しあわせ、こうふく、ばけもののゆめはかんおけのなか
える
かんおけどりぃむ
(杏より梅が安い、案ずるより産むがやすい、産むがやすい。だけど本当にそうなのか?)
(西の国では、今日も直されたものが市場に出されているというのに)
(だけど何もわからない。浅い川はざぁざぁ流れて、私を置き去りにしてしまうから)
「あぁ、お願いです!あの下賤で卑劣な死神から、私達を救ってください!」
ギャアギャアカラスが喚く森を、ぎゃあぎゃあ喚く女が指さす。どうやら知能はカラスの方が高いらしい。そこだけじっとり闇を孕むゆがんだ光景に、桜田杏樹は顔をしかめた。
(棺桶の中の夢は)
「俺からも頼む、あいつのせいで村は滅茶苦茶なんだ!」
「お願いします、貴方だけが頼りなんです!」
わらわら周囲に人が集まる。杏樹の前に跪く。確かに杏樹は祓い屋だ、だが祓うのは悪魔であって、まがいなりにも「神」を冠するものではない。本音を言えばうまくいって立ち去りたいが、この村人には寝泊まりさせてもらった恩があるため、無下にはできなかった。面倒くさい、なぜ私がこんなこと。
「わかりました、私が必ず祓ってみせましょう」
口元だけでにこりと笑うと、村人たちは歓声をあげ、泣き出す者もいた。しまった、期待させすぎたか。後悔先に立たずの典型的な例である。ため息をおさえて、期待のまなざしをあびて、何か薄気味悪いものを感じる森の中へと足を踏み入れた。
プロポーズは私からだったと思う。
今思えば歯が浮くような台詞を言って、赤い薔薇を捧げるなんてクサイことをして、それで結婚した。
ペアリングには、小さいながらも金剛石なんて使って、ずっと一緒にいよう、そう約束した。いつまでたっても新婚のようだと隣近所にからかわれたことだってある。家事はふたりで分担した。料理はあまり得意ではなかったが、お世辞にもおいしそうとは言えない料理を、とてもおいしい、と言って食べて笑ってくれたあの顔を、今でも鮮明に覚えている。あの幸せだった時を、あぁ、本当に、幸せ、幸せだった、とても、とても、とても。
「おはよう、よく眠れたか?」
かつての住居ではなく、シンと冷えて小さな屋敷の奥、そこで私は、最愛の人とともに住んでいた。朝目がさめればすぐに挨拶して、二人で選んだお揃いのマグカップにコーヒーをいれる。彼女も私もあまり苦いのは得意ではないから、砂糖とミルクをたっぷりいれて。蜂蜜を塗ったトーストと、野菜をたっぷりいれたスープをぽつぽつ話しながら、彼女に笑いかける。
けれど、今日も最愛の人は目をさまさない。
「そうだ、庭の手入れをしていたら、君にピッタリの花を見つけたんだ」
冷えてしまったコーヒーを捨てて、身の回りの支度をする。花瓶に一本ずつ花をいけていく、彼女は花が好きだったのだ。あまり派手な色は彼女には似合わないから、淡い色を中心に。花をいけおわったら、彼女の手を取って、そっと花を握らせてみた。
「綺麗だろう? せっかくだから、ドライフラワーにしてみようと思うんだ。私は君ほど器用ではないから、もしかしたら失敗してしまうかもしれないが、本に挟む栞にするにはいいと思うんだ」
指の間から落ちそうになる花と一緒に手を握ると、ひんやり、冷たい。それと同時に、村人への憎悪が湧きあがった。彼女が流行病に伏せた瞬間、てのひらかえして迫害して、悪魔よりずっと下劣な連中に顔がうかんではきえた。許さない、許さない、許さない、許さない。脳が一瞬で、真っ黒に染め上げられたように。
「待っててくれ……私が、必ず君を救ってみせるから」
頭をなでてやると、コンコン、ひかえめなノックが聞こえた。こんな外れにいったいだれが? 不思議に思いつつ扉を開けると、異国の者であろう20代半ばほどの青年が立っていた。
「すいません、町を目指していたら道に迷ってしまって……どうか一晩、泊めてはいただけないでしょうか」
艶がかった黒い髪に、アイスブルーの瞳。端正な顔立ちと、不可解なまでに真っ白な肌が目を引く不思議な男だった。かっちりと着こまれた瞳と同じ色の袴には、皺ひとつない。どこか異様な雰囲気をまとっていて、思わず目をそらした。だがある考えが脳に浮かび、すぐに笑みを作った。
「もちろん、さぞ大変だっただろう、すぐ食事を準備しよう」
まだ、パンと野菜が残っていた。こらえきれない笑いと一緒に、食事の準備に取り掛かった。
「悪魔だ死神だ騒ぎ立てるから、どんな大男かと思えば、まさかあのような男だとは」
