「文化」とは私たちの生活であり、営為であり、存在である。

@isako

第1話

 その日の勤めを終えて、私は宿舎へ帰った。部屋の中は灰色をしている。

 簡単な夕食の準備をすると、私はラジオを聴きながらそれを食べる。ラジオの番組の種類は弦楽と講談と教育しかない。教育は退屈であるし、講談は下品で卑屈な物語で私は好きになれない。だからおのずと弦楽を聴くことになる。弦楽は何時から放送が始まるのか知らされていないので、私はいつも途中から聴き始めることになる。そして最後まで聴くのだが、曲が終わるとそのまま弦楽の番組も終わる。曲名やその曲にまつわる何かが読み上げられたりすることはない。私は素敵な曲を見つけても、その曲の始まりを聴くことはできないし、またその曲の名前を知ることもできない。同僚たちはみな講談を聞いているし、図書館で弦楽についての書籍をあたっても、肝心の音楽を聴く設備がそこにはないので、数々の音楽があり、それをさまざまな形で評価したり、味わったりする手法があるということは分かるけども、それを具体的に私の耳につなげて、感覚的に知ることはできない。もどかしいが、ないものはないとしか言えない。曲名が分からないので、言葉と音楽が繋がらない。

 

 朝に宿舎に備え付けのスピーカーから起床ベルがなる。この音は就寝時刻を示す時にも鳴る。就業時刻にもなるし、休憩の開始と終了の時にも、火事の時にも鳴る。何かを知らせる時にまず鳴る音だった。そのベルのけたたましい、金属同士がお互い望んでいないのに強く擦り合わせられたような音で私たちは目を覚ます。目覚めてすぐはどの日の朝だって寝足りない気がする。それでも起きなくてはならない。宿舎にはちゃんと監視用のカメラがある。それで起きていないことが確認されると、さらにベルの音が大きくなる。やがて耐えられないほど騒音が大きくなると、私たちは、睡眠不足の不快と起床ベルの不快を比べて、ベッドから這い出すほかなくなる。そういうことが何度か続くと、管理者に注意を受ける。言葉で済めばいいが、大抵は何らかのペナルティが生じる。昼の給食の量が減ったり、雑務が余計に増えたり。それらは様々なもので、いつだって私たちが避けたくてたまらないようなペナルティである。だからみんな起きる。さっさと起きれば、その分起床ベルも早く鳴り止む。だから起きないという選択肢はない。私たちはより少ない苦痛を選ぶほかないのだ。

 冷たい水で顔を洗って、支給の粉で淹れたコーヒーを飲みながら朝食を食べる。固いパン、臭みのあるベーコン、小さな卵、ぬるい牛乳。そういった支給品を腹の中に流し込んだら、煤けた色の作業服に着替える。作業軍手に穴を見つけたが、次に軍手の支給があるのは二か月先だった。それまで何とか持たせないといけない。朝の支度を十分で済ませると、紙業まで少し時間がとれる。私はその時間に読みかけの本を読んだ。幻想小説である。私の、数少ない心の慰みの一つがこれだった。それをしばらく読み進めるとやがて出勤の時刻になる。私は本棚に小説を戻すと、靴を履いて部屋をでた。左右隣では同じように隣人が出勤するところだった。隣人の隣人も、そのまた隣人も同じように部屋をでたところのようである。私たちは示し合わせるわけでもないのに、一斉に家を出ている。「おはよう友人」「おはよう友人」私たちはお決まりのあいさつを交わして、歩き出した。

 出勤の最中、私語は禁じられている。あいさつだけが私たちのコミュニケーションに認められていた。みんなで靴音を合わせて、工場へ向かう。統制の利いた音の連続が私たちの心の平静を効果的に保つのだと、随分前にどこかで聞いたことがある。確かにこの音は私の心を落ち着かせるものだった。他の「友人」がどう思っているのか聞いたことはないが、きっと私たちは同じ事を思っているのではないかと、そんな風に考えている。石造りの長い廊下を歩いて私たちは一緒に工場へ向かう。週に六日間の「勤労日」は毎朝こうして勤めに出ることになっている。もうずっと長いあいだこうして私たちは生活している。私たちは「文化」を作っているのだと、そういう説明を受けている。私たちがこのように毎日働いて、製品を作り出し生き続けることが、すなわち「文化」を保護し、維持することで、それは人類にしかできない偉大な行為とされている。私たちがつくるものが、私たちの生活を支えているのだ。

「文化」とは私たちの生活であり、営為であり、存在である。

 この文言は朝礼と終礼で唱和される。これが大きく明るい文字で書かれたポスターが、町の至るところに貼ってある。これを批判したり、この記述を故意に損壊させたりすることは罪にあたる。「文化」を侮辱することは私たちそのものを否定することであり、その精神は「文化」に不適切であるからだ。そんなことをする人間は滅多にいない。この文言自体がそもそも素晴らしく、善良な人間において、これを否定することに、生産的な意味を見出すことはないからだ。

 私たちの存在そのものであり、また私たちが作り出す全てのもの・こと、そして私たちのあらゆる形における手が及ぶ空間的範囲を総括して「文化」と呼ぶ。これは私たちを内包する生活圏や、その営み全てを指し示す概念であり、そして、全ての事物に優位する最高の価値であると定められている。こういった考え方が、かつて「文化主義」と呼ばれていたことを私は知っている。「文化」を守るための考え方の集まりをそのように呼ぶのだと、昔、一人の管理者が私に教えてくれた。これはもう今では使われることのない言葉である。「文化」は私たちを含めた全てであり、「主義」という言葉は、「文化」の網羅性を曖昧にしてしまう表現であるので、ずいぶん昔に禁止されてしまったのだ。しかし今でもその全てが残っている「文化主義」の考えを、私はこれを素晴らしい試みだと思う。この考え方のいいところは、「文化」を存在する中で最高の価値に定め置いているところだ。つまり、私たちの日々の生活には、いくらかの苦痛がある(起床ベルもその一つだ)。しかし、そういった苦痛の全ては、「文化」の保護維持のためのものなのだ。至上の価値である「文化」の成立には、私たちの些細な苦悩は不可欠であると考えることで、この苦悩に耐える勇気が湧いてくる(これを、「献身的精神」と呼ぶ)。私たちの偉大な「文化」はこの「文化主義」の考えのもとに成り立っていて、またこの「文化主義」はあらゆる非文化的思考の一切を論理的に排除することができる。既存の主義・思想を昇華・排他した最終概念がこの「文化主義」であり、人類はこの到達点を称賛している。そしてついに「主義」と言い表す必要もなくなり、全ては「文化」の中に溶け込んだ。

