第35話 絆
審問所から一歩外に出ると、大きなざわめきが耳に飛び込んできた。門の前は、多くの人でごった返している。ギュンターはセレーナを抱えたまま、歩調を緩めず、人ごみの中央に向かっていく。
人垣が左右に分かれ、二人の前には自然と道ができる。無罪を祝福する歓声は、彼女を間近に見た途端、徐々に引いていった。小さな悲鳴をあげる者もいる。
「ひどい傷ね……」
「むごいな」
同情の声があちこちで上がる。ギュンターは口を引き結び、無言で突き進む。そのときどこからか、不安げな呟きが聞こえた。
「生きてる、のか……?」
「当たり前だろ!」
ざわめきが、ぴたりと止む。自分の声が上ずって聞こえた。セレーナを抱える腕が、どうしようもなく震えている。多くの視線に晒されながら、ギュンターは懸命に足を運ぶ。
「ギド、こっち!」
甲高い声が、人垣をかき分けてくる。声の先では、ヴォルフが目につくよう跳ねながら、ギュンターを手招きしていた。続いて、後ろからヨハネスが顔を出す。
二人の後をついていくと、人ごみから少し離れたところで、バルテル達がセレーナの家族と共に待っていた。皆の様々な反応を他所に、ギュンターはヨハネスへ言った。
「アンのこと、頼む」
「うん、わかった」
彼は何も訊かず、頷いてくれた。彼女を即席の担架に寝かせ、ざっと傷の具合を確かめる。背後で見守るギュンターは振り返り、安心させるように微笑んだ。
「大丈夫。助かるよ」
それだけ言うと、セレーナの家族と共に担架を担いだ。去っていく後姿を見送りながら、ギュンターは誰にともなく、呟いた。
「もう、やめよう。憎み合いは、もうたくさんだ」一際高く聳える審問所を見上げ、拳を握り締める。「こんなのがあるから、惑わされんだ」
以前、誰かが言っていた。町の歴史に比べて、それはごく最近建てられたもののはずなのに、いつの間にか、すっかり風景の一部として溶け込んでいた、と。人々は“異端”という言葉を、自然と受け入れてしまっていた。一人一人に罪はない。
それができたばかりに、人々は裁く側と、裁かれる側に分かれ、間に憎しみが生まれた。あの建物さえできなければ、都会の権力にかき乱されることもなかった。この町に、そもそも憎むべき敵などいなかったのに。
ギュンターの呟きは、じわじわと周囲に広がっていく。人々は戸惑いの表情を浮かべ、ひそひそと囁き合っている。
いくら言ったところで、どうにもならないということは、ギュンターもわかっていた。審問所は国の意向で建てられたもので、小さい町の意思ひとつで、どうこうできるものではない。
――それでも、アンが安心して暮らせる町にしたい。
フリッツが聞いたら、鼻で笑うだろうか。「理想だけじゃ、何もできないよ」と言いながら、以前のように、知恵を貸してくれるだろうか。
ギュンターは弱気な考えを奥に押しやり、目を閉じた。笑われても構わない。どちらにしろ行き先が暗闇なら、走り続けるしかないのだ。その先に光があると、根拠もなく信じながら、
深く息を吸い込む。
「親父!!」審問所に向かって、力の限りに叫ぶ。「そこにいるんだろ!出てこいよ!」
人々が息を詰めて、こちらを見つめる。
ギュンターは窓のひとつひとつに目をやった。そこに父はおろか、人の姿ひとつ見当たらなかった。建物は人気を押し隠し、不気味な沈黙に包まれていた。それでも、あそこに父はいる。裁く側として、もう決して分かり合えない場所で。
「無実の人間に対して、謝罪のひとつもなしかよ!何しでかしたかわかってんのか!」
やはり返答はない。背後では、不安げなざわめきが広がっていく。するとヴォルフとコニーが、二人して声を張り上げた。
「そうだ、そうだ!ちゃんと謝れ!」
デルトルトが「ほら、皆も!」と周囲を煽ぐ。バルテルも野太い声を上げた。
「異端審問官にびびってんじゃねえよ!あいつが今、どんな思いであそこに立ってると思ってんだ!」
すると、一拍おいて、変化が起きた。背中を押されるように、ぽつぽつと声が上がり始めたのだ。輪は次第に大きさを増し、それぞれの意思を持った、ひとつの唱和となる。ギュンターにとって、これほど心強い声援はなかった。拳を振り上げ、高らかに宣言する。
「俺達は、クラーヴから異端審問の廃止を要請する!」
力強い大歓声が応える。審問所へと歩を進めながら、ギュンターはなおも続ける。
「親父、もう終わりにしよう。憎しみ合うのが間違ってんだ。今からだってやり直せる。――母さんも、偽物の平和なんか、きっと望んじゃいない」
やがて、両開きの扉が、重々しい音を立てて開いた。中から出てきたのは、裁判の陪審員達だった。中央のゲオルグが、険しい顔つきで歩いてくる。
いきり立った人々は、彼らに容赦なく罵声を浴びせる。ゲオルグはぴたりと歩みを止めた。耳を疑うように、目を見開いている。まるで自分が出てくれば、騒動が治まるとでも思っていたかのように。彼がようやく口を開く。
「貴様ら!これは神への冒涜に他ならないぞ。重罪も心せよ!」
強い口調とは裏腹に、その声は惨めに震えてしまい、威厳も何もあったものではない。生憎、勢いは一層増すばかりだ。
