みっつめのまぐかっぷ

 (幸福論者はには馬鹿か狂人しかいない 人の幸福はひとそれぞれ)

 (それでも定義をしたがるの 意味がないものを追い求めるの)

 (人間人生わからない ある日突然不幸になって ある日突然幸せになるものさ)


 杏樹はラディウスの隣人だ。今回は、ラディウスがまだ20代(この時点ですでに最愛の人を失っているのは不憫でならない)の、それ。屋敷の奥、見た限りまだバイオレンスな人体パズルには目覚めていないようだけど。つまり、何も、間違ってない。彼を自分の『こども』にしたい、幸せにしたい。思い返せば、ここまで一人の人間に執着するのも、珍しい。それほどまでに、面白い人間だったのだから、仕方ない、と思う。

 マグカップになみなみコーヒーをついで、ふぁ、とひとつ欠伸をした。


 (マグカップの中に映るのは)


 何年たってもちっとも姿が変わりやしない不思議な隣人に、埋めてあげましょう、と言われたから首を横に振った。

 それ以来、不思議な隣人は、私と妻の家にいりたびるようになった。

 白くてつるつるしたマグカップに色はない。無地で、飾りすらない。ぽってりした形の、横から見れば長方形、上から見れば円形。大きいだけのそれは、正真正銘の安物だ。雑貨屋で杏樹が購入したもので、三個セットで銅貨10枚が、さらに半額。言ってしまえば、売れ残り。彼はきまって、その中に熱い飲み物を淹れる。杏樹は決まって砂糖たっぷりのコーヒーで、私はココアか紅茶。杏樹は私のマグをのぞき込んで、お子様ですねと笑うが知ったことではない。砂糖をスプーンに山盛り五杯もいれるのなら、最初から甘い飲み物を飲めばいいのに、この男は大人ぶりたがる。見た目と背格好だけなら、同じぐらいだというのに。

「砂糖はいりますか」

 にっこり笑って、杏樹はそう聞く。

「嫌がらせか」

「おや、失敬。貴方の国には果物の酒があると聞きました故」

「死ねばいいのに」

「お口が悪いですねぇ。何故貴方の妻は貴方の左側に立とうと思ったのだか」

「それはもちろん、顔ではないのか」

「本当に、永遠の謎です」

 杏樹は肩をすくめる。皮肉とジョークと嫌味の合挽肉をたがいの顔に投げつけるような不毛な会話だとわかっていても、やめることはできない。だって、お互いのマグカップの中身ぐらいしか、話すことがないから。

「飲み終わりましたか」

「とっくにな」

「なら片付けますよ、寄越しなさい」


 杏樹は、もし、世界のおわり、あるいは天国があるとしたら、こういうところなんだろうな、と思う。

 ラディウスはいつもしかめっ面で、にこりとも笑わない。あいそがない。だけど、あるときだけは、本当に優しく笑うのだ。

「開けていいですか」

「いいぞ」

 はにかむように、少しだけ頬を赤くして、子猫や幼い娘が向けるような、いたいけ、という言葉が似合うような笑顔。大理石にしてしまったなら、日曜日の昼下がりに似合うような、優しい、優しい置物にしてしまえただろう。

 安物のマグカップはコーヒーのにおいと、甘いココアのにおいを垂れ流している。それすら邪魔に感じる。杏樹はそれを開けた。

 金細工のオルゴール。エメラルドがはめられている、高価なつくりのもの。長方形のそれは、しかしうえからのぞきこんでも円形ではない。ねこあしをした、可愛らしいつくりのそれは、話を全て信じるなら、奥さんからの贈り物らしい。たしかに、趣味はいい、と思う。杏樹には高等な芸術を解するような教養はないが、素敵だと杏樹は感じる。ネジを回すと、どこか物悲しい、静かなメロディ。

 二人は目をつむり、それに耳を傾ける。半回転するぐらいの短い間しか流れて居なくても、一言もしゃべらずに。そう、こういうのが、幸福。幸せ。私はこれを作りたいのです。それがなんという音楽なのかも知らないし、知ろうとも思わない。ただただ、宝石箱から流れる音を聞くだけ、それだけで、幸福。

