第4話

 山吹色の洋間の中、私の目前では、身なりの良い男と、汚れきった浮浪者が対峙していた。


「お前が私の娘を、ユイを奪い去ったのだ」

男はそれまでの淡々とした調子を捨て、声を荒げて言い放った。



 言いようのない喪失感と混乱とが、私を襲っていた。

 男の言葉を引き金に、あの夏の出来事は、ユイとの日々は、私の脳裏にありありと蘇った。それと同時に、目の前の景色が意味するものに、私は酷く混乱した。

 目の前にいる男は、紛れもなく、三十年前と同じ姿の、ユイの父親だ。そしてこの洋館も、あの夏に見かけたのと同じ、ユイの家に他ならない。


――ああそうか

――これは、夢なのだ


「ユイを返せ」

 男は躙り寄った。浮浪者は両手で、あの風呂敷を高々と掲げた。その動作に男は身体を震わせ、風呂敷に吸い込まれるようにして浮浪者に近づいていく。

「そうだ、それだ」

 風呂敷から小さな滴が垂れ落ちていく。未だに酷く濡れているようだった。

「それを、よこせ」

 浮浪者はしかし男の呼びかけには答えず、じっと私の方を向いている。

――なんなんだ

「よこせ」

 男は短く叫ぶと浮浪者に飛びついた。二人の体は勢いよく床に倒れて、風呂敷は後方、暖炉の手前に投げ飛ばされたが、男はそれに気付かず興奮した様子で浮浪者の胸ぐらを掴み、何事か叫んでいる。

「あれは、ユイは、……の…なんだ!私に残された…なんだ!」


 それは、あの夏と変わらない光景だった。



〝ユイが消えてしまった″夜遅くに宿に戻った私を叱りつけようとした父に、子供ながらち深刻な表情で言うと、事態は動き始めた。私の支離滅裂だったらしい話ぶりにただならぬ予感を受けて、父は警察を呼んだ。しばらくして警察がやってきて、私への聞き取りが始まったのだが、酷く混乱していた私はほとんど意味のある返答ができず、灯台でユイが消えたという言葉をずっと繰り返していた。

 ユイの母親はその半年前に亡くなっており、父親はその日から仕事で半島を遠く離れていたたため、ユイがどんな場所に立ち寄りそうかという情報が少なく、操作は手間取った。ユイが自宅にいなかったのは勿論のこと、とりあえずは灯台の周辺を捜索することになったのだが、最悪なことにその夜は土砂降りの雨が振り、足跡などの手掛かりさえまったく掴めなかった。

 そうして成果なく一日が過ぎて、ユイの父親が戻ってきた。彼は私の姿を認めた途端、激しい憎しみの目を向け、私に罵詈雑言を浴びせた。当時の私は大人に、それも社会的地位の認められたものに純粋なく敵意を向けられた経験などなく、怯えきって何の反応も起こせなかった。ついに彼は私に手を上げようとしたが、それは周りの警官によって止められた。


 その時と、まるで同じなのだ。

 





 状況を整理しよう。


 まず、私は夜道をおかしな気分で歩いていた。道の途中浮浪者に出会い、導かれるようにこの洋館に入った。そこでは三十年前と同じ姿の人物が、消えた少女の名前を叫んでいる。

 

 これらの事を踏まえれば、私は今夢の中にいるとしか思えない。そして夢である以上、この場に在るもの、この目に映るものは全て私が元々持っていた情報を頼りに構成されていることになる。ユイの家は勿論のこと、ユイの父親の落ち着いた姿も、怒り狂った姿も、この客間や油絵にも記憶がある。いつからか私は夢を見ているのだ。

 では、あの浮浪者はどうだ……?

