8 最期の戦い
犬神が教室でぼんやりとしていると、黒木が息急き切って、中に入ってきた。彼は黒板に刻まれた文字を見る。
「草野が書いたんだよ、映画のタイトルだそうだ」
苦笑しながら犬神は説明する。だが、黒木は真剣な顔つきで歩み寄る。見ると、脇に紙の束を抱えていた。
「その草野は?」
「もうどこかに行ったよ」
「そうか、丁度いい」
黒木は眉根を寄せ、犬神の座っている前の席を陣取ると、こちらに向き直った。
「犬神、おまえは草野と以前会った事があるか?」
「いや、無い」
即答する。当たり前だろ、という言葉をのみ込む。黒木が険しい顔をしていたからだ。なぜそんな質問を、と聞く前に、黒木が先に行動した。抱えていた紙の束を、机に置く。
「うちの名簿だ。全校生徒の名前がここに記されている」
どこからそんなものを、と言うと、職員室だと黒木は答えた。
「そこで俺は調べていたんだ、草野の名前をな。考えてみれば、あいつを知っている奴は俺達の中には居なかったからだ」
犬神は早速、その書類に目を通していく。彼は二年生だと言っていた。校章の色からして、それは嘘偽りないと思っていた。だが、二年の欄に草野という名字は無い。「草野」という当てた漢字が違うのかと思い、同じ発音を調べてみたが、そんなものも無い。続いて、三年生と一年生も調べてみたが、それらしき名前は見つからなかった。
「どうして、あいつの事を調べたんだ?」
「俺は、考えてみたんだ」言って、黒木は黒板を一瞥する。「馬鹿馬鹿しい話だと、お前は一蹴するだろうな」
「何がだ」
「学校は霧に包まれていて、死者が甦る。外に連絡する手段もない。こんな不条理な状況があるか。まるで、誰かが俺達を閉じ込めて観察しているようじゃないか。俺達が戸惑い、もがく様を見てにんまりとな」
黒木は一旦息を吐くと、自嘲めいた笑いを漏らす。
「なぜ俺達は出られないのか……考えた末、結論が出た」
「それは何だ」
「笑うなよ、いいか……草野なんだよ」
「草野?」
「そう…………」黒木は外を見詰めた。「これはあいつの作ろうとしている映画なんじゃないのか。ベジタリアン、という」
悲鳴が轟いた。下の階の方からだった。
二人は教室を飛び出し、聞こえた方に走る。嫌な臭いが鼻をかすめる。そして、深い戦慄の気配がした。階段を降りると、そこは昇降口に面する。そこには苦労して築かれたバリケードがある筈だった。だが。
外に繋がる扉が、開いていた。
二人は目を見開く。ゾンビの大群が、昇降口に溢れている。彼らは驚くほど静かに、校内を闊歩していた。
「大変だ……」
「な、なんで扉が開いてるんだ」
犬神は見つけた。どかされたロッカー。廊下に錯乱した机。誰かがどかしたに違いない。深い怒りと絶望が交錯する。
下から小泉が駆け上がってきた。悲鳴の主は彼女だったのだろう。
「大きな音がして、様子を見に行ったら……あ、あいつあらが……」
「ここはもう駄目だ。階段の通路を分断して、封鎖するしかない」黒木はそう言い、下唇を噛んだ。「あの量だ。全滅させるなんて不可能だ」
入口に居ただけでもクラス二つ分の人数が居た。到底、敵う相手では無い。
「とりあえず非難しよう」
犬神の言葉に二人は頷き、二階に上がる。ゾンビ達も階段を昇ってきた。ゆっくりとだが確実に、こちらに向かってくる。もはや死者の塊だ。犬神は全身が粟立つのを感じ、足を急いだ。
そのまま廊下を走る。後を追う様にして、ゾンビたちも二階に侵入してきた。まるで毒が全身を少しずつ蝕んでいくかのように、安全だった砦が浸食されるのが分かった。
「畜生、このままじゃ……」
弦音が聞こえ、黒い残像が一人のゾンビに突き刺さる。彼はそれを抱きかかえるようにして倒れ込み、進もうとする仲間の何人かを阻んだ結果になった。
走った先に、川本が弓を構えていた。その姿はこれ以上ないほど頼りに映った。黒木、小泉が礼を言ってその場を通過する。
「川本!」
犬神は叫び、傍にある消火器を取った。ピンを抜き、ノズルを死者たちに向けた。鈍い白が宙を舞い、視界を覆い尽くす。
「今だ、君も逃げるんだ」
言って、彼女の手を掴もうとする。その瞬間だった。犬神の巻いた煙から、一人のゾンビが顔を出した。それを見た途端、川本の目が見開かれる。
「た、武原……」
か細い声だった。これまで、そんな彼女の声を聞いたことが無かった。真の狼狽。犬神は首を傾げる。
――武原とは、誰だろう?
