「キャラクター」で行こう

 2020年春に、あの早川書房から、「ハヤカワ・ジュニア・ミステリ」なる新しい文芸レーベルが発足しました。これは、古今東西の優れたミステリ小説をジュニア(小学校高学年から中学生)向けに文章体裁を直し(小学四年生以降に習う漢字を開いたり、ルビを振る。また、難しい語句、慣用句表現などを分かりやすく改める)、挿絵もふんだんに入れて刊行するという試みです。ジュニア向けだからといって過度に翻案するのではなく、「完訳」することもこのレーベルの売りとして明記されています(底本には、ハヤカワ文庫の一般向け既刊が使用されるようです)。こと海外ミステリについては膨大なアーカイブを持つ早川書房ですから、今後優れた海外ミステリが若い読者に届きやすくなり、ミステリファン層の拡大に寄与してくれるものと期待を寄せております。

 さて、今回はこのレーベルについて語るわけではないのですが、この「ハヤカワ・ジュニア・ミステリ」の巻末に「読者のみなさんへ」という、レーベルの指針を紹介した文章が記載されており、ここに実に興味深い記述がありましたので、それについて考察をしてみたいと思っています。

「ハヤカワ・ジュニア・ミステリ」では、三つの作品構成要素を、ミステリを読む醍醐味として挙げていました。その三つとは、「友情、努力、勝利」ではもちろんなくて、「謎解き×キャラクター×物語」というものです。これを読んだ私は、鹿谷ししや角実かどみばりに「はあん」と声を漏らしてしまいました。

 まず「謎解き」。分かります。「ミステリ」と銘打つからには、絶対に必要不可欠とまでは言いませんが、欠くべからざる要素であることに異論を挟む方はいらっしゃらないでしょう。次に「物語」。これも頷けます。ミステリが「小説」という形式を持っているからには、決しておざなりに出来ない要素です。どんなに凄い「謎解き」つまりトリックを有するミステリでも、そこに「物語」がなければ、「ただの『推理クイズ』じゃないか」という誹りを免れないでしょう。さァ、そこへ来て「キャラクター」ですよ。「何で?」と疑問を抱いた方もいらっしゃるかもしれません。ですが、ミステリ小説も含めたエンタテインメント文化にとって、今やキャラクターというものは絶対に欠かせない要素となっています。ことミステリについては老舗中の老舗である早川書房が、ミステリ三大要素のひとつに「キャラクター」を挙げたという事実が、そのことを如実に物語っているといえましょう。実際、「ハヤカワ・ジュニア・ミステリ」は、登場人物をアニメ風にアレンジして描いたイラストをカバーにして、キャラクター性をことさら推してきています。これはジュニア向け文芸だけに限らず、ここ最近刊行されている一般向けミステリにおいても、キャラクター(人物)を描いたカバーイラストが多く見受けられていることから、同じことが言えると思います(昔のミステリのカバーは、風景画や幾何学的なイラストなどを使った抽象的な装丁が多かったです)。新本格ブームの火付け役となった講談社文庫でも、「火村英生」「法月綸太郎」「御手洗潔」など、作家の通常刊行書籍とは別に、各作家のシリーズ探偵もの作品だけを集めた短編集がまれました。また、角川文庫から新訳されたエラリー・クイーンのシリーズも、カバーイラストには、エラリーをはじめとした登場人物たちが描かれた、美麗なイラストが採用されていました(また、ミステリに限らずとも、東西の古典文学作品に、若者に人気の漫画家やイラストレーターが描いたカバーをかぶせて店頭に並べたという試みを各出版社が採用したことも、記憶に新しいところです)。こういった流れは、「名探偵をキャラクターとして売り出していこう」という思惑を如実に表しているといえるでしょう(ちなみに、講談社から「名探偵シリーズ」が刊行されたのは2017年のことでしたが、角川文庫の新訳クイーンの第一作『ローマ帽子の秘密』の発刊は、何と、そこから遡ること五年前の2012年! さすが角川、抜群の目利きと言えます)。