 このまま時を止めてしまえたら、きっと報われるだろうに、ラディウスはオルゴールを通して、別の誰かを見ている。幸せな笑顔は、ねじがくるくるまわっているあいだだけの夢で、幻なのだろうか。

 ラディウスが二人。

 ひとりは、宝石箱のラディウス。ネジを回せば歌いだす、幸福なころのラディウスの幻影。もうひとりは、人間のラディウス。過去に囚われて、自由に歌う事すらできない、かわいそうなラディウス。ゆびさし数えて、なるほど、しっくりきた。

 杏樹は、もし、世界のおわり、あるいは天国があるとしたら、こういうところなんだろうな、と思う。

 ぜんまいじかけのメロディが、静かな空間にこだまする、優しい優しい幸せな世界。

 そばにおいてある宝石箱のなかみも、きっと喜んでいることだろうし。


 もう杏樹が来るのも当たり前となってしまった。気が付いたら、キッチンの前に立って、乾燥パスタをゆがいている。

「ペペロンチーノですか」

 杏樹が来るとき、きまってキャニスターからパスタを少し出す。私は鍋に水を入れ火をかけた。

「ねぇ、またペペロンチーノですか、私もう飽きたんですけど」

「かぶとベーコンもいれる」

「かぶ」

「と、ベーコンだ、耳がないのか」

「聞いてましたよ、せっかくベーコンがあるのに」

 分厚いベーコンを見て、次に銀杏切りにされたかぶと、ざく切りのかぶのはっぱをみて、しょんぼりする。フライパンで一緒に焼いてしまえば、ベーコンの塩気がかぶにうつって、おいしくなると、なぜわからないのか。大きな鉄のフライパンは、私がここに住処をうつしたときからあるベテラン選手である。ぱちぱち、かまどの火が燃えた。

「おい杏樹、ぼーっとしてるぐらいなら皿持ってこい、あとフォーク」

「はーい」

 おかあさんの手伝いをする子供みたいな顔で、食器棚から、みっつ皿を取り出した。

 ひとつは、まっしろい無地の皿。もうひとつは、あいつが趣味で集めていた、ふちにレース模様がついた皿。さいごのひとつは、薄い曇った緑色の、少し深いつくりの皿。

 無地の皿は杏樹用。見せるようにたっぷりかぶをいれてやると、杏樹はやっぱりげんなりした顔をして、「友達減りますよ」と言った。知ったことか。どうせ村に帰ったところで、減る友人などいないし、そもそも付き合いを切っていない知人等杏樹ぐらいだ。

 レースの皿は自分用。杏樹と同じぐらいの量を巻いた。その時点で、フライパンの中のパスタはすっかりなくなってしまっている。

 最後の皿には、なみなみと、ミルクを注いだ。

 杏樹はそれに対して、もう何も言わなくなった。ひとくち、フォークでパスタを巻いて、口に運ぶ。「ありがとうございます、とっても美味しいです」と嫌味な笑顔で言いながら。

 私はそれを聞かないふりをして、棺を開ける。中に眠る最愛の人は、今日も目を開けない。もう飲めないとわかっていても、やめられない。無言で、ミルクを注ぎ込んだ。こぼして布のドレスを汚してしまわないように、ゆっくり、ゆっくり、傾ける。

 椅子に座って、自分の前に盛られたパスタを、ひとくち自分も食べる。「とっても美味しい」と言われるほどの料理ではない。

 でももうそれもいつものこと。私が鍋でココアを練っている間に、格好つけて杏樹がコーヒーを淹れるのも、いつものこと。暖かい日差しがさしこむ、静かな森の奥。雑貨屋で買ったラジオは、明日は雨だと告げていた。


 杏樹は村を歩く。よそ者を許さない排他的な雰囲気が漂っている。しかし、いくらかっちりと袴を着ていても、いくら目と髪の色が違っても、杏樹はもうみなの中では「身内」になっているのだ。るんるん、鼻歌を歌いながら、八百屋にかけこむ。

「お、杏樹、またきたのかい」

「えぇ」

 杏樹はおつかいするこどもがそうするのとまるっきり同じようにこっくりうなずいて、くしゃくしゃのメモを読み上げる。林檎とオレンジ、それからまるまる太ったかぶをひとつ。店主は杏樹がかぶが嫌いだとしらないし、その野菜が森の奥に住む男に届けるためのものだとも知らないから、内緒でひとつおまけをいれる。