 しかし一方で、「文化」が生み出す人間には、まれに非・反文化的なものも現れる。「文化」によって徹底した教育と情操の管理が行われるものの、何世代かにおいて数人、ごく少ない数だが「文化」にそぐわない性質をもった者が生まれる。これは遺伝子のバグであり、生物である私たちには決して避けられないものだとされている。私たちはマシンのように完全に制御された存在でないから、「文化」がどれだけ偉大なその庇護の手で私たちを包み込もうとも、自ずからそれを回避して飛び出そうとする、酷ければその手をどうにか破壊しようとする者が、多くは肉体的に成熟する前から、あるいは成長を終えた後からでも、その萌芽を見せ始めるのである。そういった者たちについて、かつての文明では共同体からの追放、即ち死を与えていたわけであるが、「文化」(つまりそれが内包する私たち)は、それほどの厳しい懲罰を反文化的な人々に与えようとはしない。「文化」黎明の時代から生まれた人権の概念は、現在においても大いに重視されている。人間は得てして、非・反文化的になってしまうことがあるが、それは個々人に追及される責任ではない。本能ある生物である私たちは、基本的に非・反文化的なのだ。そこを矯正し正しい形にして、理性的で誤りのない生き方をするために「文化」の助けが必要なのである。そう考えると、自然、反抗的な人々を容赦なく打ち棄てるような、非人道的なことは憚られるべきものになる。前時代的な排除傾向を克服した私たちの「文化」は圧倒的な包括によって、自らを害せんとするものでさえ、それを受け入れるのだ。死刑を放棄した私たちの「文化」はどんなならず者であってもそれを正しい生き方に矯正する。そうして改めて意識を啓かれた者は、今度こそ道を外さないよう、懸命に、皆と同様に労働を謳歌して、「文化」の維持保護に努めるようになる。私たちの居住区でも時たまそうして反文化的傾向を持つ者が現れたが、そういった者たちもいつの間にか矯正のための施設に連行され、今では別居住区で私たちと同じように勤労の汗を流しているのだと聞いている。こうしたうわさ話が流れる度、私たちは「文化」の力と偉大さに感嘆するのであった。「文化」の究極的にまで完全なシステムが、私たちを無限に守ってくれるのである。

 その理論を教育によって完全に理解している私であるはずなのに、ごくたまに、私はこういった全部について、破滅的なまでの反感を覚えることがある。その度私は、自分の理性を、野蛮な感情が覆そうしている事実に恐ろしくなる。自分の反文化的願望は、まったく自分でも非合理的で悪質なものだということが分かっているのにも関わらず、それは、やはり、どうしようもないほどの甘美な味わいのある空想でもあるのだ。ごく短い時間と、そして私の思考の内側というまたごく狭い範囲に限定され、さらに脈絡や正統性、道義性、合理性、その他あらゆる価値を大いに無視・破壊する形をとりながら、「文化」のもたらす完全の美しい統制が、愚者の妄想の中で蹂躙されている。思考の混沌で行われるこのような冒険は、決して誰にも知らせるわけにはいかないものだ。だが一方、私の口が堅く閉ざしている限り、それが混沌から抜け出すことはない。他の友人たちや管理官たちも、私の狂気と、この頭蓋という小さな――しかし堅牢かつ密性に優れた――壁を隔てて、ぎりぎりに接している。何食わぬ顔で私は労働に赴き、「文化」のために活動するさなか、私だけの、誰にも踏み入り得ないあの小部屋では、刹那的・非生産的快楽の営みがある。

 そして、私はその小部屋から出てくる度、自分の愚かさと恐ろしさに、激しい失望と寒気を覚えるのである。私はどこに行ってしまうのだろうか?


 工場に着くと、直ぐに点呼が始まった。薄い緑色の作業服を着た私たちが三百人、集合広場に整列している。そして濃い青のブルゾンの下にタイを締めている十人の「管理官」が私たちの整列の前に立っている。工場長が事務室から出てきて、朝礼台の上に登った。そして、拡声器を使って毎朝に恒例の朝礼を始めた。

「諸君、おはよう。本日は×月〇日、月曜日である。昨日はよく休めたことと思う。しっかりと休息を得た諸君が、今日からまた健康的にこうして朝礼に集合してくれることを、私は光栄に思う。さて本日の説話だが、日曜日に興味深い書物を読んだのでその話を噛み砕いて君らにしようと思う。

 かつてあるところに、二つの村落があった。村落というのは、はるか昔の歴史に存在していた人々の暮らしの集まりで、比較的規模の小さいもののことだ。それらの二つの村落には、同じの数の人間と同じ数の家と同じ数の家畜と、そして同じような条件の資源があった。しかし、村落の長はそれぞれ違った考えを持った人間だった。

 一方の村落の長は、村落の全ての人間が、平等に暮らすことこそが善であると考えた。素晴らしい考えであると私は思う。そして長はそれを実現するために村落にこのようなルールを設けた。

《全ての住民は平等である。よって皆の仕事で得た利益は一度私がすべて回収し、その後、みんなで平等に分け直すことにする》

 さて、実際にこのルールが適用されて、果たしてこの村落は一体どのようになったのか、賢明な諸君になら、たやすく想像に及ぶだろう。しばらくして、村は貧困の一途を辿り、やがて破滅してしまったのだ。

