空を駆ける、海を渡る
鴉乃雪人
第1話
朝の早い時間、道路は寂しいくらいに空いていた。急ぐ必要はなかったが、早く到着したいとも思っていた。少しだけスピードを上げて車を走らせた。
出発からしばらくすると、ガードレールのずっと先に朝日に煌めく海の色が見え始めた。その海は私にとって特別なものなのだという確信が、心に荒波を立てた。吐き息の量が増え、ハンドルを握る両手が汗ばむ。身体が熱を帯び、鼓動は速くなっていった。
「ここに、来たことがあるんだ、昔」
心配そうに私の横顔を伺う昭子には、それしか言わなかった。
遠くに海鳥が見えた。
久しぶりの旅行だった。
何年もの間生活のすべてを仕事に捧げてきた私は、ろくに遊ぶ暇もなく、したがって妻とどこかに出かけるなどという事は、どこか遠い国の文化であるようにさえ感じていた。昭子とこんなに長く家を離れたのは、恐らく新婚旅行以来のはずだった。
会社は、不況の煽りを食らって倒産した。
私はそれを知ったとき、正直に言えばほっとしていた。ああ、ようやくこの日々から解放されるのだ、ようやく私は深く息を吸えるようになるのだ、そんな思いが胸を占めていた。昭子も、それを聞いて悲嘆に暮れるでもなく、真っ先に「長い間お疲れ様」と私を労った。幸いと言うべきか、子供も遊び気もなかった私たち夫婦にはそれなりの蓄えがあったため、少なくとも明日の生活を憂うような事態には至らなかった。
「旅行にでも出かけましょうよ」
昭子は精一杯の笑顔を作って言った。ああ、私はこの人を、労ってやったことはあっただろうかと、少し胸を締め付けられながら、私は小さな声で賛成したのだった。
「ぱーっと、ね」
昭子の笑顔は、少しばかり自然になった。
その都度その都度目的地を決め、現地で宿を探し、また飛び回る、という風な、でたらめの旅行となった。お互いそれなりに年を取って、もう昔のようにはしゃいで楽しんだりはできなかったが、何にせよ気の晴れるものではあった。また、長らく会話を忘れた私たちが、無言の中で相手の心情を勘ぐって気を利かせあったりするのは、恋人になる前のような、どこかくすぐったいものがあった。
五日目の夜、ゆっくりと風呂に浸かって少しのぼせた頭で、フロントに置いてあった大きな地図を開けた。現在地は地図の中心、のどかな田園風景が綺麗な町だ。北西の方には有名な観光地の名前がある。無難に、次はここかななどと考えていると、ふと地図の右端のとある地名が目に入った。東北南を海に囲まれた半島。数秒、私はそこをぼんやりと見つめ、その町の名前を何度も反芻した。やがて、湿った埃っぽい部屋から何年も放っておいた本を見つけるみたいに、記憶の中心で確かな感触を受けた。ああ、知っている、この場所を。遠い昔、私はこの町を訪れている。あれは多分、母が亡くなってからの事だ。父と二人で、ひと夏を、幼い日のひと夏を、この町で過ごした……
肩に柔らかい感触がきて、さらさらと髪が私の首をかすめた。昭子が地図を覗きこみに来た。彼女はすぐに例の観光地の名前を挙げようとしたが、私は反射的にそれを遮ってしまった。〝ここに行ってみようと思う〟私がその町を指差すと、昭子は少し不思議そうな表情をしたが、特に反対することもなく、いいんじゃない、と言ってその場を離れた。
町は閑散としていた。ぽつぽつと民家が立ち並ぶだけで今風な商店は一つも見当たらず、壁の塗料が剥がれた郵便局や、黄ばんだポスターがガラス越しに見える薬屋といった、やけに寂しい印象を与える建物ばかりを通り過ぎた。「泊まれる宿、あるのかしら」その不安は私にもあったが、無理にこの町で泊まる必要もない、海を眺めて帰るだけでもいいかもしれないと、そう思い始めていた。ただ一度だけ、時計台を囲むタイルの広場を見かけたとき、酷く胸が騒いだ。