川本は放心したように呟く。
「あ、あなた……」
煙から姿を現したゾンビの男子。彼の引き締まった精悍な体立ちも、今では醜い腐肉を覗かせている。彼女は彼を目の前にして、弓を落した。二人の距離はほとんど無いというのに。
「お、おい」
彼女は茫然と立ちすくみ、こちらに進んで来る男子を見ている。助けようと、犬神は川本の肩を掴む。
後ろに居た二人も異変に気付いたようだ。
「川本さん!」
小泉が叫び、こちらに戻ってこようとする。それを、慌てて黒木が止めた。「行っちゃだめだ!」
男子が川本に飛びかかる。禍々しく開けられた口が、彼女の腕に噛みついた。
「川本!」
彼女は尻餅をつく。犬神は消火器で男子を殴りつけた。彼は後ろのめりに倒れた。彼女は傷ついた腕を抑えながら、放心したようにその場を動かない。黒木と小泉がかけつけ、川本を運ぶ。犬神は、死者の追撃に舌打ちしながら、その後を追った。
「どうしてボケっとしてたんだ! 死にたいのか!」
珍しく怒鳴る犬神を、黒木は宥める。川本は黙り込み、教壇に体を乗せている。小泉は彼女の傷に包帯を巻いていた。四人は一旦、教室に身を隠していた。だが、すぐにここも奴らに感づかれるだろう。
「何故だ、なぜこんなことになった……」
犬神は堪え切れない怒りを吐き出す。
「もう二階も駄目だな。浸食された」
黒木は言って、俯く。学校はもう彼らの手に落ちたも同然だった。
「先に行ってよ」
抑揚の無い川本の声に、犬神は口を閉ざす。それはいつもの、彼女の姿だった。強く開かれた瞳は、とても気高く見えた。
「もう噛まれてる、助からない。三人で逃げて」
「いえ、私も残る」
小泉が、きっぱりと言った。普段とは一層違う強さを孕んでいた。黒木が呆れた声を出したが、彼女は上履きを脱ぐと、靴下をずらした。そこには、変色した噛み傷があった。
「黒木君、ごめんなさい。本当は昨日の夜、ロッカーに隠れる前に、噛まれていたの」
「そんな……」
小泉は、恥じらう様に川本に視線を変える。
「本当は、今日のトイレで川本さんにも言おうと思っていたんだけれど……言い出せなくて」
黒木は、愕然として犬神と顔を見合わせた。犬神は眩暈に似た衝撃を受けた。
「二人とは、ここでお別れ」小泉は、深々と頭を下げる。「短い間だったけど、お世話になりました。今までありがとう」
「駄目だ」
犬神はそう言ったが、自分では何も出来ない事は分かり切っていた。だが、自分の無力さをどうしても受け入れる事が出来なかった。「そんなのは駄目だ」
「犬神」黒木はその肩を掴む。
「どうして……なんでこんな酷い……」
自分の声が急に遠く感じた。目頭が熱くなった。視界が涙で歪んだ。川本がせせり笑う。
「泣き虫」
「茶化すな、ばかやろう」犬神は震える。「死ぬのが、怖くないのかよ」
頬を伝う涙を、擦りつけるように強く拭った。鼻を啜り、吐きだされたのは言葉にもならない喘ぎだった。
――ちくしょう。
「もう時間が無いぞ」
黒木が外の様子を伺ないながら、言う。
「行って。早く」川本の声。
黒木に肩を掴まれ、そのまま廊下に引きずられる。強い力だった。黒木は、二人に向き直る。
「死ぬまでは生きろよ」
犬神達がその場から遠ざかると、小泉は教室から顔を出して、手を振った。
「さようなら。私たちのことを、忘れないでね」
それは二日前の彼女からは想像もつかないほど、逞しかった。ぼんやりと見える彼女の手を、犬神はじっと目に焼き付けた。
時間が無い。
心臓が早鐘を打っている。口の中は渇いていて、舌は毛ばったカーペットの様だった。行く先々で、出会い頭のゾンビをなぎ倒していく。単体の場合は何とか対処する事ができたが、複数居ると仕方なくその先は断念し、迂回した。そうして、少しずつ進路は阻まれていく。
