第34話 それぞれの想い
セレーナが連れてこられたのは、いつもの拷問室だった。これでもう二十一回目になる。フリッツが調べたところによると、ここでの最多記録にあたる。地上に顔を出す機会など皆無だったので、現在裁判で起こっている変化など、知る由もないだろうに。ギュンターが町に戻ってきたという知らせだけが、彼女にとって唯一の心の支えになっているようだ。
しかし今回で、その希望は潰えることになるだろう。いつになく周囲に緊張感が漂っているのを、彼女もすでに気づいたはずだった。そして直に思い知るだろう。ギュンターの声は、決してこの地下まで届かないことを。
部屋の中央にある黒い鉄製の椅子は、これまでにも幾度か使われたことがあった。あそこに拘束されて、彼女は手の指の爪を剥がされ、両方の小指を万力で握りつぶされたのだ。
苦痛を受けた当の本人は、過去に恐れおののくことなく、毅然とした態度でゆっくりと椅子に腰を下ろした。二人の男が、彼女の素足に鉄製の器具を嵌めていく。それは膝下まで覆う、ロングブーツの形式だった。
装着し終えると、男達は後ろへ下がった。以前のように拘束されることはなかった。もっとも、ブーツの重さだけで充分な足枷になっていたし、今のセレーナには自力で歩く力など残っていなかった。
オスヴァルトが感情のない声で言う。
「これから三つの質問をする。正直に答えなければ、あそこに足を突っ込んでもらう」
指差す先は、部屋の奥に鎮座する暖炉だった。役割のない夏の今の時期は、すっかり影を潜めている、はずだったのだが、そこには新しい薪がくべられ、点火を待ち受けていた。鉄と炎。そして先程の男達が手にするハンマーを見ても、彼女は表情を乱さなかった。こちら側が一刻も早く、自白を欲しているのを察しているかのように。
「ひとつ。おまえは自分を魔女だと認めるか?」
尋問が始まる。一生を左右する、たった三つの質問。
幾度となく同じ問いを繰り返されたが、これほど重く響いたのは、最初の審問以来だった。その度に貫き通した答えが、一点の迷いもなく発せられる。
「いいえ、認めません」
「ふたつ。おまえはどのような方法で魔女になった?」
「わたしは魔女ではありません」
ゲオルグが低い声で、「愚かな女だ」と呟く声が聞こえる。
「最後の質問だ。おまえを唆し、罪を犯すよう仕向けた悪魔は、今どこにいる?すでに他の者に憑いているなら、その名を挙げろ。場合によっては、それでおまえの罪が軽くなる」
「代わりに別の誰かを火にかける?」セレーナは薄く笑みを浮かべる。「そんなわけない。あなた達が欲しいのは、わたしを殺した後でこの椅子に座らせる代わり。そうやって、恨みと復讐の連鎖が続いていく。――終わりにするの、何もかも」
オスヴァルトは無表情のまま、セレーナを見据えていた。奇妙な沈黙が、二人を、そしてこの部屋全体を包み込む。二人は互いに睨み合い、目に見えない何かをぶつけ、戦わせているように感じられた。スタジアムに立つのは彼らだけで、他はただの観客に過ぎない。
じれったくなったのだろう、ゲオルグが横から何か言いかけたとき、ようやくオスヴァルトは沈黙を切り裂いた。
「質問は以上だ。やれ」
待機していた男達が、素早く暖炉に点火する。火はたちまち燃え広がり、ゆらゆらと不気味に揺れる。これから飲み込むものを、待ち焦がれているかのように。
ブーツごと、セレーナの足が火にくべられる。耳をつんざくような絶叫が響き渡った。さすがの彼女でも、苦悶で歪む顔からは先程の気高さが失われている。フリッツの心の奥で、それにどこか安堵している、胸糞悪い自分がいた。
熱をもったブーツに、二つのハンマーが打ち下ろされる。何度も何度も同じ作業が繰り返され、ブーツはぼこぼこになっていく。やがて解放された足は、原型をなくし、見るも無残な状態になっていた。誰が見てもわかる。あの足ではもう、自分で処刑台へ向かうことさえ不可能だろう。
椅子に座るセレーナは、力尽き、ぐったりとしていたが、やがて手すりに手をかけ、ありったけの力を込め始めた。ぐぐっと少しだけ体が持ち上がる。慌てて男達が抑えようとするが、「好きにさせろ」とオスヴァルトが制止する。