陪審員達も居づらくなったのか、そそくさと中に戻ろうとする。それに目ざとく気づいた者が、彼らを指差して声を上げた。
「あいつら、きっと裏口から出る気だぞ!」
「逃がすな!回り込め!」
人々が門をくぐり、次々になだれ込む。場に不穏な空気が漂い始めた。ギュンターは咄嗟に声を上げていた。
「やめろ、みんな!深追いすんな!審問所から人がいなくなれば、それでいい」
けれど、もはや誰も足を止めようとはしない。裏口に回り込む者、建物内まで追おうとする者、そして石を投げ始める者。集団はすでに、暴徒と化しつつあった。バルテル達が必死に止めようとするが、少人数ではどうにもならない。
そのときだった。混乱の中で、誰かが呟いた。
「燃やせ」
一瞬ギュンターは、何を言っているのかわからなかった。けれど誰が言ったかは、はっきりわかった。
「リッツ……!」
すぐに辺りを見渡すが、どこから聞こえたのか、どうしてここまで聞こえたのかも定かでなかった。
そしてその一言は、瞬く間に伝染してしまった。
「そうだ、なくなればいいんだ」
「燃やしちまおう」
「全員火あぶりだ!」
賛同の声がそこかしこで上がり始め、止める間もなく、一気に広がっていく。
「だめだ、そんなことしたら――」
ギュンターの声は、興奮した人々によって、たちまち搔き消えてしまう。あちこちで破壊が始まる。
「火だ!」
「燃やせ!」
おぞましい唱和が繰り返される。
悪夢のような光景だった。異様な熱気が、場を包んでいた。人々の目に映る、ぎらついた黒い光。それは広場で見た処刑の様子と、とてもよく似ていた。
赤々と炎が立ち昇ったとき、ギュンターの中でも、何かが音を立てて焼け落ちた。気がつけば、無我夢中で叫んでいた。
「親父!逃げろぉ!」
無意識だからこそ、本来の想いがすんなりと出てきてしまった。自分には、暴走した人々を責める資格などない。今の発言は、あまりに自分勝手なものだった。
一度心に根付いてしまえば、間違いだと知っても、変えるのはとてつもなく困難だ。快楽を求める思いも、大切な人への想いも、きっと見分けがつかないほど、似通ったものだ。
だからこそ人間は醜いのだと、かつてセレーナは言った。だからこそ人間は優しくなれるのだと、ヨハネスが言った。どちらかが正しいのでも、どちらかが間違っているわけでもないのだろうと、今は思う。
そのときだった。人混みに揉まれ、立っているのもやっとなギュンターの横を、誰かがするりと通り過ぎる。すれ違いざま、彼は不敵な笑みを浮かべた。そして、颯爽と火の中へ向かっていく。
それは一瞬の出来事だった。顔もまともに見られなかったが、たしかに、いつもの笑い声が聞こえた。呆れたように鼻で笑うのが、彼は憎らしいほど様になっていた。
「リッツ!」
人込みをかき分け、どうにか追いつこうともがくも、距離は開いていく一方だ。一体何が違うのか、フリッツは人と人の間を縫うようにして、すいすい進んでいってしまう。
ようやくギュンターが人込みを抜けたときには、彼の姿はもう、建物内に消えていた。ギュンターも迷わず、中に走り込む。しかし同時に、外へ出てこようとした人物が現れ、唐突に鉢合わせする。結局追い越すことのできなかった、大柄な体格。相手を射すくめる、冷たい眼差し。
「親父……!」
父は相変わらず感情の読めぬ顔で、こちらを見下ろしていた。いつの間に紛れ込んだのか、傍らには母が寄り添っている。悲しそうに「ギド……」と口を開くが、その後は言葉が続かないようだ。俯いた視線の先を何気なく目で追い、そこで初めて、異常に気がついた。
父の腹部が、黒く滲んでいる。すでに拳大ほどの大きさになった染みは、点々と足元に赤い滴を落としている。当の本人は飄々としているが、傷は決して浅くないだろう。
「なんだよ、これ。誰が――」
その先は、続けられなかった。考えたくもなかったが、父と目が合ったとき、答えがわかってしまった。
「あの馬鹿を止めるのは、おまえの責任だ。必ず引きずり出してこい」
部下に対するような物言いが、これ以上の質問を頑なに拒否していた。二人の間に何があったのかは知る由もないが、何となく、父はフリッツを憎んでいないような気がした。むしろ救おうとしたのではないだろうか。同じ“復讐”を胸に秘めた彼に対して、何か通じるものがあったのかもしれない。
ギュンターは喉元まで出かかった言葉を飲み込み、頷いた。代わりに「あいつ、どこ?」と尋ねる。父は首を振り、
「法廷ではない。あそこは鍵がかかってる」とだけ言った。
母がギュンターの腕を縋りつくように掴み、「気をつけて」と囁いた。その泣きそうな顔を見て、逆に気持ちは落ち着いていく。ギュンターはにっと笑ってみせた。
「親父のこと、頼む」
そのまま、振り返らずに走り出す。二人の視線を、しっかり背中に感じながら。
中に入ると、すでに辺りは煙がたちこめ、視界はぼんやりしていた。袖で口元を覆いながら、ギュンターは一瞬躊躇する。ロビーからは、三方向に通路がある。一方は法廷へ、そして上階と、地下。法廷の選択肢は消えたので、残るは二つだ。