 このように、各エンタテインメントメディアが、ことさら「キャラクター」を推してくるというのには当然理由があります。「ハヤカワ・ジュニア・ミステリ」が提唱する「謎解き×キャラクター×物語」のうちの他の二つと比べてみて、「キャラクター」だけが有している利点に関係してくることです。「謎解き」と「物語」になくて、「キャラクター」だけにあるもの、それは、「視覚化可能」と「再利用可能」という特性です。

 まず「視覚化可能」という特性を考えてみますと、これはもう一目瞭然ですね(「視覚化可能」だけにね)。「謎解き」も「物語」も目に見えるものではありません。人間は外界からの情報のほとんどを視覚から得ていますし、「小説」には匂いも音も味もありませんから、読者に小説(本)をアピールしようとしたら、目に訴えかけるしかありません。「謎解き」も「物語」も形のないものですから、初見の読者に本を「目を留めて」もらうには、「キャラクター」を推すのが一番ということになります。他の二つも視覚化することは当然可能ですが(でなければ、我々は目からそれについての情報を得られなくなってしまいますからね)、それを行うためには「文章」を使うしかありません。ですが、そこには、形のないものを説明するがゆえに生じる、「筆者の主観、あるいは思惑に左右される」という問題が付随してきてしまいます。どういうことか考えてみましょう。

 まず、その小説の「謎解き」を初見の読者の目に訴えかけるためには、どういう方法がありうるでしょうか。本に帯を付けて、「前代未聞の大トリック!」ですとか「ラスト一行で全てがひっくり返る!」みたいな惹句じゃっくを書くしかありません。これはこれで訴求効果は得られるでしょうが、惹句なんてどうとでも書けますから、「本当かよ」という疑いの目に常に晒されてしまうことになります。使われているのが物理トリックであれば、図解という文章以外の形で提示することは可能ですが、それはただのネタバレです。

「物語」にしても同じことで、その本を店頭で目に留めた一見いちげんの読者に「物語」をアピールするには、「壮大なる一大叙事詩!」ですとか「全米が泣いた!」などの惹句に頼らざるをやはり得なくなってしまいます。もう少し具体的に「あらすじ」などの形で表すことは可能ですが、惹句に比較してかなりの長文が必要になってきてしまうため、棚に並ぶ膨大な本を右から左に「流し見」してしまうお客の目を留めさせることは難しいでしょう。「あらすじ」はその本を目に留めてくれた人に対して、さらなる詳細情報を与える目的で裏表紙にでもこっそり書いておくくらいしか出来ません。

 それらと比較すると、「キャラクター」(のイラスト)というものは明々白々です。美少女やイケメンですとか、かっこいいロボットをカバーに大きく描いて、「こういうキャラクターが活躍するよ」と、その作品の売りを極めて明確に一瞬で訴求できます。「流し見」のお客の目を留めさせるにも十分な効果があるはずです。そして、そこには惹句のような主観による曖昧さがありません。読者がその本を購入して、もしカバーに描かれているキャラクターが作中に出てこなかったとしたら、堂々と「詐欺だ!」と訴えてもよいのです。これが「謎解き」つまり惹句でしたら、「このしょぼいトリックのどこが『前代未聞の大トリック!』なんだよ!」や「確かに『ラスト一行で全てがひっくり返』ったけど、これ○○のパクりじゃねえか!」などのクレームを入れても、「いや、俺(惹句を書いた人)は大トリックだと感じた。主観の問題だ」とか「嘘ではない。『パクりじゃない』と書いていなかっただけ」と、いくらでも筆者は言い逃れが可能です。惹句というのは筆者の主観や思惑に左右されて書かれるものですから。

