ラストステージ
急かされて走った。急かしているのは自分の昔の記憶。
視線の先に暗い宇宙に紛れるように、小さく、うずくまる人の背が見えていた。
あの丸い頭は、やせぎすの背中は、ずっと記憶の奥底にあったものとそっくりそのまま一緒。
あいつの家の屋上に寝転がって、夜空に瞬く星をながめた。いつか宇宙に行きたい、という俺に、じゃあ俺が宇宙船を作るべ!と言ったあいつ。初めに書いた落書きのような設計図。それでもどこを改良すればいいか、って日々話あって、設計図の紙はどんどん増えていった。
ゴールデンウィークの連休明け、いつものように通し番号9最新バージョンの設計図を持って、こいつの家に行ったら、こいつは居なかった。
家の人は、黒い服を着ていた。暗い顔をしたままいろいろなことを言った。「旅行中に」「川に足をとられて」「遠いところに行ったと思って」「星になった」
星が好きなやつだったから、きっと我慢できなくて先に行ってしまったんだ。
俺を置いていくなんて、宇宙船が完成すれば、ふたりで行けたのに。
あいつの家の人は「これからも遊びに来てね、きっと、そうして」と言った。
俺は、どうすればいいのかわからなかったけど、うなずいた。
帰って、声をかけてくる親に適当な返事をして、自分の部屋に入り布団をかぶった。布団の暗闇が宇宙の暗さにそっくりだった。そこに星になったあいつも光っているのかもしれない、と思って、布団の中に入ったまま目を見開いていた。暗闇は暗闇のままで、星は見つからなかった。
しばらくした後、親の飯時と知らせる声が暗闇の宇宙にいる俺にまで届いた。布団からはいだす。こもった空気から解放され、ひやりとした空気がほほを撫でた。ほっぺたは冷たかった。
あいつのいないあいつの家に行くと、おばさんは少し悲しそうに家に上げてくれる。屋上で一人空を見上げ、小さな望遠鏡をのぞいた。望遠鏡はあいつのものだ。見えるのは月のでこぼこしたクレーター、それくらいしか見えない性能のよくない小さな望遠鏡。だけど、宇宙を見てはしゃぐのにはそれで十分だった。
俺は星座の名も詳しくなかった。ただ見てるだけ。いつも横からあれはなになに、あれはなになにという声を聞いていればよかった。
設計図ももう新しいのを作ることはなくなった。そのうち、長々と空を眺めることもなくなった。
通し番号9の最新バージョンを最後にもう増えなかった設計図は、地球に、俺の机の引き出しに今もまだあるのだろうか。ここまで来るのに、どれくらい時間がたったんだろ。
風化する一歩手前、凍りつき石のようになった彼の腕を引き上げる。パラパラと氷が散った。「遅えよ」と彼は口の端をあげ、いびつな笑みを作った。笑ったのだろう、ということが分かった。面に隠されて、口しか見えない。
「悪い、遅くなった」
「ほんとにさ」
「お前が先に行ったのが悪いんだろ……」
「俺だって好きで先に行ったわけじゃねーよ、それに待っててやったろ?」
俺は黙ってうなずく。
「わざわざこんなところで、何してたんだ」
「ここからしか地球が見えない」
あれ、と指さした。小さくほんとに小さく青白く光る星があった。
「ほかの場所じゃ、ほかのもっと近くにある星が重なって地球が見えないんだ」
「だからって、こんなところじゃお前が」
凍ってくずれおちる、と俺は言った。
「どんな星を見てもあんな青さの星はなかった。あの光を見て、忘れないでいようって」
じっと地球を眺める横顔へ声をかけたかった。だけど、かけられなかった。ここまでくる間に、俺も色んなことを忘れていた。
「おまえ、俺その、ごめん、」
「……名前を忘れたんだろ。気にするな、俺もお前の名前を忘れた、し、自分の名前も顔も忘れた」
この面は顔のかわり、と自分がつける般若の面を指さす。
「忘れないようにしてたけど、無理なもんは無理だわ」
「……」
「俺は外れ星、ハズでいい」
俺の顔を見てハズは「言うな、いろんな事情があってこの名前になったんだよ」と言った。
「お前は?」
「俺、俺は……」
「名前途中で誰かにもらっただろ、そうじゃないとここまで自分を保ったまま来れない」
ハズのその言葉にある光景がよみがえった。記憶なのか、夢なのか。あいまいだけど。
列車でのことだ。
窓の外にあふれている星々の光彩に夢中になっていたら、いつの間にか男が目の前に座っていた。その顔は若者のようにも見えたし老人のようにも見えた。
「地球の慣用表現で、人間が星になる、ということの意味はわかるか」
男が発した質問に答えられなかった。窓から見える星々で頭がいっぱいになっていた。
「大したことじゃない、人間じゃなくて星になるだけだ」
また重ねて言う。
何とか言葉を絞り出した。
「……そんなことって、俺はまだ地球でやり残したことが」
「何がある?」
答えが返せない。空白、頭の中を必死で探っても思い出せない。急に記憶が抜けていくように、さらさらと砂が落ちるように消えていく。記憶の空白を埋めるように星の輝きが満ちる。だけど、まだ忘れてはいけないことがあったはずだ。
「だまされた、誰もそんなこと一言も」
