■あれから、そしてこれから
その晩。
薄井と琴子は、駅近くのダイニングバーに来ていた。店内は温かみのある落ち着いた空間で、薄井が行き慣れた居酒屋とはまた違った趣がある。酒も料理もなかなかのもので、今後行きつけの店にしてもいいと思えるほどだった。
何故こうなったかというと、琴子から誘いがあったからだ。薄井が赴任した初日に今回の事件が発覚し、それからは今日まで休む暇も無かった。その為、薄井の歓迎会が先送りになっていたことを、彼女なりに心苦しく感じていたらしい。
また今日は、追い続けてきた犯人の検挙が叶った日であるし、年末最後の勤務日でもあるから、慰労会と忘年会も兼ねている。そうした理由から誘いを受けた薄井は、琴子の好意に甘えることにしたのだった。
二人でカウンター席に座り、グラスを交わす。傍目には恋人同士のようだが、話す内容に色気は無く、
事件発覚から捜査開始、関係者や遺族からの事情聴取、そして犯人との直接対決などなど、二人で体験してきたことだから話題は尽きない。辰見を逮捕した時のことまで話してから、ふと薄井は、この場に居ない他の捜査員たちに思いを馳せた。
「鷹野係長たち、今頃は勾留請求の準備で忙しいでしょうね……」
辰見のように、逮捕された者は四十八時間以内に釈放されるか、検察庁に身柄付送致されるかしなければならない。
身柄付送致(ニュース用語では「送検」と言われている)された場合は、送致を受けた検察官が、引き続き身柄拘束する必要性があるか否かを判断する。
必要性があると判断された場合には、検察官が、送致を受けてから二十四時間以内に裁判所に対して勾留を請求し、これが認められれば、十日間の身柄拘束を継続することが可能となる。
これは勾留請求と言って、法律上は検察官の権限なのだが、検察官は警察官に対して一般指揮権を持つので、勾留請求の準備は警察の持ち分となる。鷹野が係長を務める殺人犯捜査係は、今もこれの作業に追われている最中だ。捜査第一課長の決裁が下り、全ての準備が終わるのは、深夜になる見込みだと聞いている。
「やっぱり、手伝ったほうが良かったかな……」
薄井が呟くと、琴子が控えめに笑った。
「気持ちは解りますが、そこは担当の方々にお任せしたほうがいいでしょう。元々、私たち〈特別室〉は支援班なわけですし」
グラスを傾けながら彼女は言う。三杯目のワインだが、まだ明晰な頭脳に鈍りは無いようだ。
「……それは、そうですけど」
薄井は、鷹野から言われたことを思い出した。
――ここから先は俺達の仕事だ。お前がこの中に混じるのは、俺の係に来てからだな――
この言葉を聞いて、薄井は一抹の寂しさを感じた。
ここまで深く事件に関わってきたのに、犯人を逮捕したらそれで終わりというのは何とも物足りない。自分が携わった事件の行く末を見届けたいと思うのは、刑事として当然の心情だ。鷹野に他意はないだろうが、部外者扱い(実際、部外者なのだが)されたのが腑に落ちないのだった。
「そんなに落ち込まないで下さい。鷹野さんも立場がありますし、人手は足りているでしょうから、私たちが出しゃばってはいけませんよ」
やんわりと
言われてみればその通りで、鷹野が自分の班員を使うのは当然だし、反面、他の係の人間を使うとなれば、その係の長にいちいち伺いを立てなければならないので却って煩わしい。それに人手が足りているのに手伝いを申し出たら、逆に人員が溢れて無駄が出てしまう。作業効率を考えれば、琴子の言うことはもっともだった。
「了解です」
薄井は吹っ切る為に、グラスを煽った。店員の薦めで注文した〈タリスカー〉というスコッチウイスキーのロックなのだが、なかなか悪くない。
同じものを注文し、酒が届くまでの合間に、薄井は気になっていたことを尋ねた。
「被害者の両親は、何と?」
犯人逮捕の一報は、琴子が電話で行なっていた。遺族がどのように話していたのか、まだ知らされていなかった。
「感謝の言葉を頂きました。これでようやく、娘が浮かばれると」
薄井は稲村夫妻の心情を想像した。おそらく、礼を口にしたのは捜査員をねぎらう為であって、実際はとても喜べたものではなかったに違いない。
彼らの一人娘は、二度と帰ってこないのだ。犯人が法の裁きを受けたとしても、それで遺族が癒されるわけではない。稲村夫妻が負った『痛み』は、決して無くならない。長い時間をかけて、
「そうですか……」
と言ったきり、薄井は黙り込んでしまった。被害者の遺族を思うと、軽はずみなことは言えない。言葉を選ぶにしても、適切なものが思い浮かばなかった。
ちょうどその時、代わりのグラスが運ばれてきた。
これ幸いとばかりに、薄井は別の話題を持ち出した。
「そういえば船木さん、あれから大丈夫だったんですか?」
辰見を出し抜く為とはいえ、一般市民の前で彼を犯人として名指ししてしまったのだ。捜査員には演技だと事前に知らされていたが、他の関係者には何も伝えていなかった。
