第2話「家族ゲーム」
◆ プロローグ的何か 信用について2
人と人が、互いを補って生きていくには、信用が必要だ。
僕たちは完璧ではない。一人では生きていけない。今着ている服を、自分で一から作れるだろうか。インターネットに繋がるためのインフラを、自力で整備できるだろうか。
家族、社会。
人は誰かとともに歩んでいく必要がある。そして、人と向き合っていくにはコストがかかる。
お互いのことを絶えず警戒していては、円滑に生活できない。摩擦が生じ、労力が増え、神経をすり減らすことになる。
信用とは何か。それは権限の委譲のことだ。
自分の身の回りのことについて、様々な許可を与えることに他ならない。
ともに暮らす相手ならば、信用は必要だ。生活スペースは被り、道具は共有しなければならない。空間や物体だけではなく、共有すべき対象は、時間にもおよぶ。
もし信用が失われたとしたら、どうなるか。信用は、人々を繋ぎ留める、のりしろのようなものだ。その共有部分がなくなれば、糸を抜いたビーズのように、それぞれの部品はばらばらになる。人間集団は、いとも簡単に壊れてしまう。
◆ 中庭の恋
彼女は集中しており、ノートパソコンに意識を向けている。光はうっとりしながら、その姿をながめる。
放課後、しばらく時間が経っている。横浜の進学校。その電脳部には、十名ほどが詰めている。
電脳部の正式名称は、コンピュータサイエンス部。しかし、長々とした正式名称で呼ぶ者は少ない。設立当初から、短い名前、電脳部で呼ばれている。
この部活には現在二十名ほどいる。曖昧な言い方をしているのは、在籍しているのか辞めているのか分からない幽霊部員が、けっこういるからだ。
メンバーが全てそろうことは、ほとんどない。普段から部室に来るのは十名程度。一年生の光も、その中の一人である。
光は、桜小路先輩の真剣な顔を見つめる。自分が電脳部に入った切っ掛け。それは、彼女に恋心を抱いたからだ。
先輩の学年は二年。眼鏡をかけて、髪を三つ編みにしている地味めの美人。出会ったのは入学した直後だ。そのとき光は、小学校の頃からの親友の須崎
校舎に囲まれた中庭には、花壇と小さな池がある。花壇には、園芸部が植えた季節の花が咲き、池には亀が暮らしている。
まだ新入生だった光と翔は、放課後の時間を利用して校内を探険している。ちょうど部活の勧誘時期で、翔は軽音部に入部届を出し終えていた。光はまだ決めておらず、迷っていた。そもそも、自分に合う部活があるのか疑問だった。
光の趣味は、ウィキペディアやネットニュースを見ることだ。言うならばネットジャンキーだ。いまさらスポーツをやる気もなく、何か文化系の部活に落ち着ければと思っている。
中庭には何人かの上級生がいた。いずれも文化系の部活の人たちだ。翔と歩いていた光に、そうした先輩の一人が声をかけてきた。
「コンピュータサイエンス部に入りませんか」
ビー玉ほどの大きさの勇気を、振り絞った声。耳に届いた声は、光にはそう聞こえた。
振り向くと女性が立っていた。眼鏡をかけて、髪を三つ編みにしている。スカートの丈は長く、真面目なんだろうなと思った。
彼女を見たときの印象は、お世辞にもよいものではなかった。影の薄い人だな。そう感想を持った。
「コンピュータサイエンス部に入りませんか」
目の前の女性は、先ほどの言葉を繰り返す。彼女は、誰もが電脳部と呼ぶ部活を、きちんとした名前で言った。
「いやあ、サイエンスなんて、よく分からないですし」
何だか小難しそうだと思い、断ろうとする。コンピュータは家にある。しかし、サイエンスなんて高尚なものには利用していない。親に付き合ってゲームをしたり、雑学を仕入れたり、夜の実学に使用したり、そうした低俗な用途にしか用いていない。
「パソコン、使いたい放題ですよ」
彼女は、通り過ぎようとする僕たちを、引き留めようとして声を出した。
少し心が動く。ネット中毒の光は、暇さえあれば情報を収集している。学校でパソコンが自由に使えるのならば、それに越したことはない。
「ねえ、お姉さん。俺、軽音部に入っているんだけどさ、DTMをしてもいいの?」
翔が軽い調子で尋ねた。翔のこういった瞬発力は、いつも羨ましいと思っている。
「はい。大丈夫です」
先輩が、真剣な顔で答える。
「ネットもできるんですか?」
光も聞いた。常々、学校でも大きな画面でウェブページを読みたいと思っていた。スマートフォンの小さな画面では、閲覧性が悪いと感じるときがあるからだ。
「ネットもできます。インターネットに繋がっています」
自由にパソコンが使える。ネットも利用し放題。途端に魅力的な部活に見えてきた。
しかし、新入生が好きに備品を扱えるとは限らない。運動部のように、一年生のあいだは球拾いをさせられるかもしれない。
コンピュータサイエンス部の球拾いが、何なのかは分からない。LANケーブルを毎日繋ぎ直すとか? あるいはキーボードの分解掃除を、毎日させられるとか? どういった活動をしているのか、きちんと聞いておかなければと思った。
