7 内部崩壊


鏡に向かって眉を描く。川本は四階の女子トイレに居た。この場所は血痕や臭いから逃れている。密かに聖域と揶揄していた。換気扇の傍にある小さな窓は、乳白色に塗り込まれている。

「か、川本さん」

 鏡に小泉が映り込んだ。怯えた小動物のような目をしている。といっても、彼女はこれがデフォルトの様な気がするが。何か喋りたそうに口をもごもご動かしている。だが、小さな口はパクパクと形を変えるだけだった。

「なに?」

 自分ではそっけない疑問のつもりだが、改めて聞くと苛々とした声だ。不機嫌では無いのだが、不思議とそうなってしまうらしい。

「いや……やっぱりなんでもない」

 そう言って顔を俯く。だったら何をしに来たのだろう。化粧を済ませるとトイレを出て、階段を下りた。

「よし、これで六対七だぞ。巻き返してきたあ!」

 黒木の嬉々とした声が聞える。隣には紙村という男子も居る。対面するようにして、犬神と滝川が立っていた。全員がラケットを持って、広いスペースで羽根を打ち合っている様だ。彼らがバドミントン部の部員だというのは知っていた。こんな事態だというのに、気楽なものだ。だが、こんな事態だからこそ、何か楽しみが欲しいのかもしれない。

「おい川本」

 彼女の姿を見つけた滝川が呼びつける。この男はあまり好きでは無かった。二年生の時、しつこく誘ってきた事があった。クラスメイト全員が居る前で冷たくあしらってやると、それ以上は声をかけて来なかったが。

「村田を見てねぇか?」

「……知らない」

 そのまま通り過ぎようとすると、今度は犬神が口を開く。

「外から帰って来てから見てないんだ。安藤の事もあるし……」

「見てない。知らない」

 実際、見ていなかった。犬神達を見送った後、村田はいつの間にか姿を消していた。そして帰った来た後も見ていない。だから口にしないのだが、滝川らはそれを快く思っていない様子だった。愛想が無いだいとか、お高くとまっているとか言われてそう認識される。

それは昔からずっとそうだった。だが自分自身としては、悪気があってそうしている訳ではない。とびきり無口という訳ではない。会話はできる。ただ、無理に明るくふるまえないだけだ。多く喋らないのは、クラスメイトと話が合わなそうだから口を閉ざしているだけ。彼らのコミュニケーションには必ずお約束だとか前提があって、それに合わせるのが面倒だということにしか過ぎない。孤独は苦ではないし、やりたいことはやれている。だから、そのままにしていただけだ。だが、気付くと周りは腫れ物に触る様な態度で接してきていた。同時に、嫌でも聞こえる陰口まで。

――だからさ、そういう奴は一度、ひっぱたいてやればいいんだよ。

脳裏に、その一言が蘇る。川本にそう言った男子は、にんまりと笑っていた。名前は武原といい、同じ弓道部の部員だった。

川本は過去に浸りながら、弓道部の部室に向かう。

部室の中は狭い。三畳ほどの広さだから、真ん中に立てば千手観音のように、大抵の物は掴める。壁には部員の弓と矢筒が立てかけられている。深陽高校に弓道場は無い。普段の練習はプールサイドの近くにある射場でしている。月に一度だけ、近くの道場を借りて射込みをするのだ。だから実際、ここはほとんど物置化している。

武原の矢筒を手に取る。彼の弓もあるが、川本の腕では満足に引けない。彼は部のエースだった。だがそれを鼻にかけることなく、どこか飄々としていた。川本の弓を射る姿を見ると、いつも褒めるものだった。

――すげぇ綺麗な射形だな。当たらないけど。

 的の的中率で言えば断然、武原の方が上だった。彼女はそれが腹立たしかった。当たらなければ意味が無いと言うと、彼は首を横に振る。

 ――まぁ、そういうのにこだわる奴も居るけどさ。でも、俺はお前が羨ましいよ。そんなに美しくやられると、嫉妬しちゃうな。

 気味の悪い奴だ、と吐き捨てると、からからと笑う。変な男だと思った。

 矢筒から矢を抜き取り、使えそうなものを集める。武原がこれを見たら、何と言うだろうか。人を殺す道具なんかじゃないとなじるだろうか。それとも――――。

 渡り廊下を通り過ぎて、階段を下りる。

 丁度、職員玄関に面する廊下を横切る。

 透明の板の向こうには、死者たちがこちらを覗いていた。思わず足を止め、まじまじと見つめる。

「あなた達は、いったい何者なの……?」

 答えは返って来ない。呟かれた声は、虚しく溶けていく。

 武原は死んだのだろうか。それとも、どこかで生き延びているのだろうか。その答えも見つからない。何度考えてみても、辿り着く事が出来なかった。そんな事を逡巡し続ける自分も滑稽だと思った。