客室の簡素なベットの上で、杏樹はふぅとため息をつく。あの禍々しい空間の持ち主なら、さぞ高等な悪魔かと思いきや、出迎えたのは大男でも邪悪な悪魔でも動く骸骨でもなく、身長の割には痩せた男だった。観た感じ、三十代後半、もしかしたらもう少しいっているかもしれない。思わず拍子抜けしてしまったほどだ。
「まぁ、ただの老人というわけでもないでしょうが」
こびりついた血の匂い、ぽつぽつぬぐい切れてない薄い血痕、憎悪怨念その他諸々。五人十人、もしかしたらもっと? 様々な血の匂いがあらゆる部屋からただよっている。
今杏樹が座っているベッドの上からも、強い恨みが感じられる。どんよりとした空気で、健全な人間なら数時間もいれば精神を病んでしまうだろう。杏樹は、「普通の人間」ではないから、その辺は別に心配する事はないが。
……さて、どうしましょうか。
あの男が悪魔ではない以上、杏樹に手出しは無用、あくまで祓い屋というのは、「人ならざるモノ」を祓うだけであって、けして中年の殺人鬼を殺すような便利屋であるというわけではない。かといって、このまま無事に屋敷を出られるはずもないだろう。ここまで無差別に人を殺すのだから、何か理由があるはずだ。ただの快楽殺人鬼ならこうはいかない。それを探してみるのも、少しはいい暇つぶしになるだろうし。
「食事ができたぞ……食べられそうか?」
「あ、すいません」
「いや、こんなところに人が来るのも久々で……つい、作り過ぎてしまったんだ。沢山、食べてくれ」
何より、この男の、張り付つけたような笑顔を、爽やかな声を態度を、全て暴いてみたくなった。
二人で向かい合って食事をする。決して豪勢な食事というわけではないが、新鮮な素材を使っているのであろう食事はおいしかった。彼のマナーは洗練されていて、見ていてほれぼれしたほどだ。それに、会話をすればするほど、引き込まれているようで、杏樹は新しいおもちゃを買ってもらった子供みたいな気持ちが抑えられなくなった。もっと、遊びたい! せっかく手に入れた玩具を、箱の中にしまっておくような幼児はいないだろう。じっと観察してみると、男はとても美しいことに気付いた。金色の髪は見た目年齢の割には艶がある。伏せられた瞼から覗く生気のない瞳は、珍しい緑色。ゾクゾクとさせられるような、硝子玉でもはめこまれたような、己を昂らせるソレ。
「……確かに、一種の悪魔と言われても納得いきまんすね」
「ん? どうした?」
「いえ、なんでもありません」
水を飲み干して、綺麗な笑顔を浮かべた杏樹の脳に浮かぶ考えを、男はきっと知らない。
「……いない」
丑三つ時、私は息をひそめて杏樹が眠る客室の扉を開けた。だが、そこはもぬけの殻、ご丁寧にも畳まれた毛布は、埃一つ立ててない。窓も開いていない。確かに外から鍵をかけたはずなのに……不可解に思いながらも、平静を装って、順番に部屋を確かめていく。……久々の上玉なのだ。あの卑劣で下劣で最低最悪の村人たちのを使うのはヘドが出るからできるだけしたくないし、何より彼女は美しく、そこらの人間では全くさまにならない。
だが、あいつの美しいアクアマリンの瞳は、彼女にふさわしい、と、そう思った。
「…………クソッ!」
くまなく屋敷を捜索したのだが、杏樹はどこにもいなかった。そもそも、外へとつながる扉や窓には全て鍵をかけたから、外に出られるはずがない。念のためにベットの下からクローゼットの中まで探したが、結局それらしい人影を見ることすらなかった。チッ、と舌打ちが漏れた。こんなことできるのなんて、よっぽどの大泥棒か__それとも。
「いや……死神は私か」
ナイフに銃、こびりついた血の匂い。そろりと足を忍ばせ息を殺す姿は、「死神」と形容されるのにふさわしいのかもしれない。そう思いながら、最後の部屋を開けた。
「へぇ」
そこには、妻の手を、愛しい、愛しい妻の手を、つまらなさそうにもてあそぶ杏樹がいた。淡い月の光が、つるつるした妻の腕を照らす。闇の中でも、まるで発光しているみたいに、いやにきらきら、きらきら、薄い色に輝く目を細めて私を見つめる__3対の瞳。顔に二つ、手の甲に一つずつ、足袋に隠れてないくるぶしに一つずつ。あきらかな異形に、ひ、と喉の奥で息がかすれる音がした。なんだあれは、人間、人間? まっかな、まぁっかな、手と足の瞳が、顔についた青い目が、目が、私を、私を見てくる。腕を無造作に放り投げた反動で、ひらひら、ひらひら、しきつめられていた花弁が宙を舞う。彩度が低いそれは、やけに、ゆっくり落ちていくように見えた。
「これが貴方をかえた原因ですか」
そうか、そうか、わからない、わからないけどわかった、認識した。触れられている、最愛の人が、異形に、バケモノに、二人だけの幸せな空間に、怪物が、異物が、怪異が、紛れ込んでいる!
