何も起こらない廃病院

@bagu

何も起こらない廃病院

 廃病院の中へ足を踏み入れると、不意に気温の低下を覚えた。夏なのに冬のような冷気、しかしその感覚は一瞬で喪失した。気のせいだったのだろうか。

ロビーはそこそこ広く、元々は街の総合病院的なものだったのか。待合室の散乱した椅子や色褪せた献血ポスター。――何より空気そのものが訴えかけてくる。ここは既に終わった場所なのだと。

 俺たち囲碁将棋部の同輩4人が、こんな場所へ訪れたのには理由がある。

 夏、夜、廃墟。肝試し。夏の風物詩だ。

 その意味では、この廃病院は雰囲気抜群でお誂えの場所だった。

 ――まあ、その動機は実際のところ、ただの慣例だったりするのだが。囲碁将棋部の3回生は、毎年決まって肝試しが行われる。何でも、部を任されるに値する肝を身に付けるべし、とか、よく分からない理由だ。今年の4回生もそうだったし、その前もそうだ。正直なところ乗り気では無かったが、慣例ならば仕方がない。

 だが、この廃病院では何も起こらないらしい。

 ネットで調べても情報が出てこなかったし、地元出身の後輩に聞いても答えは同じだった。ただ1箇所、悪戯されたと思しき場所はあるようだ。だが、肝試しに訪れた者が満足する何かは無いらしいと、そういうことだった。

 不意に、音が聞こえた。

 その音を捉えた瞬間、俺の全身は硬直した。俺だけではない。他の3人も同じ様に度肝を抜かれたはずだ。心臓が跳ね上がり、冷や汗が流れる。

 ウェイトリフティングで過剰な筋肉を搭載した俺だが、正体不明のものは恐ろしい。霊を信じているわけではない。正体不明なものが恐ろしいのだ。――いや、それは同じことだろうか。ともあれ、誰だってそうだ。人間ならば。

 錆びた金属が擦れ合う音。黒板に爪を立てるような、人の不快感を煽る音だ。

 それは扉が開く音だった。極めて立て付けの悪くなった扉が開く音。

「お、おい尾形、いったい何の音だ、これは」

 尾形に問うと、頭を振って答えた。分からない、ということか。普段から寡黙で陰気な奴だが、何時にも増して顔が青白い。どこか体調が悪そうだ。首には、10は下らない大量のお守りが掛かっている。いつものことだが、やはり異様だ。当初抱いていた苦手意識は、既に払拭されているのだが。

「湯本、あれ……」

 片桐が俺の名前を呼んだ。とある場所をハンディライトで照らしている。俺を含む5人分の光線がそちらへ向いた。ライトでも使わないと、文字通り一寸先すら見えはしない。

 片桐 かたぎり すなお。中肉中背で、これといって特徴のない男だ。基本的に無表情で、何処となく蝋人形のような印象を受ける。こいつとは入学以来の友達――だった気がする。こいつと並ぶと、ウェイトリフティングで身につけた俺の筋肉がより強調されるようだ。

 ライトで照らされたのは、受付の奥。

 ナース室の扉が向こう側へ中途半端に開いていた。

「なんだ? 風で動いたか?」

 廃病院らしく、ガラスは殆ど割れている。外気の流れが内部にまで影響を及ぼしていたとしても不思議ではない。現に入口に近いロビーは、風の通り道として俺たちの髪を揺らしていた。――と、いう説で納得できないことはないが。

 咄嗟にガラス窓に光を当て、内部を覗き見ようとしたが、埃のためか曇りガラスのようになっていた。

「お前ら、ビビってんのかよ」

 やや上擦った声で煽るようなことを言ったのは、金剛堂 昌尚こんごうどう まさなお。いけ好かない金持ちの息子だ。ワックスで無造作に纏めた金髪にタンクトップ、高級品らしき腕時計にネックレスと、傍から見ればただのチンピラだった。

 いや、奴をあからさまに嫌っているのは俺だけかもしれない。

 金剛堂は誰に対しても有益な奴だからだ。尊大な態度を取られるくらいでは、お釣りが来る。

 それなりの長身に、そこそこ整った顔。これに金が合わさるのだから、女性人気はとても高い。男からの妬みは当然あるが、それを黙らせる程に金回りが良いのだ。俺だって何度も恩恵に授かったことはある。この廃病院まで走らせた快適な高級車も、奴の持ち物なのだ。運転は俺だったが。

「そんなに強い風ってわけでもなかったと思うけれど……」

 金剛堂の言葉に答えながら、片桐は無造作にそちらへ近づいた。

「待ってよ、危ないよ?」

 その片桐を制したのは、この5人集団の紅一点、花菱 智子はなびし ともこだった。そう表現すれば誤解を生むかもしれない。いや、部に在籍する他の女性陣からは顰蹙を買うだろう。少なくとも、俺の中ではそうだ、という意味だ。綿毛のようにふわっとしたパーマを髪先に掛けた、アースカラーのロングヘアーが印象的だった。正直、かなり可愛い。

 俺が金剛堂をいけ好かない奴だと思ってしまうのは、彼女の存在がある。というのも、俺は3年間、ずっと彼女に片思いしていた。筋肉を付けたのも彼女のためだ。一人称を僕から俺に変えたのも、彼女のためだ。可愛らしい彼女を護れる男になりたかった。