「あの、普段はどんなことをしているんですか?」
大変そうでなければ、籍を置いてもいいかなと考える。
「はい。人それぞれで、私は主にプログラミングをしています。少し前はRubyで開発をしていたんですが、最近はPythonに乗り換えて、でも、ウェブサービスを高速で動かすには、もっと実行速度の速い言語でコーディングするべきだと考えていて――」
三つ編み眼鏡の先輩は、自分がしていることを伝えようと、一生懸命説明する。
眼鏡の奥の目が輝いていた。本当に好きなことを語っているのが分かった。素敵な女性だなと思った。彼女のことをもっと知りたいと感じた。
名前も告げていない先輩は、延々と僕たちに話し続ける。放っておくと、シェヘラザードのように幾夜も重ねそうだ。
「仮入部からでいいですか?」
話を打ち切るために声をかける。
「はい。入ってくれるんですか」
ぱっと表情が華やいだ。小さな花が、その場に咲いたように思えた。
「僕は平原です。こっちは須崎。ヒカル、ショウと呼び合っています。あの、先輩のお名前は?」
尋ねられた先輩は、口元に手を添えて顔を真っ赤に染める。心底恥ずかしそうに、耳まで赤くした。
「ご、ごめんなさい。私、名前を言ってなかったみたい」
消え入りそうに目を閉じたあと、先輩はもじもじと名前を口にした。
「桜小路恵海です。ちょっと変わった名字で、桜に小さい路と書くんです」
「あと、先輩。後輩の僕たちに敬語って、おかしいと思いますよ」
うんうんと、翔も腕を組んでうなずいた。
「そういえば、そうね」
桜小路先輩は、照れた様子で笑顔を見せる。
「――平原くんと、須崎くん。さっそく私たちの部活に来てみない?」
嬉しそうに先輩は言う。先輩の笑顔は、明るい陽の光に照らされた、桜の花びらのようだった。
◆ 探偵紹介します
放課後の電脳部には、キーボードを叩く音と、マウスをクリックする音が響いている。席に着いている部員は一年、二年が多い。受験のある三年生はあまり顔を出しておらず、実質的に二年生が最高学年になっている。
事務机が並ぶ島には、パソコンが十台並び、部員は思い思いに使っている。席は決まっていない。みんな適当に空いている場所を選ぶ。そうした自由な空気の電脳部だが、たった一つだけ持ち主が決まっている席がある。机の島の一番奥。上座に当たるところだ。
その場所は、部員の中で最も情報技術に明るく、周囲に信頼されている人間が利用している。この部活の女神である桜小路先輩だ。彼女は、部室のパソコンとは別に、自分のノートパソコンを持っている。既に自身のプログラムでお金を稼いでいる先輩は、開発機材を自己資金でそろえている。
桜小路先輩は、他の部員たちとは格が違う。三年生も彼女を立てている。まだ部長は引き継いでいないが、実質的なリーダーとして振る舞っていた。
かくも桜小路先輩は素晴らしい人なのだが、僕は違う。太陽に対する月、女王を見上げるアリンコといった風情だ。
僕の日課は、桜小路先輩を観察することだ。そして、エミペディアという、僕だけのウェブサービスに記録することだ。僕は、誰にも公開していない情報を、延々と蓄積し続けている。
僕は夢想する。
将来的に桜小路先輩が、歴史上の偉人になったとき、僕の記録が人類の役に立つかもしれない。
偉人と伝記作家の関係。あるいはアイドルとストーカー。僕はそうした卑小な存在に甘んじることを、よしとしている。彼女の視界の隅にいる小石として、日々忙しく活動している――。
自虐的な台詞を頭の中で並べ立てた光は、窓の外を見て立ち上がった。
一人の女性が立っている。古沢彩香。同じ学年の女子生徒だ。
不良と言うほどではないが、唇には薄く口紅を塗っている。積極的な性格で、女子グループの中ではリーダー的な存在だ。
他人に相談事をするよりは、される側。男子からの人気は高く、ラブレターを書いて玉砕した人を、何人か知っている。その古沢が、光に相談事があると言ってきた。
自分では解決できないことが起きているのだろう。
光は時折、ネット絡みの相談事を受ける。ネットジャンキーで電脳部所属の光は、一般人から見ると、情報技術に精通している人間に見えるらしい。それに光は昔から、なぜか人に信用され、お願い事をされることが多い。
たとえば街に出ると、よく道を尋ねられる。子供の頃は、周囲の人に手伝いを頼まれ、そのお礼にお菓子を頻繁にもらった。
最近一番驚いたのは、電脳部の顧問の早瀬あかり先生に、相談を持ちかけられたことだ。情報技術がまったく分からないけど、若いからという理由で、顧問を引き受けさせられた。彼女の悩みを打ち明けられたのだが、一年生の僕にどうしろと言うのだ。
光は席を立ち、廊下に向かう。電脳部の活動は出入り自由だ。運動部と違って、非常に緩い集まりだ。
扉を開けて、古沢の前に立つ。
「どこで話す?」
「渡り廊下で」