 ふんだんに挿絵が使われるライトノベルなどになると、この表紙イラストの訴求力はさらに大きくなると思います。表紙イラストが気に入れば、その絵描きのイラストを作中で何点も堪能できるわけですから、本を購入する動機の一助には確実になるはずです(余談ですが、その昔、アニメ作品のノベライズといったサブカルチャー系の文庫などで、表紙と本文中の挿絵で描いている人が違うという、詐欺まがいの行為が行われていたことがあるらしい、と未確認情報ですが小耳に挟んだことがあります 笑)。


 次に考える「再利用可能」という特性、これこそが「キャラクター」の持つ最大のメリットと言えるのではないでしょうか。他の二つ、「謎解き(トリック)」も「物語」も、基本ひとつにつき一回しか使えませんが、レギュラー探偵などの「キャラクター」は何度作品に出しても構いません。むしろ、魅力的なキャラクターであればあるほど読者からの需要が生まれ、何度も再登場することは歓迎されるはずです。このような読者の人気をさらう魅力的なキャラクターを創出できれば、もう作家としては勝利が約束されたようなものでしょう。魅力的なキャラクターはそれだけで強力な武器になります。乱暴な話をしてしまえば、その話の謎解きや物語が多少水準下であったとしても、キャラクター(探偵)さえ魅力的であれば他の欠点の穴埋めをするに十分となるでしょう。同じ脚本の映画でも俳優の演技力によって、あるいは、同じ譜面でも演奏者の技量によって、それぞれ全然クオリティが違ってくるような感覚に似ているでしょうか。

 ビジネスの世界では、顧客心理として「いかに安く買うか」よりも、「誰から買うか」のほうが購買意欲に占める割合は大きいと言われています。「あの店はよそと比べて多少高いけれど、店主がいい人だからそこで買おう」みたいなことですね。「誰」という個人を「店」という法人に置き換えることも出来ます。「あの店は清潔で居心地がいいから」といった心理的な要因もこれに当てはまりますし、「あの会社は商品購入後のアフターサービスがしっかりしている」といった付加価値から、「贈答品は量販店よりも百貨店のほうが箔が付くから」というブランド的な意味までもが含まれるでしょう。ミステリ(に限らずエンタメ作品)のキャラクターにも全く同じことが当てはまると思います。フランスの名女優サラ・ベルナールには、レストランでメニューを読み上げただけで居合わせた客を泣かせた、という逸話が残っています。本来であればボツにしても仕方がないような「謎解き(トリック)」でも、「このキャラクターが解決すれば凄い事件になる(思える)」つまり、「トリック」という商品の欠点を「キャラクター」という付加価値で補うわけですね。


 かように、メリットしかないと思われる万能要素の「キャラクター」ですが、デメリットも当然存在します。あらゆるデメリットというものはメリットの裏返しです。「視覚化可能」と「再利用可能」がキャラクターのメリットであれば、その裏返しを私は「嗜好の限定」と「新規参入の困難さ」と名付けたいと思います。

 まず「嗜好の限定」とは、つまり「万人全てに愛されるキャラクターを作ることは不可能」ということです。「キャラクター」とは読者の嗜好に訴えかけている存在なわけですから、そのキャラクターが投げてくる嗜好がドストライクな読者もいれば、見送り完全ボールな読者もいます。あまりに読者の嗜好を限定しすぎるキャラクターをシリーズ探偵に据えてしまうと、そのキャラクターを受け付けないという読者は、次回作以降には見向きもしなくなってしまうでしょう。そのシリーズがキャラクターを推した戦略で売っていればいるほど。先に挙げた「誰から買うかが重要」理論に重ねてみれば、「あの店は値段も安くて品質もよいが、店主の性格が気に入らないから買わない」となってしまうわけです。これは実にもったいない話です。仮に、その次回作でものすごいトリックを炸裂させたとて、キャラクターの嗜好に合わない読者はそもそも読みませんし、もし読んだとしても、キャラクターに対するネガティブな感情から変にバイアスがかかってしまい、「ふーん」程度の薄い反応で終わってしまったり、重箱の隅をつつくような揚げ足取りに走ってしまいかねません。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ならぬ、「キャラクター憎けりゃトリックまで憎い」です。