 それがこの4月、金剛堂と付き合いだした。俺のウェイトリフティングは無駄な成果だったというわけだ。

 ――いや、あながち無駄とも言えないか。

「花菱の言う通りだ。お前、此処へ来る前に言ってただろ。廃墟にはホームレスが住んでる可能性があるって。だから、取り敢えず先頭は俺が行く」

 言いながら、片桐を押しのける。身長は174cm程度の俺だが、ボディビルダー並の筋肉は周囲に威圧感を与える。飲み会の後、運悪く柄の悪い連中に目をつけられても、俺が出ればバツが悪そうに引いていくのだ。

 別に俺は、こいつらのヒーローになりたい訳ではない。だが、鍛えた筋肉が役に立つことは嬉しい。

 しかし、片桐――ホラー映画なら一番最初に死んでしまうくらいに迂闊な奴だ。

 正直なところ、本当にホームレスが居るならば、確認もせずに回れ右して帰るのが正解なのだろう。少なくとも、花菱がいるのだから、俺はそうしたい。花菱に良い所を見せる機会ではあるが、見せたところで心変わりしてくれるわけでもないのだ。

 だが――これは気持ち上の問題ではあるが。

 扉が動いた原因を確かめずに先へ進むなど論外だ。この場にいる他の4人もそうだと信じたいが――確かめずには居られないのだ。俺も片桐も金剛堂も、明言してはいないが花菱も霊的な現象を信じていない。信じてはいないが、もしかしたら――という心の隙間はいくらでもある。その隙間に引っ掛かるような恐怖を抱えたまま、この先へ進むことなど出来はしない。

「開けるぞ……」

 確認すると、金剛堂の腰があからさまに引けていた。とはいえ、それを揶揄するような余裕も俺にはない。

 扉を押すと、錆のせいか思いのほか重い感触が帰ってきた。先ほどと同じ音が耳に嫌な感触を残す。妙に生臭い臭いが内部から漏れ出てくる。

 恐る恐る内部をライトで照らすと、そう広くはない室内の全容が知れた。

「…………っ!」

 そして、その異様な光景に、呼吸の仕方を忘れてしまった。頭がパニックになり、息を吐くタイミングで吸い込むといった不可思議な挙動。肺に鈍痛が走る。

 その異常を除けば、普通のナース室だ。とは言っても、普通のナース室を知らないため、きっと普通とはそうなのだろうという推測に過ぎない。閉鎖されるに当たって、何の整理も行わなかったのだろうか。ナースが使用していたのだろう6つのデスクには、当時のファイルらしきものが整頓されたまま残っていた。棚やロッカーもそのままだ。薬瓶らしきものもそのまま残されている。動かなくなった時計はあらぬ位置で止まり、用途不明の旧式テレビがやたら高い位置に何台も置かれていた。

 当時の仕事風景が蘇ってきそうだ。

 その異常さえ無ければ。

 御札が貼られていた。

 壁、床、天井、デスクやテレビ。乱雑に、だが高密度に、恐るべき数の御札が眼に飛び込んできたのだった。正体不明の黒い染みらしき何かも散見された。

 そして、何だろうか、部屋の中央に、何かが置かれていた痕跡がある。そこだけ埃をかぶっていない。まるで、つい最近に、誰かが重い何かを動かしたように思える。

 あまりに異常な事態に、その場に居た誰もが目を逸らした。張り詰めた緊張は会話を生まない。誰かが叫べば、きっとみな叫びだすのだろう。

 だがその時、片桐がぽつりと呟いた。

「悪戯」

 その言葉で、俺は漸く我に帰った。

「あ……そうか、廃病院には1箇所だけ悪戯された場所があるって……」

 それがこのナース室ということか。なんという悪戯だろう。肝試し的には十分に効果があったが、本当に勘弁して欲しい。

 他の皆から、口々に安堵した吐息が漏れ出た。

 ホームレスは――まあ居ないだろう。こんな場所へ好んで入るような奴なんて居ないと信じたい。何より、この部屋へ入って調べるなどということが生理的に無理だった。

 扉が開いたのは、やはり風のせいだったに違いない。何せ、この廃病院では何も起こらないのだ。俺たちが訪れた時に限って、オカルトな現象が起こるなんておかしいだろう。

「先へ進もう。ここはもう良いだろ。もっと見ていたいとかいう奴、居るか?」

 その問いに、首を縦に振るやつは当然居なかった。

 安心した。

 ナース室の傍で、プラスチックか何かで出来た案内板を発見した。埃を手で払うと、院内の大体を把握できた。1階は受付兼ナース室、診察室に少しの検査室。2階は手術室に検査室、リネン室に入院患者用の病室、そして3階は全てが入院患者用のフロアらしい。一階はループ構造らしく、廊下がUの字になっているため、進めば元の場所へ戻って来れるようだ。

「取り敢えず、上から順に回ってみないか? 上まで昇って、下へ降りていく感じで」

 片桐の提案に、皆が頷く。

 三階までの階段を登っていると、唐突に不安を覚える。先頭を歩くというのは怖い。後ろを振り向けば、誰も居なくなっているのではないかと。そのような悪戯をされれば、俺はどうすべきだろうか。