「草野はどこに消えたんだ!」
黒木が怒鳴る。犬神には見当もつかなかった。
「あいつが元凶なんだ。あいつを何とかすれば――」
黒木の言葉に、犬神は戸惑いを覚えた。彼の言葉の意味が、わかっていたからだ。
――いや、待てよ。
草野は「撮影終了」と言っていた。クランクアップを果たしたのだ。映画の完成、それすなわち放映……。
「視聴覚室……」
自分の台詞では無いようだった。まるで誰かが横から囁いたかのように。黒木は胡乱な目付きで犬神を見る。
「この学校にスクリーンがあるような場所は無いのか」
「ある。部室棟の一階だ」
二人は顔を見合わせ、頷き合う。そして、一層足を速めた。
※
屋上へと続く階段は、自分の寿命だと川本は思う。段を上がればそれに応じて、目的地への距離は縮んでいく。
横で歩く小泉は咳き込み、体勢を崩す。慌てて立て直してやると、彼女は弱々しく微笑んだ。
ドアノブの感触は重く冷たい。開くと視界は一面、純白に刷かれた。目を凝らすと、柵が溶ける様にして佇むのが見えた。風も音も無い。さっきの喧騒とは打って変わって、ここは静寂に包まれていた。薄汚れたタイルを踏みながら、何もかも呑み込んでいく霧をぼんやりと見詰めた。
「私たち、もう死ぬしかないんだね」
小泉は言って、柵を掴んだ。諦観したその言葉に、川本はぼそりと呟く。
「……あいつらにはなりたくない」
小泉はそれを聞いて、ゆっくり頷く。黒木は死ぬまで生きろと言ったが、自分達には無理だと思った。こんな短い人生なら、死に方くらいは自由にさせて欲しいと感じる。
二人で柵をまたぎ、縁に立つ。数センチの先には、何も無い。空白だけが存在している。上履きの先が少し震えた。思い出したように、右腕の傷が痛みを知らせる。包帯の上から摩って、呪われた証を確かめた。
――ここからじゃ、何も見えやしない。
逆にその方が良いのかもしれない。
二人は手を繋ぐ。そこで初めて、小泉も震えているのだと思った。
背後でドアが叩かれている。正体は分かっていた。二人を嗅ぎつけてきた死者たちだ。もう時間は無いだろう。
「さよ……なら」
自分でも、誰に向けた言葉なのか分からなかった。隣に居る小泉なのか。置いていった仲間たちか。それとも――。
身体はゆっくりと傾ける。視界も傾いたかと思うと、僅かな浮遊感が一瞬遅れてやってきて、足元の確かな感触が掻き消えた。
体が放りだされた時、方向感覚の一切が弾け飛んだ。握った手のひらの感触だけが確かで、それが安心させた。
※
切り刻んだそれは、もう動いていなかった。床の上に転がる肉の塊を一瞥し、滝川は怒りに身を震わせる。
――どうなってやがる。
異変に気付いたのはついさっきだった。トイレから出ると、廊下は死者で埋め尽くされていたのだ。
約束が違う。黒木はここが安全だと言ったではないか。だが、既に学校は死者によって陥落している風だった。安住の地はがらがらと音を立てて崩壊しようとしている。体育館に居た方が、まだ助かる見込みはあったのかもしれない。あそこで救助を待っていれば……。
――ふざけやがって。死んでたまるか。
自分はまだ楽しんでは居ない。学校は面倒で退屈だったが、何とか我慢していた。卒業さえしてしまえば、後はこっちの物だ。大学に進学し、一人暮らしを始める。口うるさい両親から解放され、悠々自適の生活を送る。その筈だった。なのに、これだけ辛抱していた結果がこれだ。
――冗談じゃねぇ。
ブッシュカッターのエンジンを再びかける。その振動が、まるで心臓の鼓動と一体するように体中に響いた。同時に、自分の意志と同調し付き添ってくれているかのようでもあった。