「なぁ知ってるか、かぶにも花言葉があるんだよ」

「へぇ、そうなんですか」

「『慈愛』または『晴れ晴れと』だと」

「おぉ、こんな野菜にもそんな意味があったとは! ロマンティックですね! それではついでにそこのチーズもいただきましょう」

「おっとだめだ、これは今日女房がつくる最高のカルボナーラの材料になるもんでな」

「あら、そうですか、残念です」

 微塵も残念とは思っていなさそうな顔で杏樹は笑った。

 店主は忘れているけれど、杏樹は彼がまだ若かったころに、三回も恋の相談を受けている。

 店主は忘れてしまったけど、杏樹は失恋のなぐさめに、もう六本も、チョコレートバーをおごってやった。

 店主は覚えていない。このかぶの話が、もう五回目だということ。

「えぇ本当に、残念です」


 マグカップの中には、あまーいココアと、あまーいコーヒー。やっぱりそれは、前と変わらない。やすっぽいつくりのマグは、新品同然の輝きを見せている。

「えぇ本当に、変わらない事、お子様ですね」

「かわらないのはどっちだ」

 私はため息をついた。

 あったかいものを飲みながら、嫌味のミンチをなげつけあう意味のない会話は、やっぱり続いている。考えながら、杏樹の頬を撫でた。つやつや、すべらかで、しっとりしている。ガラス玉みたいにくもりがない目と、柔らかいままの肌。まるで時間が止まっているみたいだ、と思った。聞いてみると、東の国の人はみなこうらしい。東洋の人種は魔術師だと聞いたことがあるが、それはどうやら本当だったようだ。

 少し深い皿に、ミルクは入っていない。もう、必要ないからだ。

 杏樹はコーヒーをすする。やっぱり砂糖はスプーンに山盛り五杯入れて。


 懐中時計が壊れたので、修理屋にもっていくことにした。

 どうせむこうはラディウスの顔など覚えていない。地味だけど上質なコートを羽織った。杏樹はそれを見ながら、つまらなさそうに伸びてきた髪をいじる。

「おい、今は何時だ」

「私は時計を持っていないのですが?」

「ここからだと掛け時計が見えないんだそれぐらい気付けお前なら見えるだろ」

「老眼ですねぇ……12時です、おなかすきました」

 あんまりにも真面目な顔で言うから、ラディウスはため息をついた。仕方ないと、シルクハットのかわりにペンをとる。『かぶとベーコンのパスタ』とかきつけたメモをくれてやると、嬉しそうに杏樹は笑う。難しい料理ではない。犬猫畜生には無理だろうが、一応人型をしている杏樹になら作れるだろう、と嫌味な笑みを忘れずに。

「なくすなよ」

「わかりました」

 パンを切るための、ギザギザの包丁で、バゲットを切って、ハムとチーズでレタスをはさむ。横目で見かけた時計によると、まだ10時にもなっていなかった。

 マグカップに、コーヒーと、砂糖をスプーンで山盛り五杯。いつも通り。杏樹は椅子に座って、お行儀よくしている。ラディウスが玄関のドアを閉めて、鍵をかけて、扉一枚へだてた向こう側で、「壊すなよ」とだけ言うのを聞いても、座ったまま。

 ラディウスの足音が聞こえなくなってから、ようやくサンドウィッチを口にした。もともとはおいしかったのだろうけど、時間がたっているせいで、パサパサしていて、口の中の水分が奪われていくだけ。さめたコーヒーをスプーンでぐるぐるかき混ぜて、それで嚥下する。