「おい、ちゃんと前見て歩けよ」

 ちらちらと何度も後ろを振り返る俺に、金剛堂が言った。手に持っていた清涼飲料水のペットボトルを飲み干し、階段から投げ捨てる。マナーの悪い奴だ。

「湯本君は気を使ってくれてるんだから、そういう言い方しないの」

 花菱の嗜めるような物言いが、俺の神経を逆撫でする。2人が付き合っているという事実が、俺には耐え難かった。

 大学一年の春、囲碁将棋サークルへ入会して彼女と出会った。当初は外見的にも内面的にも地味な女性だったが、その奥に隠れた可憐さに心を奪われたのだ。今の彼女に地味さはない。金剛堂と付き合い始めてから垢抜けてしまった。黒かった髪は茶色に染まり、知らなかった化粧を覚えた。当時は協調性もなかったが、今では積極的に色々な行事に参加している。自分を着飾ることを覚えてしまった。それ自体は悪いことではない。以前の彼女より、ずっと可愛くなった。俺と付き合っていても、決してそうはならなかっただろう。

 だが、悔しい。男の味を俺ではない誰かが教えてしまったことが、死にそうな程に悔しかった。

 金剛堂は嫌なやつだ。俺が彼女に惚れているのを知っていて手を出したし、今も見せつけるように身体を密着させている。だがやはり奴は有益なのだ。特に女性に対してはそうだろう。男に対しては尊大なアイツも、少なくとも女性関係はクリーンだった。花菱に対する想いも本物なのだろう。

 花菱が金に釣られたとは思わないが、女性ならば誰でも金剛堂を選ぶのではないか。

 いや、選ぶ選ばないの問題ではない。金剛堂は花菱に告白し、俺は3年間何も出来なかった。その差か。

 もし俺が先に告白していれば、彼女は俺に応えてくれただろうか。正直な話、今年の正月に立てたプランでは、ゴールデンウィーク頃には告白する予定だったのだ。僅か一ヶ月の遅れが致命的なものとなったのだった。

 俺はこの悔しさを永遠に抱えることになるのだろうか。金剛堂が居なければ、告白に成功していたのに、と。

 三階へ到着すると、左右に廊下が分かれていた。ここまで歩いて気がついたが、ペットボトルや酒の空き缶、アイスやお菓子等のゴミが、少量だが廊下に散らばっていた。こんな何も無いらしい廃病院でも、過去には俺達のように肝試しで訪れた人間が居たということか。いや、そもそもそうでなければ『何も起こらない』などという話も出ないか。落ちているゴミの劣化具合から見て、時期はそれぞれ異なるだろうことは推察出来た。そのことから考えて、毎年誰かしらが訪れてはいるのだろう。だが、それにしてはゴミの数が少ない気もする。毎年訪れたのは1人だけだったような、そんな数の――。

「取り敢えず、右から行ってみよう」

 片桐が歩き出したので、仕方なく俺達も付いて行く。こいつ、こんな大胆な奴だったか?

「お前、こういうの怖くないのか?」

「何言ってるのさ。湯本だって信じてないんだろ? 幽霊」

「そりゃそうだが……」

「いやまあ、そりゃ僕だって少しは怖いさ。でも、だからこそ早く終わらせたいんだよ」

 本当だろうか。片桐の声からは余裕を感じる。反して、俺の手は汗でじっとりと濡れていた。

 廊下の奥から1つずつ部屋を回る。どの部屋も同じような荒れ具合だった。

 だが、心霊現象など何も起こらない。心中でかなりほっとしつつ、先頭を進む足取りも軽くなり始めていた。なんだ、こんなものかと。

 そんな時。

「ここだね」

 片桐はとある団体部屋の前で止まった。

「何がここなんだ?」

「この部屋で入院していた青年が、突然姿を消したって。僕らみたいな大学生だったって。誰かに攫われたわけでもなく、見舞いに来ていた母親が一瞬だけ眼を離した隙に。それでずっと行方不明なんだってさ」

「何だそりゃ。初耳だぞ。神隠しってやつか?」

 そういう話はネットでいくつか見たことがあった。少し眼を離した瞬間に男が消える。それがオカルトかどうかは定かではないが、おぞましさは感じる。それが子供ならば分からないでもない。子供の行動は予測できないため、眼を離した隙に用水路に落ちている――などということも有り得るからだ。だが、青年ともなれば話は違う。しっかりした自立意志を持った人間が、簡単に消えるはずが無い。

「あれ? 僕、言ってなかったっけ」

「俺の聞いた情報じゃ、この病院には何も無いって話だったがな」

「それも正しいんじゃない? 噂なんていくらでも立つものだし、所属してるグループによって変わるものでしょ。湯元が話を聞いた奴が知らなかっただけじゃないか」

 そう言われればそうかもしれない。だが、だとすればこの肝試しは思いのほか本格的なものになっているのかもしれない。

 頼むから何も起こらないでくれと思わざるを得ない。中に居たのがホームレスだったならばまだしも、良く分からない何かだったとしたら太刀打ち出来ないからだ。

「俺もそんな話は聞いてねぇぞ。片桐お前、俺たちを驚かせようとしてるんじゃないだろうな」

 金剛堂が偉そうな態度で片桐を押しのけ、ドアノブを握った。何時も以上に強気な態度だ。それは恐怖の裏返しだろうか。だとすれば、金剛堂が推測した片桐の思惑は大成功だ。ただ、片桐はそんなことを企む奴でも――無かったはずだ。たぶん。