どちらへ行くべきか。両方を探す余裕は、たぶんないだろう。フリッツならどうするかを、必死で考える。上階には父の部屋や陪審員達の控え室が、地下にはセレーナが収監された独房や、拷問室がある。彼が最後に見ようとしたものは、何か。
がたん、と衝撃が起きたのを機に、ギュンターは一方の道へと駆け出した。
「違う!」
突然聞こえた声に、ハイニは驚いて足を止めた。審問所の一階はすでに煙に覆われ、視界が悪い。それでも目を凝らすと、隅っこでうずくまっている男を発見できた。駆け寄って、さらに驚く。
「司教様……」
かつては真っ白だった祭服も煤で汚れ、顔は泣き腫らしてひどい有様だったが、彼は間違いなくゲオルグ司教だった。常に数人の側近を引き連れていたはずだが、はぐれたか、もしくは見放されたのか、彼らの姿はない。
ゲオルグはハイニが側で跪いても、気づいているのかいないのか、まだぶつぶつと呟き続けていた。
「私は悪くない、そうだ、何も悪いことなどしていない!なのになぜ、なぜこんな思いをしなればならんのだ、なぜ誰も助けに来ないのだ……」
「司教様、しっかりしてください!早く外に出ないと――」
ハイニがゲオルグの肩を揺すると、彼はその手を乱暴に払いのけた。
「馬鹿者!外に出たら平民どもがいるではないか!何をされるかわかったもんじゃない。奴等を追い払ってから迎えに来い!」
溜息をついて、ハイニは立ち上がった。ゲオルグをここに置き去りにしたところで、誰からも責められることはないだろう。かつての自分なら、そうしていたような気がした。いや、今も大して変わってはいない。ただひとつだけ違うのは、どうにかしないと、と自然に考えてしまっていることだった。
そのとき、遠くに一番頼りたかった後姿が見えて、ハイニは心底安堵した。あの大きな背中は、見間違えようがない。
「審問官!」
大声で呼ぶと、オスヴァルトはこちらに気づき、妻のユリアと共に歩み寄ってきた。しっかりした足取りだったので、ハイニはオスヴァルトが近くに来るまで、怪我をしていることに気づかなかった。
「そ、その傷は――」
皆まで言う前に押しのけられ、ハイニはおとなしく引き下がる。オスヴァルトはうずくまるゲオルグの前に立つと、言った。
「行くのか行かないのか、今すぐ決めていただけますか?」
責められているように感じたのか、ゲオルグの勢いは幾分弱まり、言い訳がましくなっていた。
「私は悪くないぞ。他のやつらが――」
「悪いのはあなただけじゃない。私達は生き延びる選択をしてきただけだ。ただ、時代が変わるのです。今更道を変えるつもりはないが、ここで終わるつもりもない。ゲオルグ司教、あなたはどうするのかと聞いてるんです」
ゲオルグは憮然とした顔ながらも、立ち上がった。そしてとってつけたように呟く。
「私もこんなところで、魔女のように焼け死ぬのはごめんだ」
その頃には、すでにオスヴァルトは彼に背を向け、歩き出していた。ハイニも慌てて後を追い、ユリアの反対側からオスヴァルトを支える。けれど外へ出る際、「もういい」と言われ、オスヴァルトは先頭を切って、一人歩き出した。
外の喧騒は、火の勢いに煽られるように、より一層大きなものになっていた。隣にいるゲオルグ同様、ハイニも足が竦んで立ち止まる。しかしオスヴァルトが躊躇なく突き進んでいくので、ユリアに続いて恐々ついていく。
「おい、審問官が出てきたぞ!」
群集はこちらの存在に気づくと、一斉に押し寄せ、ハイニ達はあっという間に取り囲まれてしまった。もうだめだ、と絶望的な気分になる。数人の男達が輪から出てきて、口々に罵ってきた。「人殺し」「跪け」などと言われ、方々から小突かれると、ハイニはもう従ったほうがいいんじゃないかと、弱気になってくる。しかしオスヴァルトの揺るぎない声が、それをおしとどめた。
「我々は職務を全うしただけだ。正しいことを行ってきた自負がある」
そうだ、とハイニは気持ちを奮い立たせる。ここで膝を折ってしまえば、今まで信じてきたもの全てを否定してしまう。
双方がにらみ合う中、突如動きがあった。実際、何事かと思う間もなかった。一人の男が動き、オスヴァルトが動き、気づけばオスヴァルトの喉もとにナイフが突き付けられていた。
ナイフを持つ男の方が、「ひっ」と喉を鳴らし、及び腰になる。しかしオスヴァルトの手はナイフを持つ手をしっかり握っており、逃げることを許さなかった。ナイフの先端から、細く血の筋が流れる。
「覚悟があるならやれ」
男は唇をわななかせ、そこから動けずにいる。オスヴァルトは冷徹な目で、さらに畳み掛けた。
「敵を知り、己を知ることだな」
突き飛ばされ、男は力なく尻餅をついた。周りも気圧されたように口を噤む。
「どけ」と言われるまま、人垣が割れ、オスヴァルトの前に道ができる。その大きな背を見ながら、ハイニは思う。この先どんな困難が待ち受けていようと、一生彼についていこうと。
フリッツはぼんやりと部屋の中央に立っていた。火の手はまだ、こちらまで上がってきていない。室内は平穏で、閑散としている。外から聞こえる喧騒が、まるで別世界のようだ。