足が僅かに動くたび、彼女は苦痛で顔を歪める。荒い息を吐くと、唇から血が滴り落ちる。拷問中に自分で噛み切ってしまったのだろう。場は異様な静けさに満たされていた。皆が固唾を呑んで、事の成り行きを見守っている。
彼女は何がしたいのか、見当もつかないが、わかりたいとは思わなかった。この場で一人、本人だけが意地になり、どうにかしてその何かをやり遂げようと、躍起になっていた。
全身を震わせながら、セレーナはようやく立ち上がった。足は不自然な方向に向いたままで、膝は今にもバラバラに崩れていきそうだった。
意識が飛びかけながらも、彼女は周囲を囲む審問員達を見回した。挑戦的な目は相変わらずで、睨まれた審問員達の方が、逆に身を竦ませている風に見えた。フリッツはそんな彼女の視線を、あえて正面から受け止めた。二人の間で交わした無言の会話は、ごく一瞬だった。互いにわかり合える日は決して来ないことを、悟ったからだった。
そして最後に彼女は、オスヴァルトと向き合った。
「悪魔がどこにいるかって、言ったでしょ?」
荒い息を吐きながら、問いかける。オスヴァルトは黙したまま、続きを待っている。
「悪魔なんて見たことないから、わからない。でも母が殺されたとき、わたしの中には、確かに闇があった。いろんなものを覆い隠して、全てを拒絶した。火をつけたときも、凶器を手にしたときも、心はいつも空洞で、真っ暗だった」
――そんなことは珍しくもなんともない。わざわざ悲劇ぶった話し方をするな。
そう叫びたい自分を、フリッツはどうにか抑え込む。
「もしあれが悪魔だというのなら、もう居場所なんてわかりっこない。心の闇がない人なんて、きっとこの世にいないから。自分を守るため、誰かを守るためでさえ、いつでも闇はどこかに潜んでる。真実から、簡単に目を逸らさせてしまう。――もし、悪魔が本当に存在するなら、それはわたし達全ての、心の中に宿ってる」
「ついに気がふれたか!これこそ悪魔の言葉だ!」
ゲオルグが震える声で、唾を撒き散らす。「殺せ!今すぐ処刑台に上げてしまえ!」激しく腕を振り回すが、応える者はいない。オスヴァルトは静かに息を吐き、目を瞑る。他は誰もが、行き場を失った目で、その場を動けずにいた。
セレーナは畳み掛けるように、最後の一言を吐き出した。
「闇に打ち勝つことは、難しいかもしれない。でも光を当てることなら、できる」
体力はとうに限界を超えていた。言い終えると同時に、彼女はその場に崩れ落ちる。もう二度と、あの足は使い物にならないだろう。それでも彼女は、この場に確かな爪痕を残した。舞台の主人公が気を失うと、脇にいるのは審問員になりきれず、自らの闇に戸惑う情けない男達だった。
「二度目だ、それを聞くのは。君達は本当に気が合うんだね」
込み上げる笑いは、抑えたつもりだったのに、気づけば部屋中に響き渡っていた。全員の視線が、セレーナからフリッツへと移る。ゲオルグが目を怒らせ、「何がおかしい?」と凄む。
フリッツはそれに答えず、倒れる勢いで壁にもたれた。顔を上げると、オスヴァルトの鋭い視線とぶつかった。
「もう終わりですよ」彼に向かって言う。「この町は変わる。あなたの作り上げてきたものが、あなたの息子によって壊されるとは、皮肉な話ですね」
「――それで、復讐を果たしたつもりか?」
表情とは裏腹の、穏やかな声だった。全てを見越した上での問いだった。彼はフリッツの過去を知っていた。魔女として処刑された一人の老婆と、隠れた孫の存在を。
だからずっと、内心怯えて過ごしてきた。いつオスヴァルトから、「もう息子に関わるな」と言われるか。修道院で「おまえは異端審問官に相応しくない」と追い返されるか。そして、ギュンター達にいつ真実を知られるか。どんなに信頼できる間柄でも、打ち明けるわけにはいかなかった。
あのとき、あの少年時代、“魔女狩り”などやっていなければ。見つけた魔女が、母の見捨てた祖母でなければ。祖母が宗教に拘らず、母と同じく改宗していれば。全てが悪い方向に向かった結果、自分は何も知らないまま、祖母を処刑台へ上げてしまった。
「殺したの?」と母は言った。「何て恐ろしいことを……」と。