 過去、私はやつを知っていただろうか。いやそれよりも男の言う、あの浮浪者がユイを奪ったとはどういう事だ。やつがユイを攫った――攫ったのか?――犯人なのであれば、夢である以上、私はそのことを知っていた事になる。はっきりとその犯行を目撃していなくても、潜在的に「あの浮浪者が犯人である」という結論に至る情報を得ていたはずだ。

 しかし、あの灯台の中には、私以外に生き物の影すらなかった。あるのは回廊へと開かれたドアと、灯質の中のほこりっぽい空気と、潮の匂いだけだった。そこにはあんな浮浪者の、いや人の入り込む余地など決して無かった。

 どうやってユイは消えたのか。根本的な問題はそれだ。ユイが灯台に入ってから、私が灯台の頂上につくまでの時間、つまりユイの姿を見ていなかった時間は、長く見積もっても一分程度だろう。彼女が螺旋階段を上る音が聞こえていた時間も含めれば、それはさらに短くなる。そんな中でユイはどうやって消えたというのだ?

 物理的に不可能とは言わない。灯台の回廊から勢いよく飛び降りれば、ぎりぎりで崖を超えてそのまま海に落ちていたかもしれない。しかし灯台の頂上について僅か数十秒の間に、それを思い立つ理由が有るだろうか。ユイは私に追いかけっこに誘うような悪戯っぽい視線を送っていたのだ。そんな人間が……

 あるいは、突き落とされたか。

 例えば、浮浪者は頂上の灯室に隠れていて、やってきたユイを思い切り突き飛ばして海に落とす。その後自分も灯台から海に飛び降りる……

 意味がわからない。ユイが殺されなければならない理由も、その犯人があんなタイミングで実行をし、瞬時に自害までする、そんな事は常識的には考えられない。

 いや、少なくともユイが殺された可能性は、ある。

 彼女の着ていたワンピースは、今思えば明らかに暴行を受けた痣を隠すためのものだった。加えて、あの言葉、

「ここにいると、私は死んでしまうから」これは自らが何者かに殺されることを示唆していたのではないか。そうならば、私はあそこでユイを引き止めていれば、少なくともあの日ユイが消えることは無かったのではないか。

 暴行……あの日、ユイは家でぐったりとへたりこんでいた。浮浪者があの家に侵入して、ユイに暴行を加え去っていき、それから私がやってきたという事なのか。真っ昼間からあんな浮浪者がただでさえ目を引く豪邸に侵入するなんて、そんな目立ちすぎる事をするだろうか。いや、暴行が朝である必要はないし、あの家の中で行われたという保証もない。何より私は家の中に入ったが、目立つような乱れはどこにも見えなかった。例えば、前日の夜にユイがふらっと家を出たところを、あの浮浪者が襲って……嫌な光景ではあるが可能性の一つとしては捨てきれない。

 いや駄目だ。ユイの父親はあの日の朝に出張で家を出た。ならば暴行が行われたのは朝から昼の間という事になる。

 待てよ、暴行に関しては、ユイの父親によるものとする方が簡潔かつ論理的ではないだろうか。父親ならば、あの日の朝――もしくは前日の夜に自宅でユイを暴行することは容易なはずだ。ユイの父親のある種異常な美意識、が暴力というベクトルに変換されるというのは、ありそうな話だ。父親からの虐待が原因で、ユイは灯台から身を投げた。その可能性はある。

 しかしそうなるとまた、これが私の夢の中であるという第一条件が引っかかってくる。浮浪者が登場してこないのだ。ユイの父親が責め立てる、やつは一体何者なのだ……?


 大きな物音に、私は長い思考を止めた。


 いつの間にか、ユイの父親は立って浮浪者を羽交い絞めにしていた。首を強く絞める左腕、胴体を押さえつける右腕、そしてその先には浮浪者の胸元に突き付けられた鈍い銀色の輝き……

 浮浪者は声を上げることも、抵抗することもなく、自らの心臓に向けられたナイフをじっと見ている。二つの眼以外は黒っぽい汚れと醜く伸びきった髪と髭に覆われていて表情を読むことができなかった。父親は狂気の色を顔面に纏って、その姿勢を崩さない。