 再び歩き始める。心の奥底にあるざわめきは収まりはじめ、波紋は消えていった。

 

 ※

 

 犬神は、三階へと繋がる階段を目指して歩いていた。職員室に届けものをした後の事だ。黒木達が騒ぎながら勧めるので、苦笑いしながら入部届けを書いたのだ。入部先は勿論バドミントン部である。自己満足に過ぎない事は承知だが、この状況ではそんな些細な事が心の支えになった。

 階段を昇り切り、目当ての教室に入る。探し人は居た。ビデオカメラを固定させて、黒板に書かれた文字を映している所だった。

「おや、どうかしましたか」

 草野は振り返って彼の姿を認めると、微笑を浮かべた。犬神は頭を下げる。

「すまなかった。君を化け物呼ばわりした」

 くくく、と草野は喉を鳴らす。

「律義ですね。わざわざ謝りにきたんですか」

「僕は仕事を投げ出した、君を置き去りにした。結局、食べ物は君が居なければ手に入らなかった」

「教えてくれたのは村田ですし、そもそも外出を提案したのは黒木さんです」

「いや……」

 考えてみれば、彼の言う事は全て正しかったのでは無いだろうか。所詮はホラー映画マニア、その程度にしか考えていなかった。だが、彼の助言で進展することも多かった筈。

「僕も自分が変わり者だと思っていますが、あなたも相当ですよ」

「というと?」

「ええ、愚直といいますか」

 そうだろうか、と犬神は自問する。答えに窮していると、草野はカメラを取り上げた。

「撮影終了」

 映していた黒板にはチョークで文字が刻まれていた。犬神は国語の教科書を朗読するように、その言葉を読み上げる。

「ベジタリアン……。これは、何だ。僕のことかい?」

「いえ、映画のタイトルですよ」

 言って、彼はニヒルに笑う。

「俺らは生者だ。しかし、奴ら生きる屍は肉食です。いわばこれは、我々が人間として留まっている証な訳です。くだらないでしょう?」

 死んだ者は甦り、ゾンビとなって襲いかかる。しかしゾンビは死んでも、人間に戻る事は無い。こちらはチェス、向こうは将棋のルールで勝負している様なものだ。勝てっこない。

「実を言うと、ちょっと憧れていたんですよ、こんな状況を」

 意味を捉えきれず黙っていると、彼は再び口を開く。

「今の状態です。俺はずっと、考えていたんです。もし自分の理想とする世界があったとしたら――。自分の都合よく、自分の幸せだけが広がっているシャングリラがね」

「これがユートピアだというのか?」 

血肉踊るおぞましい世界。

「そうですね、理想郷とは少し違いますが。一度入れば、誰もが戻れない。亡骸の山を築き、やがては自分も、狂気の叫びでもって、息絶える」

 草野の目が見開かれる。

「生きているって感じがするんですよ。血潮が濁流のように体中を駆け巡るのがわかる。だけど、それだけじゃ駄目なんだ……理解して欲しいんです。嫌がるな、受け入れろとは言わない。ただ、知ってもらいたいだけなんだ。俺が思っている事を……誰かに知って貰えれば」

 犬神は沈黙を守っている。草野は外の景色を一瞥する。窓の奥に蠢く白い闇。未だ晴れる事など無い。

「犬神さんには、理解して欲しかったんですよ…………」

 

 ※

 

 黒木は応接室のソファーに深く腰を沈めていた。天井近くの壁には、歴代校長の写真が並べられている。彼らは無機質な視線をこちらに投げかけていた。

 ノックの後入口のドアが開き、滝川と紙村が入ってくる。御苦労さま、と労いの言葉をかけた。

「それで、どうだった?」

 滝川は首を振り、大仰に溜息をつく。

「部室棟の方も調べてみたが、やっぱり安藤は居ねぇ」

「村田もすっかり消えちまった。どういう事だろう?」

 紙村は眉間に縦皺を刻み、バッドを立てかける。

「安藤はゾンビになったと思ったんだが……」

 黒木は考えていた事を口にする。あの夜の出来事だから、彼も霧の中に戻ったのかもしれない。だが、村田はどこに消えたのだろう。試しに放送で呼び掛けてみたが、返事は無かった。どこかで居眠りをしているとは考えづらい。彼の身に、何かあったのだろうか。

