第3話

 石の匂いが鼻をついた。

 玄関ホールには床いっぱいに黒の磨き上げられたタイルが敷き詰められ、そのせいもあるのか外よりも空気は冷たかった。面積としては広いものの、私はどこか閉塞感を覚えた。靴箱らしき棚の上で、獅子の置物が私を睨んでいた。

「誰だ」

 玄関ホールから真っ直ぐに伸びる廊下に、大きな影が被さる。声の主はつかつかと私に歩み寄った。

 私はそれまでの異常な興奮とまともな現実の間に思考が上手く働かず、私を非難する男の目に、先ほどまでとは違う種類の恐怖を感じた。

「あの……私は、その」

 体格の良い初老の男。白髪が混じった短髪の頭は精悍な印象だが、屋内だというのに彼は随分と固い格好をしていた。皺一つない真っ白なカッターに、ぴっしりと締められた濃紺のネクタイ。グレーのパンツは艶消しの上等そうな生地だった。

「浮浪……汚い男が、この屋敷に、入っていくのが見えまして……追いかけていたので、その……」

 男は警戒心というよりも見下すような色をはっきりと押し出して、口ごもる私を観察するように眺めていた。

「大きな風呂敷を、抱えていて……濡れていました、その男も、風呂敷も」

 何を、口走っているのだろうか。私は耳から火が出る思いだった。やはり立ち去るべきだと、男に謝辞を述べようとしてもう一度口を開こうとしたが、男は

「なるほど」と短く残して、私に背を向けて廊下の先に消えてしまった。

 私には男の対応の意味が分からなかった。男の消えた先は磨りガラスのついたドアを挟んで、黄色い光が満ち溢れていた。私が呆然としていると、ドアの向こうから「入ってきなさい」と、男の叱責するような声が飛んできた。

 おずおずと、靴を脱いで上がる。


 磨りガラスの向こうに広がっていたのは、豪華絢爛とまではいかないにせよ、家主の豊かさを伺わせるには十分な、華々しい客間だった。天井からシャンデリアが吊り下げられ、室内を山吹き色に染め上げている。手前にはソファが二つ、ガラスのテーブルを挟んで向かい合い、部屋の左手奥には壁から浮き出るようにしてレンガの暖炉が、そしてその上に大きな振り子時計が掛けられていた。いずれも落ち着いた色調でありながら、それぞれが個を主張しつつ、全体として纏まっている。

 広々とした空間には、その他には手前側の壁に面した本棚や、床に敷かれた薄茶の絨毯などがあったが、一番目を引くのは私の向かいの壁にかけられた、一枚の油絵だった。

「座りなさい」男は油絵の前で立ったまま、ソファを指差した。自分の置かれた状況に混乱しないではなかったが、私は言われた通りにソファに腰掛けた。少し硬い感触だったが、上等なものはむしろそうなのだと、思うことにした。男はそれを見届けて、自身も私の向かいに座る。

「この絵が気になるかね」

 男は少し前傾して、私を食い入るように見つめながら言った。それは質問というより、この油絵を語りたくてたまらないという意思の表れのようだった。

 部屋のドアをちょうど半分に切ったぐらいのキャンパスに描かれているのは、美しい女の横顔だった。女は椅子に座り、丸い天板のテーブルに体を少し預けている。女の手が触れているのは、テーブルに置かれた鉄の鳥籠だ。小さな白い鳥と女は見つめ合っている。

「綺麗な女性ですね」

 私はそんな、阿呆のような面白くない感想を言った。男はしかし、少し喜んだようだった。

「これはね。私の妻だよ」

 男の、それまでの役人のような厳しい表情が、一瞬、ニヤリと口元を歪めた野卑なものに変わり、私はぎょっとした。

「奥様の肖像画、ということでしょうか」

「少し違うな。結果的にそうなってはいるが、これは本来私という人間のための絵だ」

 男はそこで懐から煙草を取り出し、私に了承を得るそぶりも見せずにライターで火をつけた。

「時に君は、美しさとはなんだと思う」

 男は元の仏頂面で、芸術家のような質問をした。私は既にこの男のペースに飲み込まれかけていた。この屋敷に入った当初の状況を頭半分に、私は戸惑いつつも返答をひねり出した。

「そうですね。日本的な情緒からすると、儚さとか、一瞬のうちに輝きを放つもの、とか……」

 男は私が言い終わらぬうちに天井の方を向いて嘲るように短く笑った。

「なるほど、誰かが言い出し、誰もが言ってそうな言葉だ。いやもちろん否定はしないさ。桜や夕暮れを楽しむ心は、私にだってあるからね。しかし私が話しているのは、もっと個人的な嗜好の事だよ」