 村落にある財産を全て長が集め、それを住民たちに平等に配った。そして新しく生産された利益や資源もそのように処理された。長は本当に正直平等にルールを実行し続けた。この村落の問題はここにあったのだ。長は優れた人格者だったかもしれないが、住民たちはそうではなかったのだ。確かに、皆が平等に利益を享受できるシステムは素晴らしいものだが(これは我々の『文化』においても標榜される価値だ)、そこに情熱の理念が無ければ、平等は成立し得ないのだ。たくさん働けばその分、徴収される利益の合計も多くなる。そしてその後に配分し直される一人あたりの利益もまた多くなる。このことを理解していなかった住民たちは、むしろこのシステムを、『どれだけ頑張って働こうとも、他の人間と同じだけの給与しか与えられないのだから、労働に対し懸命な態度を取ること自体が無意味である』というような評価を下したのだ。全員が労働をおろそかにし、そして減少した利益を皆で平等にわけあった。つまり、『貧困』――これは前時代概念の一つで、資源の不足から生活に支障をきたすことを言う――を皆で分かち合ったことになる。この村落では、皆が怠けるようになり、やがて少しずつ、食料が減り、生産物の質と量が低下していった。そしてこの人々の集まりは崩壊し、住民たちはちりぢりになってどこかに去っていってしまった。

 そこで、また一方の村落に話は変わる。そちらの村落には、先程の崩壊してしまった村落の噂を聞いた者がいた。平等を重んじたその方策の欠点を見抜いたそちらの村落の長は、また違った形のシステムを考え出して、それを自分の村落のルールとした。それはこのようなものであった。

《全ての住民には、自分の財産を持つ資格がある。その資格は誰にも侵されることはない。そして我々は、働けば働くほど、その財産を大きく増やしていくことができる》

 平等を重んじ、ゆえに衰弱してしまったかの村落の、その失敗を恐れたこちらの村落の長は、逆に全ての住民が自分の財産のために努力を続けられるようなシステムを作ったわけである。 

 さて、それではこちらの村落では何が起こったのか。こちらは少し想像が難しいかもしれない。長の想像通り、住民たちは自分だけの財産を増やして、生活を豊かにすることに成功した。滅亡した村落とは違い、皆が一生懸命に働いて、不可侵の財産を蓄え続けた。村落はどんどん豊かになった。素晴らしいことである。だがしかし、やはりこちらにも問題があった。

 人間個々人にはどうしても差異が存在する。身体の大きい者、小さい者、器用な者、そうでない者、できる者、できない者……そうした差異は、彼らの労働に大きく影響したのだ。身体の大きくて、力のあるもの肉体労働に適していた。器用な者は機械修理や、こまかな作業について秀でていた。ほかにもあらゆる場面において、何かができる者はそれについて活躍し、それを自分の仕事として財産を増やすことができた。そうした光がある中、村落の一方には影が生まれていたのだ。能力を持つ者は能力と財産を活かして、更なる利潤を生みだし、それを保持し続けた。富める者になったのである。しかし能力を持たない者は、日々の暮らしを賄うことに精いっぱいで、蓄えというようなものをしらない。やがてそれらの者たちはあの『貧困』に陥ってしまった。一つの村落、共同体の中で、豊かな生活を営む者と、一方生活の維持さえ困難である状態にある者の二者が生まれてしまったのである。

 しばらくはこの歪んだ体制が続いたのだが、それはますます程度を大きくさせていった。豊かな者はどんどん良い暮らしを獲得し、『貧困』に囚われた者は更なる苦難を味わい続けた。やがて不公平に苦渋を強いられる者たちは、この村落で自分の生活を成立させることは不可能だと悟り、逃げ出していった。すると残った裕福者たちの中で、さらに富める者と、そうでない者が生まれた。そして新たな『貧困』者たちは、かつての人々と同様に、その村落を去った。同じことが何度も続いて、気づけば村落は、長とそれに近しい人々のみで構成された極々小さな集まりになっていた。もう豊かさを保つための資源と、価値を生み出すための人間の欲求は、どこにもなかったのだ。

 このようにして、ついに二つの村落は崩壊してしまった。一方は人間のもつ根源的な怠惰に気が付けなかったことが、もう片方は一部の者たちのみが富にあずかり得るという道義に反する強欲を見せたことが、原因となったわけだ。この話は我々に大いなる教訓を与えてくれる。そう、勤労と平等を、我々の確固たる意志によって存続し続けることが人間の結びつきを維持する唯一の道なのである。そして、困難かつ必要不可欠のその善を実現するために我々が生み出したものこそが『文化』である。

 かつての人類は、愚かにもこの『文化』を軽視していた。徹底した『文化』の中にこそ人間の本当の幸福があるということから目を背け、個々人の勝手で、暴力的な振る舞いを所与の資格として認容していた恐ろしい時代も存在していたのである。古くから数々の賢人がそれを否定していたにも関わらず、その『暴力資格』を、人類がついに獲得した最高の価値としてみなしていたのだ。そのような狂気はやがて『文化』の台頭とともに打ち払われ、その後我々は最高価値のとしての調和を、『文化』の保護の下に手に入れることができた。皆もその歴史はよく知っていることと思う。我々の偉大な『文化』は前時代の失敗の上にあるのだ。多くの命と苦痛が犠牲となった。そこから産み落とされた『文化』は、かくも美しい人類体系を形作った。私はもう一度感謝を述べたい。今、皆がこうして、均一のもと整然として、完全利他の精神から労働に従事するために集まっていることを、私を含めすべて『文化』の下にある人間は、これを誇りに思っている。今日はここまでに」

 大変な拍手が沸き上がった。私も皆と同じように顔の前に手を持っていって拍手をした。なぜだが奇妙なほど、軍手の破れが気になった。

 工場長の立派な朝礼は毎朝行われ、私たちの意識を鼓舞する。「文化」とは私たちの生活であり、営為であり、存在である。という合言葉を皆で唱和したあと、それぞれの持ち場へと私たちは向かった。