「……けちんぼ」

 杏樹は頬を膨らませる。

 二人とともにチャペルで並ぶことはできなかったのだから、せめて食卓ぐらい、いっしょにかこませてくれればいいのに。

 それとも、人間の世界では、愛する人はひとりだけでないといけないというきまりでもあるの。

 杏樹にはわからない。

 いつも食卓にならんでいる棺は、今はどこにも見当たらなかった。


「ねぇ、ねじをまわしてもいいですよね」

「最近疑問符もつかなくなったな。……こたえは、わかっているのだろう」

 だろうに、杏樹は毎日私に問いかける。もしかして、昨日言った了承の言葉は、今日になるともう取り消されているのだろうか。

 杏樹はネジを巻く。昔から変わらない、静かで、優しい音色。じぃっと見ていると、あの時の事を思い出す。結婚祝いなの、と言って、はにかむように笑って、それを持ってきた。私をイメージしたものらしい。たしかに、どこか無機質な音色は、きまった音しか出せないオルゴールは、私に似ている。曲の名前なんて知らない。知らなくてもいい。きっちり、ねじを巻いた分だけ歌い切る宝石箱は美しいのだから、なにも問題ない。

 使い込まれたマグカップに、温かい飲み物を淹れて。

 ココアと、コーヒー。杏樹は、砂糖を山盛り五杯。

 いつも通り、いつも通り。何も変わらない。不思議なぐらいに。

「ラディウス・スヴェトルーチェ」

 杏樹は、ねじを半分巻きながら、沈黙をやぶっていった。

「桜田杏樹という名前、私の本当の名前ではないのです」

「そうか」

「むかし、むかぁし、ほんとうに、いつだか忘れてしまったけれど、私にも大切なひとがいた気がしたのです。__気のせいかもしれないけれど。だけど、その名前が、私以外に呼ばれないのは嫌だったから」

「そうか」

 私は相づちを打つ。へたに慰められるより、こうした方がいいと、知っている。それに、その気持ちは、わかる気がした。私も、そう思うから。最愛の人の名前は、墓石に刻まれるものじゃなくて、喉から生きた声で呼ぶためのものだと、思うから__。

 ねじを巻く手なんてない。

 杏樹はもう目を閉じて、おやすみの体勢をしていたし、私も、ねじを巻く気なんてないから。

 30cmほどの距離が、心地よい。

 宝石箱は物言わずたたずむ。ねじを巻かなければ、彼が歌いだすことはない


 ココアパウダーもコーヒー豆も、もう茶色をしているところの方が少ない。杏樹はそれをマグに全部落として、袋はゴミ箱に捨てた。大量の粉袋が、落ちていた。

 杏樹は砂糖を山盛り五杯入れて、コーヒーを飲む。ラディウスも変わらず、ココアを飲む。

「本当にお前はかわらないな」

「貴方の子どもっぽさもですがね」

 二人の間には、いつも通り、嫌味な会話が響いている。

 無地とレース模様の、二枚の皿に、かぶとベーコンのペペロンチーノを盛り付けた。今日は、杏樹が作ったもの。杏樹の皿の上にのっている量と比べると、ラディウスの皿の上にのっている量はとても少ない。それに気付いて、涙が出そうになった。

 ラディウスはそれをフォークでひとまき口に運ぶ。とてもおいしかった。あの時自分が作ったものより、ずっと。

「あぁ、最高においしいよ」

「皮肉はよしてくださいね」

 杏樹は笑う。ラディウスも笑う。

 幸福?

 幸せ。


「ねぇ、開けてもいいですか」

 杏樹は宝石箱をもって、ラディウスに聞いた。

 ラディウスはいつもと違い、少し、ちょっと、結構、だいぶん悩んだあげくにこっくりうなずいた。

「いいぞ、ただし、優しく……優しく、開けてくれ」

 杏樹はそっと、宝石箱のつまみを指ではじく。

 特に抵抗はない。ぱかっと箱は開く。中は金地にエメラルドでできていた。きらきら、きらきら。部屋の明かりに負けず劣らず、ラディウスの宝物は光を放つ。その煌きは、宝石と同じ。

 杏樹は夜空の中に手を触れた。

 中には銀とダイアモンドの指輪がひとつ。あとはすべて人骨だった。

 あの時はまだやわらかそうで、ミルクを受け入れる肉があったけど、今はまっしろだった。

 少年の小指よりずっと細い、指の骨が、砕いた歯の骨が、足の指が、首の欠片が。溢れんばかりに詰まっている。彼の宝石が、ところ狭しと詰め込まれている、しまいこまれている、彼だけの宝石箱。