「そろそろ退屈してたんだよ。ホームレスでも幽霊でも、何でもいいからさっさと出てこいって感じだ」

 勢いよくドアを開いて、金剛堂が中をライトで照らした。ドアを開いた衝撃で埃が大量に舞う。こういう状況で写真を撮れば、所謂オーブとやらがたくさん映り込むのだろうか。あれの正体は埃だらしいと、最近のオカルト番組では常識的な知識となっていた。チンダル現象というやつか、光線がそれらの埃を捉えて、如何にもオーブらしく漂っている。

 部屋の外から4人全員のライトが内部を照らした。くしゃくしゃになって、元の色が判別不能なシーツ、いくつかのベッド、倒れたラック、堆積した埃。この廃墟では珍しくもないのだろう光景が広がっていた。だが、その部屋は何か異様な雰囲気に包まれていた。

 何だろうか、この感覚は。何か恐ろしい。理由もなく本能が恐れているような、そんな感覚だ。

 ドアノブを掴んでいた片桐に続いて、俺達も恐る恐る足を踏み入れる。

 さながら魔境へ足を踏み入れるような心地だった。

 部屋の中央まで歩いて、4人で色々な場所をライトで照らしてみる。割れた窓から、少し強めの風が生温い湿気を運んできていた。雨風のせいか、窓に近い側の床が変色しているように見えた。

「……消えた大学生の使ってたベッドって、どれなんだろう」

 花菱が呟いた。

 誰が答えるよりも早く、俺が声を上げる。その際にさり気なく近づいてみたりもした。

「どうだろうな。ここから歩いて誰にも気づかれずに居なくなったっていうなら、病室の手前側なんだろうが……」

 左右に配置されたベッドを見ても、青年の怨霊が座っているわけでもない。

 ふと、気が付いた。

「……なんであんな所に棚があるんだ?」

 右手の壁を照らした時、中央の天井付近にそれが見えた。

「形からして、神棚じゃないか」

 片桐が言った。なるほど、言われてみればそうかもしれない。神具や御札は当然無いが、想像してみればピタリと当てはまる。

「もう神は居ないけれどね」

 確かに、既にただの棚だった。それも使いづらい棚だ。

「ねえ、変じゃないかしら。今まで回ってきた部屋に、神棚なんてあったかしら……」

「いや……どうだっけ……覚えてないが……」

 覚えてはいないが、この段に至って気づいたのは確かだ。これまでの部屋には無かったと考えるのが妥当だろう。

「ま、まあ、日本なんだし、神棚くらいあってもおかしくないだろ?」

「そう……ね。ええ、そうかも……」

 花菱に笑いかけながらも、正直なところ、気が気ではなかった。

 神棚――日本なのだから変だとは思わなかったが、病室1つ1つに有るものだろうか。いや、おかしい。どう考えてもおかしい。意識してしまえば、背筋が寒くなってきたりもする。

 なんであんな所に神棚が有ったんだ? 何か――そう、青年が消えたことと関係があるのでは? 

 そういう妄想だ。

「……そろそろ次に行くか」

 俺は努めて平静を装いながら言った。怖いだなどと、花菱の前では口が裂けても言えない。

 尾形を筆頭に花菱、片桐が続き、俺が殿になって部屋を出た。

 ドアを閉める時に、部屋の中から誰かの手が俺の腕を掴む――などということもなく、何事もなく部屋を出ることが出来た。というか、別にドアを閉める必要は無かったな。

「他に何か出そうな噂とか、そういうの聞いてないのか? そういう場所が分かってるならそこだけ回っていこうぜ。病室を一つ一つ回っていくとか、正直疲れるしな」

 何より、何かが出るかもしれないという恐怖に怯えて歩くのは、精神的な消耗が激しい。俺らはともかく、女性陣には酷だろう。尾形が怖がっているかどうかは不明だったが。

 片桐に問うと、少し考えて、

「うーん、でもあんまり怖がらせるのもアレだしなあ」

「何を今更なこと言ってんだよ。大体、さっきみたいに部屋の前でいきなり言われる方が嫌だっての。やっぱりお前、俺らを驚かせようとしてるだろ」

「驚きたいから此処へ来てるんじゃないの?」

「う……それは……そうだが……」

 俺は花菱を横目で見た。ビビっていると思われていないだろうか。

 何か出るにせよ何も出ないにせよ、心構えは有って無駄なものではない。そう思うことは罪だろうか。

「私も……知っておきたいな。怖いのあんまり、好きじゃないし」

 ぽつりぽつりと花菱呟いた。可愛い。

「まあ、そういうことなら」

 流石に観念したように、片桐は話し始めた。

 2階の手術室、1階の院長室に、それぞれ曰く付きの話があるらしい。院長室はともかく、手術室は如何にもな場所だ。

「そう言えば、こういうところって霊安室とか有るんじゃないのか? そこはどうなんだ?」

「そりゃ有るだろうけれど、地下だよ? さっきの案内図みた限りじゃ、エレベーターとかじゃないと行けないんじゃないかな」

 なるほど、そういうものか。というか行けたとしても、実際は行きたくない。

 ともあれ、俺たちは一先ず2階の手術室を目指すことにした。

「これで何もなかったら、片桐の仕入れた話も信憑性は無くなるな」

「何か有っても困るし、いいんじゃない?」

 片桐が平然と言った。こいつ、実は本当に怖くないんじゃないだろうか。

 ともあれ、その通りだった。

 だが、矛盾はするが、何か無ければ困るという思いも強いのだった。

 花菱に良い所を見せる折角のチャンスだ。棒に振ることも無いだろう。この肝試しは俺に与えられた最高の機会だ。この世には吊り橋効果というものがある。ここで最高に格好良い俺を、彼女を護る俺を見せることが出来れば、距離もグッと近付く筈だ。