 私の仕事は、鋳造された工業部品の、機械ではうまく均せない尖りをやすりで丁寧に削ることである。作業室の入り口で加工前の部品をたくさん受け取って、それから自分の番号の作業台に着いて削りを始める。同じ部屋に概ね五十六程の作業台があって、私たちはいっせいにやすり掛けを行っている。薄暗い部屋の中で、がりがりという音が無限に反響し始めた。ランプの傍の電子画面に部品の型番号を入力すると、その部品の完成図が表示される。それを見ながら、私はその鉄の部品の、どこをどれだけ削り取るのかを確認する。穴の開いた軍手のまま、いつも通りの作業を続ける。硬い尖りをやすりで削り、邪魔な塵を作業台に備え付けの送風機で取り除く。この微小の鉄粉を吸い込むと喉を酷く痛めてしまうので、気を付けなければいけない。大きな尖りがあれば、万力で部品を固定して、両手でしっかりとやすりを握り込んで力を込めないと、うまく削れない。そんな風に、身体全体を使ってやすり掛けをし始めたとき、私は自分の力の込め具合が軍手に負担を掛けていて、そのせいでこれに穴が開いたのだということに気が付いた。作業を止めて、自分の手を見つめた。破けて肌が覗いているその部分は、昨晩よりも大きくなっていた。軍手はその限定された破損部分において私の手を保護することを放棄していて、むき出しの肌の部分が、これまで同様にかかる擦過の負担に赤く腫れあがっている。そのごく一部分の小さな箇所は、それでも明確に痛みを主張していた。私の身体の他の部分は、負の主張があったとしても柔らかな疲労のみであるのに、その、爪先より少し大きいかというくらいでしかない肌の部分は、弱いながらも鮮やかな痛みを私に唱えていた。この擦過部分のみ、私の肉体の統制から逃れんとしているよう思えた。私は何かの慰めのように、その部分に自分の唇を当てた。それから慎重に、優しく、舌でそこを舐めた。過敏になった触覚がほんの少し叫ぶ痛みを強めたが、自分の舌の湿った感触と、その温かさがなぜか痛みの不快をやわらげた。痛みそのものは無くならないが、もうこの緩やかな傷は痛みを必要以上に、私に意識させることをやめた。

 私はしばらくの間、傷を咥え続けた。私の前の作業台にいた者が、振り返って私を見た。やすり掛けの音が一つ減ったことに気が付いたのだろう。私たちは目が合ったが、言葉を交わすことはなかった。業務中の私語は禁止されている。前の者はすぐに自分の手元に視線を戻して、がりがりとやり始めた。それからまた私も、赤い腫れを慰めるのをやめて、けずりを再開した。常に部屋を満たし続けるけずりの音の中、時折、現れる誰かの苦しそうな咳が噴き出して、そして消えていった。

 昼休みの時間、私たちは食堂に集まって給食を受け取る。今日はライスと肉炒め、そして牛乳スープという献立だった。通常配給の食品よりも、工場で食べるものの方がずっと質がよく、また美味だった。この給食を一日の楽しみの一つしている者は少なくない。私は匙でスープを掬いながら、件の擦り傷を見つめていた。簡単な怪我である。怪我と呼ぶにも違和感を覚えるほど、微小のものだと思う。しかし指が訴える薄い痛みはいつまでも私に何かを要求していて、そして私はそれに応え得る能力はないらしいのである。その曖昧な要求は、少なくとも食事の楽しみを阻害する程度には私を悩ませるものとなった。

 私は食事を済ませた後、近くにいた管理官に私は話しかけた。

「軍手が破けてしまいました」

「そうか。怪我はないかね」

「擦れたせいで少し赤くなっています」私が差し出した手を見て、管理官は笑って言った。

「この程度なら問題ないだろうね。しばらくは痛むだろうが、やがて皮が固くなってそこにたこが出来る。そうなると痛みは無くなる。少しの我慢だね」

「でも、それまで作業には支障が出ます。軍手の支給を前借りさせてもらえませんか」

「そういった前例はないね。年度初めの支給を待つんだ」

「どうかお願いします。傷が妙に痛むんです」

 私の懇願に対して、管理官はため息を吐き出した。それから、私の作業服の胸元に留めてある、私の番号が記入されたワッペンを見てから、こう言った。

「〈三十三番〉、それは君の辛抱足らないものが原因ではないか? 君のように軟弱なことを言う者は初めてだよ。他の者は自分の手袋が破れようと、黙って作業を続けている。それにちゃんと丁寧に扱えば、支給の軍手は一年間の使用に耐えるように設計されているんだ。君の無理な使い方のせいで、軍手が早くに消耗してしまったのだと考えるのが通常だろう。また今までそんなことを、君自身言い出すこともなかったではないか。これらから推察するに、君の意識がここ最近で反『文化』的になってきているのじゃないか? まだ明らかに危険という程度ではないようだが、こういったことが続くようなら評価が下がることになる。心を清潔に保ちなさい。私は君の『文化』的精神を信頼したいね」

 私に冷ややかな視線を向けた後、管理官は深い紺色のキャップを被り直しながら控室に戻っていった。周りにいた同僚たちが私の方を見ていた。私がその者たちの顔を見つめ返すと、それらは目線を逸らしてどこかに散り散りになっていった。

 午後からも軍手の綻びをそのままに、私は作業を続けた。一時間と少し経ったところで、ついに皮膚が破けて、血が出てきた。私は作業を止めて作業室の入り口に立つ管理官で、昼休みの者とは別の人間にその旨を伝えた。その管理官は、私にはまったく興味がないといった感じに濁った目玉を私に向けた。それからどこからか取り出した、くしゃくしゃの絆創膏を私に手渡した。糊の部分には、垢か埃か黒っぽい邪悪なねばつきがべったりとあった。私はそれを自分の傷に張り付けてから、作業に戻った。どんなに工夫しても、その手の痛みを上手く回避することはできなかった。絆創膏の白いテープ部分に、私の血が赤く滲みだしてきたが、私にはもうそれ以上、自分の手に何か施してやることはできなかった。軍手を左右で交換してみたが、やはり傷は痛む上に、その日の終業間際には、交換を済ませたもう片方の軍手においても、同じ箇所がまた綻び始めていた。 

