エピローグ

「それは、おかしなところが多いと思うわ」

 昭子から真っ先に返ってきた言葉がそれだった。

「どうしては、頑なに浮浪者の存在を求めるのかしら」

「それは、どういう」

「だって、あくまで夢の中の人物なんだから、実際に存在するわけじゃなくて、何かしらの象徴として〝浮浪者″という形で現れている、とは考えられない?夢に出るライオンは、権力やエネルギーの象徴である、みたいな」


 昨夜私は、の中で目覚めた。そのままとぼとぼと宿に戻り、昭子の寝顔に安心しながら、また眠りについた。

「行きたい場所がある」朝、そう言って私は昭子を連れ、灯台まで車で目指した。途中から道幅が極端に狭くなったので、そこからはずっと歩いている。

 私は昨夜の夢――ただの夢なのだろうか――の内容を、昔読んだ小説と偽って昭子に聞かせた。〝少女失踪の真相を忘れてしまったから、当ててみないか″こんな具合で。昭子は元々そういう趣味があったので、気晴らしにと快諾したのだった。


「主人公がまったくその考えを思いつかないのは変よ。まるで真相に思い当たるのを、無意識に避けてるみたい」


――抑圧された記憶は、その核心に迫ろうとするほど、脳がその邪魔をするんだ。どんどん思考がそれたり、何も思い浮かばなくなったりね。

 

 昔友人がそんな事を言っていたのを思い出した。

「ユイが消えた理由もそこからわかるわ」

 私は驚いて昭子を凝視した。昭子は私のいささか過剰な反応さえ面白がるように、「答え言っちゃっていいのかしら」と悪戯っぽく微笑んだ。

 

 私はゆっくりと頷いた。


「浮浪者が実際にその事件に関わっていないとしたら、単純じゃない。ユイは灯台から海に身を投げたのよ」

 





 私は絶句するしかなかった。そんなことはありえない。ユイはその直前まで私と戯れていた。灯台に行ったのだって私に綺麗な景色を見せるためだったのだ。そんな人間が……しかし一方で、〝動機″を覗けば昭子の言葉を否定する要素は、思いつかないのだった。


「納得できない?」

「……動機はあるのか」

「一つはね。でも、状況的には弱いかもしれない。それ以上は流石に私にも分からないわ」

 私は決意を固めて、その先を聞いた。

 昭子はゆっくりと語りだした。


「まずユイの身体の痣だけど、これはほぼ間違いなく父親によるものね。そう判断した理由は、ユイの父親が言ってた〝永遠″の話。妻は早くに死んでしまい、残された美しい娘のユイが永遠を繋ぐという事はつまり、ユイの父親がという事よ。分かるかしら。そしてユイは、その父親からの暴行を苦に、身を投げた――最も、何故あんな状況で決意したかは、わからないけどね」



       







 灯台が見えた。

 そこはこの町で最も昔と変わっていない場所だった。空を海を背景に、高く聳え立つ青白い塔。大海原の揺らめきと、海鳥の群れが飛ぶ姿もまた、幼き日に見た光景と何も変わらなかった。

 昭子とともに螺旋階段を上る。二人分の足音がよく響いた。私はどこか、夢を見ているような気分だった。


 頂上の回廊に出る。崖の上、さらに高い灯台の上から見下ろす大海原は現実を忘れさせた。清々しい空気の中、一面に深い青が広がる。私は一瞬、自分が、海の上を飛ぶあの海鳥たちと同じように、空の上を漂っている錯覚を覚えた。


――あれ


 昭子が私の前に立ち、回廊の柵に手を掛けた。


――ああ


 記憶が渦巻く。


――風呂敷の中身は



 私の言葉に、昭子は振り返った。


――


 



       

         ***




 螺旋階段を駆け上がって頂上にたどり着く頃には、私の息はすっかり上がっていた。開かれた扉の外、回廊で私に背を向けて立っているユイに声をかけようとした。


  海鳥が灯台の周りを、私達の周りを囲んでいた。


「ユイ――」


 そして、私はその光景を眼にする。





 ユイは回廊の柵に足をかけ、


 


