった表情をする。

「どういった準備をしたんですか?」

 光は九地に尋ねる。

「コンピュータセキュリティの分野には、ハニーポットという手法があります。日本語では密壺です。

 不正アクセスをわざと受けて、情報を集めたり、攻撃者の目を逸らしたりするためのものです。そのやり方をヒントに、Sをある場所に誘い込む予定です」

 Sというのはストーカーの仮の呼び名だと、九地は説明する。

 九地が用意したのは、斎藤のツイッターの裏アカウントだった。もちろん、本人が作ったわけではないので偽物だ。

「斎藤さんには、自身のツイッターで、裏アカウントについて言及してもらいます。

 ――内輪向けアカウントを作ったよ。アカウント名プラス誕生日の日付だよ。

 アカウント名は、今のアカウントに誕生日の数字を足したものです」

 斎藤は、画面に表示された偽の裏アカウントを、まじまじと見る。

「アカウント名プラス誕生日だ」

「ええ、そうですよ」

「私の誕生日、何で知っているんですか?」

 言われてみればそうだ。

「斎藤さんは一年ぐらい前に、誕生ケーキの写真を撮りましたよね。だから分かりました。斎藤さんのことを追っているSは、当然そのことを把握しているはずです。

 今回は誕生ケーキの写真から推定しましたが、ヒントがなくても、誕生日は三百六十五種類しかありません。閏年でも三百六十六種類。総当たりで調べても探せる数です。

 というわけで、Sには、自力で裏アカウントを発見したと思ってもらいます」

 斎藤はノートパソコンに手を伸ばして、画面をスクロールさせる。裏アカウントの斎藤は、何人かの友人たちと活発に話している。仲間内の賑やかな様子が伝わってくる。

「誰だよ、こいつら」

 気持ち悪そうに斎藤は言う。

「これ、もしかして全部ダミーアカウントですか?」

 光は驚いて尋ねる。

「そうです。人間ではなく、プログラムに更新させているアカウントです。Sに、この会話を読ませて、罠にはめます」

 九地は笑みを見せ、一つの投稿を指す。

 ――このアプリで動画を投稿したよ。インストールして、私のアカウント名で検索してね。

「こういうときのために、権限を大量に盛り込んだ、罠のアプリを、スマートフォンの公式ストアに登録しています。Sがこのアプリをインストールすれば、彼の端末を乗っ取れます。

 Sの発言ペースから考えて、一日か二日でインストールしてくれるはずです」

 九地は、不正侵入をすると言っているわけだ。これは毒だ。毒をもって毒を制すということか。自分では考えもしない黒い手法に、光は恐れおののく。

「侵入が成功すれば、Sの個人情報を収集して、どこの誰なのかを特定します。そして斎藤さんに付きまとわないように警告を出します。もし従わない場合は、警察に相談すると脅します。

 斎藤さん、それでいいですね」

 九地は斎藤に顔を向ける。斎藤は、少し考える表情をする。何かやばいことだとは気づいているが、詳細までは理解していない様子だ。

「それでいいです」

 斎藤は決断したようだ。

「では前払いで、まず半額をいただきます。残りは、あとでいただきます」

 一万円札を斎藤は出す。九地はお金を受け取り、手提げ金庫を持ってきて五千円を返した。

「それじゃあ、斎藤さん、Sを誘い込むツイートをしてください」

 斎藤は、緊張したように両手でスマートフォンを持つ。そして、九地に指示された文面で投稿をおこなった。



  ◆ 光属性


 これで事件は僕の手を離れた。終わってみれば、あっけなかったと思いながら、その日は帰宅した。

 五階建て、築二十年の賃貸マンション。天井は低く、部屋は狭い。それでも3LDKあり、自分の部屋を持つことができているので不満はない。

「ただいま」

 誰もいない空間に挨拶だけが響く。共働きの家は、どこもこんなものだ。両親が帰ってくるのは、大抵九時過ぎ。二人とも外食をしてくるから、一人だけの食事になる。お金を渡すと違うことに使うから。中学生のときに言われて以来、冷蔵庫には冷凍食品がいつも常備されている。

 パック詰めしているご飯をレンジに入れ、解凍する。おかずを皿に並べて、レンジに放り込む。食卓に一人分の料理を用意した。いただきますと言いながら手を合わせて、夕食を始める。

