拓海千秋(23)兎の騎士
バスローブに近い恰好のまま人前に出ることは憚られて、僕はボロボロの制服に再び袖を通した。
シャツは元の白さが思い出せないほど黄ばんでいたけど、ブレザーを着るとまま恰好はついた。ボタンも取れかけで、校章は見る影もないけど。
素っ裸にローブを一枚羽織っただけの姿よりはよっぽどいい。
「寒っ!」
救護室のバルブを開けるや、僕は吹きすさぶ寒風に頬を叩かれた。
外気が異様に低い。
ブレザーを着て正解だった。
気絶していたとはいえ、覚醒前まで僕は赤道直下の大地の上にいたはずだ。
セイラさんは船の上とか言っていたけど、いったいどの辺の海を航行してるのだろうか。
僕は狭い甲板から欄干まで進み出た。
「…………うぇ?」
眼下の景色に目を疑った。
船というからてっきり船に打ち付ける波しぶきなんかを想像していた僕は足下に広がる白い雲とその切れ目から覗くミクロサイズの海を前に悲鳴を上げた。
「わあああああああああああ!」
脹脛の上あたりにひゃーっとした風が通り抜け、僕はたちまちその場に腰をついてヨタヨタと欄干から離れた。
海は海でも航行していたのは雲海。
ぶんぶん回っていたのはスクリューではなくプロペラ。
見上げるとぶてっと腹を膨らませたラグビーボール状の白い風船が太陽の光を受けて煌々と光っていた。
何が船だ!
飛行船じゃないか!
僕は改めて通路の上を這いながら欄干の下を覗いた。
紺碧のブルーは遥か彼方。
波頭は青い画用紙に零したほんの一握りの塩の粒くらいにしか見えなかった。
何百メートルなんて単位はとっくに超えているだろう。
僕は亀のようにゆっくり首をひっこめた。
無理。
っていうか、ダメ。
高所恐怖症ってわけでもないけどこれは無理だ。
旅客機みたいに外界から隔絶された空間ならまだしも、フェリー船みたいに通路が外にむき出しじゃ崖の縁を歩いているのと変わらない。
僕は壁に両手を付きながら、なるべく欄干には近づかないよう歩いた。
「ふふふ、坊やってば可愛いぃいいい」
びくびく進む僕を嘲笑うように欄干の上を一輪車に乗った美女たちが通り過ぎていく。
一台につき四人。
一人の肩に二人が乗り、その二人の肩に一人が乗っている。
それが列をなして四台。
上空一〇〇〇メートルとかそんな眩暈のする高さの欄干の上で。
タイヤの幅は想像もしたくなかった。
きっとギリギリだ。
まるでピクニックでもしてるように彼女たちは陽気に進んでいく。
「バイバ~~イ!」
「……」
手を振り返すこともできず、僕は彼女たちが視界から消えるのを待った。
頃合いを見て気を取り直し、前を見る。
「まっすぐ行って突き当りを左。まっすぐ行って突き当りを左。まっすぐ行って突き当りを左……」
匍匐前進で進んでいる間、僕の横をナイフ使いのジャグラーや手品師や道化師や猛獣使いが行ったり来たりした。
猛獣は猛獣でも僕たちの世界で見るようなライオンとか熊とかじゃなくて、まったくおとぎの世界に出てくるような奇怪で毒々しくて凶暴な面構えのキメラたちのことで、それをライオンのような顔をした獣人が従えていた。
獣人というくらいだから完全にライオンというわけじゃない。
顔の輪郭を覆うように伸びた髪と口元からピンと伸びた猫のような髭、それに尻から伸びた尻尾の先の毛がライオンを思わせるというだけでその他の特徴は人間に近い。
人間の身体の上にライオンの顔が乗っていると考えるとがっかりすることだろう。
それくらいには人間だ。
それからしばらく、僕はすれ違う団員全員に声をかけられた。
高所恐怖症丸出しで匍匐前進をしていれば悪目立ちするのも無理もない。
「面白い格好だな。それが異世界人の歩行スタイルなのか」
頭上から渋い声がして僕は顔を上げた。
人間の子どもくらいの大きさの兎の獣人が僕を見下ろしていた。
薄手の真っ黒なローブに身を纏った彼は僕の記憶に間違いがなければ、淑女の現れた夜にこの船からロープ一本で降りてきた獣人の騎士だった。
「それにその服も……パンツはそんな風に元々穴だらけなのか」
「いえ……」
「どうでもいいが、頼むからもう気絶しないでくれよ。この体でお前を運ぶのは骨が折れる」
「あ……あなたが僕をこの船に運んでくれたんですか」
「そうだ」
「でも、あなたは……」
地べたを這って見上げれば、それなりに異質で大きくも見えるが欄干の高さを基準にしたら身長はおよそ一メートル。体重は二〇キロあるかどうかというところだろう。
そんな身体でどうやって体重五十五キロの僕を――と考えていると辛辣な言葉が飛んできた。
「他人を身なりで判断するのか」