この時間、人が少ない場所だ。運動部の活動はもう始まっているし、帰宅部の人間は引き上げている。ちょっとした個室のようになっていて、相談事を聞くには、ちょうどよい。
「それじゃあ、行こうか」
軽く声をかけ、光は古沢とともに場所を移動した。
「それで、古沢さん。相談事ってどんなことなの?」
校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下。その壁に背を預けて、古沢の話を聞く。
「うん。どう言ったらいいのかな。平原ってさあ、親に監視されているな、と感じたことはある?」
「うーん。うちは、時間の拘束はされるけど、やるべきことをやっていれば、あとは自由だからね。監視されていると感じたことはないかなあ」
「そうか」
古沢は、迷うように視線を逸らす。
どう言えば正解だったのだろうか。古沢が、話しづらくなったのなら悪いと思い、「監視って、どういうこと?」と水を向けた。
「親がさ、学校のこととか、妙によく知っていたら、どう思う?」
「誰かに聞いたのかなと、思うんじゃない」
「友達にメッセージで送った内容について、いきなり触れてきたら?」
少し真面目な表情になって考える。
「さすがに、それはおかしいよ」
「だよな」
古沢は腰に手を当て、渡り廊下の壁をコツコツと蹴る。
「何かさあ、盗み見られている気がするんだよ」
「家で、こっそりとスマホを確認されているとか?」
「そう思ったからさ、枕の下に隠して寝ているんだよ。学校にいるあいだは、当然持ち歩いているしさ」
相談の内容が飲み込めてきた。何らかの方法で、スマホの情報を盗み見られている。それも自分の親に。古沢は、そう思っているのだ。
「お父さん、お母さん、両方が、メッセージの話題を振ってくるの?」
「うちさ、親父は単身赴任で家にいないんだよ。だから母親。人のプライバシーを覗くとか、最低の行為だよ。でも、どうやって見ているのか、さっぱり分からなくてさ」
なるほど。その方法を突き止めて、監視をやめさせたいわけか。
光は顎に手を当てて考える。スマートフォンに、監視用のアプリを、こっそりと入れられたのかもしれない。もしそうなら、アンインストールすれば解決する。監視用のアプリがなくなれば、情報を盗み見ることができなくなるからだ。
「スマホ、見せてくれない。どんなアプリが入っているのか知りたいから」
古沢はロックを解除して渡してくる。写真系のものが多い。あとは、SNSやメッセージなど、コミュニケーション系の定番アプリが入っている。動画や音楽を視聴するものもある。どれも有名どころばかりだ。特に危険そうなものは見当たらない。
「うーん」
「何か分かった?」
「いや、何も」
どうやら僕には手に負えそうもない。もっと実力がある人に、ご登場を願う案件のようだ。
「実はね、古沢さん。僕は今、電脳探偵事務所に所属しているんだ。もし古沢さんがよければだけど、その事務所の人に相談しない?」
「お金、かかるのか?」
やはり、そこが心配だよねと思う。
「依頼ということになるかは、まだ分からない。いざ仕事となった場合は、学生料金で一万円になる。込み込みなので、足が出ることはないよ。
また、初回相談無料というルールもある。もしかしたら、その枠内で解決できるかもしれない。それなら、古沢さんもお金をかけずに済むしね」
九地さんには悪いけど。高校生に一万円は大金だ。
古沢は迷っているようだ。友人に相談したと思ったら、探偵事務所に依頼する話を振られた。こんなはずじゃなかったという思いがよぎっているのだろう。
「閉じこめられて、依頼するまで返してくれないとか、ないよな?」
「大丈夫だよ。それは保証する」
「分かった。じゃあ、その探偵事務所に行くのは、明日でいいか?」
「今日は?」
「一万円払えそうか考えてから行く。いざ仕事を頼むとなったときに、お金がないというのは避けたいから」
真面目だなあ。初回相談無料なんだから、適当に相談しに行けばいいのに。少なくとも僕はそうした。自分では一円も払わなかった。
「じゃあ、明日、待ち合わせをして一緒に行こう。今日のあいだに、前振りとして話をしてもいい?」
「ああ、それぐらいなら」
古沢はうなずいたあと、渡り廊下を駆けて、校舎の方に消えていった。
一人になった光は、ゆっくりとした足取りで電脳部に戻ろうとする。渡り廊下を過ぎて、校舎に続く扉を開けたところで声をかけられた。
「素人のくせに、また依頼を受けているの?」
扉の陰に、小柄で華奢な、目つきの悪い女の子が立っていた。
光とは同学年で、女子のあいだで孤立していると聞いている。どうやら今の話を、扉の向こうで聞いていたようだ。
「営業活動と言って欲しいね。僕は九地さんの弟子だからね。僕への依頼は、九地さんへの依頼でもある」
「自分で解決しようとしたくせに」
痛いところを突かれる。
「今日のうちに話をしてもいいと言質を取ったから、これから事務所に行って、九地さんに相談するよ」
「まあ、事務所っていうか、うちなんだけどね」