 わびしい食事だ。小学校の頃までは、母親が一生懸命早く帰ってきていたが、今はそういうこともない。

 時代だよなと思う。

 だからといって寂しいということはない。スマートフォンでSNSをチェックする。食事中と投稿する。いつも誰かと繋がっている。ネットの友人のおすすめ動画を見て、笑いながら食事の時間を過ごした。

 食器を洗い、部屋に干してある洗濯物を取り込む。風呂に入り終えた頃に、母親が帰ってきた。

「光、宿題した?」

「これから」

「進学校に入ったんだから、ちゃんと勉強しなさいよ」

「はーい」

「宿題、さっさと片付けるのよ。このあと家族でゲームをやるんだから」

「はいはい、分かりましたよ」

 光は、仕方がないといった調子で返事をする。

「あんたがいないと回復要員が、いないんだからね」

「僕は、いつものように、ウィキペディアを読みながら回復だけするからね」

「はあっ、あんた、もっと真面目にやりなさいよ」

 母親は、腰に手を添えて文句を言う。

 光の両親は重度のゲーマーだ。知り合った切っ掛けはMMORPG。母親は戦士系、父親は魔法使い系ばかりを選んでいる。

 二人は、回復要員が欲しいということで、生まれた子供に光とつけた。光属性の子供に育つことを期待したそうだ。

 家にいるときは大抵ゲーム。小さい頃は、何の疑問も持たなかったが、小学生の半ば頃からおかしいと思うようになった。他の家は、自分の家ほどゲームをしないと聞いて、卒倒しそうになった。

 そうした家だから、コンピュータだけは自由に使わせてもらえる。

「ああ、もう、早くお父さん帰ってこないかな。昔はね、こう言ったものよ。ねえ、あなた。お風呂にする、ご飯にする、それともロ・グ・イ・ン? そして、あなたが生まれたの」

「やめてよね。親のそんな話、聞きたくないよ」

 このセクハラおばさんがと、光は思う。

「あら、ゲームの話よ、ゲームの話」

 母親は笑いながら言う。

「さあ、さっさと宿題をするのよ」

「えー、お母さんも手伝ってよ」

「自分でやらないと意味がないでしょう。急いで急いで。家族で一緒に遊ぶわよ!」

 本当に面倒くさい母親だよなあと、光は思う。

「ねえ、お母さん」

「何?」

 ふと尋ねてみたくなった。

「お母さんは、どういう人を信用する?」

 最近ずっと考えていることを、母にぶつけてみる。

「信用ねえ。パーティーを組めるか、どうかかなあ。あんたのことは信用しているよ。きちんとしたタイミングで、適切な回復魔法をかけてくれるからね」

 笑いながら母親は言う。

 いや、ゲームの話をしているんじゃないんだけど。そう思いながら、もう一つ質問する。

「じゃあ、信用されているけど、実力が足りない状態のときはどうする?」

 母親は、光のことをじっと見る。そして真剣な顔をして答えた。

「経験を積んで、実力を上げるしかないんじゃない? あとはマンガみたいに、師匠に弟子入りするとか。

 実力を伴うからこそ、本当に信用されるわけだしさ。今やっているゲームにしたって、あんたのキャラのレベルが低かったら、やっぱり信用できないしね」

 そうだね、と答える。

 自分には信用に見合う実力がない。そのことで心苦しい思いをしている。中身のある人間になるには、経験値や師匠が必要なのかもしれない。


 翌日、学校に行き、放課後になった。電脳部に顔を出して、いつものように桜小路先輩を観察する。先輩はプログラムを書いている。そうしたときの眼鏡の奥の目は、いつも真剣だ。

 僕はそっと立って、部屋の奥にある資料棚に向かう。椅子に座った先輩の姿を、背後から観察する。

 桜小路先輩は、今日も髪を三つ編みにまとめている。うなじが露わになっており、白く優美な曲線を描いている。近づいて触れてみたい。しかし、手を出すことは許されない。僕は自身の欲望を、理性で制御する。