 今年の五月頃には告白しようと考えていたが、結局は勇気が出なくて頓挫していた。尾形からは情けないものを見る眼で見られたが、弁解のしようもない。

 だが、ここで花菱から好意を獲得すれば、この夏は楽しいものとなるだろう。花菱は地味な女性だが、磨けば光るタイプなのだ。今の黒髪も綺麗だが、少し染めたり――自分を着飾ることを覚えれば、周りの男はきっと放っておかないだろう。だから、他の男に手をつけられる前に、なんとか自分のものにしたい。――まあ、入学以来そう考え続けて、3年もの時を無駄にしてしまったわけだが。ウェイトリフティングで鍛えた筋肉は彼女のためにある。この筋肉を無駄にしないためにも、ここは1つ頑張りどころだった。

 階段を降りて、2階の手術室へ向かう。途中の検査室等は取り敢えずスルーだ。2階の廊下は窓ガラスの損傷が激しく、生温い風が吹き付ける。

 何か有った時のために、花菱の近くを意識して歩いていたが、特に何も無かった。残念なようなホッとしたような。

 手術室の扉は両開きで、こちらの侵入を拒むような重苦しさを感じる。この中で人が切り刻まれ、あるいは生き延び、あるいは死んだのかと思うと、それだけで気持ちが悪くなる。

 更に、片桐の話では、此処は曰く付きの場所だ。

 何でも閉鎖間際、手術中の死亡が相次いだらしい。担当した外科医は狂っていて、ミスに見せかけて人を殺していたのだとか。それが本当ならばおぞましい話だ。話の信憑性は定かではないが、如何にも怨念が詰まっていそうな場所だ。

 何だか足が重い。前に進みたくないというか――。

「湯本、突っ立ってても仕方ないから、早く入らないか?」

 片桐に促される。じゃあお前が先に入れよと思ったが、こいつは躊躇なく入りそうだ。もしかしたら、花菱の前で良い所を見せる機会を作ってくれているのかもしれない。付き合いが浅いため、こいつの事は正直よく知らないが、そうだとしたら中々良い奴だ。

 俺と花菱の手が僅かに触れた。電流が走ったかのような気恥ずかしさが全身を駆け巡って、顔が俄かに熱を帯びた。此処が明るい場所でなくて良かった。

 だが、そんな俺を更に衝撃が襲う。柔らかい感触の手が、俺の手を握ってきたのだ。思わず花菱の方を見ると、不安げな瞳が俺を捉える。一瞬で頭が冷えた。花菱が怖がっている。舞い上がっている場合ではない。良いところを見せるとか、そんな事もこの瞬間にはどうでも良くなっていた。俺が護ってやらなければならない。

 告白しよう。肝試しが終わったら告白しよう。

 花菱の手を強く握り返して、手術室の扉を押した。気のせいか、片桐がニヤついていた気がする。

 手術室の内部は、一言では言い表せないものだった。

 何か凄惨な現場が広がっていたわけではなく、知らない物が乱雑に散らばっていたからだ。とはいえ、正式名称を知らないというだけで、ドラマ等で何れも見たことがある物なのだが。

 中央付近には折れ曲がった手術代、その上には大きなライト、下には用途不明のバケツらしきもの、壁や床はタイル張りで、隅にはベッドらしき物が有った。奥には金属製のラックが並んでおり、ライトの光を反射して鈍い光を放っていた。妙に黴臭いのは湿気が酷かったからかもしれない。というのも、手洗いの場所から黴が広がっていたからだ。もしかしたら閉鎖後も暫くは水道が止まっておらず、水道管の不具合から水漏れがあったのかもしれない。それが何年前の事なのかは分からないが。

「う……やっぱ雰囲気あるな」

 二の足を踏んでいると、脇から片桐が反対側の扉を開けて中へ入った。尾形もそれに続いてゆっくり入っていく。静かな世界に、砂利の上を歩いているような音が響く。

 何だか1人だけビビっているようで嫌だ。こいつら、特に片桐は本当に幽霊というものを信じていないのだろう。

「何か有ったか?」

 恐怖で上擦った声になっているのが自分でも分かった。雰囲気に圧倒されてしまっていた。他の2人が居るから何とか耐えられているが、その姿をライトで照らすだけでも正直恐ろしい。

 特に、大量のお守りを首から下げた尾形の格好は、いつもより異様に映った。

 僕の問いかけに、尾形は首を振って答えた。

「特に何も。ピンセットとか、メスとかが棚の中に入ってるけれど、錆びてて使い物にならないなあ」

 片桐も同様に答える。奴の話では、此処でたくさんの人間が手術中に命を落としたらしい。だが、その亡霊が出てくるような気配も無い。ただ、湿った不快な空気だけが僕達を圧迫していた。

 大量の血痕とかでもあれば更に肝も冷えただろうけれど――いや、要らないな、そういうのは。怖いし。そもそも手術中に死んだからといって、血液が噴出するわけでもないだろうし、その後に掃除も行われるだろう。