「だまされていないさ、天使はお前を迎えて行くべき道を示しただけだ」
「まだ、そんな。まだ、だめだ」
「どうして」
「どうしてもだめだ」
「名も忘れ、記憶も忘れるのが普通だ。そうすべき、とは言わないがそうなるのが自然だ。お前は星になるんだろう。何億年とこの先過ごすうち、記憶はどんどん薄くなる。それに耐えきるには、今記憶をなくしていたほうがいい」
「それでもだめだ、いやだ忘れたくない」
「嫌なのか。記憶を失いたくないなら、名をつけてやろう。宇宙では名がないともっと存在があいまいになる」
うなずいた。男が何を言っているかわからない。頭の中のもやが取れない。窓の外の星がビカビカと光る。星屑の光ばかり頭に残っていく。
「お前の席はC車両のFだな。そしてこの列車に乗った100人目だ。CF100だな。CF100、車掌に水を持って行くように言っておく。その水を飲んでいれば意識がしっかりする。その間にできる限り思い返していれば、記憶も失わないだろう」
男は俺の肩に手を置いて、体重をかけて立ち上がった。やはり老人なのかもしれない。立ち上がると、肩をぽんぽんとたたいた。足を引きずりながら、歩いていく。
俺はずるずると座席に横たわった。意識が薄れる。意識が途切れる。もう保っていられない。
「――俺はCF100」
「なんだよその名前」
「お前なあ、お前だって、変な仮面つけてるくせに」
こんな宇宙の端で昔のような言い争いをしているなんて、とおかしくて笑う。ハズも声をあげて笑った。久しぶりにこの声を聞くな、と思った。
「昔は星ばっか見てて地球なんか、って思ってたけど、地球も遠くからみると綺麗だ、ってのがここでずっと見てた俺の感想」
地球を指さすハズの左手にも、俺と似たような星座が描かれていた。
俺の視線に気が付くとハズは言った。
「人間が作った星座は88個。そのどれにもない形」
お前のも?とハズは聞く。ハズに左手を見せた。
星座を確かめると、ふう、と息をつく。
「ああ、ほんとに遠くまで来たんだな」
ああ、ほんとに、と返した。
地球も遠くなった。もう帰ることはできない星は、ハズが指差した方向で小さくかすかに光っていた。
目に見える地球は遠すぎた。不安感が胸を締め付けた。
こんなところで、俺は何をしているんだろ。そうして、いったいどこまで行けばいいんだろう。星になるってどうなるんだ。そして星になったら、自分は。俺たちはやっとまた会えたのに。
地球を見ながらハズに話しかける。
「……生きてていろんな嫌なことがあったけどさ、まあほとんど忘れたけど。やっぱここまで来ると……地球が懐かしくなる」
「懐かしがっても、仕方ないべ」
「そうだけど……」
ハズはいつもの調子でひょうひょうとして、まだ体のはしに付いていた氷をはたき落としていた。
「宇宙の外まで行ったらどうする」
ハズに問いかけた。
「どうするって、どうにもすることないべ。行ってみたらわかる」
「行かなきゃいけないのかな」
「行ったほうが楽しいだろ、きっと。星にもなってみたいし。ここはなんにもない。し、それに寒すぎるだろ。見ろよ、この氷。凍えるわ」
ハズは「行けるところまで行くしかない」と言った。口元は楽しそうに口角が上がっていた。その表情がなんだか、懐かしすぎて、胸に熱いものがこみ上げた。
「お前、まだカレー好きなの?」
「……なんだハズ、そんなことは覚えてんの?」
言われなかったら思い出せなかっただろう。やっぱり記憶はあいまいになっていっているらしい。
カレーの美味さを一度思い出せば、猛烈にカレーが食べたくなった。
「あー、カレーめっちゃ食いてえ」
「カレーなあ、ルベリアに相談してみるか」
「ルベリア?」
「灯台守、灯台のところにいただろ」
「あいつ、あんなに宇宙人みたいなのにカレーつくれんの?」
人間からほど遠そうなのに。というかここ、宇宙空間なのに。
「物知りだし、あそこから動けなくて暇なのか、たいていのことはやってくれるぜ」
きっとカレーも作ってくれる、とハズは確信があるように言った。
「というかそんな寄り道していいんかな」
体が崩れるとかなんとか聞いたけど。
「いいんだって、俺なんてここで何十年寄り道してると思ってんだよ。いまさらだ。それにルベリアの話じゃ、宇宙の先ってまだまだ遠いらしいぜ。それこそこっからは歩いていくから、何年も。行先によったら、何十年も」
宇宙の先に行く前に、腹ごしらえをするのも悪くない。
二人は足並みをそろえて光を放つ灯台へ向かう。
ハズはスキップでもしだしそうな軽い足取りで進み、「歩くのおせーぞ」と少し遅れたCF100に文句を言った。そんなやつの昔と変わらない様子に、勇気づけられたのか何なのか、さっき感じた底なしの不安は消えて心も軽くなっていた。どこまで行っても、変わらないものはきっとある。
「文句言うなよ」と苦笑して、CF100は足を速めた。
宙からの招待状 日々野いずる:DISCORD文芸部 @Izzlay
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