このはじまらなかった戦争に、せめて終わりのミコトノリを。

糾縄カフク

開戦の無い戦争の、緩やかな敗戦に。

ヘーゲルはどこかで「すべての偉大な世界史的事実と世界史的人物は、二度現れる」と述べている。――だが彼はこう付け加えるのを忘れた。一度目は偉大な悲劇として、二度目は惨めな喜劇として、と。


――カール・マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」より




 平成最後の終戦記念日を、冷めた表情で迎える。昭和の終わりに生まれた僕に、輝かしい日本の軌跡を、体感した記憶はない。


 小3の秋に、父親が他界した。恐らくは当たり屋で失敗したのだろう。当時バブルの崩壊に巻き込まれ多額の借金を背負っていた父は、しばしば事故で入院していた。その頃は人の死の意味も分からず、僕は坊さんの唱える念仏がおかしくて、笑うのを堪えられなかった。引き取られた母方の祖父母からは、僕の父親が如何にクズであるか、折に触れて聞かされた。


 学校では、日本は酷い事を仕出かした国だと教えられた。兵士が女子供を容赦なく殺し、強姦する様の描かれた漫画が、図書館には置いてあった。もしかすると、唾棄すべき性癖に目覚めたのはその頃かも知れない。今でも、普通のセックスをするには、バイアグラを服用しないと、勃起を維持する事ができない。


 日本は悪い国なのだ。周りの大人が言うのだから違いないと、幼い僕はそう思った。だがよく見ればソ連も韓国もアメリカも中国も、どの国もそれなりに似たような事をやっていた。正義の所在に対する煩悶と葛藤は、ボスニア紛争を垣間見た時、いよいよ以て顕著となった。果たしてそこには、勝てば官軍以外に、何もなかった。


 高校に入った頃、アメリカで同時多発テロが起きた。宗教や歴史の本を、貪るように読んだ。平和や平等を訴える共産主義が、存外な数の死体を積み上げている事を知った。どうやら始まりの善意と、結末の悲惨は全くの別物であるらしかった。


 芸大の推薦入試で、テロを題材にした話を書いた。落ちた。一般入試でつまらない恋愛の話を書き、今度は受かった。


 大学に入った。母親が横領で捕まり、賠償金の支払いで実家が共倒れになったと聞いた。さんざん父親を詰った母方の祖父母は、いったいどんな顔で愚娘の尻拭いをしたのかと考えると、哄笑が漏れた。母方は教職の家系だった。父方は農家の家系だった。文盲の父方を、母方が低く見ていた事実を、僕は知っている。


 振り返れば当時は、総理大臣に小泉純一郎がいた。社会にはホリエモンがいた。彼がフジテレビを買収しようとした時、何かが変わるかもと思ったけれど、結局は何も変わらなかった。出る杭は見せしめのように打たれて、ライブドアは表舞台から消えた。学生運動の時代が、なんとなく羨ましかった。だけれど左翼は嫌いだった。


 二十歳の頃、自主制作アニメを発表した。冒頭に三島らしきを出した事から、右翼と呼ばれた。偉い人との縁が切れた。だけれど僕は、右翼も同じくらい嫌いだった。その考えは、理解されなかった。


 北京五輪があった。チベットの話題がついに出ると思ったけれど、あまり出なかった。中国は強いままだった。日本はどんどん弱くなった。非道を看過されるには、誰憚る事のない、ただ強さだけが必要だった。四年で数本作った僕の作品は、結局どれ一つとして認められなかった。


 奨学金を打ち切られ、大学をやめた。日雇いで日々を凌いだ。自主制作の借金がかさむ頃、東北で地震があった。福島は僕の故郷だった。復興作業に行く事にした。火力発電所の復旧に回された。南相馬で半年暮らした。福島を「フクシマ」にしたい連中が言っていた、鼻血も抜け毛も特になかった。放射能が怖いと逃げた人たちが、田舎で損耗し、やがて没落していく様を見るのは、滑稽でそして愉快だった。