「…………ん?」

 そこで、手術台の上に置かれた物を発見した。これは――カルテか、日誌か? ファイリングされた紙の束だ。湿気による劣化か、タイトルは不明だ。中の紙もティッシュペーパーのような折れ方で、茶に変色し、あるいは黒黴の餌食になっている。

 どうせ読めやしないと思ったが、興味が惹かれたのでページを捲ってみた。捲れるような形状ではなかったので、酷く苦労する。すると、真ん中の一部分には奇跡的に読めそうな字が、2ページほど残っていた。とはいえ、単語の一部分だけだったりして、文章として残っているものは皆無だったが。

『おかし――少な――頭――疲れた――あの青年――退職して――狂――』

 何とか判別出来たのはそれくらいだった。全く意味が分からなかったが、これはきっと日誌だろう。なんとなく不穏な単語が並んでいる気もする。それは状況が状況だからだろうか。

 これを書いた人間が、もし片桐の言うミスを装って殺人を行っていた医者ならば、『疲れた』という単語は、その医者の精神が病んでいた証左かもしれない。まあ、本当にそんなことが有ったのかも不明なので、ただの愚痴を日誌に書き綴っただけなのかもしれないが。

「……そろそろ行こうぜ。此処にも何も無さそうだし」

 何とはなしに棚を漁っていた2人が頷いた。

 正直なところ、もう帰りたい気持ちが強い。肝試しという目的ならば、もう十分に果たされている気がする。そもそも、僕は嫌だったのだ。幽霊の存在を信じてはいないが、わざわざ進んで怖い所へ行く意味が分からない。それを伝統だからなんだと、馬鹿馬鹿しい――。幸い、レンタカー代は経費で落ちるようだから、そこは安心だけれど。

 例えば僕に好きな人が居て、その人と良い感じになるというか、そんな目的が有ったならば実りのあるイベントになったかもしれない。世間には吊り橋効果というものが――うん? 先程も同じようなことを考えた覚えがある。どうやら恐怖が思考をループさせているらしい。

 殆ど気配のない尾形が、ぬらりと扉を出た。僕がそれに続き、片桐が扉を閉める。

「次は院長室か……」

 もう帰らないかと提案したいところだが、そうもいかない。馬鹿馬鹿しいことには間違いないが、僕からそれを提案することは避けたかった。次の飲み会では事の経緯をOB達に報告しないといけないのだ。その報告をするのは、間違いなく僕になるだろう。彼らに嘘を突き通せるほど、肝の据わった人間ではないのだ。こんな肝試し1つや2つでそれが変わるとも思えない。まして、別に何も起こっていないのだから尚更だ。

「その院長室では何が有ったんだ?」

 廊下を歩きながら片桐に訊いた。

 怖いが、訊いておかねばならない。知らないで進む方が恐ろしい。片桐に余計なことを吹き込んだ後輩とやらを殴りたい気分だった。そんな曰くなど無かったと思い込んでいれば、少しは気が楽なまま過ごせたろうに。――いや、殴るなんて僕じゃ無理か。

「院長が狂った、とかなんとか。閉鎖の原因はそれらしい」

「狂った? なんでだ」

「そこまでは知らなかったみたいだ。でもまあ、喉を掻きむしって自殺したらしいよ。現場は凄惨そのもので、血液が部屋中に飛び散っていたらしい」

 それはまた、凄惨な死に様だった。喉を掻きむしるなど、何が有ればそんなことが出来るのか。それが本当かどうかはともかく、院長室へ向かう足が重くなったのは確かだ。

 廊下には、3人分の足音が響いていた。今更ながら気がついたが、自分達以外の足音らしきものは皆無だ。つまり、ホームレスの存在は、やはり無いということだった。この静寂では、ほんの少し身動ぎしただけでも分かりそうなものだった。

 それは1つ、安心材料ではあった。この面子では暴漢に襲われた際、やはり対処出来ない。

 自身の細くなまっちょろい身体を見下ろして嘆息する。日頃から運動などしていれば、あるいはボディビルダーのように筋骨隆々の肉体になれだだろうか。――いや、それは無いな。僕は運動が嫌いだし。

 それに、鍛え上げたところで、やはり見せる女性が居ない。

 女性と言えば、尾形もまた女性ではある。

 だが、僕は尾形が少し苦手だった。もう3年の付き合いになるが、第一印象は今でも変わらない。無口で存在感が薄く、それこそ幽鬼のようで不気味さを感じずにはいられないのだ。そんなことを口に出せば、部の女性陣からはバッシングを食らってしまうだろうが。誘えば何にでも参加するのだが、楽しんでいるんだかいないんだか。今も、怖いのか怖くないのか、全く不明だ。彼女自身が幽霊だと言われても、違和感なく受け入れてしまいそうだ。

 階段を降りて一階へたどり着くと、右折して奥へと進んでいった。迷いのない片桐の足取りが頼もしい。よく院内マップを覚えていたものだ。こいつの先導が正しいお陰で、無駄な滞在時間が省かれる。――もう確信したが、こいつも怖くないようだ。怖いのはやはり、俺一人だけらしい。OB達にイジられないよう、それだけは嘘を貫き通さなければならない。