どこか感慨に耽っていたことに、苦笑をもらす。覚悟はとうについていた。長い迷いから解放された心は、自分でも意外なほど透き通っていた。そのときから、最後の場所はここしかないと決めていた。
離れて見れば、騒動は所詮他人事の、小さな出来事でしかなかった。数ある異端審問のうちの一件が冤罪でも、田舎町の異端審問所一軒が焼け落ちても、国全体からすると、それはほんの些細な出来事でしかない。時が経てば、忘れ去られてしまう。結局は何も変わらないのだ。一人の優柔不断を断ち切るのに、一矢報いたことを除いては。フリッツにとっては、それで充分だった。
目を閉じて、遠く火の爆ぜる音に、耳を澄ます。火より先に、こちらに向かって駆けて来る足音を聞いたときも、フリッツはその場を動かなかった。素直に待ち受けるつもりだった。この先の結末に想いを馳せながら。
勢いよくドアを開けると、そこには予想通りフリッツがいた。こちらに背を向け、ぼんやりと佇んでいる。
ドア枠に手を置き、ギュンターは上がった息を整える。父の部屋に入ったのは、これが初めてだった。本棚や応接用のソファ、書き机の他は、無駄な物の一切ない、父らしい部屋だ。
フリッツがゆっくりと振り向く。
「よくここにいるってわかったね」
「おまえの行くとこなんかな、お見通しなんだよ」
威勢よく言ったものの、実際は持ち前の直感だった。難解な思考を持つ親友の考えることなど、わかるはずもない。ただ何となく、自分なら暗い地下で火に囲まれるのは嫌だと思っただけだ。
そんなギュンターの心情を知ってか知らずか、フリッツは「そっか」と穏やかに笑った。それから付け足すように尋ねる。
「審問官の傷はどう?」
「問題ないってさ。親父のことだからな、不死身なんだろ」
「怒らないんだ」
「やった理由は後で洗いざらい聞いてやる。納得できなかったら、そのとき殴る」
「相変わらずだね」
こんなときにもかかわらず、どちらからともなく、笑いが漏れる。まるで以前の頃に戻ったかのようだ。懐かしさに癒され、胸のつかえがようやく取れた気がした。
話が区切れたところで、フリッツは窓辺に歩み寄り、外を眺めたままぽつりと言った。
「ここの景色を最後に見たくてね」指し示す先には、壁一面を使われた、大きな窓があった。「上から見ると、また違って見えるんだ」
促されるまま、正面の玄関口を見下ろす。騒動は未だ続いていて、建物の周りを、人垣がぐるりと取り囲んでいる。一人一人の顔も、発する声も判別できない場所なのだと、ぼんやり思う。
それはどこか二人の今の距離を現しているようでもあった。
「これが、やりたかったのか?」
フリッツはその問いには答えず、うっすらと笑みを浮かべて言った。
「ギドのやりたかったことは失敗だね。あれじゃただの暴動だ」
「まだ決まったわけじゃねえよ」
心を奮い立たせ、強気に言い返す。
「本気で言ってる?」
「当たり前だろ。俺らは一度くじけたぐらいじゃ、へこたれないんだよ。最初に一歩は踏み出したんだ。まだやれるさ、必ず」
遠い喧騒から、隣に立つ友に向き直る。「リッツ、おまえだってそうだ。――だから死ぬなよ、こんなとこで」
ひとつ間を置いた後、フリッツはふっと鼻で笑った。「強いね、相変わらず」と呟く声には、どこか寂しさが含まれていた。
「でも皆が、ギドみたくはなれない。異端審問は終わらないよ。この世に悪魔が存在する限りはね」
彼の考えも、きっと間違いではないのだろう。魔女を裁く側として、現実を目の当たりにしてきたからこそ、その言葉には深い重みがあった。
以前の自分だったら、何を言っても太刀打ちできなかっただろうと、ギュンターは思う。独りよがりの理想では、誰も救えない。でも今は違う。仲間の絆は、人を愛する想いは、きっと確かな強さに変わる。
「あいつなら、終わらせてくれる。約束したんだ、何年かかったって、諦めないってな。名前はヨハネス・ヴァイヤー。ちゃんと覚えとけよ。あいつふやけた顔して、実はすっげえ諦め悪いんだ。だから俺は信じてる。いいか、これは勝負だぞ。俺とおまえ、どっちが正しいか。責任もって、最後まで見届けろよな」
「……単純だな、本当に」
そう言ってフリッツは苦笑する。しかし発した声には、どこか温かみがあった。
「あ、今馬鹿にしたろ。舐めんなよ。引きずってでも、ここから連れ出してやるからな」
ギュンターは鼻息荒く意気込むと、「じゃあ、行くしかないね」と彼はおかしそうに笑った。
しかし現実問題、状況は深刻だった。部屋の外は、いよいよ煙がたち込めつつあったからだ。来たときの階段はどうなっているかと、ギュンターは不安になる。一階はすでに、大部分が火で覆われていることだろう。
「下の階は、もう無理だろうね」
こちらの考えを読んだかのように、フリッツが言う。そうなると、選択肢は一つしかなかった。二人は互いに目配せして、笑みを交わす。
動き出したのは、ほぼ同時だった。ギュンターが椅子を持ち上げ、フリッツはカーテンを引きちぎる。窓から下を確認したフリッツが「いいよ」と声をかけ、ギュンターが椅子を振り下ろす。貴重な窓ガラスは、派手な音を立てて砕け散った。部屋には風と共に、外の喧騒が入り込んでくる。フリッツは気にする風もなく淡々とカーテンを繋ぎ合わせ、脱出するためのロープを作った。そして近くに結んで強度を確かめると、こちらを向いた。
