八幡様の力石

夷也荊

いつになっても。

 私の家の近くには、八幡様神社があった。八幡様はまるで境内の周りに生えている杉林を、石碑が抑え込んで、社を守っているような神社だった。幼い頃はこの境内でかくれんぼや鬼ごっこなどをして遊んだ。神域と言うより、近所の子供たちの遊び場として境内があった。

 そんな境内の中のある物が、皆の関心を集めるようになった。それが八幡様の「丸石まるいし」だった。



『八幡様の丸石にお供え物をして撫でると、テストの成績がよくなるらしい』



 このおまじないが流行っていたのは、私が小学校高学年の時だった。


「ねえ、今日一緒に行こうよ」


百合ゆりに「おまじない」に誘われ、私は二つ返事で「行く」と言った。


「お供え物は自分で用意してきてね。多目に持ってきた方が良いよ」

「何で?」

「社と全部の石碑にお供えしてから丸石にお願いするんだよ。忘れないでよ」


私は百合と一緒に帰った。途中で百合と別れて自宅に駆け込むと、仏間の菓子を漁った。一つ一つビニールで巻かれたチョコレート菓子をつかんで、ズボンのポケットに入れる。結局、ポケットが膨らむくらいに入れた。


「ちょっと八幡様行ってくる」

「宿題は?」

「すぐ帰って来るから」

「そのポケットには何が入ってんなや?」

「神社にお参りするから、それで……」


私は思わず、丸石のおまじないのことを話そうと思ったが、止めた。こういうおまじないは、他人に話したら効力が失われる気がしたからだ。話したことを、百合や他の友人に責められるのも、嫌だった。

 そんな時、玄関の脇にある戸が開いて、珍しく曾祖母が顔を出した。曾祖母は、一年前に亡くなった曽祖父の後妻で、家の誰とも血のつながりがなかった。同じ家に居ながら、いつも他の家族から隠れるようにして暮らしているような人だったから、家族の会話中に顔を出すのは初めてだった。


「お参りするのは、いいことでしょう? お供え物も持っているんだし、行かせてあげてはどうだろうね?」


「お義母さんは、口を出さねでけろ!」


苛立ったようにそう言った祖母は、大きなため息をついた。


「宿題は?」

「後でもいいでしょう?」

「本当だべにゃ?」

「うん」


私は玄関を出て、すぐに走り出した。ポケットの中身が飛び出さないように、手でポケットの口を手で押さえ、坂を駆けのぼると、朱色の鳥居の前にもう百合が待っていた。


「遅いよー」

「ごめん。婆ちゃんに捕まっちゃってさー」

「ああ、千里ちさとの家って宿題にうるさいよねー。お供え物、持ってきた?」

「うん」


蝉の声がシャワーのように降り注ぐ中、私たちは歩いた。道は張り出した杉の根で足をとられる。石段の前に来てやっと足に集中させていた神経が緩む。しかし石の階段はもう朽ちて坂のようになっていたし、苔むしていた。石段を上れば、もうそこは開けた神社の境内だった。突如現れる神域は、どこか空気がひんやりと感じられる。


「私の真似をして、ついてきて。丸石は最後。社から時計回りにお参りするの」


百合は、ビニール袋をポケットから取り出した。中身はジャーキーだった。


「お参りを始めたら、丸石にお願いが終わるまでしゃべっちゃ駄目だよ」


私が無言でうなずくと、百合はまず神社の社にジャーキーを供えてお参りした。私もチョコレートでお参りする。一つ置いて、鰐口を鳴らし、拝む。

次に、社の隣の石碑に向かって同じようにお供え物をして、拝む。これを繰り返して、全ての石碑にお供え物をして、拝んだ。

 いよいよ丸石にお参りする番になり、私と百合は境内の隅に移動して、丸石の前にしゃがんだ。百合はその石にジャーキーを供えてから丸石をなでて、目をつぶって両手を合わせた。私もチョコレートを丸石の前に置いて、ざらざらとした質感の丸石をなでてから目をつぶって合掌した。私が念じていると、隣で百合が立ち上がる気配がした。私も目を開けて、立ち上がった。

 家に帰ると、玄関の前に曾祖母がいた。私を待っていてくれたようだった。


「ただいま。さっきは、ありがとう」

「丸石、力石ちからいしさお参りさ行ってけっだんべ?」

「え? 何で知ってるの?」

「通学路ださげて」


曾祖母の部屋は歩道に面しており、窓もある。賑やかな小学生の会話を、曾祖母は毎日聞いていたのだ。だから小学生の間で流行っているおまじないの内容を知っていた。


「力石って?」

「八幡様にある丸い石は、私が若い頃は力石って言ってだんけ。八幡様の祭りで、ここの地区の力自慢が集まって、力比べをする時にあの石ば使ったがら、力石。でも今は、八幡様のお祭り自体がないべ?」

「うん」

「私の子供の頃は近所の人が皆おしゃれして、八幡様さ行ぐっけよ。一番盛り上がるのは、やっぱり力石だっけね」

大勢の大人たちが神社の境内に集まって、力自慢の男たちが石をどこまで持ち上げられるか競う。たったそれだけのことで盛り上がれるというのは、私にとって不思議なことだった。しかし、おしゃれしてきた少女たちが、力を競う男たちに黄色い声援を送る姿を想像すると、胸がざわついた。


「でも、皆忙しぐなって、力石も使われなぐなった。皆忘れた頃、不思議なことが起こった」

「不思議なこと?」

「力石が、この地区の田んぼの中から見つかったんだ」

「え? 田んぼ? 誰かの悪戯?」

「んだね」


曾祖母は少し間を置いて、話した。


「誰かの悪戯がもすんね。でも、皆は言ったっけのよ。力石は、皆がら忘れられたくなくて、田んぼまで転がってきたんだって。だがら今、力石は喜んでっど思うよ。また子供たちがらお参りされてるんだがら」


曾祖母のこの言葉に、私は思った。力石は、丸石と呼ばれるようになっても、人々の力を試しているのだと。


「宿題、やんなきゃね」


私は曾祖母と一緒に家に入った。玄関を曾祖母がまたぐその瞬間、曾祖母の後ろ姿が浴衣を着た黒髪の少女に見えた。それはきっと、力試しに挑んだ男性に声援を送った少女の姿だ。しかし次の瞬間には、腰の曲がった白髪の老婆の姿に戻っていた。一瞬の幻覚だった。

 私はその後宿題をやって、後日テストを受けたが、結果はさんざんだった。丸石は頼んでも力を与えてはくれない。


ただひっそりと、人々の力を試しているのだ。

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八幡様の力石 夷也荊 @imatakei

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