 院長室はUの字廊下の一番底辺にあった。底辺というと、何とも権力者には似合わない言葉に思える。少なくとも、当時の院長はこの場所を『底辺』とは捉えていなかったらしい。というのも、扉の外観から高級感が漂ってくるからだ。他の検査室や診察室は、もっと普通の、良く言えば病院らしい近代的で無機質な扉だった。だが、院長室は違う。アンティーク風の木造扉は、突如としてお洒落なカフェが出現したかのようなアンバランス感だった。この場所を特別なものと考えていた事は明らかだった。

 ふと、心配になる。他の場所は鍵が掛かっていなかったが、この場所はどうか。鍵が掛かっていたら、この分厚そうな扉を突破出来るだろうか。

 ――いや、鍵が掛かっていたら回れ右をして帰れば良いのだ。

 片桐がノブに手を掛けて、ゆっくりと回した。

「開いてるね」

 平然と告げた言葉に、俺の願いは砕かれた。

 まあ、良い。どうせこれまでの部屋と同じで、何も無いのだから。

 これまでよりも、一層重い音を立てて扉が開かれる。内部から、何か異様な臭気が漂ってきた。何の臭いだろうか。

 相変わらず、躊躇なく部屋へ侵入する奴だ。半ば呆れながら、僕も続こうと足を上げた。

 この部屋が終われば、漸く帰れる。さっさと終わらせて帰ってしまおう。帰りはレンタカーを何処かで止めて、打ち上げのために酒を買って――ということになるのか? この面子で? 何とも会話に困りそうだった。せめて4回生の先輩方を誘うか。

 そう考えると、どっと疲れが押し寄せる。

 慣例に従ったとはい








































   ※  ※



 尾形 裕美は、院長室の内部を照らした。

「流石は院長室だけあって、本がたくさん有るね」

 片桐が感心したように言った。確かにその通りだ。ゼミの教授の部屋が、ちょうど似たような感じだったか。

 広さも似たようなもので、8畳程だろうか。応接用のソファとテーブルが真ん中に設置され、奥にはアンティークの机が置かれている。両サイドは天井まで届く木製の本棚で、その全てに大型の本が詰まっていた。部屋の隅には大きめの植木鉢が残っていた。すっかり乾燥した土で埋め尽くされたそれは、少しの衝撃でも壊れてしまいそうだった。床には臙脂色のカーペットが敷かれている。他の部屋よりも、はっきりと整然としていた。

 窓ガラスも割れておらず、ブラインドが降りていた。掃除さえすれば、今直ぐにでも使えそうな雰囲気があった。

 嫌な臭気の正体が判明した。部屋の隅に転がったドブネズミの死骸だ。何処かしら、侵入する穴があるのだろう。糞尿の臭いもあるのかもしれない。

「何かあるかな」

 片桐が言った。尾形は徹底したコミュニケーション不全者だった。誰とも喋らないし、喋りたくない。喋るのが億劫だとすら考えていた。そのような人間と一緒に居て、彼は虚しくならないのだろうかと、考えもする。

 尾形は片桐が苦手だった。部内では数少ない同輩だが、付き合いも殆どない。その張り付いたような笑顔が蝋人形じみて不気味だと思っていた。あちらも同じようなことを考えているかもしれない。眼を覆い隠すほどに長い前髪、首に掛かった大量のお守り、ゴスロリ衣装。そんな異様な女が、殆ど喋ることをしないのだ。不気味に思われても不思議ではない。

 片桐を半ば無視するように、尾形は室内をライトで照らした。

――怪奇現象が起こる気配は、特に無い。誰かが部屋の隅に立っているわけでもないし、扉が勝手に締まって閉じ込められるわけでもない。これまでの部屋と同じだ。

 正直なところ、意外だった。尾形には少しの霊感が有った。これまでにも、それらしきものを見たことはある。

 それは祖母由来の体質らしい。祖母は霊感が強く、そのような仕事をしていたのだと。どのような仕事なのかと問われれば、困ってしまうが。

 だから、祖母から毎年送られてくるお守りも、欠かさず身に付けている。それが本当に自身の身を護ってくれると信じているから。

 この病院は異様だった。当初から吐き出しそうな心地に苛まれていた。悪霊と遭遇した時に覚える酩酊感、生臭い臭い、圧迫感、そのどれもを度々感じていた。全く霊感の無い者は気がつかないだろうが、尾形は違う。そういう意味では、片桐に霊感は無いようだった。

 こんなことになるなら、別の場所へしておけば良かったと、尾形は後悔していた。自主性の無い尾形を見かねてか、先輩が見つけてくれた場所だったのだ。前評判的には何も無いという話しだったが、とんでもない。何があるかは分からないが、この病院には悍ましい何かがある。一応、病院前まで車で送ってくれたという点では感謝しているが――。

 ともあれ、こんな場所で先輩をあまり待たせるのも酷だ。入って来られてもややこしいことになるかもしれない。早く此処を出よう。

 片桐は悠然と室内の本棚を見ている。呑気な男だと思った。

 そう思いながら、逆側の本棚を照らした瞬間。

 慄然とした。

 霊が居たわけではない。

 本だ。

 よくよく観察してみると、本の背表紙に妙な染みが付いている。それは左右の本棚に収まっている本の、全てに言えることだった。茶色のような、黒いような、そんな染み。

 血液の染みだ。

 片桐は気がつかないのだろうか。男だから、血を見慣れていないのかもしれない。

 院長室の曰くを思い出す。この部屋で、院長が喉を掻きむしって死んだと。部屋中に血液が飛び散ったのだと。

 本当だったのかと、尾形は震えた。それはもちろん推測に過ぎないが、他に本の背表紙へ血液が付着する理由が分からない。曰く通りのことが起こったのだと考えた方が納得出来た。