「あなた、何を」

 私は思わず近づこうとしたが父親はナイフを私の方向に向け威嚇した。私が怯むとすぐにまた浮浪者の胸に押し当てる。

「動くな」

 父親は浮浪者を引きずるようにしてゆっくりと後ずさっていく。振り子時計の音がやけに響いた。二人のすぐ後ろにあるのは浮浪者が抱えていた風呂敷。あれは、あの中身は――

 浮浪者の体が風呂敷の真上に来たところで、父親は足を止めた。

「今からこいつを殺す」

「……!」

「お前も知っているはずだ。この男がユイを殺したのだと」

 私は知らない。こんな男は決して知らない……

「もう分かっているはずだ」

 父親はげらげらと卑俗に笑い出した。

「これは、お前自身が作り出した幻影だ。この家も、私も、この男も。お前が私たちを知らないはずがないんだよ」

 父親が右腕に力を込める筋肉の動きが見えた。ゆっくりと銀色の鋭い刃先が浮浪者の胸の中に埋まっていく。浮浪者の薄汚れたシャツが、ナイフの先を中心に少しずつ赤に染まる……

 これは夢だ。夢の中なのだ。それは分かっているはずなのに、ナイフの刃先が少しずつ隠れる度、私は酷い焦燥感に駆られた。あの浮浪者に危害が与えられるのを私は恐れている。なのに、なのだ。

「私は今、ユイを取り返した!」

 父親は高らかに叫んだ。浮浪者の肉を貫いているナイフを引き抜き、鮮血が溢れる。零れ落ちる血液に、風呂敷が赤黒く染まる。

「この男の血と引き換えに」

 父親は高らかとナイフを掲げた。天井の照明に金属と痛烈な赤が反射される。父親はそれを勢いよく振り下ろして、私の耳にはっきりと聞こえるくらいの鈍い音が生まれた。

「……ァ……ウァァ……ァァァ」

 その呻き声は、浮浪者が初めて喉を震わせて発した音だった。父親がナイフをぐりぐりとほじくるように動かすと浮浪者の呻き声は波打つように強まった。血液は勢いよく飛び散り父親の綺麗なシャツを、絨毯を、レンガの暖炉をを汚していく。浮浪者の真下にある風呂敷は、もう元の色が分からないくらいにべっとりと血に染まっていた。

「はははははは!ユイよ!ユイよ!」

 父親が叫ぶと同時に風呂敷の中にあるナニカはもぞもぞと動き出した。内側から風呂敷を突き破るように、ぽこっ、ぽこっとの手足のようなが蠢いている。

 ああ……あれの中身は……あの風呂敷を開けたならば……

「ユイ!もうどこにも放しはしないぞ!」

 父親は用済みと言わんばかりに浮浪者の身体を前に突き飛ばし、床に跪いて顔面を真っ赤な風呂敷にくっつくほどに近づけた。男の下腹部は、遠くからでも分かるほどに膨れ上がっていた。

「お前は母さんを超える……お前は繋ぐ、永遠を……お前はそれ程に、美しい……」

 そこに、ユイがいるのか。あの夏のユイがいるのか。三十年前と同じ輝きを持って私を見つめ、微笑んでくれるのだろうか。もしそうならば。ユイが私を再び抱きしめてくれるというならば――

 あれを開くのは私だ。

「うわあああああああ」

 私は半狂乱になって父親に体当たりをした。父親は勢いよく後方に倒れる。私は風呂敷を奪って立ち上がった。もぞもぞと動く、生の感触。風呂敷は浮浪者の血でずぶずぶに染まっていたが、私は自分の手が赤く染まっていくことには何の関心もなかった。ただ、この風呂敷の中にある生命……その確かな感触に私は酷く興奮していた。

「貴様ァァァ……」

 父親はよろよろと立ち上がり、おぼつかない足取りで私に近づいてきた。私は彼には目もくれず、ついにその布に手をかける。風呂敷は何重かに巻かれていて、一度布を捲る度にその中の鼓動が強くなっていくのを感じた。

「ユイ……」

 これで、最後だ――最後の布に、手をかける……


 刹那。


 


 私と父親は呆然と音のする方を


 鮮血にまみれた洋間は、振り子時計の他にが響いていた。



 は、私たちの頭上をしばらく飛び回った後、浮浪者の開けた扉を抜けて、この屋敷を去っていった。

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