 労働が終わると、私たちは宿舎に帰った。朝と同じように足音をそろえて一斉に歩いている。朝との違いは、皆一様に疲れた表情をしていることと、そこいらに汗の匂いが満ちていることだ。

 部屋に戻ってシャワーを浴びると、手の傷が湯に沁みた。身体を拭いてから、下着を新しいものに替えてシャツとズボンに着替えなおす。そのあと、汗で汚れた作業服をカゴにまとめて、玄関を出た。宿舎の共同廊下を見渡すところ、他の者たちもまた同じようにシャワーを済ませて洗濯物を抱えていた。

 私たちは一度帰宅すると、次の出勤までは自由時間となる。ここからは私語も許されるし、靴音を合わせて歩くことに意識する必要もない。両隣の住人たちに、「おつかれさま、友人」と互いに声をかけて、微笑みあう。とても「文化」的だ。私はこの「文化」的な素晴らしさ、すなわち人間同士の無償の結束を本能的に肯定している。そう、平和を願う一般良心をもつ人間は、あらゆる行動が、自ずから「文化」的振る舞いになるように設計されている。私はこうして友人と挨拶を交わして、労働に励み、物語と音楽を楽しんで生きていけるのだ。ときおり現れる反文化的な思考を、客観的に批判する能力を私は持っている。その暴力思想を悪・不善・欠陥であることをちゃんと認識して、それを抑え込む力がある。たとえ私が、人類の生物学的欠陥性からどうしても産まれざるを得ない障碍児や狂人に、少しばかり近くしてこの身を位置づける存在だったとしても、私ならそれを理性で克服できるはずだ。そう思うと私の中で、勇気と呼ぶにふさわしい、力強い情動が興る。「文化」が私を祝福しているかのような高揚感さえある。私はこの「文化」に守られている。私は逸脱などしていない。皆と同じように、大いなる人類文化の中に同化している。このようにして私は、その小部屋には入らないよう自分を律する。


 洗濯室の濡れた白いタイル床を踏みながら、自分の作業着と下着が入った洗濯袋を、共同の大きな湯槽に投げ込んだ。槽の中は既に他の洗濯もので一杯になっていて、湯槽にちょっとした山を作っている洗濯袋の、それらの積み重なりの隙間から、緑色に濁って、そして白く細かな泡が沸きだす水面が覗いていた。もうもうと上がる湯気からは、洗剤と汗の混じったような匂いがしている。あまりいい匂いではない。

 足早にそこを去ろうとしたとき、あまり見知った顔ではない友人が、私の目の前に立っていた。

「やあ友人」その人物は私ににこやかな挨拶をした。「やあ、友人」私も返した。

 友人のシャツ(私の着ている支給のものと同じだ)には、〈五十六番〉とプリントされたワッペンが胸に縫い留められている。私のシャツにも同じものがある。〈三十三番〉と白地に黒のゴシックでそうある。

 その〈五十六番〉は笑っているもの、どこかそれは「文化」的ではない感じがあった。どこか汚らわしいような、卑屈の精神を思わせる皺が〈五十六番〉の目元には浮かんでいる。そいつは私の目をじっと見つめながら、歯を少しばかり覗かせて、喉の奥で笑った。くぐもった奇妙な音が〈五十六番〉の口から洩れる。

「君、〈三十三番〉だよね。今日は大変そうだったじゃないか、え?」

 私がその発言の意味に至らず、なんのことか考えているところを見たのか、〈五十六番〉は自分の掌をもう一方の手の指で、くるくると撫でまわした。それで私は、この人物が、私の指の怪我を言っていることに気が付いた。

「大変ということでもないよ。痛みあるけども」私がそう返すと、やはり〈五十六番〉は笑った。「強がっちゃってさ。私は見てたんだ。君、昼食休みのときに管理官に軍手の替えを申請してたろ。それで断られていた。あの時の管理官の言い分は至極まっとうだったね。流石と言うに尽きる」

 洗濯室の出口で私たちは向かい合っていた。〈五十六番〉は壁にもたれかかったまま私を挑戦的な目つきで睨んでいて、私の背後からは洗濯ものを湯槽に放り込んで洗濯室を出て行こうとする他の友人たちがつっかえていた。やがてそれらの人々は、私を追い抜いて出ていった。

「君がなにを言いたいのか、私には分からない」私は〈五十六番〉拒絶の意を示して、そう言って洗濯室を出た。奇妙な苛立ちが私を捉えていた。〈五十六番〉を蹴っ飛ばしてやりたいという強い感情が沸き起こったが、私の理性はもちろんそれを許さなかった。暴力はもっとも「文化」から遠い位置にある概念だ。そんなものは存在さえ認められない。

 〈五十六番〉はやはり私と一緒に部屋を出ていて、私のすぐ後ろをつけて歩いていた。しばらく無視していたが、どうしても気持ち悪くなって、振り返って言った。

「私についてこないでくれ」

「君についていくのではないよ。私の行こうとしている先を、たまたま君が歩いていただけだ」

 ふざけないでくれ。私自身の声が震えているのを聞いた。自分でもなぜこんなにも感情的になっているのか不思議なくらい、〈五十六番〉の為すこと言うものが癇に障った。

「私は図書館に行きたいだけなんだ。もしかして君もそうなのかな」〈五十六番〉が言った。

 目の前の嫌味な人間の目的と自分の目的が、皮肉な偶然にも合致していたことに、私は強い嫌悪を覚えた。もう私は返事をすることもなく、俯いて、道を引き返し自分の部屋に戻る方に歩いた。〈五十六番〉は私に何か声を掛けようとしたらしかったが、そのまま何も言わなかったし、もうついて来ることもなかった。


 内臓にやけどを負ったような感覚が続いていた。胸の奥で拭いようのない不快感が滞留している。身体の失調ではないことは分かっていた。部屋に戻り、ラジオのスイッチを入れて温かいコーヒーを飲むと少しはましになった。