「私の、私の妻に、最愛の人に、あいつに、触れるなぁ!」
脳が即座に警告を発して、半ば無意識に凶器を握りしめた。冷静さなんて放り投げて、憎むべき怨敵につかみかかった。そのまま馬乗りになり、眉間に一発、首に二発、こめかみに一発、銃声のたびにビクンと痙攣する体を押さえつけて。どこから撃ったかなんて、ほとんど覚えていない。とにかく、弾倉が空になるまで、何度も何度も何度も撃ち込んだ。ついでに、薄い腹をつぶすつもりで踏みつける。ようやく落ち着いたころには、あたり一帯血の海になっていた。
ぐ、と首を絞めると同時に、薄くあいた口からごぷりとどす黒い血が漏れ出る。バケモノでも血は赤いのか……。そこまで考えたところで、ふと思った。あぁ、そうだ。掃除をしなければ、彼女は血を見るのが嫌いだった。顔にある方の目玉だけ抉り取ったら、庭にでも埋めておけばいい。きっとおいしい野菜と綺麗な花を咲かせてくれるだろう、彼もうれしいはずだし、彼女も喜んでくれる。一刻もはやく、元通りに、幸せな空間に、戻さなければ。
「は………ははははははははは! あぁ、あぁ、あぁ! ラディウス・スヴェトルーチェ!本当に貴方は面白い方だ!」
布巾を手に取った時、全身に強い衝撃が走った。
何故、言ってもいないのに、私の名前を知っている、何故、何故? そんなささいな疑問を吹き飛ばすように、目にもとまらぬ速さで頭をつかまれ、ご、と鈍い音を立てて、床にめりこむのではないかと思うぐらい叩きつけられた。何が起きた? 今、何が起きたのだ? 理解できない、ちかちか、一拍遅れて目の前に星が飛ぶ。なんとか目を開けると、そこには確かに鉛球をお見舞いしたはずの、
「あ、ぐ、が、はっ……」
「あぁ、すみません、つい力み過ぎてしまいましたか。なんせ人間相手にここまで強い感情を抱くとは、私自身想像していなかったのですから!」
「わた、な、いや、な、なぜ、た、しかに、ころし……ぅ、ぐ!」
「ん? あぁ確かに少し痛かったですがね。全く、最近の祓い屋でもあそこまで執拗に殺しませんよ、偏執病ですか貴方は……」
話が通じない、いや、話はできているはずなのに、会話ができていない、対話ができない! 全身から冷や汗がふきだしていく。杏樹はそっと耳元でささやいた。
「何故怯えているのですか、貴方も死神でしょう? 人ならざるモノ同士、仲よくしようではありませんか」
怖い、怖い! 妻を失った時以来、強い恐怖を感じたことなどなかった、なのに、目の前の、自分よりずっと若い背格好の青年一人に、抗う事のできない大きな存在に、惨劇の権化に、ガタガタと肩を震わせることしかできない。ひゅーひゅー、自分の心拍があがっていくのが感じられる、怖い、怖い、何が起こるんだ、いやだ、私は、私は?