 電脳部の女神。僕の憧れの対象。先輩は、部内の孤高の存在として君臨している。

 僕は静止したまま、先輩の首元を見つめる。あまり長いあいだ棚の前にいると、変に思われるかもしれない。

 自分の席に戻ろうとすると、入り口の扉が開いた。

 顔を向けると、目つきの悪い、小柄で華奢な少女が立っていた。

「平原くん、いる?」

 高圧的な声。九天だ。突然の少女の呼び出しに、部員たちが驚いた。

「平原に女の子が訪ねてきた」

「一年の来栖さんよ」

「付き合っているのか?」

「くそっ、何と手の早い男なんだ!」

 たちまち話題になり、部室内が騒然となる。

 光は慌てて入り口に向かい、九天を連れて逃げるように廊下に出た。

「何、入っちゃいけなかったの?」

 困惑しながら九天が声を漏らす。

「そういうわけじゃないけど」

 変にはやし立てられて、桜小路先輩に勘違いされたら困る。

「まあ、いいわ。このあと暇?」

 暇と言えば暇だ。桜小路先輩のように、部室でゴリゴリとプログラムを書いているわけではない。部室で雑学を仕入れ、エミペディアを更新しているだけだから、時間はいくらでもある。

「私が来るように言っても、斎藤が来ないのよ。だから平原くんが、斎藤を連れて事務所まで来て欲しいの」

 怒ったように九天は言う。

「いったい、どういうことなの?」

 話の筋が読めない。そうした態度で尋ねると、いらだった表情で九天がにらんできた。

「私はね、女子のあいだでは嫌われ者なの。残念ながら、私という人間には信用がないの。でも、あんたにはある。だから、手を借りたいの」

 信用という言葉を聞き、光は考えを巡らせる。

 自分には、なぜか信用がある。そのことを常々不思議に思っている。逆に、九天には信用がないようだ。彼女はそのことで、不自由を感じているわけだ。

「分かった」

 困っている人がいれば全力で助けたい。それは当たり前のことだと思う。そうした教育を、両親から受けてきた。

 それに、自分の信用が役に立つなら、大いに活用して欲しかった。

「斎藤のこと任せたわよ。なるべく早く連れて来てね。大切な話があるから」

 九天は背を向け、足早に去っていった。


 何人かに話を聞き、学校の玄関近くの廊下で、斎藤を捕まえることができた。

「ねえ、斎藤さん」

「何だ、平原か」

 帰ろうとする斎藤を引き留め、話をする。

「というわけなんだ。もう一度、来栖さんのところまで同行してくれないかな」

 九天に頼まれたということを正直に伝える。

「どうして私が、来栖なんかの家に行かないといけねえんだよ」

 斎藤は心底嫌そうに言う。

「大切な話があるそうなんだ。それに、後払いの五千円がまだだよね。一緒に払いに行こうよ。僕も行くからさ」

「平原に渡す。だから、払っておいてくれ」

 財布を出して、斎藤は五千円札を取り出す。

「そういうわけにはいかないよ。自分できちんと払ってよ。それに、僕が持ち逃げするかもしれないよ」

 必死に説得しようとしたら、斎藤が笑いだした。

「平原は持ち逃げしないだろう。人のいいあんたが、そういうことをするとは思えねえよ」

 少し斎藤の態度が軟化した。

 僕は、人がよさそうに見えるのか。別に、清廉潔白な人間ではないんだけどな。そう考えながら、斎藤の説得を続ける。

 結局十分ほどかかって、同行を了解させた。不満たらたらの斎藤とともに、光は学校をあとにして、九天の家を目指した。



  ◆ 裁きの剣


 手書きのエスポワールという看板に、木造二階建ての集合住宅。

 二〇一号室の扉を開けると、九地と九天が待っていた。九地は硬い表情をしている。九天も険しい顔つきだ。何かトラブルがあったのか。それとも重大な事実が発覚したのか。光は心の中で身構える。