「お先にどうぞ」
ギュンターはそれをきっぱり断った。
「いや、おまえが先に行け」
「疑ってる?俺が飛び降りないんじゃないかって」
「疑われる要素はないって、断言できんのか?」
フリッツは顔を俯け、小さく笑った。「敵わないね」と小さく呟く。
その途端、彼の身体がぐらりと傾いだ。こちらに倒れ掛かってくる格好になり、ギュンターは咄嗟に肩を支えてやる。どうしたんだよ、と言いかけたときだった。
最初、何が起きたのかわからなかった。左足に熱さを感じたときには、すでにフリッツは身体を離し、こちらを見下ろしていた。ギュンターはそこでようやく、自分の太腿に短剣が突き立っているのを認識した。
崩れ落ちそうになるのを、今度はフリッツに支えられる。何か言わなければいけない。頭では必死にそう訴えているのに、口から漏れるのは荒い息遣いと、短い呻きだけだった。
最後に見たフリッツは、穏やかに微笑んでいた。外に突き飛ばされる直前、「ありがとう」と彼が囁いた気がした。風を切り、親友の姿は瞬く間に遠ざかっていく。
茂みが身体を包み、視界を覆った。左足から激痛が駆け抜ける。それでもギュンターは懸命に残りの手足を使い、なんとか這い出した。カーテンで作ったロープは二階からすでに回収されていたので、もう一度審問所の入り口へ向かおうとするも、いつの間にか駆けつけていた仲間達に止められる。
「放せよ!まだリッツが中に――!」
振りほどこうともがくが、どうにもならなかった。
「ギド……もう無理だ」
バルテルの悲痛な声で、やっと我に返る。そして一気に力が抜けていく。
「なんでだよ……!」
振り絞った声は、届くことなく、儚く虚空で消えていく。すでにフリッツは、窓際から立ち去った後だった。
悔しくてたまらなかった。最後まで嘘で塗り固めてしまった親友と、そこから助けられなかった自分自身が許せなかった。
「くっそおおおおおお!」
まるで見計らっていたかのように、炎が建物の二階を包み込んでいく。審問所全体が赤く染まり、ゆらゆらと揺れる。静寂の中、空高く上がっていく煙が、終わりの時を告げていた。
彼女はベッドの中で、目を覚ました。
「久しぶりだね、セレーナ。気分はどう?」
ヨハネスが話しかけると、セレーナはこちらを見て、隣にいるルイーダに気づき、最後にブラントへ目をやり、僅かに口を開いた。
「シェリー……!」
ルイーダが感極まった声で呼ぶと、セレーナはゆっくりと微笑み、「姉さん、会いたかった」と応えた。その一言は、ルイーダを少なからず驚かせたようだった。
姉妹が抱き合って再会を喜んでいる様は、彼女達が素直な思いを共有できるまでに長い年月がかかったことを物語っていた。
ルイーダに促されるように、セレーナは父へと目を向けた。およそ十年ぶりに、互いの視線が交じり合う。けれど、どちらも先に話すのを躊躇っている様子だった。そして二人同時に、口を開く。
「セレーナ、悪かった」
「父さん、ごめんなさい」
「おまえが謝ることじゃない」
「違う、悪いのはわたしなの」
最初の一言とは打って変わって、怒ったように言い合う様は、まさに親子だった。ヨハネスは思わず、ルイーダと顔を見合わせた。
親子は一瞬睨み合ったが、それ以上の会話は必要なかったようだ。ブラントがセレーナをしっかりと抱きしめる。セレーナは父の腕の中で目を閉じる。まるで少女の頃に戻ったかのように、無垢な笑顔で。
場が落ち着いた頃を見計らって、ヨハネスはセレーナに今の状況を説明する。自分達がヘヴン亭にいること、尋問所の前では暴動が起きていること、ギュンターもまだ戻ってきていないこと。
聞くうちに、セレーナの表情も厳しくなる。そして我慢できないとばかりに、毛布を跳ね除けた。
「ギドのところへ行く」
無理に起き上がろうとするので、慌てて三人がかりでセレーナを止めにかかる。
「その身体じゃ無理だよ、セレーナ」
「いいの、放して」
「よくないよ!」
セレーナは驚いた顔でヨハネスを見上げる。正直なところ、声を上げたヨハネス自身が驚いていた。声を荒らげるつもりはなかったのだが、つい熱が入ってしまった。「あ、ごめん」と言いかけるのを我慢し、この機会を逃すまいと続ける。
「ギドはセレーナのために、今日までずっと頑張ってきたんだ。今もきっと、迷ったり苦しんだりしながら、あそこで戦ってる。だから帰ってきたときに、君が笑って出迎えてあげないと、だめなんだよ」
「ヨハネス……」
「大丈夫。僕がギドを探しに行くよ」
「――わかった。ありがとう」
ヨハネスはひとつ頷くと、ルイーダにセレーナの看護を頼み、宿を出た。
審問所へ着く前から、事態が悪化しているのは容易に察しがついた。あの町一番高かった建物から火の手が上がっている。ヨハネスの足は自然と速くなる。医療鞄を持ってきたのは正解だったかもしれない、と思う。
そのとき審問所の方から、人が駆けて来るのが見えた。相手もこちらに気づいたようで、大きく手を振ってくる。駆けてきたのはアヒムだった。手を振り返そうとして、けれど結局、ヨハネスはそれを取りやめた。アヒムが青い顔をして、今にも泣きそうだったからだ。