「おめぇの方は、ちゃんと探したのか?」

 滝川は紙村をねめつける。紙村は慌てて何度も頷く。こいつらはいつもこうだ、と思う。紙村は滝川に怯えている。滝川もそれをよしとしているようだった。滝川は息を吐き、視線を黒木にやった。

「草野って、あの二年にも手伝わせるか?」

「いや……」

 黒木は言葉を濁す。彼は協力的だが、どこか妖しげな気配を放っている。その思惑を汲み取ったのか、滝川は片眉を上げる。

「確かに、あいつは解せねぇな。でも黒木は、あいつと面識はあるんだろ?」

「え?」

「違うのか? てっきり、俺は……お前か犬神と仲が良いのかと思ったよ。俺は見た事もない面だと思ったが」

「おいおい待ってくれ。俺だって、そうだ。こんな事が起きる以前は、知らなかった。二年だっていうし」

 紙村に目をやると、彼も知らないと首を振る。そもそも犬神は編入生だ。

 ――待てよ。

 ゾンビ達が学校に入ってきた時の事を思い出す。確か自分の周りには、犬神と村田に三人の女子。そして、校舎を駆けまわって一組のカップルと出会った。その後職員室に集合した時にはもう草野は――。

「……あいつを知ってる奴は居ないのか?」

 黒木は三年間、真面目とはお世辞にも言えないがこの学校に登校してきている。全校生徒の名前を挙げろと言われたら不可能だが、顔くらいは見ればうちの生徒だとわかる。黒木は、草野と同級生である青田や横井と交友があるのかと思っていたが……冷静にあの状況を思い返してみれば、知り合いだった痕跡はあっただろうか。

 ――正確には映画です。俺は監督であり、脚本であり、カメラマンなんです。

 彼の言葉を反芻する。

 なぜ霧が自分達を閉じ込めたのか。下校した生徒は息絶えて、再び登校してきたのか。先生達はおらず、携帯電話も通じない。あらゆる疑問の渦が、彼を中心に渦巻く錯覚を覚えた。

 ――いや、違う。

 奇抜な言動が目立っているだけであって、それに付け入って問題を彼に押し付けているだけだ。そもそも、彼は充分自分達の役に立ってくれたではないか。草野の助言で、黒木たちは外に出る事も出来た。

 ――いや、出されたのか?

 何のために。

「おい、黒木?」

 黒木は立ち上がる。

「悪いが紙村、もう一度村田を探してくれないか? 俺は別に調べたい事がある」

「あ、ああ……そのつもりだ。まだ、行ってない所はあったから」

「それじゃ、頼む」

「お前はどうするんだ?」

 滝川の問いに、黒木は黙ってドアを開き、外に出る。

 足は職員室に向いていた。

 

 ※

 

 村田は、縮こませていた体を元に戻した。彼を探していた人影は廊下の角を曲がり、消えていった。

 ――しつこい奴らだ。

 外に出ていった黒木達は、脱出の糸口は掴めなかったが、生存者や食べ物を見つけてきた成果はあった様だ。だが、村田にとってはどうでもいいことだった。

 今の自分の姿を見られる訳には行かない。村田の夏服は、真っ赤に染まっていた。しかし、これは自分の血では無い。両手で掴んでいると滴り続けるものが原因だった。

 周囲の気配が無いことを悟ると、足早に階段を下りる。この学校には、体育大会や文化祭用に大きな物置部屋がある。普段は、余った角材や看板などが置かれており、生徒が立ち寄ることはない。