自宅兼事務所。ナイン電脳探偵事務所は、九地と九天が暮らすアパートの部屋でもある。
「じゃあ、九天、一緒に帰る?」
「荷物は?」
「電脳部。取ってくるから玄関で待っていて」
「仕方がないわね」
九天は、面倒くさそうに玄関へと向かった。
昭和のアパートといった風情の、木造二階建て集合住宅に着いた。エスポワールという手書きの看板の横を通り、建物の側面についた鉄製の階段をのぼっていく。
二〇一号室の前に来た。九天は扉を開ける。部屋の中を見た彼女は、動きを止めた。肩越しに覗くと、四十歳前後の女性が振り向いていた。
所長の九地が外出することはほとんどない。それに客が訪れることもまれだ。九天は、どうせ兄しかいないだろうと思い、ノックもせずにいきなり入ったのだ。
社会人は十万円、学生は一万円。この電脳探偵事務所の料金を、光は頭の中で思い浮かべる。
骨董品の並んだ部屋の中央には、青羅紗のビリヤード台が鎮座している。九天は学校の荷物を、その台の下に押し込む。九地は、ちらりと妹と光を見たあと、女性客に優しく声をかけた。
「依頼を受けるかどうかは、今晩メールでお知らせします。決定権を持った者が不在でしたからね。内容を伝えて可否の判断を仰がなければなりませんから」
その決定をくだす者が、高校一年の妹であることを、九地は告げなかった。
女性が立ち、入り口の扉に向かう。光は、すれ違って出て行く客の様子を観察した。どこかで見たことのある顔だ。彼女が去ったあと、九地に依頼の内容を尋ねる。
「子供に監視されている気がするという依頼でしてね」
「へー、そうなんですか。実は今日、僕も似た相談を学校で受けました。そちらは、親に監視されているみたい、という話だったんですが」
「監視の方向は逆ですが、そっくりですね」
話の内容を伝えたあと、客の情報を入力するために、クリップボードを手に取る。顧客カードに書かれた名前を見て、光は驚いた。
――古沢佳枝。
彼女のことを、見覚えがあると思った理由が分かった。先ほど学校で相談を聞いた相手は古沢彩香。同じ名字だ。そのことを九地に伝える。
「娘さんの名前は彩香だとおっしゃっていました。親子で間違いないでしょう。これは興味深い案件ですね。ちなみに母親は、とても強い猜疑心を持っていました」
「古沢さんの方もです」
二人は、互いの視線を絡ませる。
九地が、口を開く。
「互いが監視されていると思っている。それも、自分の情報が筒抜けになっていると感じている。どうしてそんなことが起きるのでしょうね」
現時点では、答えは分からない。
「どうかな、九天。この二つの依頼、受けるべきかな?」
九地は、妹に尋ねる。
問われた九天は、目元に皺を寄せて考える。
「古沢佳枝も古沢彩香も、悪人ではないわ。悪い人間に協力するのでなければ構わないわ」
――悪人か否か。
九天の判断基準はそこにあるようだ。
彼女は、兄を悪人の側に立たせたくないのだろう。過去に何かあったのかもしれない。九地の豹変する人格には、理由があるのではないかと、光は考えた。
◆ ゲームマスター
翌日、古沢とともにナイン電脳探偵事務所に向かった。
JRの駅の近くまで行き、繁華街を抜ける。三車線の道路を渡り、住宅街をしばらく歩いた。エスポワールという手書きの看板の、木造二階建て集合住宅に着く。露出した鉄製の階段をのぼり、二〇一号室の扉を開けた。
雑多なガラクタが詰め込められた部屋。青羅紗のビリヤード台の向こうには、小さな机がありノートパソコンが載っている。机の前には、白いシャツに緋色のサスペンダーの九地が座っている。隣には九天がいて、スマートフォンを覗いていた。
「ここって、もしかして来栖の家?」
古沢は、舌打ちしそうな顔で言う。九天が、女子のあいだで嫌われて孤立しているのは知っている。だから、彼女の家であることを黙って、古沢を連れてきた。
「うん。九天のお兄さんが事務所を開いているんだ。そこで僕はいろいろと教えてもらっている」
九地が立ち上がり、軽く会釈する。
「ナイン電脳探偵事務所の所長、来栖九地です。初回相談無料ですので、リラックスしていただければと思います。
どうぞ、おかけになってください。お茶にしますか、それともコーヒー、紅茶にいたしましょうか」
優しげな声で語りかける。
「じゃあ、水で」
長居したくないのだろう。光も最初に来たときはそうだった。
九地は残念そうな顔をしながら、棚の切り子のグラスに手を伸ばす。そして、冷蔵庫からペットボトルを出して、冷やした水をグラスに注いだ。
水を一口飲んだ古沢は、自分の身の回りに起きていることを話しだす。
父親は単身赴任。母親と二人暮らし。その母親が、知ることができないはずの情報を話題にする。
古沢が友人と遊びに行く予定だとか、仲間内で欲しいと言っているアクセサリーについてだとか、内輪のメッセージでしか、やり取りしていない内容について触れてくるそうだ。
「なるほど。情報が漏れているのは確かだけど、どこから漏れているのか分からない。その方法を知りたい。そして対策をしたいというわけですね」
