第36話 終わりと始まり

 使い込んだトランクを置き、ヨハネスは大きく伸びをした。久しぶりに訪れたこの土地の空気を、胸いっぱいに吸い込む。風車がゆっくりと回り、水の流れる音が、疲れた心を癒していく。町並みは以前とほとんど変わっていない。懐かしさに、自然と笑みがこぼれる。クラーヴに戻ってきたのは五年ぶりだ。

 町の中を、時間をかけてゆっくりと歩く。通り過ぎる人々の中には、不思議そうにこちらを見ていく者もいるが、大抵は余所者の一人として興味の対象外に分類されていく。時の流れは早いのだなと、ヨハネスは改めて思う。それは寂しくもあるけれど、痛みを知った大人にとっては、いいことでもあるのかもしれない。

 この五年の間に、クラーヴには喜ばしい変化があった。町長の強い要望により、去年診療所の建設が決まったのだ。医療の必要性が、ようやく認められたのである。建設予定地へは後で寄ることにして、今は目的地へと歩を進める。

 広場に出ると、目の前に教会が聳え立つ。すると否応なしに、隣の大きな空間が目についた。町の中で、ここは唯一五年前の出来事を思い出させる。異端審問所があった場所は、瓦礫も撤去され、何もない地面が広がっている。建物でも建てば、多少は違和感も薄れるのだろうが、あえてそのまま残すというのが、町長の意向だった。暗黒の歴史を、決して人々が忘れないように。二度と同じ過ちを繰り返さないために。

 町を抜け、丘を登ると、そこに目的地があった。話には聞いていたが、実際に目にしたのは初めてだ。そこには厩つきの、立派な家があった。煙突からは、緩やかに煙が立ち昇っている。ヨハネスは感慨深い思いで、その家を眺めた。

「おーい!」と呼ぶ声に、ヨハネスはたった今歩いてきた道を振り返る。

「ギド!久しぶり!」

 馬に乗って山を登ってきたギュンターは、あっという間にヨハネスに追いつくと、ひらりと飛び降りた。互いにハグを交わす。

「いつも馬で行くんだね?」

 ヨハネスが尋ねると、ギュンターは得意げに「まあな」と答えた。

「急な呼び出しがあったときに、すぐ駆けつけられるしな。馬はずっと欲しかったから、最高だよ」

 厩で馬を繋ぐのを待ちながら、ヨハネスは言った。

「素敵な家だね」

「だろ?皆はさ、町に住めってうるさかったんだけど、これだけは約束したことだから譲れねえって、言い張ってやった。今じゃいろんな奴らが、家まで勝手に来てくれる。助かってるよ、本当に」

「仕事の方は順調?」

「まあ、少しは落ち着いたな。今でも新しい異端審問所を建てるべきだとか、どこぞの女が魔女だとか、小競り合いはあるけどさ。ただ町長って呼ばれるのだけは、まだ慣れねえんだよなあ」

 ヨハネスが思わず微笑むと、「あ、今笑ったろ?」とギュンターはふくれっ面をする。しかし自分でもおかしかったのか、すぐに「ありえないよな」と言って笑った。「けどしっかりやんないと、あいつに、リッツに顔向けできないからな」

 そう言ったときの横顔は、すでに町長としての決意が滲んでいた。

 騒動の後、異端審問を奨励していた町長は、すぐに座を明け渡し、そそくさと町から出て行った。国から責任を取らされるのを恐れたのだろう。

 混乱の中、大急ぎで協議がなされた。しかし立候補する者は、誰一人現れない。そこで名を挙げられたのが、ギュンターだったのだ。今回の功績を称えられてのことだったが、若干十七歳での就任は、異例中の異例だった。

 最初のうちは町長代理として、いちから町の運営をみっちり学ぶことになり、当時ヨハネスは大いに泣き言を聞かされていた。そして二十歳になり、ギュンターはついにヘルマン町長となったのだった。

 結局、心配されてきた国からの通達は、一切なかったらしい。新たに役人が現れるわけでもなく、異端審問所が再度建てられることもなかった。実はその裏で、騒動と審問所への放火は、全て自分がやったことだと書かれた、フリッツの遺言書が提出されており、父も陰で動いてくれたことを、ギュンターは後に知ったという。驚くことに、ゲオルグの力添えもあったのだとか。おかげで、クラーヴは異端審問のない、平和な町へと戻った。

 一方、ヨハネスは騒動の後クラーヴを離れ、再び医学を学ぶ学生となり、多くの知識を取り入れた。平行して、異端審問反対への活動も、地道に続けていた。異端審問所に召集され、意見を述べるよう求められたこともあった。何度も何度も同じことを繰り返すうちに、敬遠していた人々も次第に耳を傾けるようになり、少しずつ反対運動の輪が広まるのを、感じつつあった。