「はあ」

 私はこの手の人間が苦手だった。

「私が思う美しさは」

 男はそこで僅かに左を向いた。視線の先では大きな振り子時計が、時を刻んでいる。

「永遠だよ」

 永遠。その言葉に、ざわざわと、私の胸は揺れた。

「永遠は、ほとんど全ての人間にとって必要がない。人はいずれ飽きてしまう生き物だからだ。だが、時々私のような、が現れる。そういう人間にとって、永遠に愛しうる、永遠を保てるものこそが、真に美しいものなのだ」

「……しかしこの絵も、いずれ朽ち果ててしまうのでは」

「なあに、そこまで厳密な意味ではないよ。だ」

 男はそう言うと、立ち上がって油絵に近づき、その女性の頬の辺りにそっと手を置いた。

「妻は永遠を形作れなかった。無論、いつかそうなることは分かっていたが、早すぎることだった。妻は病気で死んだ。それも、最期は目も当てられない有様だった。命は儚いなんて月並みなことは言いたくないが、私は時間の無常さと、世界のルールの残酷さを思い知ったよ。一日が過ぎる度、会う度会う度に彼女は醜くなっていった。例えるならそう――」

 男はそこで、ゆっくりと絵を撫でた。

「こんなふうな、美しい絵画の端に、小さな火がついたんだ。最初は気付かない程だったのが、一瞬で全てを灰に変える。そこには人の過去も尊厳も存在しない、ただの燃え滓しか残らないのさ」

 男はまた私の方を向いた。その目は、悲しみというより、鈍い金属の色をたたえていた。

「君の言う浮浪者だが」

             ――足音。

「私に残された、次の永遠――」

 暖炉の右手奥、その時になって初めて気付いたそのドアが、ゆっくりと開いた。

 やつだった。

 浮浪者はのっそりと姿を現し、私たちの方に顔を向けた。醜く伸びきった髪と髭。汚れた顔。ほとんど表情は分からない。



***



 その日、ユイは時計台の下には現れなかった。


〝この町で一番綺麗な景色を見せてあげる〟町の中心の広場にある古い時計台を待ち合わせに指定したのはユイの方だったのに。私は蝉たちがどこか虚しく喚きたてる中、広場の木陰に座って何時間も彼女を待っていた。円形にタイルがしきつめられた広場に、あまり人は来ず、私に話しかける人はおろか、私の存在を認識する人さえほとんどいなかった。夏の暑さよりも喉の渇きよりも蝉の声よりも、そうした時間が続くことに私は酷く不安を覚え、耐え切れなくなってユイの家に向かうことにした。私はユイの家を既に知っていた。

 多少遠回りになりながらも無事にユイの家に着いた頃には、時刻は正午をとうにまわっていた。ユイの家は、昔ながらの瓦屋根の家がほとんどだったこの町の中で、凄く。不自然な程に真っ白な、大きな洋館――周りを鉄柵で囲まれている。全体は立方体のように見え、威圧的な印象があった。右手奥には庭に面した小さなテラスが見える。呼び鈴を鳴らしても反応がないので、私は悪いとは思いながらも、周囲に人がいないのを確認して鉄柵をよじ登って中に入った。私の体が小さかったおかげで足場をうまく使えたため、あまり苦労はしなかった。

 玄関の重厚なドアを叩いてもやはり反応がないので、私は右手の庭に回った。ユリやアジサイやその他私の知らない草花が鮮やかに咲き誇っていたが、よくみると所々萎れていた。テラスに足を踏み入れる。天板が大理石でできた高級そうなテーブルと、それを囲む椅子が三つ。あまり使っていないのか汚れが目立った。窓から室内を覗く。電気はついていなかったが、夏の昼間で暗いということはない。誰もいないように思われたが、左奥の方でぐったりと壁に背中を預けて座っている、あるいはへたり込んでいる影が一つ――ユイだった。

 ユイを見つけた喜びと、彼女の様子がおかしい事への不安があいまって、私はどんどんとテラスから窓を叩いた。何度目かに私が彼女の名前を声に出し始めると、ようやくユイははっとしたように顔を上げ、辺りを見回してから窓を叩く私に気付いた。

 ユイはテラスの扉を開いて私を中に招いた。髪は乱れ、服は汚れていた。前日までのユイからは想像もできないような姿だった。

「ごめんね、約束すっぽかしちゃって」

 ユイは取り繕ったように微笑みながら言った。

「どうしたの、それ」

 ユイは私の指摘を笑って誤魔化した。

 彼女はそのまま私を豪華な客間まで連れて行き、ソファに座らせると、どこからか果物やらお菓子やらを持ってきて「食べて、待ってて」と言って去って行った。私は昼食もまだだったので、モヤモヤとした思いを抱えつつもユイの用意したものにありついた。壁に掛けられた大きな絵画が、少し怖かった。

