第2話

 昼食をとり、泊まれそうな宿を見つけると、どっと疲れが押し寄せてきた。どうしても抗えそうになかったので、私は昭子に謝りながら横になった。昭子は「いいのよいいのよ」と例のぎこちない笑みを浮かべて、「海まで散歩してくるわ」と、出かけて行った。

 そして私は夢を見た。


 目を覚ます頃には日はすっかり沈み、昭子は一人で夕飯を終えてしまっていた。一度宿に戻って声をかけたらしいのだが、私の眠りは思いのほか深かったようだ。持ってきていたお菓子やなんかを無理やり夕食ということにして、私は夜の散歩に出た。さすがに、そのままでは眠れそうになかったからだ。

外は街灯が少なかった。そもそも人が少ないのであまり必要ではないのだろう。細い道などは本当に暗い。都会に入ると感じられないが、夜は町だって眠りにつくのだと、私は思った。


 蒸し暑い夜だ。

 そして、静かな夜だ。

 起き上がってからそう時間も経っていないので、体を動かす感覚は少しぼんやりとしている。生暖かい風が、私のシャツを揺らした。じっとりと滲む汗が、シャツを背中に貼り付けるのにはそう時間がかからないだろう、そう思った。――コツコツコツ――靴がアスファルトを叩く音がいやに響く。その音は、ご丁寧にも、私がたった一人、孤独に歩いているという事実を強く意識させてくるようだった。風が潮の匂いを運ぶたび、私は今、海の魔物に魅入られて、その大きな口の中へ真っ直ぐに歩いているのではないか、その鼻息を感じているのではないか、そんな風なある種馬鹿馬鹿しい妄想を抱いてしまう。

 要するに、酷く不安なのだ。

 海岸での出来事は、というより、海岸で思い出したあの光景は、官能小説のように甘美であり、それでいて、恐怖小説のページをめくる時のような、不安と焦りを持っていた。真っ暗な、蒸し暑い、静かな夜の中にいると、その不安ばかりが闇を食らって大きくなっていく。私は努力してその不安を頭の隅にやって、純粋にその少女の事を考えるようにした。

 父と訪れたこの町で、私はとある少女と知り合った。私は彼女と随分親しくなり、二人で海岸を歩いたり――灯台まで、歩いたり……?――して、一夏を過ごし、

その少女と、別れた――のだろうか。

 一瞬、強い風が吹いた。古い道路標識の看板が揺られて音を立てた。錆び付いていたそれは、もちろん年月のせいもあるだろうが、潮風が吹き抜けるこの土地も、幾分その看板をみすぼらしいものにしていた。

 私の記憶もまた、錆び付いていた。赤く腐食したそれは、至る所がぼろぼろに欠けていて、取り出そうとすると指先に鋭い痛みが走る。

 三十年程も前の事だ。思い出せないのも無理はないし、むしろ忘れているのが普通というべきだろう。しかし私は、その少女の影が、これまでの人生全体に、覆いかぶさっているような気がしてならないのだ。何か、特別なことがあったように思える。

――記憶の抑圧

 昔友人が語った内容を思い出す。

――人間の防衛機制の一つだよ、それも強力な、ね。自分の記憶があまりにも辛すぎて、真っ当な生活を送れなくなるぐらいの妨げになるとき、脳はその記憶を意識の奥底に閉じ込めてしまうんだ。そうした記憶は大抵、何か別の形となってその人の外面に現れる。体が痛むとか、潔癖症になる、とかね。

――君はどこか、仕事に対して強迫観念的に動いているように見えるし、もしかしたら、何かしらそういうものが、あったりしてね。

 当時は雑学程度に聞いていたが、いざこういう状況になってみると、彼が最後に冗談めいて言った言葉は、そのまま私という存在を言い当てているような気にもなってくる。性格にしてもそうだが、例えば今日、海岸で昭子が振り返る姿には、凄く懐かしいものを感じた――それこそ三十年近く前の。無意識のうちに、私はその少女の面影を、昭子に重ねていたのだろうか。私が昭子に出会い惹かれた事自体が、あの少女の影響なのだとすれば、幼少期の出来事一つが私の人生を支配しているようで、空恐ろしい気分になる。それなのに、少女との具体的な思い出一つ、思い出せないなんて。

 不安だ。どうしようもなく不安だ。混沌とする思考も、汗でシャツが張り付いた背中も、時折吹く風も、潮の匂いも、見慣れない道も、私を絡めとる闇も、すべてが不安だ。もう帰ろう。宿に戻ろう。気分転換の兼ね合いもあったこの夜歩きに、こんなにも苦しめられているようじゃ本末転倒だ。早く部屋に戻って、昭子の――少し年老いてしまった――綺麗な顔を見て、安心しようじゃないか。

十字路に立ったところで私はそう決心し、踵を返そうとした。ここに街灯はなく、幽かな月明りだけが私の視界の便りだった。



            ――足音

 