 そして今日、ヨハネスは再びクラーヴへと戻ってきたのだ。友である町長の要望に応え、今度は本物の医師となって。

「少し、向こうで話せないかな?」

 家に向かいかけていたギュンターは、不思議そうな顔をしたが、なんとなく事情を察したのか、素直についてきた。

 二人並んで、草むらに足を伸ばす。眼前には、たった今通ってきた町が広がっている。最高の庭だな、と思う。こういう所で家庭を持ち、のんびり過ごせたら、どんなに幸せだろう。

「あいつのことか?」

 切り出したのはギュンターだった。

「うん……。本当は、このままそっとしておいてあげたかったんだけど――ごめん」

「俺達はおまえに大きな恩がある。何かあったなら言えよ」

 ありがとう、と言い置いて、ヨハネスはようやく本題を切り出した。

「本を、書きたいと思ってるんだ」

「へえ、すげえな」

「異端審問について異議を唱えるには、多くの人の賛同がいるんだ。一番伝えやすいのは、やっぱり本だと思うから。とにかく、実態を知ってもらうことから始めないといけない。――そのために、判例が必要なんだ」

「それで、か」

 ギュンターが小さく呟く。

「もちろん身元は明かさない。あくまで無罪を勝ち取った例として、簡単に挙げるだけなんだ。ただ……」

「ただ?」

 ここからが本題だ。殴られるのも覚悟のうえだったが、やはり言い出すのは辛かった。

「魔女として疑われた人達には、確実な共通点がない。地域によって、その町の異端審問官によって、様々なんだ。ただ判例を述べるだけじゃ、説得力がない。だから、僕は医者としての観点から、ある共通点を見つけたんだ」

 ギュンターは黙って先を促す。背中を押されるようにして、ヨハネスは話し続けた。

「彼女達は、魔女と疑われるほどに、著しく精神を患っていた。メランコリア症といって、極度のストレスから、家に引き篭もってしまったり、呪詛とも疑われかねない言葉を、口走ったりする。重度になると、相手に危害を加えることもある、恐ろしくて悲しい病だ。周りも、異端審問官さえも、この新しい病に気づくことができなかったから――」

「おまえは」ギュンターが静かに口を挟み、真っ直ぐヨハネスを見据える。「あいつが、病気だと思ってたのか?」

 その問いに、すぐには答えられなかった。彼女は子どもの頃、心に大きな傷を負った。母を目の前で殺されて、心が壊れてしまった可能性は、充分すぎるほどある。実際に、その後彼女は教会を放火し、聖職者にナイフを向けた。

 しかし。それでも懸命に生き続け、行く先々で、人の心を動かした。そして真実の愛を見つけた。その生き方に、病人としての弱さはどこにもなかった。

 自分は医者として、一人の傍観者として、彼女をどう見ていたのだろうか。考えれば考えるほど、わからなくなってしまう。

「遅いと思ったら、ここにいたの」

「アン、シェリー!」

 ギュンターが立ち上がる。振り返ると、セレーナが車椅子でこちらへ向かってくるところだった。その車椅子は、大工の知り合いに手伝ってもらい、ギュンターが作った物だと聞いている。セレーナの操作も慣れたもので、片手で器用に車輪を回している。

「勝手に出歩くなよ、危ないから」

 ギュンターが駆け寄り、後ろの持ち手に手を伸ばす。

「ずっと待ってたのに、いつまで経っても来ないから」

 少し怒ったような声で言ってから、セレーナはヨハネスににっこりと笑いかけた。

「ヨハン、久しぶり」

 会わなかった五年の間に、彼女はまた、美しさを増したように見えた。肩からケープを羽織り、ロングスカートを履いているため、身体の傷跡はさりげなく隠されている。ヨハネスが何か言う前に、セレーナはそれを遮った。

「たしかに、あの時わたしは心を病んでいたのかもしれない」

「聞いてたのかよ」

 ギュンターが苦い顔をして呟く。

「病気って思われるのはちょっと複雑だけれど、今さらどうにかなるわけでもない。でも――」

 相変わらず力強い視線が、ヨハネスを捉える。そこには最初出会ったときの虚無ではなく、一点の光があった。

「それで誰かの命が救われるというのなら、どう言われてもかまわない。もうこんなこと、繰り返してほしくないから。

 わたしの身体の傷はずっと残るものだろうし、夫の心の傷も、一生癒えるものじゃない。でも、わたしたちはお互い支えあうことができる。そして、今は幸せを感じて生きていける――そうよね、アン」

 セレーナは腕に抱いた赤ん坊に、優しく囁いた。妊娠していたのは聞いていたが、無事元気な女の子が生まれたようだ。アンは母に向かって、両手をいっぱいに伸ばし、にこにこ笑っている。

