ストロベリーエッセンス

@zeRo_novel

5年前の失踪

〈さやかside〉



暖かみのある灯りが柔らかく店内を照らし出している。[喫茶オルゴール]と書かれた文字の向こうで、雨は未だ街を濡らし続けていた。

時折、傘を差した人たちが寒さに耐え忍ぶように、体を丸めて通り過ぎていく。ガラス扉の向こうに広がる光景は店内の暖かみをより一層際立たせた。



カウンターを挟んだ向かい側に、6番地の松本さんが座っていた。もう80近い彼の頭は真っ白で、顔には深いしわの影がいくつも出来ている。

その1つ1つからこの街で生まれ育った証である頑固さが滲み出してくるようで、宮原さやかはそれをとてつもなく羨ましく思う。6年前にこの街に越してきたさやかにはまだその証が滲み出して来ない。



松本さんは今日も5つ並んだスツールのうち、ガラス扉に一番近い端を選んで座っていた。ここに来ると、毎回そこでコーヒーを啜り、煙草をふかし、時折横を向いては、ガラス扉の片側を装飾する鮮やかな薔薇のステンドグラスを眺めて行く。気分がいいと若かりし頃の武勇伝を1つ2つ聞かせてくれる。



そんな彼の視線が今日はお気に入りのステンドグラスではなく、ガラス扉の向こうにあった。特別珍しい光景が広がっているわけではない。アスファルトが雨に打たれるただそれだけの光景を、黙ってじっと見つめている。



彼を取り巻く空気がざらついていた。それはまるで紙ヤスリの表面のようで、安易に触れるのを躊躇させる。

普段は豪快に人を包み込むような空気を取り巻いているのに珍しい。

けれど、さやかはその要因に心当たりがある。


この街は古くから人情で栄えてきた街だった。

駅の西側には味や品質自慢の商店がずらりと立ち並び、口は悪いが情に熱い店主たちが毎日赤字覚悟の大サービスをしてくれる。

良い品とそんな店主たちとのやり取りを求める人たちとで商店街は賑わい、その途中にある有名な神社と共にメディアに取り上げられることも頻繁にあった。



6年前にさやかがこの街に越してきた時はまだその空気が街中に息づいていて、誰もがその空気を大切に育んでいることが伝わってきた。



状況が一変したのは3年前、西側にやたらと高いビルが建ったことがきっかけだった。

そこには次々と様々な種類の会社が入り、それを皮切りに同じようなビルがいくつか建った。

古くから人情溢れる商店街として有名だったこの街は少しずつオフィス街へと侵食され始めた。

商店街に溢れたビジネスマンたちは、散歩がてらゆっくりと買い物をするお年寄りたちに舌打ちをする。歴史ある洋食店や和食屋に料理の提供が遅いと文句を付け、魚屋や八百屋の店主に口が悪いと悪態を吐く。

歴史ある個人経営の店は次々に閉店し、代わりに味も心もない安さの塊を売るような店ばかりが乱立した。



人が増えたことによる経済効果は絶大だろうが、それと引き換えにこの街は古くから息づいていた大切な空気を失いつつある。



「日高さんのとこ、今月いっぱいで店じまいするらしいよ」



しわがれた声が狭い店内に大きく響いた。松本さんはやるせなさを滲ませた表情を浮かべながら、相変わらず雨に打たれるアスファルトを見つめている。



「そうだったんですか」



さやかにはそう答えることしか出来ない。こういう時、どんな言葉を返せばいいのか未だにわからない。それはこの街が変わり始めた3年前からずっとそのままで、この先もそうあり続けるものなのかもしれない。



「気の毒だよな。60なんてまだまだ店じまいする年じゃない。だけど、古くからここにいる人間にとっちゃあ、とてもなぁ」



松本さんは小さく首を横に振り、コーヒーカップに口を付けた。もう湯気を立てるのをやめていたコーヒーは一気に彼の喉に流し込まれる。



夜の闇が深まる頃、騒ぎながら駅へと吸い込まれていくビジネスマンたちの姿を思い出す。

ここが故郷であるお年寄りたちに舌打ちしたことも忘れ、自分を棚に上げて表面上の口の悪さを責め立てたことも忘れ、辿り着いた自分の街では近隣の住民と挨拶を交わし、家族を暖かく包み込む。