「血は争えないか」と父は吐き捨てた。そして穢れたものでも見るような目つきで、こちらを指差した。
「おまえの半分はユダヤ人なんだよ、フリッツ」
そのときから、フリッツの中にどす黒い何かが流れ込み、片隅で沈殿するようになった。それは事あるごとに容量を増し、泡だって、大きな波飛沫をあげた。
最初は母を憎んだ。祖母を見捨て、自分を見捨て、挙句妹達を連れて逃げていった母を。次に、さっさと新しい女を見つけ、自分の居場所を奪った父を、そして死ぬまで頑なに改宗しなかった、哀れな祖母を。それでもまだ納まらず、祖母を殺したオスヴァルトを、そしてそんな父親を誇りに思うギュンターまでを。
けれど何より嫌悪していたのは、全てを誰かのせいにしようとする自分自身だった。一人で空回りしていたのだ。復讐に身を焦がしていることにすら、気づいていなかった。今更悟ったところで、もう後戻りできないことは、フリッツ自身が一番よく理解していた。
「さっき彼女が言ってたじゃないですか」自嘲気味に言う。「復讐に終わりなんてありませんよ。元々の始まりなんてあやふやで、だからどんどん収拾がつかなくなるんです」
そうして、ただ心が欠けていくだけなのだ。全てがなくなったとき、人間はどう生きていくべきなのだろう。光を当てたところで、そこには“無”しかないと思い知るだけだというのに。
フリッツは倒れているセレーナの側にひざをつき、短く囁く。
「よく頑張ったね。もうすぐあいつが迎えに来るよ」
その言葉に、ぴくりと反応があった。意識があるようには見えないので、偶然だったのかもしれない。
いくつもの視線に背を向け、歩き出す。この部屋から一刻も早く逃げ出したかった。かろうじて持っていたプライドの欠片が、無様に走り出すのを抑えていた。
後ろから追いかけてくる足音がするが、「放っておけ」というオスヴァルトの声ですぐにやんだ。ゲオルグが唸るように、「覚えておけよ」と吐き捨てた。一段一段踏みしめながら、フリッツは階段を上っていく。
外に出ると、太陽の強い光が降り注いだ。恨めしげに空を見上げ、眩しさに目を細める。今まで行ってきたこと全てが馬鹿らしくなって、力なく笑った。光はじんじんと全身に染み込んでいく。まるで太陽が、このまま蒸発してしまいたい気持ちを察しているかのように。
意識を取り戻すと、すでに辺りは暗闇に包まれていた。冷たい鉄格子が、セレーナを現実へと引き戻す。
ゆっくりと上半身を起こし、そっと足に手を当てる。医師によって多少は治療されたらしく、一応本来の形に近づいている。だが自分の意思で足を動かすことは、もはやできなかった。
目を閉じれば、木から木へと飛び移る景色が鮮やかに蘇る。高い場所にいれば、辛いことから解放された気分になれた。
小さい頃は両親に叱られると、よく家を飛び出して、屋根や近くの木に上がって、一人こっそり泣いていた。しばらくすると、いつも母が迎えにきてくれた。どこに隠れていても、必ず見つけてくれた。「もう、またそんなところによじ登って」と、おかしそうに笑いながら。
年に一度の祭りで、町の子ども達で集まってダンスを踊ると、父は必ず「シェリーが一番上手だったよ。将来は踊り子になれるな」などと褒めてくれるのが、たまらなく嬉しかった。
ギュンターと出会ってからは、競争したり、馬に乗ったり、コニーの酒場でダンスをしたり、たくさんの思い出ができた。この足がなければ、全ては実現できなかった。
――ここを出るまでは、絶対泣かない。
そう心に決めていたのに、込み上げる勢いは止まらない。光がどんどん遠ざかっていく気がした。これからどうやって生きていけばいいのか、わからなくなってしまった――。
どれだけ時間が経ったかわからない。独房の外が俄かに騒がしくなり、セレーナは顔を上げた。数人が小声で話し合っているようだが、内容までは聞き取れない。だが声の雰囲気からすると、彼らにとって、なにやらよくないことではあるようだ。
新たに階段を下りてくる足音に、全員がぴたりと話をやめた。皆が固唾を呑むなか、下りてきた男の声が、セレーナの元にまで届く。
「今、判決が出た」
「どうなんだ!?」上ずった声で、看守が急かす。