 斎藤と光が入ってきたところで、九地が席を立った。

「犯人が分かりましたので報告します。名前は下塚真司。都内で高校の教師をしています」

「げっ、学校の先生かよ」

 斎藤が驚いて声を上げる。

 ストーカーも人間だ。寝て起きて食事をして、社会人なら仕事をしている。当たり前のことなのに想像できていなかった。ゲームのモンスターか何かのように考えていた。

「そうです。学校の教師です。しかし問題はそこではないんです。もっと深刻な事実が見つかったんです」

 重大ではなく深刻。似た言葉だが、指し示す方向が違う。

 九地はノートパソコンを操作して、画像ファイルを開く。女性の裸の写真が表示される。エロ画像か。九天も斎藤もいるのに、いいのかな。心配になりながら、真剣に見つめる。

 何かがおかしい。ネットでよく見かける、その手の画像とは大きく違っている。

 全体的に暗く、画質が粗い。写っている人は、怯えているようだ。AVの宣材写真ではない。素人が撮影したもの。そして、年齢が若すぎる気がする。

「被写体となっている女性は何人かいます。その中の何人かは、関東の高校の制服を着ていました」

 九地の言葉を聞き、女性のはだけた服を凝視する。それは紛れもない制服だった。人肉で作ったパズルが、頭の中で完成していくような嫌悪感を覚える。

 ノートパソコンに手を伸ばして、九地は画像を閉じた。そして一呼吸置き、体ごと斎藤に向き直る。

「下塚のパソコンに保存されていた写真の少女たちは、いずれも似たタイプでした。斎藤さん、あなたと同じように、派手な髪型や化粧をして、スカートを短くしていました」

 斎藤は震えている。横の光は、唾を飲み込む。そして、九地の説明から連想できることを口にする。

「レイプですか」

 九地はうなずく。

「警察が犯人を特定するのは困難だと思います。リアルでの接点はないわけですから。それに、被害届が出ているかどうかも怪しいです。被害者は、被害の事実を隠したいはずですから」

 斎藤が青い顔で、床にへたり込む。次のターゲットが自分だと気づいたのだ。このままでは、写真の少女たちと同じ運命をたどる。

「警察に相談するにしても、事件の真相までたどり着くには時間がかかります。だからといって、この情報を持っていくと、私が不正アクセスで捕まってしまいます」

 そうだろう。証拠になるデータは、相手を罠にかけて違法な手段で入手したものだ。表に出せるものではない。

「闇の世界で蠢いている者には、闇の一手で制裁を加える――。

 斎藤さん。後払い分の仕事について話をしましょう。この下塚真司に、攻撃を加えますか? 二度と立ち直れない一撃を加えて、社会から葬り去りますか?

 私は遂行者でしかありません。あなたが決めるのです。下塚を地獄に落としたければ、私があなたの剣となり、裁きをくだしましょう」

 九地の声から優しげな雰囲気は消えていた。いつしか狂気を孕んだ刃のようになっていた。

 部屋の空気が濁ったように感じた。空気の密度が高まり、息苦しさを覚える。光は、自身の鼓動が速くなっていることに気づいた。

「さあ、斎藤さん、依頼してください。そして、敵に対して剣となる言葉を振るってください。地獄へ落ちろと!」

 九地の声は昂ぶっている。細く笑ったような目が、わずかに開いていた。ぎらぎらとして、燃えるような眼光が、目蓋の隙間から漏れている。横に立つ九天の表情は、氷のように冷たくなっていた。