滝川は辺りに視線を打ち続ける。自分を呪縛していた忌々しい校舎。何もかも、憎らしかった。自分を見下してきた教師、生徒たち。だがそれは、死んでしまった。ざまあみろ、と思った。そして、自分だけは何としてでも生き残るだという意思がより強固になった。
「死んでたまるか」
回転させた刃を、ゾンビに向かって振り下ろす。彼らを血霧に染め上げながら、滝川は校内を闊歩する。その跡には血濡れた亡骸が生まれていた。
獲物を探して、一階へと降りた時だった。壁が死角になっていて、滝川はその存在に背後を取られるまで気付かなかった。
背中に激痛が走り、滝川は叫び声を上げる。振り返ると、自分の肉を口に含ませた紙村が、茫然と立っていた。
「て、てめぇ……」
彼はゾンビになっていた。滝川は痛みよりも、紙村から危害を加えられた事に、猛烈に怒りが込み上げてきた。屈辱だった。普段はおどおどして、自分の言いなりだったというのに、反旗を翻してきたのだ。
「くたばり損ないが」
ブッシュカッターで一閃する。斬りつけた喉仏から鮮血が溢れだした。そのまま蹴りつけ、床に叩き付ける。
「俺に逆らうとは、いい度胸じゃねぇか!」
もう動いてはいないそれを、何度も何度も蹴りつける。僅かだが溜飲が下がった。亡骸に唾を吐きかける。そこで、ようやく気付いた。
――噛まれ、ちまった。
取り返しのつかない事になった。自分も目の前に横たわるそれと同じようになるのだ。全身が粟立つ。
さらなる激昂が体中を駆け巡った。
※
犬神と黒木は渡り廊下を進んで階段を下りる。黒木の話では、視聴覚室は授業以外では軽音楽部の練習場所になっているらしい。
廊下の角を曲がり、慎重に歩いていく。非常口の蛍光灯が妖しく光り、入口の二枚扉は緑色に濡れていた。防音が効いているのか、中からは音が聞こえない。ドアノブを握ると、すんなりと開いた。
途端に、視界に光が雪崩れ込んできた。思わず手でさえぎる。部屋は暗幕が引かれ真っ暗だったが、奥のスクリーンが光っていた。幾つもの話し声が聞こえた。笑い、手を叩く音、おどけた声、冗談を飛ばす者、それに対する反応、声援、掛け声……。部屋を見渡しても、それらを作り出している存在は無い。スクリーンの両端に、大きなスピーカーが置かれている。そこから流れているのだ。
「これは……」
二人は暗い道を歩く。映画の上映に間に合わなかった客が、遅れて劇場に入った気分だった。部屋の中は段差が出来ていて、スクリーンに近づくに応じて低くなっている。それに合わせて、長テーブルが並んでいた。
スクリーンには学校の景色が映っていた。青空を背景に悠然と佇む校舎。かと思うと画面は変わり、校舎の廊下が映った。カメラを直接移動させているのだろう。人の歩いている様な視線で進んでいく。眺めていると、また画面が変わる。教室だ。何人かの男女の生徒が混じって、談笑している。
犬神の知らない深陽高校の映像だった。鳴り響く放課後のチャイム、下校する生徒たち、夕焼けのグラウンドを走るサッカー部員、トロンボーンの音色を奏でる吹奏楽部員…………。
犬神は口を開く。
「これは君が作ったのか、草野」
草野は最前列の席に座っていた。他に観客は居なかった。スクリーンの光が、彼の静かな表情を浮かびあがらせている。草野はゆっくりと瞼を閉じ、それからまた開いた。瞳は絶え間なく流れ続ける映像を映していた。
「ずっと夢だった……映画を作るのが。でもいま観てみると下手糞ですね。カメラもぶれているし、編集が雑過ぎるや」