ゆっくりと車を走らせて海岸沿いの道にたどり着く。邪魔になることもなかろうと、車を道の脇に止めた。外に出て大きく息を吸うと潮の匂いがいっぱいに感じられた。昭子は子供のように駆け出したかと思うと、岩場まで降りられる階段を見つけて、私を手招きした。昭子は先に降りていき、見えなくなった。私もそこまで歩きながら、この道の先を眺めた。海岸沿いに、ぐねぐねと湾曲しながら、少しずつ高くなっていく。ずっと前方には緑に覆われた崖が見えた。
――あそこには、灯台があったはずだ
ふっと浮かんできた灯台のイメージに、私は戸惑った。行ったことがあるのだろう、あそこまで。誰かと、誰かと歩いて行った、はずだ。――振り返るその顔は、太陽に隠れて暗く見えた――誰と、行っただろうか。
昭子が私を呼んだので、岩場までの階段を急いで降りた。昭子はごつごつとした岩の上を少し大げさにバランスを取りながら歩いていた。海水は驚くほど澄んでいて、水中の岩や藻や小さな魚が、離れた場所からでも見えた。
「綺麗ね」
昭子は振り返って、嬉しそうに笑った。揺れたスカートと海の色が似ていた。
「綺麗だな」
私は遠いところを見て言った。昭子は軽やかに岩場を進んで、私のところへ来た。
「しばらく歩きましょうよ」
昭子は私の手をとった。昭子の手を握るのは久しぶりの事だった。その柔らかさと小ささは、知らない人のもののようだった。
――潮の匂い
ぐらっと、頭の中が揺れた――ああ、知っている――私は咄嗟に昭子の手を離し、その場にへたり込んだ。――この光景を、この感触を、この匂いを、知っている――昭子は驚いた。私も、戸惑っていた。――あの少女に手を引かれ、海岸沿いを歩いた……
昭子は私の体調を案じたが、私はすぐに立ち上がり、服についた汚れを払った。結局、車に戻ろうという事になった。道路への階段を上がる途中、振り返ると、岩場を歩く男の姿が見えた。彼の服は酷く汚れていた。こんな町にも浮浪者はいるのだろうかと、私は思った。
***
その半島に来たのは父の仕事のためだった。一人で放っておくにはまだ幼かった私を預けられるような親戚はおらず、夏の間私は父とともに海の綺麗なその半島で過ごした。
ユイと名乗った少女は、私たちの宿の近くに住んでいた。ユイは私より幾分年上で、滞在中は何かと私の面倒を見たがった。ユイの優しさは少し煩わしくもあったが、母親を亡くしていた私にとって、彼女は私の知らない温もりを与えてくれる存在だった。
海鳥たちの鳴き声が、私とユイとを包んでいた。町からずっと歩いてきて、今は海に向かって突き出ている土地の先端にいる。ここが岬?と尋ねると、ユイは遠く海の向こうを見ながら頷いた。
「ここにいるとね」
おもむろにユイは始めた。私たちは真夏の太陽に背を向けていた。
「潮風が私を連れてってくれる気がするの」
ユイの影の中に海鳥が止まった。私の影はちょうど岬にすっぽりはまっていたが、私より背の高いユイの影は頭の部分が陸地に収まりきらず海の波にゆらめいていた。
「どこに?」
私の間の抜けた調子が可笑しかったのか、ユイは微笑んだ。
「どこかに、ね」
さ、帰りましょう。夕飯の支度、もうできてるんじゃないかしら。ユイはそう言って私の手を取った。私はもう少し岬に立って海を眺めていたかったが、ユイが繋いでくれた手を離すのが嫌で、彼女について行った。
「あんなふうに――」
すぐ目の前を通り過ぎていった海鳥を見て、ユイは小さく呟いた。最後の方は聞き取れなかった。
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