 あの友人は、〈五十六番〉はなんだったのだろう。まず、知りもしない人間に語り掛けてくること自体が異常であるし、私が軍手の件で叱責を受けたことをいちいちあげつらうこともまた、およそ「文化」的な人間の振る舞いとは呼べない。〈五十六番〉の一連の行いは必要以上に個人の領域に踏み込むものだ。争いを生みかねない接近だとも言える。それは場合によって、違法ともみなされる行為なのに。私は〈五十六番〉を通報すべきなのだろうか。だがそこまですることはないようにも思える。例えば私が、「文化」への反抗心を密かに抱いていて、それでいてその不埒な心を押し殺しているのと同じように、〈五十六番〉もまた誰かを傷つけたいという反「文化」的な感情を、何とか抑え込もうと努めているのかもしれない。ふとした、何かのきっかけで、今日は私に絡んできたけれども、それは〈五十六番〉自身が恥ずべきナンセンスの行為として、今も悔やんでいるところなのかもしれない。私と同じように、あの人物もまた、内なる反「文化」に苦悩し、その発露に常に脅かされているのかもしれない……

 そこで私は考えた。もしかしたら、皆そうなのかもしれない。「文化」の中に住まう我々人類は皆、そとっつらでは冷ました顔をしているが、心の内では、何らかの反「文化」的感情を抑え込んで生きていて、いつ自分がおかしくなってしまうか、誰かが自分の反「文化」に気付いてそれを告発してしまわないかに、びくびくと怯え続けているのかもしれない。だがそれは、各人による自身の生活に対する懸命な保護のために、人間の綿密な努力の限界にまで隠蔽されていて、また誰が自分の秘密を隠すことに必死で誰も他の人間に目を向ける余裕がないので、皆が同じ反「文化」の悩みを持ちながらそれは誰にも知られることのないものになっているのではないだろうか。この考えは愉快だった。みんなが同じ悩みを持っていながら、誰もがそれについて、何人にも知られるわけにはいかないので、かえって共通の苦しみがあることを誰も知らないのである。「文化」の成員全てが同じ形のあざを尻に持っていて、我々は密かにそれを気に病んでいるのだが、誰かに知られて笑い物になるのが恐ろしくて、誰もが、誰にもそれを打ち明けられないというような状況に近い。本当は皆が同じあざを持つなら、それは何も気にすることのない、差異にすらならないものなのに。

 しかしこれは下らない妄想の遊びにしか過ぎない。むしろ今のような妄言を誰かにふと漏らそうものなら、それこそ逮捕されることになるだろう。「文化」全体とそのメンバー全てを不当に貶め、侮辱している内容だ。私個人の異常性を恣意で他の人間にも転嫁している。私は自分の妄想が、果たしてこの「文化」においてどのような扱い・評価を受けるだろうかと考えて、恐れ戦いた。もう〈五十六番〉の挑発などすっかり忘れていた。

 本当に恐ろしいものは、どこでもない私自身の中にある。私の中にあるこの恐ろしい感情こそが、いつか私自身を滅ぼすのだろう。あの欲望が、「文化」を打ち壊したいと強く願うこの感情を「文化」は許さないだろう。それが明るみに出れば、きっと「文化」は私を拘束して、それから矯正するだろう。そしてまた、すっかり「文化」に適合した素晴らしい人間性を携えて、私は勤労に向かうのだろう。そうなるのだろう。私にはそれが一番恐ろしかった。

いま私が、こんなにも強く願い、そしてまたその異常さに自覚的で、それを抑えようとしているこの心の動きの全てが、いつか「文化」によって一寸の狂いもない正常な精神に調えられて、私もそれらを忘れて、また働くことにだけに費やす日々に戻ってしまうことが、とても恐ろしい。矛盾した感情だった。私は「文化」を守るべきと思いながらも、同時にそれを破壊したいと思っていて、その破壊の感情を恐れながらも、その思いが消えてなくなってしまうことも同じくらいに恐ろしいのである。

 マグカップの中のコーヒーは、いつの間にか空になっていた。椅子の上に膝を抱えて座っていた私は、立ち上がって伸びをした。硬くなっていた筋肉が柔らかく引き伸ばされて、またひと形に押し込められていた関節が程よく広がりを取り戻した。甲高く軽い音が、いくらか身体から鳴った。恐ろしいものはたくさんある。だが全てはこの頭の中にしかないのだから、私が、堅く口を閉ざしている限り、この恐ろしさが現実に露わになることは決してない。私はそのことをちゃんと知っている。小部屋には、誰も入ろうとしないし、鍵は私しか持っていない。


 いろいろと工夫をして軍手の綻びを繕うけれど、いつの間にか肌が露わになって、そこから血が流れだした。痛みに耐えながら続ける作業のせいで、成果が他の作業員に比べ落ち込んでいる。そのことを管理官に指摘されるが、手の傷のことは考慮に入れてもらえない。不都合は全て、どこまでも私自身の責任としてあるのだという。よくない事がそのまま維持されて、別のよくないことが引き起こされていた。このままでは管理官に目を付けられて、なにかと指摘されるようなことにもなりかねない。個人のちょっとしたゆるみさえも、「文化」は見逃そうとはしない。

 件の〈五十六番〉は、実は私と同じ作業室にいるらしく、時折私に話しかけてきて、相変わらずの挑発を続けていた。どうやら私だけに執着してそれをしているらしく、他の人間と話すときは、ごく普通の「文化」的態度で振舞っている。また私は、未だかの人物を反「文化」の疑いありとて告発していない。結局〈五十六番〉の行為は幼稚な言葉遊びの域を出るものでないし、あれがなぜ私だけを標的にしているのかということにも、少し興味あったからだ。直接訪ねたこともあったが、〈五十六番〉はそれをはぐらかしてしまった。それでもまた私に関心があったようだから、しばらくあれのからかいに応じてやれば、向こうが私に飽いてやめるか、それとも私があれの意図を知るに至るかといったような結末があるだろう。それが見えていた。あるいは、あの人物の、限定的な反「文化」的態度が、「文化」の目に留まるということも考えられた。しかしそうなったとして、私が何かできるわけでもない。そう思って、私は、自分が〈五十六番〉の身を少なからず案じていることに気が付いた。奇妙にも思ったが、いくらか思い返してもやはり本当にちかいもののようで、それにも、私はまた幾分混乱させられていた。