「ええ。絶対に何かやっていると思うんです。私に隠れてこっそりと」
古沢は、溜め込んでいた不満をぶちまける。
学校に行っているあいだに、勝手に部屋に入る。ノートを無断で見て、勉強していないと文句を言ってくる。そうしたことを平気でする母親だから、スマートフォンの情報も、盗み見ているはずだ。古沢はそう主張する。
信用できない相手が、同じ屋根の下にいるというストレス。疑い始めれば切りがない行動の数々。
あの女を生活空間から排除したい。顔も見たくない。
思春期特有の親への拒絶感もあるのだろう。古沢は実の母親を、盗人呼ばわりして罵倒した。
「分かりました。お母様へのご不満は、いったん脇に置いておきましょう。まずは現状把握からおこないます。平原くん、記録係をお願いしてもよいですか?」
光はクリップボードを手に取り、コピー用紙を挟む。光がシャープペンシルを構えると、九地が質問を始めた。
「古沢さんの家にあるIT機器と、そこに入っているアプリの名前を、全て挙げてください」
「何で、そんなことを」
疑問の声を古沢は上げる。
「家の戸締まりをするのに、窓や扉の場所を把握してないと、どうしようもありませんよね。普段使っていないからといって、開けっぱなしにしていたら、泥棒はそこから入り込みます。
まずは、そういった侵入口になる可能性のある場所を、リストアップします。その中に脆弱性が存在するものがあれば、そこから侵入されている可能性があります。
本来なら、全ての機器やアプリのバージョンを確認しないといけないのですが、まずはリストだけ作ってみましょう」
古沢は斜め上を見たあと、家にある機器と、利用しているアプリを列挙し始める。
個人のスマートフォン、家の共用のパソコン。それらに入っているOSや、ウェブブラウザの種類。自分のスマートフォンに入れている写真加工アプリやSNS、メッセージ系のアプリも挙げていく。
「平原くん。記入した一覧を見せてください」
促されてクリップボードを渡す。九地は、別の用紙を取り出して見比べる。
九地は光を呼び、手元の二枚の紙を見せた。一つは光が書いたもの。もう一つは九地が記した、古沢の母親のものだ。
母親と娘は、同じ家に住んでいるのに、挙げているものがばらばらだった。使っているアプリはともかくとして、家にあるIT機器は一致していないとおかしい。そのことから、二人が家の機器に無頓着なことが分かった。
「全然把握していないですね」
「ええ、見事にばらばらですね」
九地は、古沢に顔を向ける。
「古沢さん、次の質問です。パスワードはどのように管理していますか?」
「手帳に書いています」
「何種類ありますか?」
「はっ?」
古沢はきょとんとして、一種類ですがと答えた。
「パスワードも杜撰ですね」と光は告げる。
九地はうなずき、もう一枚紙を取り出して光に見せた。古沢の母は、娘に見られないように家計簿に挟んで保存しているようだ。こちらもパスワードは一つだけで、使い回している。
「どちらも、セキュリティ意識が欠如しているようですね」
「平原くんなら、どういったシナリオを想定しますか?」
紙に書かれた文字をながめて考える。IT機器とアプリのリストは無視して、パスワードの管理方法に焦点を当てる。いずれも、書いてある場所さえ知っていれば、家庭内でちょっとした隙に確かめられる。
「お互いに盗み見たんですかね。たとえば、お風呂に入っているときとか、買い物に行っているあいだとか、そうしたタイミングで確認できますよね。どこにあるか知らなくても、探せば発見できそうな場所ですし」
「個別の案件ならそうです。しかし、今回はもう一つ条件がつきます。互いの監視が、ほぼ同時期に始まっています。そのことに理由が必要です。そこはどう考えますか?」
光は腕を組む。同時に起きる切っ掛けが何かあったのか。
二人の行動開始が一致する切っ掛け。
「家庭内の事情が関係しているんですかね?」
「平原くん、重要な情報を聞きそびれていますよ。本人が目の前にいるのに」
推理のためのパーツが欠けている。九地はそう言っているのだ。
九地は古沢に顔を向ける。
「古沢さん。あなたは、お母様を監視していますか?」
不思議そうな顔を古沢はする。そのことから、まったく想定外の話、欠片も身に覚えがないことだと察せられた。
「どういうことですか?」
「やはりそうでしたか。あなたのお母様も、そうしたことはしていないと、おっしゃっていました」
古沢はぽかんとする。彼女は、母親がこの探偵事務所を訪れたことを知らない。話の筋が見えないのだろう。
「鈍いわね」
部屋の隅にいた九天が声を出す。
「似たような依頼が来ているのよ、あんたの母親から」
「ええっ!」
古沢は、飛び上がりそうになる。
九天はため息を吐いたあと、説明する。
「あんたの家の二人は、互いに相手に監視されていると思っている。しかし、どちらも監視はしていない。それなら可能性は、外部の人間の仕業ということになる。