 しばらくしてユイは戻ってきた。

 綺麗な髪、ほんのりと漂う優しい匂い。ユイは、やはりユイであったのだが、着替えてきた白いワンピースの丈の長さに「今日、暑いよ?」と私が言っても、「ううん、いいの」と素っ気なく返すだけだった。

 家を出てから、ユイはしばらく口を開かなかった。ぼんやりと遠い所を見ながらただ歩いている。いつものように、うるさいくらいに構ってくれないのが何だか寂しくて、私は取り留めのない話題を振ってみるのだが、彼女の返事はやはり素っ気ないものだった。

 どれくらい歩いただろうか。高い建物の少ない、つまり日陰の少ない道で、太陽は容赦なく私たちを照り付けていた。ぼんやりとしていたユイの首筋にもうっすらと汗が滲み――私に至ってはうっすらどころではなかったが――その表情も少し険しくなっていた。

「大丈夫、ちょっと休む?」

「ううん、平気」

 一休みしたかったのは、本当は私の方だったが、ユイは全く気付かないようだった。

「そういえば、ちゃんとご飯食べたの?」

「ううん……」

 沈黙。

 じりじりと、暑い。

 どこに向かっているんだろう、それすら聞いていなかった。あとどれくらくらいかかるのだろう。そんな事を考えていると、

「大きくなったら、何になりたい?」

 ユイはそう聞いてきた。

 酷く唐突ではあったが、私はユイから話しかけてくれたのが嬉しくて、少し大げさに考えるそぶりをしてから答えた。

「やっぱり、小説家かな。本読むの、好きだから。面白い本を読み終える度に、僕もこんな話を創って、いろんな人を感動させれたらなって思う。例えばね、この前の――」

 そこまで言ってから、ユイが可笑しそうに私が演説する様を眺めているのに気付き、酷く照れ臭くなった。

「……変かな」

「ううん……」

 彼女は再び前を向いた。

「素敵だなって思って」

 それだけでユイは口を閉ざしてしまったので、私は肩透かしを食らったような気分になった。

「ユイはどうなの。大人になった

ら、何になりたいの」

「今でも君より、大人だよ」

 ユイは冗談っぽく言った。

「そうじゃなくって」

「分かってるよ。うん――」

 ユイは少し先を指さした。寂れた古本屋だった。道沿いに屋根が突き出ていて、日陰になっている場所におあつらえ向きにベンチがおいてある。

 座って話そう、ということらしかった。

「とりあえず、この町を出たい。出来るだけ早く」

「ユイはここが嫌いなの?」

「嫌いっていうか――」

 隣に座っていると、歩いている時よりもユイの優しい匂いが感じられた。長袖のワンピースはやはり暑いようで、手首や手の甲にも汗のあとが見えた。

 私はその時初めて、ユイの腕の、袖が覆うか覆わないかぐらいのところが赤紫っぽくなっていることに気付いた。

「ここにいると、私は死んでしまうから」

 ユイの表情は、とても冗談を言っているようには思えなかった。

 私の不審そうな視線に気付くと、ユイは〝大丈夫だよ〟と言って私の手を軽く握った。何が大丈夫なのか、私にはわからなかったが、ユイは、今度は明るい調子で言った。

「その後は、そうだな。たくさん勉強して、たくさん本を読んで、うん。君みたいに小説に携わるのもいいかな。作家じゃなくても、編集者とかね。あるいは絵を勉強して、本の装丁をしてみたり」

「じゃあ、僕と一緒に仕事ができるね」

 ユイは少し驚いたように私を見て、ふっ、と笑った。

「そうだね」

 ユイは私を握る手を強めた。



 いつの間にか、潮の匂いが強くなっていた。


「ここだよ。この町で一番綺麗な景色が見られる場所」

 林を抜けた先に広がっていたのは、開放的な地面、その先に見える海と空、そして中心に聳え立つ青白い灯台だった。その頂上付近を、海鳥の群れが通り過ぎていく。

 灯台のふもとまで来ると、遠くから見えた印象よりもずっと、それは高く聳え立っていた。小さな窓が縦に四つ、その上に回廊や灯室がある。二十メートル、いやもっとあるだろう。灯台の先は僅かな地面を挟んで崖になっていた。恐る恐る崖の先まで歩いて下を覗くと、波が大きく水しぶきをあげて岩に当たっていくのが見えた。

 ユイが私を呼ぶので、振り返ってみると彼女は灯台の入り口で私を手招いていた。私が向かおうとすると、彼女は追いかけっこでもするように、悪戯っぽく微笑んでから灯台の内部へ――螺旋階段を上って行った。私も急ぎ彼女を追う。灯台の中で、二人の足音が反響する。


 

 そして、ユイは忽然と姿を消した。




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