その恐怖は、目の前でつかみ取られた瓶詰の金髪を認識した瞬間ふっとんだ。
「全く、人間風情が、悪魔の真似事など……髪に指、脳髄まであるのですか……こんなものを集めても、貴方の妻は」
「黙れぇ! 私の妻を殺すなぁ!」
私の妻を、殺すな、その言葉に、嘘も、偽りもない。もう誰からとったかなんて覚えていないが、彼女は、綺麗なブロンドね、そう喜んでくれるはずだった。……はずだったのに! 違う、彼女はまだ死んでいない、今は、今は眠っているだけ。悪くなった部分を他のものをくみかえれば、すぐに目を覚まして、また、あの幸せな日々が戻ってくるんだ。なぜだか、涙があふれてくる。苦しい、痛い、辛い。全部目の前の怪物のせいだ、そういうことにして、隠しナイフを喉元に突き刺した。貫通したはずなのに、けらけら笑って刃先をへし折られると、ばらばら破片となっておちていった。そこにうつる自分の顔は、ひどく青ざめていた。
「さぁ、言ってみなさい、貴方の一番は誰ですか」
足を振り上げ、股間に一発、爪を立てて、首に一発、じゃあじゃあびゅうびゅう、そんな擬音が似合うように、壊れた蛇口をさらに叩いたように、とめどなく血があふれる。
「ひ、じご、じ、地獄に帰れ、バケモノが!」
どうやっても死にそうにない__いやむしろ生きているのかすらわからないこのバケモノは、何を考えている、そもそも何か考えている? 何か、自分が、触れてはいけないものに触れてしまったのではないか? 誰だ、やつは、いったい、何なのだ。
杏樹は気にもとめない。
「言ってみなさい、ほら、貴方の一番は誰ですか」
「くそ、くそったれが!」
「ねえ聞かせてください、私に、貴方の一番を」
耳元で、優しく、優しく、ささやいた。比喩じゃなくて、悪魔の声だ。甘く低く、腹の奥を膿ませるような声。首をふってのがれようとすると、手の甲と目があって、固まった。顔にあるものとちがい、球体ではなく、ひらべったく伸ばして張り付けたような赤い目は、じぃっと、責めるかのように、こちらを見てくる。
「ほらほら、ほラホらホラ! 怖がることはありません、おべっかも結構です、本当に、私には必要なのです、貴方の言葉が、貴方の心に巣食う最愛は、誰ですか、名前を、名前を言ってください!」
「黙れ、キャベツのクズ! 妻の名以外に誰を望む、お前は私に何を言わせようとしているんだ!」
杏樹は返答に満足したように、笑った。唇を閉じても自然と上がってしまう口角のせいで閉じきれず、不気味な、三日月型の笑み。ベットサイドの棺桶を一瞥して、幸福そうに、私の服をやぶった。
「おい、やめろ、まて」
「遠慮しないでください」
「やめろ、お前、何をする、何をしようとしているんだ!」
「だから、遠慮はいりませんよ、ラディウス・スヴェトルーチェ、なに、あなたは本当にいいお方です、私は貴方ほど一途で盲目な人間を知りませんよ、見た事も食べた事もない」
「脳天ぶち抜かれたいのか!」
部屋中に響く大声に、杏樹はおびえなかった。気にもしない。むしろ、うっとり、聞きほれているようにも見えた、その顔には、
「産めばよいのですよ」
恍惚、がうかんでいた。
いい考えでしょう? と形のいい鼻がつぶれるのもおかまいなしに、ほこらしげに笑った。
「貴方の一番でしょう、貴方がもう一度、海治してあげればよいのです、ジグソーパズルより、よほど建設的な案でしょう」
「……狂っているのか」
「貴方が言うのですか! 人体ジグソーパズルは面白かったですか? はは、うふふふふ。本当に、面白いお方です、ラディウス・スヴェトルーチェ、貴方は」
「……狂ってる!」
みるみる間に肉が削げ落ちたような不健康な薄い腹があらわになる。杏樹はそこに自身の手を当てた、逃げようと身をよじろうが、壁と血の海ぐらいしか見えなかった、では、一体どこに逃げれば正解なのか、そもそも正解などあるのか?