 海外に進出した日本企業が、次々と潰走した。ニコニコ動画もビリビリ動画に抜かれ、艦これもアズールレーンに取って代わられた。日本は勝てなかった。初手の勝利を利用できなかった。この光景をどこかで見たなと思った。大東亜戦争の末期だった。


 復興作業が終わった後、横浜の風俗店に勤めた。不景気だった。昔は営業の合間のセールスマンや、不意の休みの日雇い人が来たと言う。今はGPSで監視されたり、給料が減ったりで、どうやらそれは難しいらしい。


 都会を見渡せば、殆どの人は働いていた。馬車馬のように働いて、だけれど皆貧乏だった。星新一のショート・ショートに出てくる「一般的な」サラリーマンは、今では遠い上流階級の、見も知らぬ誰かだった。


 テレビで石原慎太郎が「若者は復興作業に行くべきだ」と抜かしていた。「とっくに行ったがそれが何か?」と噛みつきたかった。偉そうな事を宣う連中は、大概が空調の効いた部屋の、大仰な椅子でふんぞり返っていた。さんざん周囲を焚き付けて、いざ自分が糾弾される側になると病気だなんだと逃げ回る。きっとこういう奴らが、かつては若者を戦地に送り出していたのだろう。――自分だけは安全な場所で、あぐらをかいて。


 お盆に飛んだ社員の穴埋めで、四日間の二十四時間勤務を終えたあと、店長が一人で夏休みをとった。僕たちにはまだなかった。コミケにも行けなかった。腹がたった僕は帰ってきた店長に辞職届を突きつけ、翌月に風俗店員を辞めた。東京に移った。


 東京五輪があるというニュースに、なんとなく胸が高鳴った。戦後のあのエネルギーに恋い焦がれていた。オリンピックがあれば、日本の再興を目にする事ができるかも知れないと、漠然と思った。


 東京で身体を売った。女の子にできるのなら、男にでもできるだろうと思ったからだ。三十手前にしてはそこそこ売れた。借金が減った。都心で暮らせた。創作を再開できた。十分だった。

 

 客から、最近の若者はたるんでいると言われた。昔の日本は良かったと言われた。昔の日本だったら、あんたとっくに死んでますよね。そう返す力も無いほど、しょせん身体を売る僕の立場は、ゴミのように弱かった。金を持っているのは老人だった。人を買うのも、旅行に行くのも、みんな老人だった。日本で文革でも起きればいいと、ふと思った。それほどまでに、若者と老人との間には、隔絶たる経済力の差があった。それは一つのヒエラルキーですらあった。


 オリンピックロゴの盗用が叫ばれた。関係者同士の、泥沼の関係も巷に回った。美術や芸術の暗部だった。仕事でアーティストのマネージャーを務めた時、やたら金がいいなと思ったら、当然のように夜の仕事も要求された。枕営業など何処もやっていた。名家は金か七光りで解決した。そうでない者は身体を売った。それでも売らずに済んだのは、きっと運のいい一握りの才能だけだ。


 国立競技場も紛糾した。このご時世に自殺者がでた。ゼネコンの現場は、規則だけが厳しくなった。9時から始まる仕事に、7時前には集合する。もちろん、帰るのは遅い夜だ。下っ端の若手はいいようにこき使われて、あんな環境では狂わないほうがおかしかった。狂っていても帳尻さえ合えば許された半世紀前と、比較するのはあまりに粗野だった。


 やがて僕は、五輪に期待した事を恥じるようになった。小出しに出るデザインや案は、どれも革新性に乏しく、ただ日本の凋落だけを示して憚らなかった。おまけにビッグサイトも使えないらしい。エロ本も規制されると聞いた。馬鹿馬鹿しかった。バブルの頃は、テレビにおっぱいがいっぱいあった。そういう時代を享受してきた爺さんどもに、風紀がどうだと言われるのは心外だった。思えばあいつらは、自分がさんざん甘い汁を吸い終わった後で、原発はいらないだとか、成長より生活だとか抜かし始めた。我々は所詮、彼らを支える為の家畜でしかなかった。習った人権の無価値を呪った。