 また更なる混乱として、〈五十六番〉が、あれ自身が隠し持っていた古い手袋を貸してくれるということがあった。ぼろぼろで、いろんなところに穴が開いていたが、私の穴あき手袋と重ねてつけると、綻びは埋め合わされた。それのおかげで、負担が減った。あれが何をしたいのか不思議だったが、とにかく、手の傷が悪化するのは防げた。その手袋の感触は奇妙に柔らかく、心地よかった。きっと使い込まれて、生地がくたびれているからだろう。


 激烈の起床ベルを鼓膜に捉えたとき、私ははっきりとした不調を覚えた。身体が重い。瞼さえ開けられそうになかった。ベッドの硬いマットレスが私を深く捉えている。ベルは容赦なく鳴り響き続けた。部屋の中の空気全体を不快の形に揺らし続けたが、それが私の身体を床から引きはがすことはできない。身体に痛みはない。風邪によくある倦怠感や、息苦しさといったようなものもなかった。ただ身体が重く、寝床から出て出勤の用意をするということが、私にはできなかった。これから勤めに出ることに、強い抵抗があった。私は起きなくてはならない。冷たい水で顔を洗って、支給の、あまり質の良くない朝食をとってから、擦り切れて裾が破け始めた作業着を纏って、一斉の行進を始めなくてはならない。しかし目を開くことさえも、その時の私にはままならなかった。時計に目を向けることもしなかった。不快極まりないベルの音を耳にしながら、毛布にくるまって私は身を竦めた。

 理性はこの行為の無為をはっきり認識していたが、私は、その声に従うに能わなかった。このまま、この無為の睡眠(しかも実質これは睡眠とも呼べない)を続けることは、明らかな反「文化」的行為であり、私たちに授けられた強靭な信念に背く、邪悪な振る舞いである。しかし、私はやはり、この反「文化」的行いについて、あの恐ろしい、そして一種の甘美ともいえる破壊の悦も感じていた。ついに私は、頭蓋の小部屋にこの怪物を閉じ込めておくことができなかった。毛布に身を包み、ますます音量を増していくベルに耐えながら、私ははっきりと「文化」に反抗していた。もう一切の弁解の余地がなかった。それはつまり、このあと私の部屋にやって来るであろう管理官に対して行うものではなく、私自身の精神に対してである。身体の不調に依拠する形だが、私はもう自分の意思で「文化」に背いてしまった。少なくとも私の生活における「文化」を否定してしまった。またそのことに、いくらかの快さを、未だかつてなかった種類の欲望が、満たされるのを覚えていた。

 それからしばらくして、ようやくベルが止まった。私は自分がどのくらいの間そうしていたのかは分からなかった。でも少なくとも、普段ならもう自分の部屋を出ている頃ではないだろうか。

 また少し時間が経ってそのとき、部屋に備えのスピーカーから大きな音が鳴り始めた。それが、工場長の朝礼であることに、私はすぐに思い至った。

「諸君、おはよう。本日は○月▲日、火曜日である。一部の者は気づいているかもしれないが、非常に残念なことに、今日は我々の友人のうちの一人が出勤の義務を放棄している。その者は普段から諸君と同様に勤勉であり、優秀な人物であったが、なぜか今日に限り、全くの無連絡で勤めを打ち棄ててしまった。諸君は奇妙にも思うだろう。なぜ自分たちはまったく生活を繰り返し、そして『文化』という偉大な傘に守られているにも関わらず、このようなイレギュラーが発生してしまうのだろうか。同じものを見て、同じものを食べて、同じことをしているはずであれば、自分たちと同じ考えを抱くはずであり、それはつまり『文化』に背くような行いをすることはないはずなのに。当然の疑問であると、私も思う。今日の朝礼はその話をしようと思う。

 なぜ今日、我々の友人の一人は、この朝礼の場に来ることが出来なかったのだろうか。今も、整列して私の話を清聴している諸君の中で、一人分の空間が空いている。ここ、朝礼台からはそれが良く見える。諸君の整然とした制服の色味が一部欠けて、地面のコンクリートがむき出している。そう、そこだ。そこに立つべきであった人が、今はここにいない。

 『文化』は完全無欠の理論である。思想の最後である。『文化』は永遠に留保なく諸君を保護する。また正しき道へ導く。あらゆる価値を保証し、その獲得へ君らを促す。しかし今日(そして、こんにちまでの『文化』の歴史におけるいくつかの事例)において、『文化』の完全性が否定されるようなことが起きている。労働の放棄が、我々の成員において行われてしまったのである。

 さすれば、諸君の中には、流石に『文化』に疑いを持つとまでは言わずとも、なにかしらの疑問、あるいは不安のようなものさえ感じている者がいるのではないだろうか。その不安を打ち消すためにも、私はここで『文化』についてやはり語らねばなるまい。

 まず言っておくべきなのは、つまり『文化』は言うまでもなくやはり、完全であるということだ。そして、何故、今日のようなことが起きてしまうのか、また、今日の問題と『文化』の完全性についてそこに矛盾はないのかという点については、次のような説明が解決をする。

 『文化』は完全である。しかし、我々人間は完全ではないのだ。ここに全ての問題が集約されているといってもいい。我々人類が生み出した最後の発明が『文化』であり、これに従って生きることで、我々は絶対の幸福と安全を確保することができる。しかし、問題は、人間の側にそれをいつでも破ろうとする意志があるということである。

 もちろん諸君は、自分の中にそんな反『文化』のものはないと否定するだろう。私はそれを信じる。もちろん私の中にもそのような願望は一切存在しないし、むしろそういったものを憎むことを善しとして私は毎日を『文化』の中に生きている。それでいい。そうあるべきなのだ。しかし、しかしだ。それは理性の及ぶ範囲でしかない。諸君は唐突には理解が及ばないかもしれない。我々は自覚の範囲を超えるものを認識できない。今の諸君が、どこまでも硬い決意を以て『文化』に対して忠誠を誓うのだとしても――もちろんこれはこんにちの我々の生活において必須かつ当然、そして諸手を上げて称揚されるべき事実だが――その決意が、いつまでも続くとは決して限らない。これは諸君の心的強度の話をしているのではない。人間というものそのものが、そういう不完全で生まれているのだ。人間というものは、長い長い歴史の中で語られているように、まったく非合理的で、矛盾しており、また愚かで、卑しい存在である。