 薄暗い廊下を進んでいると、何かが腐ったような臭いが鼻をかすめた。その原因が何であるか、村田は知っている。そのまま歩き、さらに強い腐敗臭を放つ元へと進む。

 物置部屋のドアを開けると、小さな虫の大群が一斉に襲いかかってきた。村田は舌打ちしながら、手で追い払う。視界が確保できると、そこには安藤が横たわっていた。

「部長……お腹すいたでしょう」

 ドアを閉め、安藤に近づく。彼は柱にベルトを巻きつけられ、身動きが出来なかった。白く淀んだ双眸が村田に向いた。既に人間だった頃の雰囲気は消え去っていた。

「向こうで良い物を見つけたんですよ。食われ途中だった死体の一部です」

 村田が持っていたのは、人間の腕だった。肘から先が食いちぎられていて、肉と脂の隙間に白い骨が覗いていた。誰の腕かは知らない。村田がそれを盗んだ時、持ち主の顔は大半食べられていてわからなかったのだ。だが、それもどうでもいいことだった。重要なのは、安藤に御馳走を運ぶ事なのだ。

 その腕を安藤の口先に持っていくと、餌を待っていた檻の中のライオンみたいに、勢いよく齧り付いた。汚れた歯が皮膚を悔い破ると、飛び散った血が顔を染める。意に介さず、安藤は食事を続ける。村田はそれを愛おしそうに見つめていた。

「気に入ってくれたようでなによりです」

 微笑み、村田はタオルで手の汚れを拭きとるそしてズボンの後ろポケットからメモ帳を取り出した。安藤が新聞部として使っていた物だ。

「部長、これを覚えていますか?」

 手品師があらかじめ客に種がないことを説明するように、安藤にそれをまじまじと見せつける。だが、彼は食べることに夢中だった。手帳のことなど眼中にないようだ。

「思い出してください。あなたは人間だったんです」

 次に、ボールペンを取り出し、慎重に安藤に掴ませた。油断していると、こちらまで餌になるのは承知していた。安藤はペンを受け取ると、しばらくそれを眺めていたが、再び腕に噛みつく。すでに大部分を食しており、食べ終わった骨付きフライドチキンを思わせた。

「記憶が無いのか。必ずある筈なんだ……」

 村田が落胆しかけた時、両耳に足音を捉えた。廊下からだ。身体は硬直する。ドアが開き、そこに見知った顔を覗かせていた。

「紙村さん……」

 紙村は瞠目し、自らの手で口を塞ぐ。部屋を見渡し、そこに安藤の姿を見据えた。村田を探していたのだろう。だが、まさかこんな状態で見つけるとは思ってもみなかった筈だ。

「これは――どういう……」

 紙村は狼狽している様子だった。震えながら、こちらに歩を進めてくる。恐る恐るといった調子で、安藤に近づいた。村田は咄嗟のことで、弁解が出来なかった。入って来る彼の姿を茫然と眺めることしか出来なかったのだ。

「安藤だ……それも、ゾンビになってやがる」

「違う。部長は人間なんだ」

「おまえ、自分のしている事が……わかっているのか?」

 死者の飼育だ。

「安藤さんは……特別なんです。他のゾンビと一緒にしないでください」

 気付けば口は反論をしている。紙村は唾をのみこんだ。顔には恐怖が宿っている。

「このことは……お願いです、誰にも喋らないでください」

 安藤の存在を知られる訳にはいかないのだ。なんとしてでも。

「ふ……ふざけるな」

「お願いです、見なかった事にしてください!」村田は両手を付き、頭を床に擦りつけた。「お願いします。この人には世話になってきた――、恩があるんです。居場所が出来た」

 面を上げると、紙村は首を横に振っている。

「おまえは狂ってる。異常だよ」

「紙村さん――」

「この事は黒木達にも報告する。それでもって、お前の今後の処遇についても話し合うつもりだ」

 村田は紙村にすがりつく。

「ま、待ってください。部長はどうなるんですか。この人は、生きているんですよ!」

「離せ!」

 突き飛ばされ、村田は床に倒された。紙村の表情は、憎悪と恐怖の念で歪んでいた。

「こんな化け物のことなんか、知ったことか!」

「ば……」

 ――化け物。

 とくん、と何かが村の中で溢れだした。暴力的なその衝動が指先まで行き届く。村田は目を見開き、傍にあった角材を掴んだ。紙村は背を向け、外に出ようとしている。

「部長を……」

 立ち上がる。

「侮辱するなあああっ!」

 怒りに身を任せ、木材を振り下ろしていた。鈍い感触が手首を伝わり、紙村は呻きを上げて倒れ込む。

「お、おまえっ……!」

 頭を手で押さえ、振り返った紙村は村田を睨みつける。指の隙間からは血が流れ出していた。構わず、今度は腰に向かって凶器を叩きつける。短い悲鳴を上げ、紙村は這い付くばった。