 このデメリットを回避するためには、メリットのほうを捨てるしかありません。すなわち、誰からも嫌われない代わりに熱烈なファンも付かない、嗜好の平均値を具現化したような面白みのないキャラクターを作るか、毎作読み切り方式にしてシリーズ探偵を放棄して、キャラクター人気を捨てる代わりに、その分トリックで勝負と割り切るしかないでしょう。

 もうひとつのデメリットである「新規参入の困難さ」は、これはもうキャラクターミステリに限らず、あらゆる長期シリーズものの弊害、宿命と言えましょう。シリーズ立ち上げ当初から追いかけている読者はよいですが、これが十数、あるいは数十巻にも渡るシリーズに成長してから新しく読み始めるというのは、読者にとって相当にハードルが高いのではないかと思います。

 このエッセイの別項でも似たようなことを書きましたが、それでも、言うても昔のシリーズ探偵もの、「金田一耕助シリーズ」や「明智小五郎シリーズ」などは、時間経過による細かな設定の変更などはあれ(明智探偵の結婚とか)、それらは事件そのものには影響を与えないほどの微細なものであり、シリーズ途中の事件をいきなり読んでも特に支障はありませんでした。ですが現代のシリーズ探偵ものは、シリーズ継続に連動して流れる大きなバックストーリーを用意していたり、前に起きた事件のことを読者が知っている前提で書かれているものなど(ようは前の事件のトリックや犯人をネタバレしている)、作品を発表順に読んでいくことを強く推奨しているシリーズも多く見られるようになりました。魅力的なキャラクターに大河ドラマ的なストーリーの主軸が合わされば、これはもう大変な傑作シリーズとなること請け合いですが、同時に新規参入のハードルを上げる結果にもなり、この方式を採用するかどうかは、作者の手腕、あるいは好み次第ということになるでしょう。


 こうしてミステリにおける昨今のキャラクター事情を見てみますと、作者によってその扱いは大きく四つのレベルに区分できると思います。


レベル1:シリーズ探偵を置かない。著作すべてが読み切り形式。

レベル2:シリーズ探偵は置くものの、際だったキャラクター性は特に与えない。

レベル3:シリーズ探偵にキャラクター性を与え、作品は読み切り形式。

レベル4:シリーズ探偵にキャラクター性を与え、作品は大河形式。


 まず、レベル1のみで書いている作家というのは、プロアマ問わず現在はほぼいないのではないでしょうか。ですが昔は、佐野さのよう飛鳥あすかたかしなど、このスタイルを貫いた作家は結構いました。特に佐野洋は、シリーズ探偵不要論者で、「退職刑事」などのシリーズ探偵を持っていた都筑つづき道夫みちおと、後に「名探偵論争」と呼ばれた名論争を繰り広げたことは有名です。


 次のレベル2、このスタイルで書いている作家も、今は絶滅危惧種(などと書くと失礼ですが)かもしれません。というのも、このレベルで書く作家は、「新しい作品を書くたびに探偵役を考えるのが面倒」というネガティブな思惑で仕方なくシリーズ探偵を置いている可能性が高いためです。

 今やミステリは「書けば売れる」という人気ジャンルではありませんし、ウェブ小説界隈においてもマイナーな存在です。そんな状況の中、わざわざミステリを書こうなどという奇特な作家は、例外なく作品の細部にまで心血を注ぐことと思います。こと、作品の顔となるシリーズ探偵は可能な限り魅力的な存在として造形するでしょう。よって「探偵役を考えるのが面倒」などという理由でシリーズ探偵を置く作家は、現在は、まあ、いないのではないかと思うのです(いたら、すみません!)。