そして夜が明ければ、また電車に乗って、この街へとやってくる。みじんも心を痛めていないことがわかる顔で、この街に古くから息づいていた空気を壊していく。



「さみしいですね」



やはりさやかにはそんな陳腐な言葉しか返すことが出来ない。この想いをそのままの重さで表す言葉が見つかればいいのだが、結局「さみしい」とか「胸が痛い」とか既存の枠に当てはめることでしか表現出来ない。



経営難に陥ったわけでもないのに、閉店を余儀なくされていく店の姿は、まるで夜の街の灯りが人知れず消えていくようで、胸が苦しくなる。

気付いた時にはどこの灯りも点いておらず、ぼんやりとした街の輪郭だけが浮かび上がっている。その事実をこの街の住人は未だ受け止められない。



松本さんの周りで、弱々しい空気が揺らめいていた。いつも強気で頑固な彼には不釣り合いな空気だが、延々と続く老舗の閉店に心を折られかけているのだろう。

何か気の利いた言葉でもかけられたらいいのだが、彼もまさか空気に溶け込んだ弱気を読み取られているとは思わない。何より50以上も年下のさやかにそれを見抜かれたくなどないだろう。



洗い終わったグラスを手に取り、専用の布巾で拭いていく。



人を取り巻く空気には、その人の意思とは関係なく、感情が勝手に溶け込むものだとさやかは思う。この世に生きる多くの人は無意識にそれを読み取って、その場に相応しい言動を選んでいる。

さやかは幼い頃からその能力が人より遥かに高かった。それは「この人は今、こう言う気持ちなんだろう」と言う想像めいたものではなく、ハッキリと「こう言う気持ちだ」と断言できる濃さで伝わって来る。



周りにはよく「人の心が読めるんじゃないか」なんて驚愕と不気味さを交えた視線を向けられたものだが、さやかもごく普通の人間であることには違いない。ただ単に自分の本心を隠すことに長けていた分、読み取ることもまた上手かったと言うだけの話だ。



松本さんのカップがソーサーに戻されていた。中身は綺麗に飲み干されている。お代わりを頼むことも多くある彼だが、今日はそんな気分じゃないのだろう。ソーサーの横のグラスを手に取り、その中に残っていた水も一気に喉へと流し込む。

ガラスの灰皿に置かれた吸いかけの煙草が、細く白い煙を立てていた。突如、心のどこかが反応し、痛みを示す。



「せんりちゃんは元気にしてるのか?」



あまりのタイミングに、さやかは思わずドキリとした。心の中が顔に表れることは滅多にないが、さすがに今のタイミングで瞬きくらいは乱れたかもしれない。



松本さんは煙草をくわえ、テーブルの上の灰皿を見つめていた。それにホッと息を吐くと同時にさやかは笑顔を浮かべた。



「元気ですよ。この前も電話で話したんですけど、八つ橋がおいしいとか、お寺が綺麗だとか、何か楽しそうな話ばっかりしてましたよ。遊んでる暇があるなら、日帰りでもいいから東京に帰って来るよう、言ったんですけどね。やっぱりその気はないみたいで。本当頑固」



頭の中に懐かしい笑顔が浮かぶ。



「そりゃあ、せんりちゃんらしいな」



豪快な笑い声を上げた松本さんは、まるで孫の話でも聞いたかのようにすっかり緩んだ表情になった。さやかの話が頭の中で映像化しているのか、緩んだ表情のまま、おいしそうに煙草をふかし続けている。



嬉しそうなその顔に、さやかの心の痛みは増す。嘘は吐けば吐くほど人の心を締め上げる。



「いやぁ、少し心配してたもんでね」



松本さんは煙草の灰を落としながら、少し悲しそうな顔をした。



「心配、ですか?」



「ほら、あの子はどうにも頑張り過ぎるところがあるだろう? とくに店のこととなるとこっちが心配になるくらいの無茶をする。

先代から受け継いだ店を守って行くのにそりゃあ覚悟も必要だが、あの子の場合はどうも強過ぎる気がしてね。随分長く行ったままだから、また頑張り過ぎてるんじゃないかと思って心配してたんだよ」