「ヨハン、ギドが――」
不安を振り払い、ヨハネスはアヒムの肩に手を置いた。
「案内して。話は、行きながら聞くよ」
宿を飛び出していったヨハネスの背中を見やり、エルヴィンは少し離れた所にいるヘルタへ声をかけた。
「どうやら、セレーナが目を覚ましたようですね。行かなくていいんですか?」
「私が行って、何を話すというの?あの子を刺激するだけでしょう」
ヘルタはこちらを見もせず、つっけんどんに返す。しかし彼女がこうして宿の前を右往左往していたのは、やはり迷いがあったからなのだと、エルヴィンは思う。いや、ここに来るずっと前から、迷い続けてきたのだ。
最初エルヴィンから見たヘルタは、傍観者を気取ってついて回る、煙たい存在でしかなかった。法廷にまでついてきたときは、さすがに辟易したものだ。
しかし、法廷でのやり取りや、ギュンター達の活動を見るうちに、彼女は少しずつ変化していった。そして完成した嘆願書を手にしたとき、彼女の仮面は剥がれ落ちた。そのときの涙が、審問の行く末を大きく変えた。
ヘルタは堂々と証言台に立ち、「セレーナ・リーベルトの母親、マリア・リーベルトは魔女ではありません」と、自分の罪を洗いざらい言ってのけたのだった。
証言を終えた日、二人になったとき、エルヴィンが改めてヘルタに礼を言うと、彼女は自嘲気味に笑い、ぽつりと話し出した。
「ここまで来たのは、息子の影響なのよ」
「息子さんがいらしたんですか」
「ええ、リーベルト家の末っ子と同じ歳のね。それで息子が、その末っ子のことについて話したことがあるのよ。“あの子はどんなに苛められても、自分のお母さんが魔女だと認めないんだ、家族の悪口を言われると、何度でも立ち向かっていくんだ”って。そして私に尋ねるの。“どうしてお母さんは、あの子のお母さんを魔女だと言ったの?”って。そのとき、確かだったはずの答えを見失ってしまったの」
「新たな答えは、見つかりましたか?」
「さあ、どうかしら」
最後に隠してしまった心の欠片を拾い上げるのは、エルヴィンにも、他の誰にも不可能だ。そう、今日の対面を除いては。
「セレーナも、あなたに会うことで、ひとつ区切りがつけられるのではないですか。無理に話す必要はないと思いますよ。ただお互いに顔を合わせて、何もなければ黙って出てくればいいんです」
「弁護士なのに、おかしなことを言うのね」
形ばかりの皮肉に微笑んでみせると、ヘルタは小さく肩を竦めた。
部屋のドアをノックすると、セレーナの声で返事があった。エルヴィンに続き、ヘルタが姿をみせると、セレーナは僅かに顔を強張らせた。二人の間に沈黙が下りる。口を開いたのはセレーナの方だった。
「礼は言わない。何も聞きたくない」
「……そうでしょうね」
素っ気無い言い方に合わせるように、ヘルタもそれだけ返す。二人の会話は、そこで終わってしまったかに見えた。
「でも」セレーナは真っ直ぐな目で、ヘルタを見据える。「過去に囚われるのは、もう終わらせるべきだと思う。あなたも、わたしも」
ヘルタは一瞬動きを止め、それから大きく息を吐き出した。まるで息をすることすら、忘れていたかのように。
「――そのとおりね」
踵を返し、部屋を出ていくヘルタの横顔が見えたとき、エルヴィンはここに来てよかったと思った。彼女はきっと、最後の欠片を拾い集めたに違いなかった。
アヒムに連れられて審問所の前まで来たヨハネスは、一瞬言葉をなくした。審問所は無残に焼け落ち、集まっていた人達で消火活動が行われていた。遠くで見たときよりは火の勢いも弱まっているので、他への延焼は防げたようだ。
そう、異端審問所だけが焼け落ちたのだ。町に住む人達の手によって。
この瞬間ヨハネスは、歴史の流れがほんの僅かに変わったのを感じた。それは船が往来できるような河に、拳ひとつほどの支流ができるようなものかもしれない。けれど、そこには確かに水が流れている。アグリッパがこの光景を見たら、何を言うだろうか、と思う。あまりに強引なやり方だと呆れるか、攻撃的な彼の気質を考えると、案外気に入ってしまうかもしれない。
ただヨハネスは、手放しで喜ぶことなどできなかった。その代償があまりに大きかったからだ。地面に座り込むギュンターの元へ駆け寄ると、彼は虚ろな目を向けた。
「話はアヒムから聞いたよ。……辛かったね」
ギュンターは応えることなく、視線を審問所へと戻す。ヨハネスも、それ以上言葉を続けることはできなかった。
とにかく治療することに頭を切り替え、足の傷を診る。幸い深く刺されてはいなかったようで、止血してあった布を解いても、思ったほどの出血ではなかった。この傷ひとつからも、フリッツが最後まで悩んでいたのではないか、という想いが垣間見える。
応急処置を施す間、ギュンターはなすがままになっていたが、宿に移動するのは頑として受け入れなかった。
「最後まで見届ける」
そう言って、瓦礫の山と化していく審問所から離れなかった。ヨハネスも他の仲間達も、結局共に成り行きを見守った。
