M君は休んでいません

本木蝙蝠

第1話 M君は休んでいません

 小学生の頃、年中半袖半ズボンで一回も休むことなく学校に来てた子っていませんでした? 私と同じクラスだったM君が、まさにそんな少年でした。


 学年全体で有名な彼は、どんな極寒の天候だろうと半袖半ズボンを貫いていました。「寒くないの?」と訊くと震えながら「……寒い」と言っていたのをよく覚えています。彼は皆勤賞を目指しており、たとえインフルエンザにかかっても「元気です」と言い張って学校に来ていました。彼のせいでインフルにかかった生徒は後を絶えません。私もその一人だったりします。


 しかしある日、確か転校生が来る日の前日、教室に入るとM君の姿が見当たりませんでした。彼はいつも朝一で来るので不思議でしたが、まあ、遅刻ギリギリには来るだろう、なんて考え、私はいつものように友人と雑談をしていました。


 しかしM君が来ないまま、朝のホームルームが始まります。これは異常事態だ、と思いつつも、M君が明日、あるいは今日学校に来て悔しがる様を想像し、少し笑っていました。先生は教室全体を一瞥し、「今日も休みなしだな」と言ってしまうほど、M君が学校に来るのは当たり前だったのです。内気な私はそれを訂正することもせず、誰かが言ってくれるだろうと待っていました。しかし誰も「M君いないです」の一言を発しません。みんな気付いていないのかな? と思いましたが、やはり私にはここで声を発する勇気がありませんでした。この時点で、異変に気付いていても良かったかもしれません。


 時計が十二時を回り、給食の時間になりました。五六人で机を寄せ、六つの班を作って給食を食べるのですが、その時やっとあることに気付きました。


――M君の席がない。


 いつもは六人だったある班が、五人の班になっていました。M君の机など初めからなかったかのように、いえ、M、彼らは五人班になっていました。


「ねえ、M君の席、どこいった?」


 近くで配膳の順番を待っていた友人に尋ねます。


「M君? ……誰それ」

「誰って……M君だよ、ほら、いつも半袖半ズボンの」

「大丈夫? そんな人、いないけど」

「いや、いるじゃん! 今日は休みだけどさ、いつも――」

「本当に大丈夫? 


 ……ああ。そこで私は事態を把握しました。

 M君が消えてしまった。初めからいないことになってしまった。彼のことを覚えているのは私だけなのだ。そう思い、私は茫然としてしまいました。しきりに心配してくる友人の声もぼやけていました。


「――いただきます!」


 皆の大きな声で、私は我に返りました。給食はすでに配膳されており、皆食べ始めています。私も小さな声で「いただきます」と言い、箸を取りました。


 ……あれ?


 皿のある場所に目が留まります。

 皿にはご飯、味噌汁、おかず、そして副菜があったのですが、その副菜が見慣れないものでした。何だろう、と顔を近づけます。それは、ハエでした。無数のハエでした。


「うわ!」


 驚いて、椅子から転げ落ちてしまいます。「どうしたの?」と班の友人が顔をのぞき込んできます。


「は、ハエが」

「ハエ?」

「ハエが、いっぱい」

「ハエがどうしたの?」

「いや、ハエがいっぱいお皿にあって」

「ん? ハエの佃煮だよね? それがどうかしたの?」


 ハエの佃煮?

 起き上がり、教室を見渡します。皆黒い虫を箸でつまみ、笑いながら食べています。


「ははは、おいしいねえ」

 むしゃむしゃ。

「おいしい、これ好き、はは」

 むしゃむしゃ。

「はは、ははは」

 むしゃむしゃ、ごき。


 ああ、そうか。

 私は気づきました。M君が消えてしまったのではなく、きっとここは私の知らない世界なのです。


――帰らなくちゃ。


 私は急いで教室を出ました。何人かが私の後を追ってきます。私は走りました。ひたすら走りました。後ろを振り返らず、走ることだけに集中しました。何も考えてはいませんでした。


 いつの間にか、私を追ってくる人は消えていました。疲れと安心から、私はその場に座り込みます。


 本当に助かったのだろうか?

 私はもう一度辺りを見渡しました。大丈夫、誰もいません。人の気配すらありませんでした。


 ……この時間の学校に?


 次第に息が整い、まともな思考ができるようになっていました。

 おかしい、どこかおかしい。どうして誰もいないのか。立ち上がってガラス越しに各階を見ても、人の影すらありません。


 ここは私のよく知る学校でもなければ、先ほどまでいたおかしな学校でもない。私の直感がそう告げていました。


 どうすれば良いのだろう。私は途方に暮れてしまい、再び不安が身体中を駆け巡りました。もう二度と、自分の知る人たちとは会えないのかもしれない。ずっと一人なのかもしれない。そんなことを考え出した時でした。


「君」


 誰かから声を掛けられ、私は飛びのきました。


「ああ、大丈夫、怖がらなくて良い。ちゃんと帰してあげるから」


 見ると知らないおじさんが立っています。その人はくたびれたスーツを着ており、少し禿げていました。


「あの」

「はいはい、ちょっと待ってね。まあ今日のことは、運が悪かったと思ってね」


 おじさんはそう言うと、私の頭をポンと叩きました。

 ……いつの間にか私は、自分の部屋のベッドで寝ころんでいました。

 

 すべて夢だったのかもしれません。しかし私にはどうしても、そうは思えないのです。

 

 ともあれ、給食にハエが出てくることもなく、M君はいつも通り半袖半ズボンで朝一に登校する、そんないつもの日常に帰ることができました。

 

 少しいつもと違った点と言えば、教室に知らない子がいたことくらいです。たぶん転校生だったと思います。

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M君は休んでいません 本木蝙蝠 @motoki_kohmori

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