 私は強烈な悪寒に襲われた――ぺた、ぺた、ぺた……引きづるような、重そうな足音。濡れている?水が跳ねるような質感がある。――ぺた、ぺた、ぺた……――水辺の魔物。夜に潜み、大きな口を開けて、私を待っている――そんなまさか。何に怯えているんだ。怖い?怖がっている?違う、これは先程と変わらない、ただ暗鬱な気分になっているだけの……そう、これは――ぺた、ぺた、ぺた……どこからだ?私は十字路の左手の道を見た。

 月明りが照らす、白い影。

 汚れきった、ぼろぼろのシャツを着たそれは、俯きながら重そうに足を運んでいた。それは裸足で、やはり全身が濡れているようだった。

――ただの、浮浪者か

 ゆっくりと思考が冷めていくのを感じた。

――朝にも見かけた、海岸で……

 醜く伸びきった髪と髭。目元が隠れていてその視線は定かではないが、それは俯いたままこの十字路の真ん中までやってきて、何事もなかったように私の前を通り過ぎてようとした。


 その時だった。


 すれ違いざまに初めて気づいたに、私の心臓は大きく跳ね上がった。

 。浮浪者の服と同様酷く汚れていて、近くに来るまでは一体に見えていた。浮浪者は背中を丸めて、さも大事そうに両手でそれを抱えている。私は潰れた球のようなその形状と、風呂敷の表面に現れる質感と、妙に生臭い匂いに、どういうわけか全神経を集中させずにはいられなかった。私と浮浪者がすれ違うほんの一瞬は長く引き伸ばされ、その間私は風呂敷に視線をくぎ付けにしていた。浮浪者の背中が見えてからも、私は風呂敷のある位置をじいっと凝視していた。

「あの」

 それはほとんど、無意識と言って良かった。声が出ていた。か細い、震えた声だった。私の心臓はさらに激しく脈打った。浮浪者は私の目の前でぴたりと止まり、僅かたりとも動かなかった。その様はまた、私の眼には非常に不気味に映った。浮浪者の服の裾からは水滴がぽたりぽたりと落ちていた――潮の匂い。

「なんですか、それ」

 もう、続きを言わないわけにはいかなかった。私に背を向けて、じっと立ち止まっている浮浪者の肩に、ゆっくりと手を置こうとした。

「それを、見せ――」

 刹那、浮浪者は走り出した。決して速い動きではなかったが、私は呆気にとられてすぐに距離を離された。私も、無我夢中で走り出した。もう、それは理性を離れた行動であった。汗の感触も、生暖かい空気も、辺り一帯が闇であることも意識の範疇になく、ただ、ぼんやりとだけ見えるその背中を、それに隠れたあの風呂敷を――その中身を――私は追い続けた。

 何度目かの角を曲がると、浮浪者が何かの敷地に入っていくのが、ぎりぎりで目に入った。

 急いでそこまで――開いた鉄の門にたどり着いて、私は唖然とした。

 そこは大きな洋館だった。幽かな月明りの下で、それは病的な白さを放っていた。全体は立方体のような形で、来るものを寄せ付けないような威圧的な印象があった。寂れた海の町に、それは酷く浮いていて、文字通り浮かんでいるようでもあった。

 私はそれを目にした途端、急に呼吸が苦しくなった。上半身をぎゅううと締め付けられているような――怪物がその大きな手で私を握りつぶしているかのような――酷い痛みと苦しさだった。それでも、私は門をくぐり、玄関の前まで必死に進んだ。この扉を開けなくてはならない、その予感に似た何かが、私の四肢を支配していた。

 冷たいドアノブに手を掛けたとき、一瞬理性的な思考が蘇り、私はそれがとても非常識な行動であることに気づいた。他人の家に、深夜勝手に入るなど……しかし、既に腕に込めていた力は何の抵抗も受けず、私の理性が止める間もなく、扉は開いてしまった。

 

 屋敷の中から、眩しい程の光がこぼれる――




         ***


 岬からの帰り道だった。

 夕暮れが終わろうかという頃、辺りには優しい赤と静かな青が入り交じり、海は見たことのない表情をしていた。それは普段の景色とほんの少ししか変わらないものだったが、その繊細な色合いの変化は、どこか儚げで、吸い込まれるような魅力を生み出していた。

 海岸沿いの道路の端に立って、私は海を眺めていた。もう少し、もう少し間近で見れたならと、屈もうとした時だった。私は頭上で鳴いた海鳥の声に驚き、バランスを崩した――海はさざ波をたてながら、私を待ち望んでいた。

 瞬間、私の腕が後ろに引っ張られた。私ははっとして、つま先に力を込めて踏みとどまった。もう一度私の腕が引かれ、振り向いた先には緊張したユイの表情があった。ユイはそのまま、私を引き寄せて、力強く抱きしめた。

「気を付けないと」

 凄く、優しい香りが私を包んだ。暖かい野原の中、一面に咲く美しい花の匂いを嗅いだような、そんな香りだった。私はそこで二三呼吸するうち、このまま眠ってしまいたいと思うようになった。

「永遠は、ないから」

 ユイの肩越しに見える空を、海鳥が飛んでいた。








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