 抱いてあげて、と言われて、ヨハネスはおそるおそる手を伸ばす。赤ん坊を腕に抱くのは、初めてのことだった。それを感じ取ったのか、アンが途端にぐずりだす。

 慌てて返そうとするヨハネスを制し、傍らからセレーナが優しくアンを撫でる。次第に泣き止み、くりくりした目でこちらを見つめる様に、ヨハネスの頬も自然と大きく綻んだ。母親は偉大だな、と改めて思う。

 セレーナはヨハネスの手を握り言った。

「多くの人に、どうか希望を与えてほしいの。きっとヨハンにしかできないことだから」

「そうだぞ、こんなところでぐだぐだ悩んでる暇、ないからな」

 ギュンターも横から割って入る。

 家族の温かい笑顔が、ヨハネスの不安を優しく溶かしていく。太陽の光が、雲の流した涙を乾かすように。冷たく刺すような風を、温かく包むそよ風に変えてしまうように。

 今までやってきたことは、全てこの光を射すためだったのだ、と思う。世界を変えうる、最高の魔法。自分の使命は、この光を多くの目に映し出すことだ。

「――行かなくちゃ。まだやるべきことが、残ってる」

 赤ん坊をセレーナに返して、ヨハネスは言う。

「おいおい、今来たばっかだろ」

「そうよ、今日はゆっくりしていって」

 二人が驚いて引きとめようとする。しかしヨハネスの意思は固かった。一度決めたら、行動あるのみ。のんびりなどしていられない。

「二人とも、変なところで似てるんだから」

 セレーナがヨハネスとギュンターを見比べて、おかしそうに笑う。「そうかぁ?」とギュンターが不服の声を上げる。タイミングよく、アンが手を打ち鳴らし、きゃっきゃと笑う。それをきっかけに、全員から笑いが漏れた。

 一段落したところで、セレーナがギュンターの耳元に、そっと何か囁いた。ギュンターは小さく頷くと、ぱっと家に駆けて行く。

「ヨハンに渡したい物があるの。後ろを向いて、屈んで」

 セレーナに促され、ヨハネスは言われるまま、膝をついた。

 ギュンターが戻ってくると、すぐ後ろで、かちゃり、と小さな音がした。セレーナが首にかけてくれたのは、とても見覚えのあるものだった。細かい模様の中に、エメラルドが嵌められた、銀のロザリオ。それはたしかに、ヨハネスがセレーナにプレゼントしたものだった。

 ただ違うのは、両端の指輪がないことと、ロザリオの裏に、見慣れないプレートがくっついていることだった。まるで丸い額縁の中から、ロザリオが飛び出してきたかのようなデザインだ。

「これは……?」

「裏返してみろよ」

 そこには、細かな字が刻まれていた。ヨハネスと、セレーナと、ギュンターの名前。そして二人からの、力強いメッセージが。

 振り返ると、ギュンターとセレーナは、揃って左手をかざして見せた。取り外された二つの指輪だ。彼らの薬指で、ルビーとサファイアが煌めいている。

「このロザリオが、わたしたち三人を導いてくれた。だから、これはわたしたちの絆の証。どうか持っていて。元々はヨハンの物だから、偉そうなことは言えないけど」

 ヨハネスはぶんぶん首を振り、目を擦った。ロザリオを握り、ぐっと嗚咽を堪える。

「ありがとう。大切にするよ」

 そしてゆっくりと歩き出す。もう振り返ることはない。このロザリオが、きっと行く先を照らし続けてくれるから。

 心の中で、プレートに刻まれたメッセージを反芻する。

『暗黒の空に、ひとすじの光を』

 ヨハネスの物語は、ここから始まる。




 その後一五六三年に、ヨハネス・ヴァイヤーは、悪魔の存在と異端審問は異なるという論調の、『悪魔の幻惑および呪法と蠱毒について』を著した。他にも『魔女論』や『悪魔の偽王国』など、精力的に本を書き続けた。それらの著書は、彼の死後も多くの人に読み継がれることになる。

 どの著作でも、誰かを批判するのではなく、魔女と疑われた者と、裁きを行う者、どちらも被害者だというスタンスは、決して崩さなかった。内に潜む悪魔の恐ろしさを知り、皆で立ち向かおうと訴え続けた。

 同時に医師としての活動も精力的に行い、各地に医学を広めることに貢献した。内科医として、多くの病気から人々を救った。

 しかしヨハネスの活動も、隅々にまでは行き渡らず、彼は失意のうちにこの世を去った。最後まで医師として働き続け、病人を訪問中での出来事だった。一五八八年、七三歳だった。

 そうして一七四五年、異端審問はようやく幕を下ろした。

 魔女という単語に、恐怖が薄らぎ、現実味さえなくなった今日。ヨハネス・ヴァイヤーの名は、異端審問に異議を唱えた第一人者として、歴史に名を刻んでいる。

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暗黒の空にひとすじの光を 志田 凪華 @shino_nagika

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