「……最初は、薔薇やカーネーションばかりいれていたんだ」

 どこか無機質な視線で、ラディウスは言った。

「綺麗だから、ですか?」

「違う。彼女を守るものが必要だと思ったんだ……布のドレスは、もうあいつを守ってやることはできないから」

 たくさんの黄色い花弁が、彼の最愛の人を包み込んでいる。優しく、優しく、撫でてやると、ほろほろ、涙を流すみたいに、がくから落ちていく。はなれていく。

「……彼女は、私を見捨ててしまったのだよ。食べないとわかっていても、食べなかったら体に悪いだろうと、ミルクを飲ませてやった。毎日石鹸水で体をふいてやった。毎日彼女の服は替えてやった。それでも、いつだったか、どろどろの蝋燭みたいに、冷たくなって、硬くなって……」

「それで、貴方が割ったのですか?」

「いや、棺の中で、いつのまにか小さくなっていた……私は、あいつらが、許せないんだ……もし、病気が治っていたら、今も妻と、幸せな日々を送れていたのかと思うと、憎らしくて仕方がない」

 杏樹は黄色い花を撫でる。

「この花は」

「かぶの花だよ……お前は嫌いだろうが」

「いえ、こうしておけば美しいのにと」

 白い骨を包み込む優しい黄色い花は、丈夫なドレスは、確かに美しい。

 朝食用のベーコンの塊をずっと握っていると、あぶらがとけてべたべたするのとまるっきりおんなじだ、と杏樹は思った。なるほど、そう考えると納得がいく。杏樹は棺の中で眠る女__だったもの__の薬指にふれた。

 一瞬の出来事だった。

 杏樹の手と足に目玉が生まれた事を確認するより前に、ラディウスの口の中に何かが入れられた。人間に反射とかいう機能をつけた神を呪いたくなるほど、それはもう見事に「反射的」に、ラディウスはそれを飲み込む。ずるり、と引き出された指は何もつかんでいない。かわりに、まっかな目がついていた。「うぇぇばっちぃ」とかいいながら指をふく杏樹を横目に、ラディウスは必死に思考を巡らせる。

 今、自分は何を飲み込んだ、飲み込んでしまったのだ?

 それを理解する前に、棺の中の最愛の人の薬指から指輪が消えていることに気付くよりも前に、サイドチェアからナイフをとりだして、杏樹の手のひらの目玉につきさした。なにかが、決定的にかわる音がした。

「もぅ、あぶないじゃないですか。いきなり何するんです、あんまり痛くないとはいえ、ちょっとだけめのまえがまっくらになるんですよ?」

 杏樹は、ラディウスの口内から自分の指を抜くのと同じような調子で自分の手からナイフを引き抜いた。どう見ても貫通しているし、どぱぁと血はあふれ出すものの、杏樹が死ぬ気配はない。

「貴方はとけた蝋燭をかためたいだけでしょう? だったら私がお手伝いしてあげましょうか」

 えへんと胸をはる。

 それが何か恐ろしいものに見えて、ラディウスは後ざする。

 同時に、自分の中に、柔らかいただの袋の中に、最愛の人が入っていることに気付き、自分の体にナイフをつきたてようとした。

 ようと、したのに。

「なに勝手に死のうとしているんですか? 貴方は健康で病気一つしない完全な妻を産みなおして幸福になるのが使命でしょう?」

 目があった。

 赤い目が、じっと、こちらを見つめてくるのがわかった。だけど、混乱してしまったせいで、自分が何を言っているのかもわからない。

「いやだ、このなかに、このなかに妻がいるのだろう、なら私は死んでも構わない、妻を、妻を返してくれ!」

「はぁ? だから、もういちど、産みなおすのですよ、貴方が。とうとうそれを考え付く脳もないほど老いぼれてしまいましたか?」

 杏樹の口調は変わらない。ココアなんて子供っぽい、というときとおなじ感覚で、産めばいいとすすめてくる。

 だけどラディウスは知っている、自分の中で、胃の中で妻が、妻の形見が、最愛の人が溶けてなくなってしまう、それはなんて悲しい事なのか! 部屋にあった唯一の凶器は、残念ながら今は杏樹が手にしている。