琴子は、暗くなりかけていた表情を笑顔に切り替えた。
「それなら大丈夫です。関係者には徳田さんから、後で説明してくれたそうです」
一歩間違えば、彼が犯罪者のレッテルを貼られるところだった。そんな危険を冒してまで、何故あんな作戦が提案されたのか、それが疑問だった。
「あの作戦、誰が考えたんですか?」
「原案は船木さんです」
琴子から聞かされて、薄井は感嘆の溜息をついた。
船木は自ら汚れ役を引き受けたのだ。そこまでする理由が、どこにあったのだろう。
理由を考えているうちに、薄井は船木から再聴取を行なった時のことを思い出した。
「あの時の言葉があったからですかね?」
「どうなんでしょう? そうだったらいいんですけど」
琴子は肯定も否定もしない。
『あの時の言葉』とは、船木の口から稲村志穂と交際していた事実を引き出す前に、琴子が掛けた一言を意味する。
彼女は船木に、こう言ったのだった。
――志穂さんの為に、力を貸してくれませんか――
これを聞いて、船木にどのような心境の変化があったのかは分からない。推測だが、彼は琴子を『味方』だと判断したのではないだろうか。
それまで船木は、容疑者の一人だった。彼もそれは自覚していただろうから、再聴取が行なわれると知って、疑いの目を向けられると考えていたに違いない。
ところが予想外に、琴子が寄り添うようなことを言ったので、頑なに凍り付いていた心が溶かされてしまったのだろう。
琴子は自覚していないだろうが、あの一言は彼女が思った以上に重要な意味を持っていたはずだ。船木が、稲村志穂の仇を取りたいと強く願っていたなら尚更だ。
「船木さんと稲村志穂が高校生の頃に付き合ってたって、どの時点で気付きました?」
これは単純な興味だ。
薄井の質問に、琴子は酒を一口飲んでから答える。
「写真を見た時です」
写真とは、高校時代の船木と稲村志穂が二人で写っていた写真のことだろう。薄井の目には、同じ部の先輩と後輩がふざけ合っているようにしか見えなかった。
琴子は自分の髪の毛先を
「あの写真、船木さんが志穂さんの頭に腕を載せていたでしょう? 好きでもない相手にそんなことをされたら、私なら拒否します」
「そういうものなんですか」
「だって、何とも思ってない男性に髪を触られるの、凄く嫌なんですよ?」
「……はぁ」
もし自分だったら琴子はどうなのだろうと一瞬考えるが、口には出さないでおく。
「だから船木さんに、ああいう言い方ができたと?」
話を戻す。
「そうですね。船木さんが志穂さんに未練を残してるのは、何となく感じていましたし」
「えっ、そうなんですか!?」
初耳だ。思わず大きな声を出してしまった。
薄井の反応に気を良くしたようで、琴子が嬉しそうな笑みを浮かべた。
「船木さんって、勤務開始を前倒しして、しかも一人で現場に行ってましたよね。あれって単純に、志穂さんが心配だったからじゃないかと思うんです」
なるほど。船木は同僚を気遣うようなことを言っていたが、実は琴子の言う通りだったのかもしれない。
「自分が好意を持ってる相手の亡骸を見たら、正気ではいられませんよね。だから、入室時刻を無線で報告するのを忘れてしまったとしても、それは仕方のないことです」
そういう訳か。女性視点で考えると、疑問だったことも説明がつく。自分はまだまだ視野が狭いと反省した。
「といっても、これは私の推測ですけどね。本当のところは船木さんしか知りません」
琴子は謙遜して言うが、薄井には彼女の話したことが真実であるように思えた。
「もしそうだとしたら、船木さんは悲しみを
そう言って、薄井は現場で律儀に挙手敬礼してくれた船木の姿を思い浮かべた。既に別れたとはいえ、まだ好意を持ち続けていた相手が亡くなっていると知り、彼は何を考えたのだろうか。
少なくとも船木は、自分が警察官としてやるべきことをやらなければならないと考えたはずだ。入室時刻の報告を忘れた以外は、先着警察官として完璧な対処だった。
自分の本分をわきまえ、私情に走らず、任務を確実に遂行する。見上げたプロ意識だ。
そんな彼だったが、やはり稲村志穂の仇を取りたいという思いは抱き続けていた。だからこそ、自ら偽物の犯人になることで、真犯人を油断させる案を思いついたのだろう。
「大した男ですね、彼は」
「ええ」
琴子はグラスのワインを飲み干すと、迷わず四杯目を店員に注いで貰う。割といける口らしい。
「さっき、原案は船木さんだと言ってましたよね。計画を立てたのは誰なんです?」
船木の迫真の演技(そういえば、彼は演劇部出身だった!)により、すっかり騙された辰見を救急車に同乗させるという方法は、並の刑事なら思いつきもしないアイディアだ。
「……私です」
とだけ言って、グラスに口を付ける彼女。これは照れ隠しなのだろうか。
「へぇ、よく思いつきましたね」
薄井は感心した。