「いいのです、えぇえぇえぇえぇ。ハラがないならつくればいいのですよ、貴方は強いお方だ、内臓のひとつやふたつ、引きずり出してもなかないでしょう? 空いたところに、貴方の細君を孕めばいいのです、名案でしょう?」
「私の事を、食器棚か何かとでも思っているのか、狂人め、離せ、離せ!」
内臓を引きずり出して、というのは本気なのか、よしよし、いいこいいこ、小さい子にそうするように、いっそ蒼白ともいえる腹をなでる。そのうち、何か腹の奥が、ぽう、っと温まるような心地になった。ぎょっとして見ると、自分の腹から、得体のしれない、赤と橙と桃を同じだけ混ぜたような、不思議な色の光が漏れ出ているのに気が付いた。
「いったい、私の体に何をした!?」
「ねぇ、教えてください、ラディウス・スヴェトルーチェ。貴方の細君の目の色は? 髪の色は? 爪の形は? 歯並びはどうでしたか、声は高めでしたか、低めでしたか? 性格は? いえ、貴方を虜にした女性です、素晴らしい人にはかわりないのでしょうけど。そうそう、好物も聞いておかねば! 何分このあたりの文化をよくしらないもので、食が違えば同じには育ちませんから。誕生日ケーキとやらも、必要なのでしょうか? 青や紫は反対ですが、黄色と緑ぐらいなら許してあげましょう、なにせ貴方の色ですしね! それから、聖夜祭の七面鳥は、ダースで買った方がいいですよね!」
「黙れ、くそ、くそったれ!」
徐々に光は強くなり、私の全身、すっぽり覆い隠すほどにもなった。だんだん、意識が薄れていく。なんだこれは、本当に、どうなっているんだ、化け物が。
「暖かいですね、この光は、あたたかい、本当に、あたたかいですね、ラディウス・スヴェトルーチェ。これなら子供も安心して育つでしょうよ、あら、どうしました? 何故泣いているのですか? もしかしてミルクのことが心配ですか? なに、貴方は知らないかもしれませんが、私がもといた国では、粉ミルクで立派に育てられるようないい時代になっているのです、ちゃんと育つのです、安心なさい!」
ほわほわ、すこしずつかすんでいく脳の中で、あの時の事がフラッシュバックする。
どうして、こうなったんだ。
なぜ、こんなことになったのだろうか?
ただ、妻と安らかな日々を、幸福な一生を過ごせればよかったのに。
それ以上に何も望まないのに、それすら、罪だというのか?
病に伏せた彼女を、誰も診てくれなかった。金は用意するといっても、疫病神と罵られ、門前払いを食らう日々にたえて。子どもたちは、親に何を教わったのか、大きな石を投げつけてきた。そのせいもあって、私自身も、生傷が絶えなくなってしまった。しかし、私が痛みを感じることは別に良かった。本当に嫌だったのは、傷を見て、どうみても自分の方が容態が悪いのに、私の心配をする妻を、見る事しかできない自分だ。愛する人の体に巣食う病魔を癒すどころか、逆に心配されるなど、と情けなく思った。彼女は決まって、「あまり無理をしては駄目よ」と、細くなった腕に抱きしめた。必ず治すから、安心しろ、と約束した。
なのに、私は、彼女は、
「ほら、泣き止んでくださいよ、いいこ、いいこ。貴方は本当にいい人間です、こんなにも、こんなにも美しいのですから。人間の理論ではかるのならば、美しいものに罪はありませんよ、えぇ」
「……ちがう、ちが、う……わ、たしは、わるくな……い……」
痛い。もう何が痛いのかもわからないが、痛い。声を殺しても涙は流れる。自制できない、恐怖と、罪悪感と、虚無感と、それ以外のナニカで、押しつぶされそうになる。光は強く、強く、暖かく、熱く、私を包み込む。杏樹の幸せそうな顔に、地獄に突き落とされたみたいに感じながらも、だんだん、そう、まるで、自分の体が、すこしずつ、別のものに作り変えられていくような__そんな、素晴らしく優しい笑顔を見て、私は、私は。
「貴方は素敵な方だ。一途で盲目で、愚かで賢い。こんなに空っぽなのに、みたされている、あぁ、美しい、貴方のような人間は、本当に、本当に、いいお方です、ラディウス・スヴェトルーチェ」
杏樹は、私の頭を撫でた。光は、屋敷を飲み込むのではないかというばかりに強まる。
そうか、なんだ、そうだったのか。やっと、理解した。
(このバケモノには、ひとりで入る骨壺より、二人で眠る棺桶のほうが、暖かく見えたのだろうか、はは、そうか、は、ははははは。なんて慈悲深い最低最悪の人格破綻者なんだ、まったく、この、くそったれ、くそったれ、生きすだまが、悪霊が、幽鬼が! お前なんかに妻と私の幸福をわかってたまるか、私は幸せだった、邪魔をするな、なぜ、なぜ誰も、私を幸せにしてくれないんだ、何故私の幸せを理解しない、何故だ、何故私とあいつだったんだ、本当に、本当に、本当に……)
「死神、私が貴方を救ってあげますよ、私だけです、もう、こんな世界で、貴方を救ってあげられるのは、私だけ、私だけなのです、貴方の意思で、救ってくれと、終わる事のない罪の意識から、村人に対する憎悪から、救ってくれと、それだけで!」
杏樹は心底楽しそうににぱっと笑う。殺してやる、何か、そうやって意識を保たないと、恐ろしい何かに食いつぶされてしまいそうで、目の前のバケモノの首を絞めてやろうと手をのばした。だが首に手がふれた瞬間、光は一層強くなり、何もかも、飲み干してしまった。
棺桶の中に眠る妻は、最後まで目を覚まさないままで。
「…………ん……」
チュンチュン、小鳥のさえずりに、重い瞼を開く。見渡せば、、花の香り、清潔な部屋、いっそ不自然なまでに、「いつも通り」の空間。
……あれは、夢、だったのか?