これが企業のパソコンだったら、脆弱性を突かれた可能性を考えるわね。企業では、同じソフトを複数のパソコンで使っていることが多い。そのため、同じ穴を突かれて、一度に侵入を許してしまうことがある。
ただ、今回のケースはおそらく違う。パソコンではなく、スマホで書いた情報が盗まれている。二人が使っているアプリはばらばらで、家に特殊な機器があるわけでもない。そうした事実から考えて、パスワードが元凶だと思う。
利用しているウェブサービスのどれか一つで、データの流出事故が起きたのかもしれない。もしそうならば、同じアカウント名とパスワードを使っている、全てのサービスにログインできる。本来は、そうした事態を避けるために、サービスごとにパスワードを変えておかないといけない。
原因はたぶんパスワード。ただ、謎もある。なぜ犯人が、あんたたちが親子だと分かったかということよ。
個別に流出したのならば、侵入はできても親子とは簡単に分からない。今回の攻撃者は、二人を親子として認識し、互いの情報を伝えている。そもそも、なぜ、そんなことをしているのかも不明よ」
確かに謎だらけだ。流出したリストから、ランダムに攻撃相手を選んでいるのならば、辻褄が合わない。普通、それぞれのユーザーが家族かどうかなんて知りようがない。
それならば家庭内からの攻撃ではないか。たとえば単身赴任の父親が犯人とか。うーん、なぜそんなことをするのか説明がつかない。
「機器やアプリ、パスワードについては、古沢さんのお母様にも尋ねました。その結果が、この紙です。この中に答えがあります」
九地は、母親が利用している機器とアプリのリストを取り上げる。そして、ペンを取り、丸印をつけた。
「古沢さん。『レッツファミフォト』はご存じですか。家族でアルバムを共有するサービスです」
記憶をたどるような顔を古沢はする。
「昔使っていたことがあります。小学生の頃に、親が持たせてくれたキッズ向けスマホに入っていた記憶があります」
「今は使っていない?」
「はい」
「その頃のアカウント名とパスワードを、今も使っていませんか?」
古沢はうなずいた。
「このレッツファミフォトは、二年前にパスワード流出事件を起こしました。ご存じですか?」
古沢は首を横に振る。
おそらく九地は、古沢の母親にヒアリングしたあと、それぞれの項目について調査したのだ。そして、流出事件を突き止めた。
「レッツファミフォトは、それほどユーザー数が多くなかったので、あまり話題になりませんでした。クレジットカードの情報が漏れていなかったのも大きかったのでしょう。セキュリティ界隈では注目されましたが、一般での報道はほとんどありませんでした。
そのときの流出では、家族のアカウント、パスワード、メールアドレスがセットで漏れています。情報を入手した第三者は、家族を対象に攻撃ができるようになりました。
被害者がアカウント名とパスワードを変えておらず、それらを使い回していれば、他のサービスに、同じアカウント名とパスワードでログインできます。
そうなれば、やりたい放題です。他人に見せていない文章や写真を自由に閲覧できます。勝手にメッセージを送ることも可能です。そのような権限があれば、今回のようなトラブルを起こせます。
私はネットの深部に潜り、実際に流出したデータを入手してみました。そこに古沢さん親子のアカウントがありました」
古沢は、緊張した顔で九地の話を聞いている。九地は一呼吸置き、声を出した。
「この先の話は仕事を請けてからになります。学生料金一万円。その金額を支払っていただくことになります」
古沢の表情が硬くなる。高校生には大きな金額。払うべきか、払わざるべきか、決めかねているのだろう。
九地は、ビリヤード台の青羅紗の上に、一万円札を五枚広げる。
「本来ならば、今話したように一万円です。しかし今回は、お金の件は、心配しなくてもけっこうです。実は今日の昼に、古沢佳枝さんが訪問してきて、前金を置いていきました。だから調査を進めていたんです。
事件は一つしか起きていません。あなたからお金をいただくと、二重課金になってしまいます。ですから、古沢さんが支払う必要はありません」
古沢は、ほっとした顔をする。
にこやかな九地とは裏腹に、九天は不満そうだ。二人からお金をもらえば一万円得をする。わざわざ売り上げを減らさなくてもよいのにと言いたげだ。
「教えてください。いったい、私の家で何が起きているんですか」
「そのためには、詳細を確認しなければなりません」
九地は、古沢にスマートフォンを借りる。そして、彼女が受け取ったメッセージを見る。
――母親が、旦那や子供に隠れて、男の人と会っていたら気持ち悪いよね。単身赴任だからって、不倫みたいなことをするのは、どうかと思う。それとなく尋ねた方がいいよ。
――昨日、親が勝手に部屋に入って引き出しを漁りやがった。絶対許せない。親がやっていないか、聞いた方がいいよ!