 閻魔大王の裁き。地獄の入り口が、この場所に現出していた。懐古趣味のアパートに潜む九地は、闇の世界の怪物に見えた。

「地獄へ落ちろっ!」

 床に座り込んだままの斎藤が、怒りと憎しみを顔に浮かべて叫ぶ。その声を聞いた九地が、悪魔じみた笑みを浮かべる。

「九天、いいですか?」

 九地は妹に尋ねる。

「許可するわ」

 決意を込めて九天は言う。

「しかるべく!」

 九地は笑い声を上げながらエンターキーを叩く。ノートパソコンが、カリカリと音を立てる。針山地獄の針たちが、血を求めて一斉にざわめきだしたようだ。

 何かの処理が実行された。ネットで繋がった下塚のパソコンに、命令がくだされたのだろう。

「地獄の釜が開きました。下塚真司の友人知人のもとに、彼の犯罪の証拠がばらまかれました」

 九地は歓喜とともに言う。

 光は驚いて、九地の顔を見る。

「被害者の女の子たちの保護は――」

「私の依頼者は斎藤さんです。何か問題が?」

 九地の乾いた声に、仰け反りそうになる。

 ぞっとした。この人は、何かが壊れている。彼がおこなっているのは、正義でも何でもない。依頼の遂行。それでしかないのだと悟る。

「おにいちゃんの仕事は、私が決めるから」

 九天がぼそりとつぶやいた。

 光は彼女に視線を向ける。

 九天の目元には皺が寄っていた。苦悩が顔に浮かんでいる。彼女は憂えていた。ばらばらになりそうな感情を、意思の力で繋ぎ止めていた。

 大きな力を使いこなすには、多大なる精神力を要する。まともな人間ならそうだ。

 誰をも傷つける剣に、抜剣を決断する少女。彼女の心には、大きな負荷がかかっているはずだ。

 九天の目つきが鋭く、病んで見えるのは、兄のせいではないだろうか。

 室内に九地の笑い声が響く。部屋の温度が数度下がった気がした。冷気が背筋を震わせる。しばらく、そうした状態が続いたあと、徐々に寒気は薄らいでいった。

 魔の時間は去った。懐古趣味のおもちゃ箱の中は、元の姿に戻る。

「斎藤、五千円」

 目元に皺を寄せたまま、九天が手の平を出す。

 斎藤は、恐る恐るといった様子で立ち上がり、五千円札を財布から引き抜く。九天はそれを受け取った。

「私、帰る」

 熱病にうなされたように、斎藤は部屋をあとにした。ナイン電脳探偵事務所には、九地と九天と、光の三人だけが残された。



  ◆ 物語の始まり


 斎藤の事件から、一週間以上が経った。光は学校から帰る道すがら、スマートフォンでネットのニュースをチェックしている。

 下塚真司。その名前がニュースサイトで出ている。ネットのまとめサイトやツイッターでも、大きな話題になっている。

 報道が始まるまでは、児童福祉法違反などの容疑で、下塚が逮捕されると思っていた。しかし、実際の事件はもっと衝撃的なものだった。連続殺人事件。何人かの高校生が、行為ののちに惨殺されていた。

 今回の事件は、高校教師による犯行として、ワイドショーでも盛んに報道されている。下塚の写真も、ネットに多数流れてきた。人々は、下塚の個人情報を調べて、ネットに投下している。

 斎藤には九天が釘を刺した。警察が来ても、知らぬ存ぜぬで通すようにと。斎藤は九天に弱みを握られたのか、絶対に口外しないと約束した。彼女自身も、積極的にこの件に関わり合いたくないのだろう。