「……見事に覆った。ヘルマン審問官の名声が、初めて揺らぐぞ」
再びどよめきが大きくなる。そのなか、新たに階段を下りてくる音がした。足音はどよめきを通り過ぎ、こちらに向かってくる。
セレーナの前に現れたのは、二人の男だった。一人はいつもの看守だが、もう一人はエルヴィンという弁護士だった。拷問を受ける前、数回話したことがある。その度に、いつも励ましの言葉をかけてくれる、強くて前向きだった印象がある。彼の穏やかな顔が、セレーナを見て、一瞬辛そうに歪む。そして溜息と共に、「間に合ってよかった」と呟いた。
看守が鍵を外し、鉄格子が外側に開く。エルヴィンだけが中に入ってきて、セレーナの側で膝をついた。
「弁護士のエルヴィンです、久しぶりですね。セレーナ・リーベルト。あなたは魔女として悪事を働いた件について、無実を認められました。よって、ここから解放します。――三ヶ月間、よく頑張ったね」
その一言で、セレーナの全身から力が抜けていく。思い出したように、疲労と痛みが押し寄せ、鉄格子に頭をもたせ掛ける。エルヴィンが咄嗟に支えようとするが、セレーナはゆるゆると首を振って断った。鉄の冷たさが、今は不思議と心地よかった。
「これで、終わったんですか?」擦れた声で尋ねる。
「そう、全部終わったんだ。君はもう自由の身だよ」
エルヴィンは力強く頷くが、どうにも実感が湧いてこない。まだ僅かに残った冷静な自分が、完全に気を許すなと警鐘を鳴らす。
「あなたは魔女の件で、と言いました。でも教会を放火したことや、聖職者を傷つけたことは、ごまかしようのない事実です。あの人達が許すはずない」
エルヴィンは驚いたように、目をしばたたかせた。ちらりと哀れむ表情が浮かぶが、すぐに気を取り直し、丁寧に経緯を話してくれた。
まずこの審問が終結したのは、セレーナの筋道だった供述と、自白を拒絶し続けたことが、功を奏していること。加えて、親が魔女として処刑されても、その子どもに罪はないとして、無実となった前例を取り上げたこと。
何より決定的だったのは、マリア・リーベルトを告発したヘルタ・クラウゼンが、当時告発した経緯と、魔女と断定する証拠はなかったと、証言したことだった。
「あの女――!」
激しい憎悪が体中を駆け巡り、セレーナは拳を鉄格子に叩きつけた。今更何を言ったところで、母は戻ってこない。あの女の罪は、一生消えない。けれど、どんなに望んでいなくても、自分が助けられたことは事実だ。
感情を飲み込む間、エルヴィンは何も言わず、待っていてくれた。目が合うと、彼はもうひとつの事実を語った。それはある意味ヘルタの登場以上に、セレーナを驚かせた。
「父が、来てるんですか?ここに?」
そうだよ、とエルヴィンは微笑む。「お姉さんもご一緒にね」
父が、助けに来てくれた。
その事実が、どうしても受け入れられなかった。一度捨てたくせに。だから嫌いだといったのに。あんなにも、父を憎んだのに。今更どんな顔をして、家族に会えばいいのだろう――。
そのとき、また地上から下りてくる足音が聞こえてきた。今度のは随分と大きく、荒々しい。
「ああ、やっぱり待ちきれなくなったか」エルヴィンが苦笑混じりに言う。「迎えに来たようだよ、君に一番会いたい人が」
「そこどけ、あほ面ども!俺の顔を忘れたか!」
セレーナははっと顔を上げた。ずっと聴きたかった声が、近づいてくる。
「――ギド」
「おまえ、性懲りもなく!ここは関係者以外、立ち入り禁止だ」
「全くどの面下げてきやがった!」
行く手を阻む看守達が、負けじと怒鳴り返す。先程の弱気はどこへやら、まだ僅かな威厳に縋りついているようだ。
「そうか上等だ!昔みたくトマト爆弾喰らいたいなら、いつでもおみまいして――」
「ギド!」口論を遮り、セレーナはもう一度、声を限りに呼びかける。
「アン!」
今度は届いたようだ。看守の壁を押し分け、ギュンターが駆けつけてくる。鉄格子を越え、二人はついに顔を合わせた。
目が合った途端、セレーナは一瞬後悔に襲われた。自分がどんなにひどい様相をしているか、不意に思い出したからだ。体中に傷を残し、汚れていない箇所などどこにもない姿を。独房の臭いがすっかり染み付き、悪臭となって漂う姿を、彼にだけは知られたくなかった。