「いや……そうじゃないですけど」
「そうじゃないならなんだ。私の体はしっかり見ているはずだろう」
「……気に障ったのなら謝ります」
「私は別にお前の処世術を責めているわけじゃない。ただ『他人を身なりで判断するのか』と尋ねただけだ」
「そんなつもりはないですけど、つい……はい」
渋々認めると兎の騎士はふん、と鼻で笑って、
「それでいい。お前は間違っていない。私のような成りで例え子どもとはいえ、大の男を担いで船に上がれるわけがないからな。それを疑って私の体躯を眺めるのはごくごく当たり前で常識的な反応だ。目を逸らして適当に相槌を打たれるよりはずっといい」
「そう、なんですか?」
「ああ。無礼だが非常識じゃない」
「実際のところどうなんですか。あなたが一人で僕を担いで――」
「いいや。引きずって来た」
なんだそれ。
僕は思わず甲板に倒れ込んだ。
「礼というのは認められたい相手に対して示す細やかな好意の顕れだ。認めてほしくない人間にまで礼をつくしたり、常識的に振る舞う必要はない」
兎の騎士はニヒルな出で立ちとは正反対に直立歩行の小動物らしくとことこと歩いて近場にあった樽にジャンプして腰かけた。
「だってそうだろう。お前はじきに元の世界に還るのだからな」
「還る……還れるんですか。この世界から」
「ああ。それを手助けするのが私たちの仕事だ。だから仕方なくお前をこの船まで運んで……いや、引きずってきた」
「……」
僕は彼に嫌われているのだろうか。
いちいち嫌味が入る。
兎の騎士は腰につけた水筒をぐびぐび煽った。
口びるから滴り落ちる赤い滴はおそらくワインだろう。
しゃんとしているから飲んだくれということはなさそうだけど、かなり揺れる船上での飲酒だ。
それで酔わないのだからかなりの酒豪らしい。
「どこに向かってるんですか」
「サントレアの王都だ。詳しい話はあの女から聞くといい」
「あの女って?」
「ここの連中が『団長』と呼んでいる女だ」
「あなたは、呼んでないんですか?」
「呼んでいたら『あの女』という言い方はしない」
兎の騎士は忌々しげに言って、ワインを煽った。
「サントレアの王都はアトラス大陸で三本の指に入る大都市だ。なかでもレッドソードの城はエアリースで最も巨大で堅牢で荘厳な建築物だ。城下町では様々な市が開かれ、商業都市に負けぬ活気にあふれている。気圧されぬよう心をしっかり持っていなければ、また気絶することになるぞ」
「多分、大丈夫ですよ。あなたより珍しいものも色々見ましたから」
「それは結構だ。この船では私の成りでさえ霞むからな」
兎の騎士はちょいちょい自虐ネタを挟みこんだ。
彼なりの処世術なのだろう。
弱点は自ら口にして笑い飛ばせば、弱点じゃなくなる。
いじめられた経験のある人なら誰もが行きつく真理だ。
それがわかって、僕は少しだけこの兎の騎士に共感を持った。
「少年よ。お前はどこに向かっている」
「あなたが『あの女』と呼んでいる女性のところです。セイラ・ノーマッドって人。彼女の部屋はこの先でいいんですよね」
「ああ」
ふと僕は兎の騎士の来た道がセイラさんの部屋に続く道だと気がついた。
「彼女の部屋から来たんですか」
「ああ。『あの女』の部屋から来た」
「ああ……そう、ですか」
僕が何かを悟ったような間を作るとすかさず兎の騎士が反論した。
「勘違いするなよ。あの女とは友人ではないし、まして恋人でもない。船の順路に関して少し折衝があっただけだ。解決にはまだ時間がかかるから、今後も何度か『あの女』の部屋に抗議に出向くことになる」
「なにか知りませんけど、大変ですね」
「お前のおかげでな」
最後にもう一杯煽って、兎の騎士は樽からくるっと一回転して飛び降りた。
「あの女には気をつけろ。何を企んでいるかわからん。助けられたからといって安易に信用するな」
「じゃ、誰を信用しろっていうんですか」
「……死んだ奴かな。生きている奴は自分を生かすために嘘をつく。だが、死んだ奴は自分を生かす必要はない。だから嘘もつかない」
「……ええ。そうかもしれませんね」
「わかるのなら、問題はない。死者の声を忘れるな。死者は松明だ。我々の行く道を照らしてる」
不適に言って兎の騎士はとことこと通路の向こうに消えていった。
兎は『私を信用しろ』とは言わなかった。
自分のことを信じさせようとしないだけ、他のどんな人よりも信用できるかもしれない。
そんな風に、このときの僕は思った。
救世主戦争 @nuberinian
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