 レベル3、これが最もオーソドックスな「シリーズ探偵もの」と言えるのではないでしょうか。毎事件、個性的で魅力あふれる探偵が活躍しますが、事件間に有機的な繋がりはないため、シリーズのどの作品から読んでも楽しめる。シリーズ未読の読者でも、シリーズの中で突出して評判のよい作品があれば、その作品だけをつまみ食い出来ます。読者にとってはいいことずくめなレベル3ですが、作家にとってはつらいところもあって、「シリーズ最高傑作」と謳われた作品だけつまみ食いした読者がいたとして、「これが最高傑作なんだから、じゃあ、他のは読まなくてもいいかな」と思われてしまう可能性がなきにしもあらずです。それと、レベル3のシリーズものは、このように読者のつまみ食いを許容しなければいけないため、作家は各作品すべてに、探偵やワトソンなどのレギュラー登場人物の紹介を入れる必要があります。作家の負担が増えますし、シリーズを追ってくれている読者は、同じような説明を毎回読まされることになって、煩わしさを感じることもあるでしょう。


 そして、昨今急激に勢力を広げているのが、レベル4の形式でしょう。各個作品自体は独立した事件を扱っていても、登場人物の行動や思考は前作の流れを引き継いでおり、以前の事件の話題に言及したり(中には、その事件の犯人などのネタバレ発言が出るものも)、かつての容疑者がセミレギュラーとなって再登場したりもします。学園が舞台であれば、登場人物たちの進級や卒業などのイベントも発生します。シリーズを最初から順番に読むことを前提に書かれているため、第一作で読者の心を掴めなければ以降の作品を読んでもらえない可能性が高く、これは作家にとってのデメリットといえるでしょう。作家のメリットとしては、レベル3にあった毎回のレギュラー紹介を省くことが出来るというものがあります。


 以上の区分けは当然、作品によって使い分けている作家がほとんどで、有栖川有栖でいえば「火村英生シリーズ」はレベル3ですし、「江神二郎シリーズ」や架空の日本を舞台にした「ソラシリーズ」(どうなった?)はレベル4に該当します。同時に火村も江神も登場しない、レベル1にカテゴライズされるノンシリーズも書いています。


 ちょっと話が脱線気味で長くなってしまったので、そろそろ絞めます。

 執筆する作家視点で見れば、思い入れのあるシリーズ探偵にはなるべく多くの出番をあげたいですし、読む読者側にしても、愛着のあるお馴染みのキャラクターの活躍をもっと読みたいと思う気持ちは当然あります。ここでは触れませんでしたが、「キャラクター」が持つ恐らく最大の特性である「キャラクタービジネス」という展開面からも、人気のシリーズ探偵の出番が多くなることで損をする人は誰もいないでしょう。ですが一般的に、シリーズ探偵が定着し、そのキャラクターが定まってくればくるほど、扱える事件の種類も自ずと限定されてくる傾向があるように思います。つまりは、話がマンネリ化してくるということです(先に書いた、佐野洋が唱えた「名探偵不要論」は、まさにここを突いたものでした)。私は、これこそがシリーズ探偵、ひいてはキャラクターの持つ最大のデメリットだと思っています。そうなると、「シリーズ探偵に合う話を」という具合に、作家の思考のベクトルが「シリーズ探偵ありき」の一方向にしか向かなくなる恐れも出てきてしまいます。もしくは、キャラクター的に合わない話であるのに、無理やりにシリーズ探偵を登場させて、世界観の崩壊を招くような事態にならないとも限りません。

 確かに「キャラクター」は大事です。それなしには作品が成り立たなくなってしまうほど、今日こんにちのエンタテインメント文化には必要不可欠なものです。しかしながら、そこに拘泥するあまり、新しい発想の源を断ってしまっては非常にもったいないと思います。確固たる人気キャラクターを持っていたとしても、しかし、別方向の可能性も常に模索し続ける。こういった柔軟な姿勢を忘れてはいけないのではないかと、私は思うのです。

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