 


 勢いよく、





 

 


 

 大きく背を反って、つばさを広げた、真っ白な生き物が一つ、宙に浮かんだ。



 ユイの身体はそのまま上空へと――







――飛翔は、しなかった




 地面から、嫌な音がした。





 私は頭が真っ白になって、一心不乱に階段を駆け下りた。


――どうして


 途中で足を踏みはずしかけたが、危ないなんて思う余裕もなく、


――ユイ


 ただただ下へと足を進めた。




 ユイは、で、うつ伏せになって倒れていた。私はそれを見ただけで、頭の中が爆発するようだった。ふらふらと、機能しない思考とともにユイの元へ歩み寄る。




「ユイ」


 私は、恐る恐るその身体に触れた。分からない。生きているのか、死んでいるのかなんて、それだけでは幼い私には分からなかった。私は懸命にユイの身体を揺らした。身体が反転し、顔面が露わになった。砂と、礫と、血にまみれた、ニンゲンの顔がそこにはあった。鼻がつぶれていた。額が割れているらしく、前髪はべったりと赤黒くなっていた。


「ユイ……ねえ起きてよ。ねえ……!」


ゆっくりと、彼女の瞼は開いた。


「……よかった、ユイ……どうして」


 ユイは右手をぷるぷると震わせながら空へと突き出し、まっすぐに指差した。私は空を見上げた。


 


 海鳥。


「し……」


ユイはぱくぱくと口を動かして、必死に何かを伝えようとしていた。


「お……え……」


ユイの焦点の定まらない眼の奥で、しかしそれは強く輝いた。


「おひえ……」


「何……?」


「おひて……」


 ユイは、ゆっくりと両腕を動かし、這いつくばって自分の体重を支えようとした。そうしてゆっくりと、上手くはいかないのだが、前に進もうとする。


「……動けるの、ユイ……?でもそっちは――」


――崖


「駄目だよ」


「おひて……」


「ユイ、駄目だって」


「おして……」



 

  押して。




    ***



屋敷での夢。

風呂敷の中身。

糾弾される浮浪者。

その血を吸って、蘇った海鳥。


岬で、海鳥を目にしたユイは、こう言ったのだろう。

「あんなふうに


 ユイは灯台から。自身を縛り付ける現実から飛び立とうとした。飛べると思った。彼女はその瞬間海鳥であったのだ。

――そして海鳥は墜ちた。ぼろぼろの体で生きることを拒み、私に最後を任せた。


 私が殺したのか。


 あの浮浪者は私の懺悔と穢れの象徴だ。魂を貶めた私の姿なのだ。だから私は糾弾された。だから私はユイの父親に殺された。だから私はユイの死体を――灯台から飛ぼうとして飛ベなかった海鳥の死骸を風呂敷で包んだのだ。だからあの海鳥は、私の血潮を、私の懺悔をもってして蘇ったのだ……


 幼い私はその記憶を封印した。そして私は、何の罪の意識も持たずに、今日までのうのうと生きてきたのだ。





 私はふらふらと回廊の柵に近づいた。

――飛ぼう

 海鳥の群れがすぐ目の前を通り過ぎる。

――私もあの中に

 ゆっくりと足を上げる

――海鳥になろう


「やめて」

 細い腕が、私の身体を引き戻した。

「何のつもり」

 昭子の声は震えていた

「空を飛びたくて」

「ふざけないで……」

 昭子は思い切り力を込めて私を柵から引きはがした。私は大きくしりもちをついて、仰向けに空を見上げる形になった。

「翼もないのに」

 昭子のすすり泣く声が聞こえた。









視界に映る、空を駆け、海を渡る鳥たちの中に、ユイはいるのだろうか。そんな疑問が浮かんできた。







翼はどうやって手に入れるのか。







ー大きくなったら何になりたい?



ああ、あの時は持っていたのか。


いつ、捨ててしまったんだろう。





小説を書こうと思った。















彼女の事を、書こうと思った。
























 


 


 

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空を駆ける、海を渡る 鴉乃雪人 @radradradradrad

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