 慌てて床や天井、家具等を観察すると、それらにも変色した血液が認められた。とはいえ、ほんの少しだ。部屋は綺麗に掃除したのかもしれないが、掃除しきれなかった部分があるのだろう。本の背表紙などは、掃除が行き届かなった場所の筆頭なのだ。

 部屋の中央、重厚な机の前で、喉を掻きむしる男の姿を幻視した気がした。

 ふと、ある物が目に付いた。机の上だ。

 机にはすっかり埃が堆積していたが、何やら真ん中に一冊の本が置かれていた。手に取ると、それが日記らしいものだと知れた。

 中は全体的に黄ばんでいたが、読むことに苦労はしなさそうだった。

「どうしたの?」

 気になったのか、片桐もそれを覗き込むようにしてライトを当てた。

 ものぐさな院長だったのか、日付は飛び飛びだった。というか、禄に書いてもいなかった。書いていたとしても、その日の特記事項だったりして、どちらかというと業務日誌に近い印象を受けた。最期のページは、日記全体で言えば4分の1といったところか。だが、そこだけ記述が妙に長く、特別眼を引いた。



『人手が足りない。看護師も、医師も。おかしい。みんな悲鳴を上げている。この人数で今までどうやって乗り切ってきたというのだろうか。全く記憶にない――というよりも、この人数で乗り切ってきたという記憶しかない。看護師や医師は慢性的に不足しがちだが、それでもここまで少ないということは有り得ない。このままでは何れパンクしてしまう。それに、入院患者の大学生が消えてから、院内で妙な怪奇現象が起こり始めた。看護師も夜間の仕事を嫌がっている。私自身も近頃、妙な視線や影を目にすることが増えた。今度、大学生が入院していた部屋に神棚を設置するつもりだが、効果はどうだろうか。――ふと思い出した。まさか、あのアフリカの大きな蝋人形が――』



 周りをライトで照らしても、それらしき蝋人形は見当たらない。

「なんだろうね、この日記。院長がおかしくなったって話は本当だったのかな」

 血液の存在にはまだ気付いていないらしい。特別騒ぎ立てて驚かすのも可哀想かも知れない。いや、この肝試しの最中、常に平然としていた彼が、果たして怖がるだろうか。まあ、どうでも良い。ともあれ、此処を出たい理由が増えた。

 日記を元通り戻して、足早に部屋を出た。

 廊下に出ると、妙な風が――何か異様な雰囲気を持った何かが通り抜けた気がした。気のせいだろうか。首の辺りがどうもムズムズした。

 最初に3階から探索していて良かった。一階のため、帰りは直ぐだ。少し歩くと、直ぐロビーへ辿り着いた。首のムズムズが止まらない。蚊に噛まれたのだろうか。

「尾形さん、もう一度あのナース室を見ておかない? このまま何も無しじゃつまらないし」

 問われ、無言で首を振った。もう疲れた。帰りたい。

 片桐は口周りの表情筋だけで口角を上げて、笑みを作った。

「じゃあ霊安室とかは? さっき地下への階段を偶然見つけたんだ」

 そんな暇が有っただろうか。ずっと一緒に歩いていた筈だが――と、尾形は訝しんだ。

「それに、話して無かったけれど、曰くのある部屋はまだたくさん有るんだ。そこを回って見るのも良いんじゃない?」

「私、もう帰りたいし」

 なんだか、久しぶりに声を出した気がする。

「そっか……」

 至極残念そうな声音だった。だが、悪いとかそのようなことは思わなかった。そもそも、そのような関係でもない。ただ、部長に命令されたから2人でやってきただけだ。

 廃病院の入口を出ると、妙な爽やかさを覚えた。空気が新鮮というか、清浄というか――ともあれ、外の空気は病院内までしっかり流れ込んできていたのに、妙だと感じた。

「……もうちょっとだったのに」

 尾形は振り向いた。

 何かが聞こえたような気がした。誰かが居たような気がしたのだ。同時に、ナース室からごとりと、重い物が――そう、例えば大きな置き物が置かれるような音が聞こえた――気がした。

 この段に至って、ようやく怪奇現象だろうか。

 それとも、ホームレスか。――廃墟にはホームレスが居るかもしれないとは、誰から聞いたのだったか。

 何にせよ、ラップ現象程度ならば驚くに値しない。そこそこ遭遇している現象だった。ホームレスの方が余程おそろしい。

 異様な雰囲気を持った病院だったが、結果的に大したことはなかったなと、尾形は思った。本当に何も無い廃病院だった。

 生温い風に、首から下げた1つきりのお守りが、頼りなげに揺れていた。




   ※  ※



 数日後、気になって廃病院を調べていた尾形は一つの地方新聞に記事を発見した。その記事は、注意深く調べていなければ見落としていたくらいに目立たなかった。

 あの廃病院で、1人の大学生が入院中に姿を消したという。正に曰くを証明する記事だった。

 名前は片桐 直。

 小さいが、写真もある。

 蝋人形のような無表情が、記事の向こうからこちらを見ていた気がしたが――写真の青年は気弱そうな顔で、何処か助けを求めているようにすら見えた。







 

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何も起こらない廃病院 @bagu

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