「この……外道が」

 罵声も村田には響かなかった。何度も何度も、振り下ろす。木材が折れると、また別の物を取って殴りつけた。

「だ、誰か、助け……」

 歯を食いしばり、必死で外に出ようとする。村田はその両足を掴んで引き戻す。紙村は喚きながら、張り叫ぶ。

「お前は、部長に食べて貰う。安心しろ、お前の肉体は失われるが、魂はずっと、部長の中で生き続けるんだ」

 背後に気配を感じた。振り返ると、安藤が立っていた。見ると、ベルトが噛みちぎられていた。

「部長……」

 安藤の口が迫っていた。

 

 ※

 

 耳を覆いたくなるような悲鳴が、部屋中に響いた。紙村は、頭を抑えながら壁に寄り添う。村田はこめかみに青筋を立てながら、絶叫を繰り返していた。安藤が食らいついているからだ。

 ――地獄だ。

 紙村は、なんとか体を持ち上げ、出口に向かう。幸い、安藤は村田を食べる事に夢中だった。だが、いつその興味が自分に向かうかもわからない。この体では、まともに戦う事も出来なかった。

 ドアを開き、廊下に出る。すぐに思い浮かんだのは、黒木と滝川の顔だった。助けを呼ばなければ。

 ――いやだ、もう家に帰りたい。

 首を振り払う。滝川にはこき使われ、常に周りからは黒木の腰巾着と笑われていた。こんな事態になっても、その関係は変わらないのだ。

「冗談じゃない……」

 我が家に帰るのだ。全身の打撲や傷の痛みが、声なき訴えを上げている。もう沢山だ、こんな事に巻き込まれるのはもう御免だ。普段は不平を言っていた家庭の食事。狭く散らかった自分の部屋に、嫌気がさしていた。だが今はそれが、どうしようもなく必要だった。暖かい風呂に入りたい。そして、あれは全部悪い夢だったのだと、深い安寧の眠りに浸かりたい……。

 無意識のうちに、身体は出口を求め、彷徨っていた。辿り着いた先は昇降口だった。

「家に帰るんだ」

 そう呟く。眩暈がしている。身体はボロ雑巾の様だった。

「出口……」

 道は塞がれている。ロッカーが横倒しになっていた。紙村はそれを眺めていたが、すぐに肩で押し始めた。身体が悲鳴を上げたが、歯を食いしばってどかした。次は机だ。

「こんなもん、ふざけやがって」

 邪魔でしか無かった。

 脚の部分を掴むと、廊下に放り投げた。それが思ったより痛快で、向こう側の壁に叩きつける様な気概で作業を続ける。覆っていた物が無くなると、窓枠越しに外の霧が見渡せた。

 紙村が使っていたロッカーはまだ人の手が入っていなかった。そのままある。自分の場所から、ローファーを取り出し、履き替える。帰るのだ、とそれだけの装備で強く想った。

 鍵を外し、扉を開く頃には、疲れで体はふらふらになっていた。汗の量も相当出ている。額に溜まったものを拭い、外を眺める。冷気がすぐさま昇降口の中に入り込み、侵略するような勢いで下駄箱を取りこんでいく。

 冷たいつんとした感じが、鼻腔を刺激する。紙村にはそれが、解放の証に思えた。

 ――自由だ、俺は帰れるんだ。

 外に向かって一歩踏み出す。

「家に……帰るんだ」

 ぼんやりと、白い中からゾンビ達が現れた。かつて生徒だったそれは、紙村に近づいてきて、周りを囲み行く手を阻む。紙村は舌打ちをしたが、それは今までの意味とは違った。渋滞に巻き込まれた気性の荒い運転手が、前を並ぶ車に抱くイラつきの様なものにしか過ぎなかった。

「腐れゾンビが……そこをどきやがれ」

 威勢のいい声だが、身体は対照的にふらついていた。死者たちに包囲されるという恐怖は、家に帰るのだという強い意志によって塗りつぶされている。酔漢のようにたどたどしい足取りの紙村を、ついに一人のゾンビが捕まえた。

「放し……やがれ」

 それはもう呻きでしか無かった。手足を食われながら、紙村の視界は捉えていた。

 死者の行列が、開かれた学校に入っていくのを。まるでいつもの光景だと思う。いつもの朝、同じように、彼らはああして学校に入っていくのだ。

 死人のような顔付きで。

 

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