消火も終わり、人々が徐々に散っていき、沈黙が訪れ、辺りはすっかり暗くなった。
やがてギュンターは、仲間達の手を借りて、ゆっくりと立ち上がった。そして、一人で瓦礫の山へ向かおうとする。
「あいつを探してやんないと」
亡霊のように、そう呟く。
「ギド、その足で歩くのは危ないって!」
「そうだよ、それにこの暗さじゃ探しようがないし」
それでも耳を貸さないギュンターの前に、バルテルが立ちはだかった。
「いい加減にしろ!」
迫力ある一喝に、ギュンターもようやく足を止める。
「リッツはそんなこと望んでねえぞ。刺されたおまえが一番よくわかってんだろ。今やるべきことは何だ?帰りを望んで待ってる奴の所へ戻って、支えてやることなんじゃないのか?」
バルテルに言われ、ギュンターははっとしたように「アン……」と呟いた。
「だからおまえは、その足を治すことにしっかり専念しろ。リッツのことは、俺らに任せとけ」
「……頼む」
話がついたところで、ヨハネスはギュンターを連れて行こうと歩み寄る。「帰ろう」と声をかけると、ギュンターは素直に頷いた。
立ち去る際、バルテルに呼び止められて振り返る。
「頼むな、ヨハン」
ヨハネスは力強く頷いた。
宿に戻ると、まだ部屋には明かりが灯っていた。中にいたのはセレーナ一人で、他は別の部屋で眠りについたらしかった。ギュンターが戻ってくるのを、ずっと待っていたのだろう。そして彼女は、ギュンターを見た途端、何があったのかを察したようだった。
「おかえり、ギド」
ベッドの縁に腰掛けるギュンターを、両腕で優しく包み込む。
「そういうときは、泣いていいの」
その一言が、ギュンターの心を呼び覚ました。震える背中から目を離し、ヨハネスはそっと部屋を出た。
異端審問所が焼け落ちてから、二週間後。町に入る正門を背にして、ギュンターは父と対峙していた。
父の隣には母が寄り添い、背後には馬車と数人の部下が控えている。一行はこれからクラーヴを離れ、パリへ向かう。騒動の件は、一足先にゲオルグが伝えているので、後は上の判断を仰ぐことになるらしい。先行きの明るい旅ではないだろうが、裁く拠点が無き今、異端審問官の場所はこの町にない。
積荷は驚くほど少なく、旅の支度は簡潔かつ速やかに行われた。見送りはギュンター一人だ。人気のない早朝に旅立つのは、急いでいるだけではないだろう。
当然の報いだとは思う。わかってはいるが、それでも。寂しさを感じずにはいられない。父は彼なりの方法で、この町の平和を守ろうとしてきたのだ。皆から恐れられると同時に、尊敬を集めた。ギュンターも、いつも周りから羨ましがられてきた。だからずっと、父が世界で一番の憧れであり、目標だった。そして今も、それは変わらない。
「腹の傷、どう?」
「おまえに心配されるほどやわじゃない」
「――ああそうかい。余計なお世話だったな」
久しぶりに交わす父子の対話は、実に素っ気無いものだった。父の顔は、いつも以上に不機嫌だ。理由はわかりきっている。ギュンターが見送りにきたことが、気に食わないのだ。
父はきっと、このまま二度と会わないつもりだったのだろう。だからギュンターに何も告げないまま、旅立とうとしていたのだ。母がこっそり伝えてくれなければ、この機会は実現しなかった。
騒動の後、ギュンターは一度実家を訪れ、父の容態を確かめようとした。ヨハネスも自分にできることがあるならと、同行してくれた。しかし二人は、玄関口で母から丁重に門前払いを受けた。誰一人中に入れるなと、父に言われているらしい。
家族でもか、と喉もとまで出かかったが、母を困らせるだけなので、そのときはおとなしく引き下がった。仮に家に入れたところで、父に追い返されるのも目に見えていた。頑固とは、まさに彼のためにある言葉だ。
嫌がられるのを承知で、ギュンターは今日、父と最後の別れを告げるために、ここに来た。話しておきたいことが、いくつかあったからだ。ひとつ聞きたいんだけど、と切り出すと、父は何も言わず、黙って先を促した。
「あの日、リッツと何があった?」
「話す気はない」
何で、と食ってかかるギュンターを制し、「本人が望んだことだ」と父は答えた。「おまえにだけは、決して言うなと」
それを聞くと、だろうな、と思う反面、やはり複雑になる。フリッツが最後に信じたのは、自分ではなく、父だったということなのか。死ぬ間際まで嘘を積み重ね、一人去っていった背中だけが、真実だったのか。父に真相が託された今、もはやギュンターが知る術はない。
「結局、俺は必要なかったってわけだ」
父は否定も肯定もせず、ギュンターを見据えていた。ひとつ間を置いた後、口を開く。
「自分の目で見ただろう。それが答えだ」
「あいつは最後まで、嘘ついてたんだよ。わかるわけ――」
頭の中で、不意に問いが投げかけられる。本当に、そうだっただろうか。――違う。あのとき、フリッツが最後に囁いた“ありがとう”の意味。そして、寂しげに浮かべた微笑。あの瞬間だけが、ギュンターに見せた、唯一の素顔だったとしたら。友を信じていなかったのは、彼ではなく、自分の方だったのかもしれない。