草野は言って、諦観めいた微笑を漏らす。スクリーンは今、文化祭の模様を映している。校舎の外に並ぶ出店、それに行列を作るお客。映像はどれも具体的な台詞が無かった。中身もバラバラで関連性があまり無い。草野の言うとおり、雑音が混じっていたり、映像がぼやけている箇所があった。
「お前はうちの生徒だったのか」
黒木の問いに、彼は答えない。ただ、ぼんやりと前を見詰めている。
「――それは何かの記録のつもりか?」
黒木の声。だが、それは本人から発せられたものではない。スクリーンの中に黒木が映っている。後ろに映り込んでいるバリケード。昨日の映像だ。続いて、カメラは犬神に向いたようだ。客観的に映った自分自身の姿に、良い様の出来ない複雑な気持ちが脳裏を掠めた。
「――しかし、これはお前の好きなホラー映画じゃない。現実で起きている事だ」
画面の人物に合わせて、本人も同じ台詞を吐く。その後、黒木は苦笑する。
「俺は戻りたいんだ、元のちっぽけな日常に。だから、このくだらない映画を終わらせてくれ」
その時だった。入ってきた扉から、エンジン音が聞こえてくる。スピーカーから流れる音声と張りあう様に、それは段々と近づいてくる。
その正体が暗闇から姿を現し、こちらに微笑みかけた。
「面白そうなコトしてるな。俺も混ぜてくれや」
滝川の声に、草野の片眉がぴくりと動く。
「もう満員ですよ。出ていってください」
「ふざけろ、俺は噛まれたんだ。もう後には戻れねぇ」
滝川は歩を進める。ブッシュカッターを握る彼の姿は、暴徒を思わせた。犬神は嫌な予感がした。黒木も緊張した面持ちで、滝川と草野を交互に見詰めている。
「治る方法を教えろよ、お前なら知ってんだろ」
唸るような声に、草野は首を横に振る。
「いえ、知りません。死ぬだけです。死んでください」
「おい――」
犬神が口を挟む。余計なことを言って興奮させるのは――。
滝川が雄たけびを上げながら、ブッシュカッターを振り上げた。スローモーションの様に、その光景は犬神の中でゆっくりと進んでいく。回転する刃は、草野の喉仏に叩き込まれた。
「やめろ!」
生首が宙を舞う。真っ赤な血飛沫を撒き散らしながら、草野の瞳はずっとスクリーンを映していた。
※
……ざわめき。
聴覚だけが、外界の波動を捉えていた。
闇の中にさらに黒を溶かし込んだような、完全な暗黒。
その中に彼女は居た。奥行きを失った無限の空間を漂っているような気分だ。視界はどこまでも呪われた様に黒濁した世界が広がっている。
――私は。
――私は、死んだはず。
ここは死後の世界だろうか。人間が死ぬとはこういう事なのだろうか。
――いや、違う。
意識が次第に形を帯びてくるのを感じた。肉体が感覚を取り戻していく。川本は、ゆっくりと目を開けた。
目覚めは緩やかに訪れた。
視界に映るのは、知らない天井だった。
「ここは……」
彼女はベッドに横たわっていた。意識が溶け込んでいたシーツは、皺だらけになっている。窓からは、切り取られた陽光が眩しすぎるくらいに差し込んでいた。跳び上がると、全身に鈍い痛みが走る。思わず、呻き声を漏らした。だが、動けない訳では無かった。慎重に体を動かし、ベッドから出た。スリッパが用意されていたので、それを履く。
病室だと、一目で分かった。学校の保健室などではない。どこかの大きな医療施設。部屋には同じようなベッドが幾つか並べられていた。どれも、もぬけの殻だった。この部屋に居るのは、自分しか居ない。
窓に寄り添う様に立つと、今居るのは一階だとわかる。庭の景色が見渡せた。
霧は晴れていた。
(了)
ベジタリアン 石森冬樹 @182
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