「わけがわからない!」

「わからないなら結構ですが、私は貴方を救いたいだけなのですよ?」

 杏樹は笑う、にっこりと。

 マグカップの中は冷めきっていて、部屋には血があふれている。

 杏樹は、もし世界のはじまり、あるいは地獄があるとすれば、こういうところなんだろうな、と思う。

 おびえる男、鉄のにおい、だけどそこには確かに幸福があり救済がある。それこそ優しい、幸せな世界では、ないかもしれないけれど。

 宝石箱はねじをまかなきゃ歌えない。

 彼のねじを巻ける手をもっているのは自分だけ。


 花屋の若旦那がもらったのは、町一番の美女だった。

 長いプラチナブロンドの髪に、くりくりした大きな紫色の瞳、ふちどるふさふさのまつげをもった彼女は、見た目だけはお人形のようだったが、その細腕のどこにそんな力があるのか、野菜をいれたコンテナを笑顔で運べる。つまり力と美しさをそなえた、正真正銘の町一番の美女なのだ。

「あら、見ない顔ね」

「えぇ、森の方からきたもので」

 杏樹はにっこり笑う。バケツにはいったビビッドピンクのバラと、カーネーションは白と赤。それから、黄色くほころぶかぶの花。

 これをいれてくださいと言う杏樹に、花屋の嫁は微笑ましいと顔全体が言っている。女はいつもそう、花束の行き着く先が、花束のもたらす教会のチャペルや白いドレスが大好き。

「ずいぶん気合がはいってるのねぇ、デートかしら」

 杏樹はうなずいた。そして思う。彼女の高い鼻は母親譲りだ、と。二重なのもそうだし、セクシーな唇の形もそうだ。だけど、笑った時に右の口角が上がるのと、片眉をクイと上げる仕草は、彼女の父親譲りだ。本人が言ってた。間違いない。……間違っていたとしても、彼女の父親が可哀想になるだけなので何の問題もない。

 そうして出来上がった花束は、やけにおおきかった。

「あら、こんなに大きく……手持ちで足りるでしょうか」

「いいのよ、サービス。ほんとはりんごもつけてあげたいけど、デートにりんごと花束じゃかっこがつかないでしょ?」

 りんごもほしいです、とは言わないでおいた。

 彼女が言うところの「最高の笑い方」を崩したくはなかったし、なにより「世界一おいしいりんご」ならもうことたりているもので。

「またきてね!}

 快活で元気いっぱい、気立てもよい花屋の娘は笑う。

 杏樹も笑う。


 八百屋の主人は、嫁に行ったばかりの娘が心配でいつもよりポウッとしていたが、そのおかげでレモンのおまけをもらえた。お釣りの計算を間違えたお詫びだと言って。

 杏樹はミルクを皿に注いだ。

 無地の皿だ。

「ラディウス・スヴェトルーチェ。お腹すいたでしょう? 飲んでくださいな」

 棺の中で眠る彼は彼女は、今日も目をさまさない。

 当たり前のこと、当たり前の日々、いつも通り、今日もいい日だったはず、古いラジオの天気予報が、明日の天気は晴れだと言っていても。

 こらえきれない涙がラジオを壊しても、手の目がきらきら輝いていても。

(…………けちんぼ)

 食卓を一緒に囲めなかったのだから、棺の中にくらいいれてくれてもいいのに、ふたりぶんの骨で棺はいっぱいいっぱいで、杏樹がはいる隙間はない。

 あぁ、それとも。

 バラにカーネーション、かぶの花。ところせましと敷き詰めて、ふたりを飾る。守ってやる。

 マグカップにはコーヒーとココア。

 それとも、三人おそろいのマグカップが、安物だから腹を立てているの。


 (マグカップの中にうつるのは、希望と絶望と、ただほんの少しの、うたかたの夢)


 こんな世界はクソクラエ。

 もういちど彼を『こども』にするべく、杏樹は光の粒子を残して、次の世界に旅立った。


 (サボテンに自らキスする馬鹿はいない 恋をするのは馬鹿ばかり)

 (それでも誰かを愛するなら それでも誰かと恋するならば)

 (それ相応傷つくだけの 覚悟と度胸が必要だなど)

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しあわせ、こうふく、ばけもののゆめはかんおけのなか える @sensouhanzainin

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