「遅いんだよ、馬鹿。死ぬ間際じゃ、助けられねえじゃんか……」
「馬鹿はおまえだ」
その冷たさも、今はありがたかった。おかげで父の前で泣くことだけは、堪えられる。しかし次の言葉は、さすがに胸に刺さった。
「おまえが、あそこまで追い詰めたんだ」
「俺は、二人とも助けたかった!」
たとえそれが、甘い考えだと言われようと。どちらか一人しか救えないと、決まっていたとしても。選べるわけがなかった。
もし、この結末がわかっていたら、今からでもやり直せるとしたら。自分はどう動けばよかったのか。どこから、戻ればいいのか。永遠に失われた未来に、答えなどあるはずもなく、ギュンターの手の中から虚しく滑り落ちていく。
「生きていれば、すれ違いや争いが起こるのは必然だ。だから――」父は、フリッツが眠る墓の方へ目をやりながら、静かに言葉を繋ぐ。「その死を無駄にするな。生きていることに責任を持て。それが唯一の償いだ」
「……重いな、生きるって」
「今更わかったか」
「親父でも、重いって感じるときがあるんだな」
「歳を重ねると尚更だ」
「なんか、じじくさい台詞」
間髪いれず、容赦ない拳骨が振ってくる。物心ついたときから、数え切れないほど受けてきた痛みだ。散々泣かされ、その度に打たれ強くなった――はずなのに。今でも胸にこみ上げてくるものがある。やっぱり敵わないな、と思う。
「やめろよ、異端審問官」自分でも予期せぬタイミングで、本音がポロリとこぼれだす。「ここにいたらいいじゃん。農作業でもやってさ、地味でも一生懸命働いてたら、皆受け入れてくれるって。俺も手伝うし、母さんとアンと四人で――」
「やめるつもりはない。過ちを犯したとは思ってないからな」
澱みない回答だったが、それはどことなく、本心ではないように感じた。「あいにく、居場所はまだ腐るほどある」とわざわざ付け加えるところが、彼らしくなかったのもある。
父は一体、どれだけの責任を背負ってきたのだろう。きっと母にすら見せることなく、ずっと一人で耐えてきたように思う。真っ直ぐに突き進んできた道を、一度でも踏み外せば、闇に堕ちてしまうことがわかっていたから。だからこそ、父にしかない強さがある。年月をかけ、脆さを克服した強さが。
「――やっぱりな。そう言うと思った」ギュンターは頭に手をやり、にっと笑った。最後くらい、気持ちよく別れたかった。「元気にやれよ。余計なお世話だろうけど」
そのときほんの微かに、父が笑ったような気がした。それから、目だけで後方を促す。そこでは母が、声を殺して涙を流していた。
ギュンターが近づいていくと、母は顔を上げ、涙を拭いて笑いかけてくれた。腕を伸ばし、優しさに包まれ、彼女の息子になれてよかったと、改めて思う。だから今までの感謝も、別れの言葉も、父のときとは違い、素直に伝えることができた。母が最後に言う。
「手紙、送ってね。あの娘と一緒に」
「おう、わかってる」
馬車に乗り込む母の後姿を見送っていると、いつの間にか父が隣に立っていた。並ぶと、やはり頭半分くらい向こうが高い。結局抜かせなかったな、とぼんやり思う。
「あのさ」
「セレーナ・リーベルトは、どうしてる?」
ギュンターは驚いて、父の横顔を見た。まさに今、そのことを切り出そうとしていたからだ。まさか向こうから振ってくるとは、思っていなかった。
「順調に良くなってる。足は使い物にならないけど、他は支障ないってさ」
「そうか」
「けど、傷はたぶん残る。鞭打たれた背中とか、あちこちにある火傷の痕とか」
「そうだろうな」
何か言うかと思ったが、父はそれ以上、何も言わなかった。むしろギュンターが口を開くのを、待っているように見えた。またひとつ、背負うつもりなのだろうか。ギュンターは小さく息を吸った。
「あいつ、ずっと親父に言いたかったらしいんだ」
実際、先程の父の覚悟を聞くまでは、そうするつもりだった。辛辣な言葉をぶつけてやりたかった。まだ外に出られないセレーナの代わりに。
しかし彼女がギュンターに託したのは、そうではなかった。
「“忘れない”ってさ。受けた傷も、助けてくれたことも、両方」
父の眉が、ピクリと動く。
「何かよくわかんねえけど。そう言えばわかるってさ。くっそー、皆俺に隠し事ばっかりなんだよな。そんな信用ねえのかな」
「……強いな、おまえの女は」
え、とギュンターは聞き返す。しかし父が繰り返すことはなかった。ぽん、とギュンターの肩に手を置くと、黙って歩き出す。ギュンターも黙って、その後姿を見送った。
馬車に足をかけるのと、「親父!」とギュンターが叫んだのは、ほぼ同時だった。父が振り返ることはない。が、ギュンターは深く頭を下げた。
「今日まで、世話になりました!」
「――立派になったな」
呟くような声を、風がしっかり運んでくれる。ぽとり、と足元の地面が濡れた。父からの最後の贈り物は、ずっと求め続けてきた。最高の一言だった。
馬車がゆっくりと遠ざかっていく。ギュンターは音が聞こえなくなるまで、そのままずっと動かなかった。
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