 ネットのニュースのチェックを終え、光は、珍しくスマートフォンを鞄に仕舞った。

 この数日、ずっと悩んでいた。信用だけあり、実力のない状態が、いかに危ういかということだ。

 もし、プロに頼らず、斎藤の依頼を保留していれば、斎藤は殺されていた可能性がある。中身のないまま頼られると、頼ってきた相手を傷つけることがあるのだ。

 今後どうするか。光の選択肢は二つある。全ての依頼を断ること。あるいは信用に値する実力を身につけること。

 前者を選ぶのは簡単だ。人間関係にひびが入るかもしれないが、努力は必要ない。ただ、誰にも頼られない孤独な生涯が待っている。ソロプレイの人生だ。

 光は、桜小路先輩のことを思う。

 彼女は、信用と実力を兼ね備えた人物だ。中身のない者は、彼女に近づけない。困難を克服してこそ、彼女のパーティーに参加する権利が得られるのだ。

 光は今、ナイン電脳探偵事務所を目指している。

 自分をしのぐ圧倒的な実力を持った相手。力の振るい方はともかく、その知識と技術と経験は本物だ。その力を学んで自分のものにする。信用と実力の両立する人間になる。

 光は、駅前の繁華街を抜けて、住宅街を進んで行く。

 エスポワール――希望――と書かれたアパートの前に立ち、階段をのぼる。

 二〇一号室の前に立った。扉をノックして反応を待つ。

「どうぞ、扉は開いていますから」

 中から若い男の声が聞こえてくる。優しげな声だ。その響きとは裏腹に、男は心の中に闇を抱えている。

 光は扉を開ける。茶色を基調とした骨董品が、部屋を覆っている。そのため室内は、外よりも著しく暗い。

 事務所に入り、扉を閉める。

 ビリヤード台の向こうには、ノートパソコンを開いて作業をしている九地がいた。

 二人を隔てる青色の羅紗。その青い広がりは、此岸と彼岸を分かつ大きな川のようだった。

「どうしたんですか。また、ご依頼ですか?」

 九地は顔を上げて、にこやかに尋ねてくる。

「僕をアルバイトとして雇ってください」

 決意を込めて言うと、九地は困った顔をした。

「すみませんね。うちはこのとおり、儲けはそんなにないんですよ。今回の報酬も、一万円でしたしね」

 九地は、決まり悪そうに肩をすくめる。

「それに私の行動は、自分では決められないんですよ。妹の九天に決めてもらうことにしているんです。約束ですからね」

 すまなそうに九地は言った。

 光は一呼吸置く。ここで退くつもりはない。今日は首を縦に振ってもらうまで、帰るつもりはない。

 信用だけの中身のない男とは決別する。九地から技術や知識を盗む。ゲームと同じだ。求められる役割をこなすために、レベルアップする。

 光は懸命に、バイトとして雇ってくれるよう頼み続ける。困った顔の九地と相対していると、背後に気配がしたので振り返った。開いた扉の向こうに、背の低い九天が立っていた。

「どうして、ここに来栖さんが?」

 彼女が現れたことに驚いて尋ねる。

「どうしてもこうしても、ここは私の家よ。学校帰りに歩いていたら、あんたの背中が見えて、何だろうと思っていたのよ。そうしたら、バイトにしてくれと、おにいちゃんに頼み込んでいる」

 九天は光の横を通り、室内に入る。彼女は、学校の荷物をビリヤード台の下に押し込み、冷蔵庫を開けた。

 ペットボトルの水を取り出して、切り子のグラスに注いでごくごくと飲む。立ち尽くしている光を品定めするように見たあと、ペットボトルを冷蔵庫に戻した。

「あんた、ここで働きたいの?」

「うん」

「お金は払えないわよ。うちも火の車でね。だからアルバイトはなし。ただ働きでいいのなら、こき使ってあげるけど」

「それでいいよ。来栖さん、弟子にしてください」

 九地に体を向けて、再びお願いする。

「だって、おにいちゃん」

 九天は、九地に視線を向ける。

「決めるのは私ではない。九天だよ」

 九地の答えに、九天は兄と同じように肩をすくめた。

「いいわ、平原くん。弟子入りさせてあげる。でも、仕事は普段何もないのよ。何かあったときに召集するから。

 あとは、そうね。必要に応じて雑用をしてもらうわ。ちょうど、冷蔵庫の中に食材がなかったから、買ってきてもらおうかしら。メモ用紙に欲しいものと値段を書くから、その金額以内で購入してきてちょうだい」

「それ、仕事と関係ないんじゃ?」

 馬鹿にされた気がして、思わず突っ込みを入れる。

「弟子なんでしょう。それぐらいやっても、罰は当たらないわよ。あと、これを近くのマンションのポストに投函してきて。こっちは、探偵事務所のちゃんとした仕事よ」

 九天は、棚から紙の束を出して、ビリヤード台の上に置く。ナイン電脳探偵事務所のチラシだ。

 ――サイバーDV、サイバーハラスメント解決します。よろず電脳犯罪への対処いたします。

「この仕事のついでに買い物もしてもらう。それでいいでしょう」

「分かったよ来栖さん」

 仕方がない。そう思いながら、手を伸ばしてメモとチラシを取る。

「それと、私たちの呼び方、兄妹だから来栖さんだと区別がつかないでしょう。おにいちゃんのことは、九地さん、私のことは九天と呼んでちょうだい」

「じゃあ、僕のことは光で」

「あら、もっと可愛い名前があったんじゃないの? 小学校の頃は、ぴかりんと呼ばれていたんでしょう」

 驚いて九天を見る。どうやらこの少女は、僕のことを調べたようだ。きっと、僕がその名前を恥ずかしがることも知っているのだろう。

「よろしくね、ぴかりん」

 九天は、意地悪そうに言ったあと、兄と押しかけ弟子を残して、奥の部屋へと消えていった。

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