辰見のようにプライドが高く、社会的に成功した人間は、人前で恥をかかされることを酷く嫌う。もし管理室で彼を追及したとしても、周りの目を気にするあまり、決して自分の罪を認めなかっただろう。
だが周りに人がいなくなれば、そのハードルはぐっと下がる。しかも閉鎖的空間なら、琴子も心置きなく自分の推理をぶつけることができるし、何より犯人との直接対決をしながら中目黒警察署まで移動できるという効率の良さもある。辰見を油断させておいて、彼に気付かれないまま車に乗せるという無駄のない流れからも、救急車という選択はベストだった。
「あの救急車、どうやって手配したんですか?」
薄井は興奮冷めやらぬままに聞いた。
「父にお願いしました」
「えっ!?」
本日二度目の大声である。薄井は慌てて自分の口を塞いだ。
「ということは……」
この事件の裏では、警察庁と東京消防庁との直接交渉があったことになる。薄井の知らないところで、事件のスケールが大きくなっていたようだ。
「後で父から言われましたよ。『長官に指示する警察官は、お前ぐらいのものだよ』と。笑って許してくれたのが幸いでした」
琴子は苦笑いしている。実の娘でなければ、後でどんな扱いを受けるか分からないところだ。それを実行してしまう彼女の豪胆さには恐れ入った。
「そういうことだったんですか……」
薄井の声がフェードアウトしていく。目の前の上司は、何もかもが自分の範疇を超えているようだ。
どう言っていいか分からないので、とりあえずグラスのウイスキーを口に含んだ。すると、洗練された風味が口から鼻へと抜けていく。仕事終わりに飲むビールとは、また違った味わいがあった。
琴子も上機嫌なようで、早くも四杯目の残りが僅かになっていた。これだけ飲んでいたら、さすがの彼女も頬がほんのり紅くなっている。顔は幸せそうに綻び、心地よい疲労感と達成感を噛み締めているようだ。そんな顔を見ていると、密室の謎が解けた時の彼女の表情を思い出す。
「あ」
薄井は気付いた。まだ謎が一つ残されていることに。
「塩崎さん、どうして急に防犯カメラの録画機器をいじろうと思ったんでしょうね?」
あの老人が慣れないことをしたから、琴子が道を切り開けたと言える。しかし、何故あのタイミングだったのかが分からない。
「ああー、それもそうですね。何ででしょう?」
琴子は空にしたグラスをカウンターに置き、しばし考える。
薄井も同じように様々な可能性を思い浮かべるが、何ひとつ、しっくりくるものは無かった。
「……案外、志穂さんの魂が囁いたからかもしれませんね」
意外にも、琴子がオカルト的なことを言うので、薄井は耳を傾けた。
「『私が消えてなくなる前に早く見つけて!』って」
これには薄井も頷かずにはいられなかった。
「なるほど。保存期間が過ぎたら、防犯カメラの映像に残っていた彼女の姿が消えてしまいますからね!」
そうならないよう、稲村志穂の魂が囁いたとする琴子の考えは、あながち間違っていない気がした。被害者の執念が最後の決め手となった、そう考えると溜飲が下がる。
胸のすく思いだ。今までで一番、心地よい瞬間だった。
……まったく、この人には敵わない。
すっきりとした顔でワイングラスの縁を撫でる琴子を見ながら、薄井は白旗を上げた。
彼女が言うと、何もかもが真実であるかのように思わされてしまう。
年下で、しかも実務経験が自分に及ばないはずなのに、この安心感、信頼感は何だ? 彼女と一緒なら、どんな事件でも解決できる気さえする。
琴子と出会うまでは、〈特別室〉から異動するまでの辛抱だと思っていた。春の異動期になれば、鷹野が自分の係に引き抜いてくれるだろうから。
しかし今はどうだ。琴子と出会い、共に事件の捜査をする中で、もう少しだけこの係に居続けたいと思うようになった。
それだけではない。
室生琴子という人物を、もっと知りたい。
琴子が時計を見た。
「あら、もうこんな時間。じゃあそろそろお開きにしましょうか」
このままでは彼女が帰ってしまう。年末年始は勤務の予定が無いので、次に会えるのは年明けの仕事始めだ。それまで待つには長すぎる。
彼女が席を立った。
薄井は慌てて引き留める。
「あっ、あのっ」
とりあえず声を掛けたが、次の言葉が出てこない。
「どうしましたか?」
琴子は振り向き、出会った時と同じ笑顔を見せた。邪気の無い、純粋な笑み。それが目に止まった瞬間、薄井の胸は早鐘のように鼓動する。
琴子はその場から動かない。それは誘いを待っているからか、あるいは自分の勘違いなのか。
――
弱気になりそうな自分に喝を入れた。ここで尻込みしていたら男じゃない。
薄井は息を整え、腹を決めた。
「もし、よかったら――」
琴子に誘い文句を告げるその時は、犯人逮捕の瞬間よりも緊張した。
[了]
私が消えてなくなる前に〜警視庁捜査第一課密室特捜班〜 庵(いおり) @ioriorio
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