 仕事に感謝。あるだけでも幸せと思え。挨拶の徹底を。そんなスローガンが目立ち始めた。出来ぬのは、創意工夫や努力が足りないからだと、したり顔で誰かが言った。欲しがりません勝つまでは。足らぬ足らぬは工夫が足らぬ。そんな言葉を思い出した。きっと戦中の日本にも、こんな下らない標語で人心が奮い立つと、思い込んだ連中がいたのだろう。


 余った金属の供与を、知事が募る。ボランティアの動員を、国家が望む。企業は安く実習生をこき使い、竹槍よろしく打ち水で酷暑を断てと、ポスターがあちこちに貼ら巡らされる。実利よりも理念が尊ばれ、公職者が飲むジュースの一本にすら、どこかの誰かからクレームが突きつけられた。


 そういう世界の話を、僕はずっと昔に読んだのだった。鐘が溶かされ、学徒が駆り出され、植民地は征服され、戦闘機に原初の武器で勝てるのだと。――個人の利益の追求より、国家や組織に奉ずる事こそが尊いのだと刷り込まれた時代。隣人が隣人を監視し、周囲の顔色を伺うように指さして叫んだ時代。忌まわしきあの、大戦の時代。


 左巻きの連中は、憲法やら自衛隊を見るにつけ軍靴の音と喚き立てた。だが本質はそこになかった。隣人を無為に糾弾し、不謹慎を連呼し、経済成長を否定する彼らもまた、戦時の空気を醸成する一端だった。


 差別が差別を殴り、人権が人権を踏みにじり、正義が正義を殴殺し、社会はどんどん窮屈になった。企業はクレームを恐れ、その余波はクリエイターにも飛び火した。表現の自由を叫ぶ左巻きが、表現規制の最たる急進派に成り果てた有様は、皮肉としかいいようがなかった。


 貧困こそが敵だった。貧しさを善しと讃える者が悪だった。楽しみすら生み出せなくなった貧民は、その卑しさをせめて正義だと思いこんで誰かを叩く。それは右翼の言う所の清貧だった。それは左翼の言う所の平等だった。――全ては鏡合わせの化物だった。彼らは誰しもが闘争を望んていた。口々に綺麗事を曰いながら。


 生まれてから僕がずっと見ていたのは、敗戦の歴史を辿る、日本の姿そのものだった。開戦こそ赫奕かくやくたる戦果を示せど、転戦に転戦を重ね、最後には惨めに負ける日本帝国。そこかしこで無謀なインパール作戦は幅を利かせ、報奨もなく理念に殉ぜよとお偉方が声を大にする。たぶん今の日本なら、空襲があったって鞄を傘に人々は出勤するのだ。そんな日本だから、命令があれば誰だって殺せるのだ。分かる、分かる。――それがどうやら、この終わりかけの祖国だ。


 主語の無い「過ちは繰り返しませぬから」とはいったい何だったのか。過ぎた半世紀の路傍に転がるのは、失敗と過ちの繰り返しばかりではなかったか。――だが、この戦争は誰も開戦を告げなかった。戦後のうちにいつの間にか始まって、いつの間にか敗戦の様相を呈している。年間三万人の名も知れぬ戦死者――、自殺者を生みながら。


 八月になっても核爆弾は落ちない。だれも敗戦を認めない。日本は優れた技術立国で、だから戦犯もいない。虐めもない。セクハラもない。過労死も無い。ただ負債だけが、我らに残る。テレビに流れる、代わり映えの無い終戦記念日の報道に漏らす溜息すらもなく、僕は今日もPCに向かう。


 かの戦争は確かに偉大な悲劇だったろう。だけれどその反省を活かせぬまま訪れた今日は、もはや揺らぐ事のない惨めな喜劇だ。そしてその歴史に抗う事すらなく、ただ日々にしがみつくしかない僕は、どうしようもない道化だ。


 冷房の無い部屋に酷暑の熱が、ひたすらに苦しい。

 蝉の鳴く声に混じって、今日も聞き慣れた天皇の御言葉が、聞き取れる事もなくざらついて耳に入る。


 どうか誰か、この始まらなかった戦争に、せめて敗戦のみことのりを。

 たぶんそれだけを、僕は希っている。

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