このままいっそ白旗を上げてしまいたくなる。「違うんです、そうじゃないんです」と松本さんに泣きつけたら、どれほど楽になるだろう。



穏やかな笑顔を意識してから、さやかは松本さんを見た。



「心配いりません。楽しくやってるみたいですから。それより私はそのうち京都弁しゃべり出すんじゃないかと思って、そっちの方が心配ですよ。そんなことになったら、違和感があり過ぎて慣れるまでに時間がかかります」



「ただいまどすえってか?」



「それ、ちょっと違うと思います」



2人で顔を見合わせて笑う。この街の至る所でこうして住人同士が笑い合えば、壊されても壊されても、暖かい空気は消え去ったりしない。守って行かなければいけない。ここに帰って来る人がいる限りは。



松本さんはもう吸い終わりに近い煙草を消すと、ポケットから小銭入れを取り出した。黒い革の蓋を開けて、中身をかき混ぜ、100円玉をカウンターの上に並べて行く。



「今度伝えといてくれ。そろそろ本当にせんりちゃんのナポリタンが食べたいって」



「わかりました。伝えておきます」



「頼んだよ。俺だけじゃないからな? みんな、せんりちゃんの料理を待ち続けてる」



「早く帰って来ればいいのに。何せ頑固ですから」



さやかが苦笑すると、松本さんは豪快に笑った。その後で小銭入れをポケットにしまい、席を立つ。



「さやかちゃんもせんりちゃんが戻ってくるまで、気合い入れて店守らないとな。頑張れよ」



威勢のいい声に喝を入れられたようで、背筋が伸びる。



「頑張ります」



そう松本さんを見ると、彼は大きく一度頷き、「ごちそうさま」とガラス扉を引っ張った。



「ありがとうございました」



その声と扉の上に付けられたベルの音が重なる。扉の向こう、遠ざかって行く紺色の傘から見える背中は訪れた時よりほんの少しだけいつもの様子を取り戻しているようにも見える。

オルゴールに充満する暖かい空気に、今日は店主の力がプラスされ、松本さんを少し元気付けてくれたようだ。



カウンターの上に乗せられた100円玉を1枚ずつ手に取って行く。

カウンターテーブルの端に古びた茶色いレジスターが置かれていた。タイプライターのように並んだボタンの中から[会計]と言う赤いボタンを押し込むと、おおよそもう他の店では聞かなくなったチンと言う高い音が響く。

飛び出してきた引き出しに4枚の100円玉をしまったところで、意図せず深いため息が漏れた。



オルゴールの店主である前沢せんりは5年前の2月15日、忽然とこの街から姿を消した。延々と続いていくように思えた日常の途中で、そんな素振りを一切見せず、ここにはもう戻らないと言う置き手紙1枚だけを残して、まるで雪が溶けて消えるようにいなくなった。



せんりの失踪は多くの人に伏せられた。人と人との繋がりが深いこの街でそれが公になると、彼女の気が変わった時に戻って来にくくなってしまう。そう考えた彼女の幼馴染たちの計らいで、せんりは京都に料理の修行に行っていることになっているのだが、まさか5年後も未だこの嘘を使っていようとは誰も想像すらしなかっただろう。



誰もがすぐに帰って来るものだと思っていた。せんりにとって、ここがどれだけ大切な場所かもわかっていた。



あと数ヶ月で、せんりの不在はもう6年目に入ってしまう。みんなで考えたこの嘘にも使用期限が近付いている。



カウンターから手を伸ばし、松本さんの座っていた席に置かれたままのカップとグラスを片付ける。灰皿を下げた時にふわりと煙草の煙が舞った。それが明らかに嗅ぎ慣れたものと違ったことがせめてもの救いだったかもしれない。



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