 かつて人々は、甲を求めて乙を獲得し、いつまでもそれが甲であると認め誤り続けた。目先のものに囚われ、また何でもないものを必要以上にひどく尊重していた。そしてそれらを――これは古い用法であるが――いやしくも文化などと呼んだ。そして自己の周囲にしか考えを及ぼさなかった。そのごく狭い範囲に世界を限定して生きていた。それがすべてだと思い込んでいた。彼らは自分の着ているものがどこから来たものなのかを知らない。自分の食べているものがどこから来ているのかを知らない。これはつまり自分を知らぬということだ。我々生物は食べて、生きている。つまり、身体は食べたもので作られている。にもかかわらず、旧時代の人々は自分が食べているものが何なのか、どのように作られてきたものなのか知らなかった。つまり、自分の身体の由来について、実質の無知であった。それらをいかようにして安易に獲得するかということに固執して、実際の世界においてどういった位置にあるものなのか全く理解しようとしなかった。まずそういう発想さえなかった。激しく愚かであった。己が何者か知らぬゆえ、己の足の置き場を知らぬゆえの不安に旧時代の人々は潰されてしまった。一見論理の通った風であるが、誰も救うことのできない見せびらかしの言説がいくつも飛び交った。それらのうち、強力ないくつかは盲目かつより愚かな人々に空虚な暴走の許可を与えた。比較的利口だと呼べた人々も、目に見える価値しか信じられなくなっていた。見かけだけの世界が発展していく中、人間そのものは停滞してしまった。上面の処世術が人心を攫い、理性の成果となるべき思考も、傲慢な一部分に独占された形而上の遊戯と化してしまった。そういう世界で、人々は長らく苦しんでいた。

 今、『文化』の保護の下に完全な幸福を得ている我々は、果たしてこれら過去の時代に人々を苦しめた根源を克服できたのであろうか。これは否である。我々は未だ、本質的には何も乗り越えてはいない。そしてまた、人類史において、永劫、これの脱却はないとされている。人間の卑しさや無知、愚かさというものに無条件に克つことはできないのだ。我々はどれだけの時間をかけて、この不完全を補完するに努めても、それが実を結ぶことはない。人類は常に、非合理の欲求の中にある。諸君がそれを否定しようと、人間には無自覚の、無意識の範疇に不可避的にそれを抱えている。過去のあらゆる事例がそれを示している。人間には、自分ではとても制御できないような、強力で、無遠慮な、衝動の核が存在しているのだ。

 『文化』はそれを押しとどめていた。そう、偉大なる、我々の……」

 私はもうそれを聞くのをやめた。意味が分からないから。


 いつの間にか深く眠っていたらしい。でも起きた場所は、私の宿舎の自室とは別の場所だった。コンクリート打ちっぱなしの薄暗い、埃っぽい部屋。なんとなく分かる。私は行きつくところに来てしまったのだろう。私はその陰鬱な目的だけを持つ部屋の中で、全裸でベッドの上に縛り付けられていた。全部露わになっていた。本当に全部。

 ベッドのそばで、工場長が全くの無感情で私の顔を覗き込んでいた。彼が何か言った。聞き取れなかった。私が「聞こえません」というと、工場長は私の頬を張った。肌がびりびりと痺れた。また工場長は何かを言った。聞こえなかった。本当に、意地悪なくらい小さな声だった。私は泣きそうになりながら言った。「ごめんなさい。工場長。でもどうしようもなかったんです。身体がうまく動かなかったんです。きっと病気か何かなんです」

 工場長はお構いなしに私の頬を打った。もう何も言わなかった。何度も、休憩もなしに打った。打ちまくった。片側だけの頬がべろべろになった。血と肉が混じった汚い汁が飛び散った。私は後悔した。でも、それで終わりじゃなかった。

 そのあと、私はもっと恐ろしいことをたくさんされた。それらは私が今まで一度も考えたことのないような、とてつもなく恐ろしいことだった。色んな形で、私は苦痛を背負わされた。身体的なものもあれば、精神的なものもあった。全部工場長が行った。私は人間として傷つき損なわれる可能性のある部分すべてに傷を負わされた。そしてそれらすべての最中に、工場長は、欠かさずこう言うのだった。

 これは罰なんだよ。『文化』に従えないお前への罰……。


                  ⁂


 私は今日も〈五十六番〉と印字されたシャツを着て、行進をする。朝からくだらない行進をさせられる。「文化」とかいうよくわからない話を聞かされる。私だけが全部でっち上げだということを知っている。だってそうじゃないか。私の日々の生活がこんなにも退屈なのに、それらがまるで素晴らしいものだというように、讃え続ける言葉に誰が耳を貸すだろう? でも、どうやら問題は私の方にあるらしい。私以外の大体の人間は、皆、「文化」を信奉している。で、さらにどうやら、それを損ねる振る舞いというのも許されないようである。ずっと昔に(それは本当にずっと昔のことだ)思ったことをそのまま言って、ちょっとまずい雰囲気になったことがある。その時はどうにか誤魔化したけど、それ以来、やばそうなことにならないようにしている。やれやれだ(つまりこれは、たぶん永遠のやれやれになる)。

 退屈な日々の中で、ちょっと面白いことがあった。〈三十三番〉という工場の同じセクションにいる奴が、なんというかつまり、いい。あいつだけは他の連中と違うのが分かる。あいつも上手く隠しているみたいだけど、根は私と同じだ。また、たまにからかうと愉快だった。

 ただは、一度勤めを休んだことがあって、それ以来さっぱり見かけないようになってしまった。あいつにだけは何か特別を感じるので、また会って、何か話をしたいと思う。

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「文化」とは私たちの生活であり、営為であり、存在である。 @isako

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