送信者は、一ヶ月ほど前にネットで知り合った相手らしい。メッセージを利用して、母親の行動を古沢に伝えているようだ。
「やはり、こちらも似た内容ですね」
九地は、光たちに体を向ける。
「犯人がおこなっていたのは、おそらくこういうことです。まず、メールやメッセージを盗み見て、そこに書かれていた情報を入手する。そして、友人などを装って、親の情報は子供に、子供の情報は親に知らせます。
他者が知り得ない情報を、家族が知っている。同じようなことが続くと、家族は疑心暗鬼になります。
それだけではありません。盗聴や監視アプリの存在を示唆して、対立をあおることも可能です。相談者の振りをして、様々な出来事を悪い方ばかりに解釈させていくこともできます。
そうしているうちに、互いに相手のことが信じられなくなり、ちょっとしたことでも喧嘩が起きるようになります。家族の関係はぎくしゃくとしたものになります」
「なぜ、そんなことをしているんですか?」
光は尋ねる。
「犯人がおこなっているのは、おそらく実験です。いや、実験ではなく、ゲームと言い換えた方がよいかもしれません。ジャンルはシミュレーション。タイトルをつけるとすれば『家族ゲーム』でしょう。
家庭内に不和を広げ、家族を崩壊させればゲームは勝ちです。一定期間を費やしても壊れなければゲームは負けです。
犯人は、家族単位の個人情報を入手して、こうしたゲームを始めたのでしょう。とてもリアルなゲームです。リスクはありません。様々な結末を見られます。犯人はきっと、楽しんでいると思いますよ」
九地は微笑みながら言った。
口の中に苦い味が広がる。反吐が出そうなことを考える奴がいるのだと思った。もし、古沢親子が誰にも相談せず、互いに疑心をつのらせていけば、どうなっていただろう。疑念は憎悪に変わり、暴力に発展したかもしれない。情報技術は、データの先にある人の心も狂わせることができるのだ。
光は、顔の見えない敵に対して、強い嫌悪感を抱いた。光は古沢に視線を移す。拳を握り、目元に力を込めている。姿のない犯人に怒っているのだ。自分の家に侵入してきて、人をおもちゃにしたことに腹を立てているのだ。
「犯人を見つけられないんですか」
古沢は強い口調で言う。
「分かりました。好奇心を餌にして、罠を仕掛けましょう」
九地は嬉しそうに答えた。
◆ 観察実験
「どうするんですか、九地さん」
光は、九地に尋ねる。
九地は、こういうときのために用意しておいたという、ウェブサイトを見せる。ページにはダウンロードボタンがある。
「このウェブページからは、ソフトをダウンロードできます。パソコン向けのものです。そのソフトを敵にインストールさせます」
メーラーを起動して、九地はメールを書き始める。送信先は、古沢の母親だ。
今日の昼に来たときに、これまでとは違うアカウント名とパスワードで、メールを取得してもらったそうだ。そのメールアドレスを使い、指示を出す。以下の文面とURLを、いつものメールアドレスを使い、自分宛に送るようにと。
――何だか最近、スマホやパソコンの情報を娘に見られているようなので、安全と聞いたソフトをパソコンに入れました。そちらで打ち合わせをしましょう。
監視を続けるために必要なソフトを、自分の意思でインストールさせる。
ウイルス対策ソフトのデータベースに登録されていない、悪意のあるソフト。九地のことだから、不正なソフトと検知されにくいようにしているはずだ。
送信ボタンを押してメールを送る。しばらくすると返信があった。これで仕掛けは整った。
「お茶を入れましょうか。それとも、コーヒーや紅茶の方がいいですか?」
あとは待つだけになった。九地の言葉に、古沢は紅茶を選ぶ。早く帰るつもりはなくなったということだ。
「僕がやります」
光は、狭い炊事場でお湯を沸かし、全員分の紅茶を用意した。
三十分後、九地のパソコンがアラートを鳴らした。
「どうやら、相手がソフトをインストールしたようですね」
思ったよりも早かったと九地はこぼす。
「敵のハードディスクの中身を、ネット上にミラーリングしています。アップロードが終わったファイルから見ていきましょう」
九地は、ブラウザ経由でデータを確認する。表情は楽しげで生き生きとしてる。九天は押し殺した表情で、兄の様子を見守っていた。
「犯人の名前は、阿久津陽一です。彼のSNSのアカウントから、情報がいろいろと得られます。
彼の経歴を見てみましょう。大学卒業後、上場企業の営業として就職。その後、鬱病で会社を辞めています。現在は自宅療養しているようです。彼は社会に出て、挫折を経験したわけです。
阿久津は、大学時代に心理学を学んでいます。彼の一連の行動は、学生時代の延長なのかもしれません。あるいは自分の能力を証明するために、実験を重ねていたのかもしれません。彼はそうして精神の平衡を保っていたのでしょう。全ては想像の範囲でしかありませんが」
ファイルの一つを九地は選ぶ。観察対象としていた家族の一覧が表示される。
当たり前だが、知らない親子の名前が並んでいる。古沢親子以外は、まったく面識がない。ゲームのモブと同じ存在だ。九地は、リストの名前をコピーして、片っ端からウェブで検索し始める。
「ありました。時期も一致しています」