セレーナはそっと目を逸らす。エルヴィンのような哀れみの視線を、受け止める自信がなかった。
「待たせたな。もう大丈夫だからな」
顔を上げると、すぐ目の前に、満面の笑みが広がっていた。一点の曇りもない、清々しい笑顔。今この時のために、自分は生きてきたのだと思う。世界で一番大好きな人に、出会うために。
力強く抱きしめられて、胸いっぱいに彼の匂いを吸い込む。大きな温かさに包まれて、ようやく自由の身になったのだと実感する。
「ありがとう。――会いたかった」
ギュンターはセレーナの背中をやさしくさすってくれる。言葉はなくても、同じ気持ちなのだということが、その手から伝わってくる。
「おかげで、まだ生きられる。これから頑張るから、だから、また側にいさせて」
溢れ出す気持ちを、なんとか言葉にしたつもりだった。今日この日を決して忘れまいとする、決意の言葉。
しかし返ってきたのは、予想外の反応だった。ギュンターはこちらをまじまじと見て、一言、言ってのけた。
「ブッサイクな顔」
「ちょ、ちょっとギュンター君、女の子に向かってその言い方は――」
エルヴィンが慌てて間に入ろうとする。ギュンターは全く意に介せず、あっさり彼を無視した。
「笑いたきゃ素直に笑えよ。そんで泣きたくなったら、気が済むまで泣け。もう俺の前で、そんな顔すんな」
「だって――!」
「だって、なんだよ?」
助けてもらっておきながら、弱音を吐きたくなかった。不安を口にしてしまったら、それが現実として立ちはだかるのが恐かった。けれど強がっていられるのも、もう限界だった。
「足が……もう動かないの。だから今までどおりの生活に戻るのは難しいと思う。きっと、いろんなことで迷惑をかける。ごめんなさい、それでも――」
「バカか、おまえは」
ぽん、と軽い何かで頭をはたかれる。ギュンターはそれを、セレーナの前に差し出した。丸められた羊皮紙を受け取り、何かと尋ねるも、彼はいいから、とただ手振りで示し、開くよう促した。
結ばれた紐を解くと、最初に目に飛び込んできたのは、『嘆願書』と大きく書かれた文字だった。続けて、裁判員達にセレーナの無実を訴える旨の文言が、数行続いている。どれも不安定で、下手くそに綴られた文字列。
一目見てすぐに、ギュンターの文字だとわかった。自分の名前でさえ、判読不能なほど書きなぐっていたのを、幾度か見たことがある。だからこそ、彼が一字一字心を込めているのが伝わってくる。
そしてその先に目をやったとき、セレーナは息を呑んだ。そこには自分の無実を訴えるたくさんの署名と、メッセージが添えられていた。
『署名には不要なものですが、妻がどうしても伝えたいことがあるというので、ここにセレーナ・リーベルトへメッセージを残します。
言葉は諸刃の刃だと、あなたに会って初めて気づかされました。今こうして、微力ながら力になれることを、とても誇りに思います。
貿易商人
マルクス・ヴァイヤー
妻 サマンサ
坊ちゃんの想いは本物です。あのロザリオが、あなたを希望ある未来に連れて行ってくれることを、心より願っています。
使用人
マテュー
父と母の仕打ちを、どうか恨まないでください。いつかきっと、謝りに行きます。今からでも、従姉と呼ばせてくれますか。
コリーナ・デンホフ
おまえの見事な金髪を切り落としたことは、心ならずもいまだに覚えている。あの時止めてやればよかった。自分を見失うな。
床屋
ホルガー・ダーヴィット
妻 ベッティ
ギドは一生、俺達のリーダーだ。そしておまえは、もうとっくに俺達の仲間だ。
鍛冶職人
バルテル・クラーマー
アンは俺達のアイドルだ!あの最高の笑顔が見たい!どんなに最上級の酒も果実も、君というスパイスの美味には敵わないさ。
果物屋
ヴォルフ・ハーメル
居酒屋
コニー・ドレクスラー
アンがどんな過去を持っていても、僕達は気にしないよ。今を、そしてこれからの未来を、楽しめますように。
役場職員広報担当
デルトルト・フォルカー
牧場経営
アヒム・イステル
エルヴィン先生は俺が最も尊敬する弁護士だから、君は必ず助かるよ。ヨハンとの友情に誓って、断言できる!