恐る恐る立ち上がると、ズキン、と腹に痛みが走った。まるで、ジクジク、腹の奥が、膿んでいるような、そんな、不思議な感覚。ヒヤリ、と背筋が凍る感覚がした。
夢ではないのか?
恐怖からか乱れる呼吸を必死で押さえつけて、よろよろ窓に向かう。太陽をみて、あの夜は終わったのだと、己に信じ込ませるために。油断すればすぐもつれてしまいそうな足を必死に動かして、なだれ込むように窓を開けた。
「…………は」
降り注ぐ太陽、青々とした空、森でさえずる小鳥たち、そして、それを飲み込むような炎。憎くて憎くて憎くてたまらないあの村を、ゴウゴウ飲み込むような炎。いつも自分たちを毛嫌いしていた老婆の雑貨店、何度言っても門前払いだった病院、通るたびに石を投げつけてきた子どもたちが住む教会、気のいい隣人の住処、かつで妻と住んでいた家。全て食い漁って、止まることなく炎は燃え盛る。
「はは、は……」
ついに憎しみが炎にかわり、あの町を焼いたのか、そんな非現実的なことを想像し、床にへたりこんだ、なんだか、力がぬけた。いいようのない虚無感が、全身を襲った。何度も何度も何度も願ったことのはずなのに、なんだろう、まるで、自分が死んでいくような、そんな感覚。死んで当然の奴らが死んだだけ、それ以上の事に、どうしても思えなかった。
「願いを叶えた気分はどうですか?」
声が聞こえる。昨日嫌というほど聞いた、あの耳に付く声。こつ、こつ、こつ、足音がゆっくりと、けれど確実に近づいてくる。声をあげることも、ふりかえることもできない、そんな力が、残されていない。
「さすがに村を、塵一つ残さず焼くというのは手こずりましたが、今非常にいい気分ですよ! なんせ久しぶりに、貴方のような面白い方と出会えたのですから!」
はやく、はやく、あの男の脳天に鉛球をぶち込まなければ、ナイフで喉をえぐって、心臓を握りつぶして、二度と目を開けないようにしなければ、そう思うのに、体はぴくりとも動かない。足音は止まり、気配は真後ろに迫る。
顔は見えなかったが、なぜだか彼が笑っていると、確信を持てた。
「貴方を人間のままにしておくのはもったいない、喜びなさい、ついでといってはなんですが、私の『こども』にしてあげましょう! 永遠にこの素晴らしい世界を彷徨いましょうね、ラディウス・スヴェトルーチェ!」
あぁ、こんなの死ぬより惨いじゃないか。
腹の奥がぽうと熱くなる感覚とともに、意識は闇の中に消えていった。
棺桶の蓋は閉じている。もう開くことはないだろう。
__棺桶になった男のお話。
(棺桶の中の夢は、ひどく優しく、ひどく暖かく、同時に、酷かった)
__杏樹ははたと気付く。
隣で泣く男の声は、酷く悲し気で、哀れだ。
(もしかして、失敗してしまったんでしょうか)
ラディウスがふしあわせだと、杏樹もふしあわせ。ふしあわせなのは、よくないこと。だから杏樹はやりなおす。
今度は、ラディウスを幸せにしよう、笑顔にしよう。間違えない、大丈夫。
『こども』がいなくなるのは悲しい事だけど、ラディウスがふしあわせなのはもっと悲しい。杏樹は右手の目に力を込めて、過去にさかのぼり、もう一度やり直すことにした。
(花は桜木人は武士 だけど私は桜にはなれないのだから)
(人の心は人にしかわからない 誰にも精神などわかりはしない)
(山桜のが美しいと言われても 染井吉野は接ぎ木で増える)
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