ニュースのページがヒットする。リンクをクリックして開く。千葉県のニュースだ。マンションでの暴行事件。子供が父親を金属バットで殴って死亡。その死者の名前が一致していた。ネットを介した見えない相手が、にわかに肉を得て、立ち上がった気がした。
「阿久津は、事件のあとも家族ゲームを続けています。ニュースになったケースは、これだけのようです。報道されていなくても、多くの家庭を壊してきたのでしょう」
怒りが湧いてきた。何て男だと思った。阿久津は、家族が壊れる様子を、詳細に記録に取っている。万死に値する、滅ぶべき対象だ。
実際に狙われた古沢は、激しく憤っている。当然だ。阿久津は古沢に対して、同じことをさせようとしていたのだ。
「こいつを、やっつけられないんですか」
古沢が、叩きつけるように言う。
九地の口元が上がる。その目は快楽を待ちわびているようだ。
「分かりました。あなたが願うのならば、私は最善を尽くしましょう。犯人への恨みを込めて、呪いの言葉を放ってください。地獄へ落ちろと唱えてください」
「地獄へ落ちろ!」
憎しみを込めて古沢は言う。
黒い台詞が吐かれた。部屋の光がわずかに暗くなった気がした。空気の温度が下がったようだ。悪霊でもいるかのように鳥肌が立つ。悪意が渦を巻き、部屋の空間を歪めている。
「九天、いいですか?」
九地は妹に尋ねる。
「許可するわ」
決意を込めて九天は言う。
「しかるべく!」
九地は細い目を開き、満面の笑みを浮かべた。
九地は、阿久津が実名で登録しているSNSにログインする。そして、阿久津自身がまとめた家族ゲームの詳細を、連続して投稿した。怒濤の実験レポートが画面に並ぶ。
「地獄の釜が開きました。阿久津陽一の友人知人のもとに、彼の犯罪の証拠がばらまかれました。世の中の全ての人に対して、阿久津の所業が公開されました」
九地は歓喜とともに言う。
彼の声には、狂気がこもっている。本来、犯罪者を裁く権利は九地にない。法を逸した私刑。九地は、悪をもって悪を討っている。
「仕事は終わったわ」
九天が静かな口調で言う。
「古沢、あんたの母親に連絡して、残りのお金を持ってこさせなさい。他言は無用よ。もし話したら、今度はあんたが地獄に落ちる番になるわ」
九天の声は、氷のように冷たかった。
あれから数日が経った。
阿久津の書き込みはネットで話題になり、ニュースになった。阿久津は、未成年者をそそのかして殺人をさせた。現実に死者が出ている事件に関わっているということで、警察が動き出しているそうだ。
ネットでは、この事件は阿久津事件と呼ばれ、多くの人が考察する対象になった。
家族における情報の非対称性。監獄下におけるような濃密な人間関係。
小さな集団で信用が失われたとき、何が起きるのか。たとえ血が繋がっていても、そのコミュニティは崩壊する。
そうした、人の繋がりについての考察とともに、ネットでは異なる話題についても意見が交換されていた。阿久津は、なぜ自身の罪を急に告白したのか。
真相を言い当てている者はいない。光たち、ごくわずかな人間だけが、真実を知っている。九地という闇の執行者の存在。アンダーグラウンドの世界であった攻防は、表の社会には出てきていない。
この事件のあと、古沢親子は和解した。互いの非を詫び、元の鞘に収まった。すんなりと仲直りできたのは、阿久津という共通の敵がいたからだろう。二人は、阿久津を憎むことで団結できた。
古沢親子のすれ違いの原因は、父親の単身赴任にあった。共働きの家庭のため、家事のしわ寄せが全て母親に来ていた。そのため、コミュニケーションの時間が失われていた。これからは、私も家事を手伝うと古沢は言った。阿久津の攻撃が成功したのは、そこに不和の元があったからだ。
また、この事件を切っ掛けに、二人のセキュリティ意識は向上した。二人はサービスごとに、パスワードを変えるようになったそうだ。
光は、高校の電脳部のパソコンで、ネットサーフィンをしている。
顔を上げて、部室にいる面々の顔を見た。音楽を打ち込んでいる親友の翔がいる。プログラムを書いている桜小路先輩がいる。ゲームをしたり、ネット小説を書いたりしている部員の姿が目に入った。
運動部のような緊密な人間関係はないが、繋がりを保っている。強い信頼関係はないが、反目し合うこともない。
「どうしたの、平原くん」
光の様子に気づいた桜小路先輩が声をかけてきた。
「いや、人が人を信じる、信頼を寄せるって、どういうことかなと思いまして」
抽象的な話題。そうした話も、桜小路先輩は真剣に聞いてくれる。
先輩は、唇に指を当てて考え始める。
「相手のことを知っているという安心感。見たいものだけを見る、人の心の性向」
「それは、コントロール可能なものですか?」
「うん。情報技術の世界では、多くの人がしのぎを削って、人と人との繋がりをデザインしている。それがお金になるから。そして楽しいから。みんな、そのために、多くの労力を割いているわ」
それは当たり前のことよ――。
桜小路先輩は、そう言っているように思えた。
悪意を持たない家族ゲームが、ネットの世界では、いたるところでおこなわれている。光は、背筋がわずかに寒くなったような気がした。
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