弁護士見習い
ハリー・ライモンド
ヨハネス・ヴァイヤーは、一度決めたら何としてもやり遂げる力を持っている。この判決が、歴史を変える大きな一歩になるだろう。
学校長
レギナルト・フェルゲンファイアー
まんまと騙されたよ、妙に綺麗な坊主だとは思ってたんだ。金貨の詫びは、これでちゃらになったよな?
貿易船乗組員
ジャン・ポップ
女はいつまでも蝶のままではいられないわ。あなたが羽を休める居場所は、きっとある。自分の内なる美しさを信じなさい。
娼館主
トゥリア・ライヒェル
あんたのことは大嫌い。どうしてかって?強くて、美しくて、賢かったからよ。図太く生き続けなさい、あんたらしく。
娼婦
アティカ・キストラー
まだ見ぬ小娘。深く感謝することだ。わたしの馬鹿弟子、ヨハネス・ヴァイヤーによって、おまえは必ず自由の身になる。
神学研究者兼、弁護士兼、宮廷医師兼、占星術師…以下略
ハインリヒ・コルネリウス・アグリッパ
修道院で、ギドに出会えてよかった。改めて将来を考える、いい機会になったよ。俺は聖職者の立場から、異端審問を見つめ直すよ。
修道士
アンディ・プレヴィン
君のやったことが規則に反しているのは、事実かもしれない。でも、どうか自分を否定しないで。弱い部分もまた、君自身だから。
修道士
クリストフ・サルー
ここに署名するのを、随分迷いました。でも息子の幸せを願う母親でありたいと、それだけは思いました。
ユリア・ヘルマン
アン、帰ってきたら、全て洗いざらい話してもらうからね。いつまでだって待ってるから、ちゃんと戻っておいで。
パン屋
サブリナ・フェスカ
時代は常に移り変わり、新しいものが生まれ、古いものは廃れていく。魔女が過去となる日も、そう遠くないかもしれんな。
祈祷師
アレクサンダー・ラングニック
あいつは、好きな女を必ず守ると言った。その言葉に嘘はないと思う。だってあいつ、ギュンターは強い男だから。
とある町の路地裏のリーダー
ディータ・アベル
なんとなく覚えてるのは、泣いてる俺を庇ってくれた、姉ちゃんの後姿。今は家族の居場所ぐらいなら、一人で守れるようになった。だからいつでも、顔見せに来いよ。
ディアス・リーベルト ……』
その他にも、クラーヴの人達の名や、はたまた見ず知らずの名まで、署名はどこまでも続いていく。セレーナは、それらを丹念にひとつひとつ、読み進めていった。ほんの数行ずつのメッセージが、各々の声となって胸に響いてくる。心臓がそれに応えて強く脈打ち、体中を熱くする。
最後まで読み終えた後も、嘆願書から目が離せないセレーナに、ギュンターが話しかけてくる。
「どうだ、驚いたろ?知らない名前もあったろうしな。皆がおまえのために、署名してくれたんだ。これが生半可な気持ちじゃできないことは、言わなくてもわかるだろ?ひとつひとつの力は小さくても、集まったときには判決を下す上で無視できないぐらい、大きな戦力になった。
だからおまえは、堂々としてればいいんだ。過去にやったことは、もう充分償ったろ。これからは前を向いて生きることが、助けてくれた皆に報いる使命だと、俺は思う。足が使えないなら、また背負ってやるよ。どこにだって連れてってやる。だから――」
目を上げると、ふてくされたような顔がそこにあった。
「だから、一緒にいるとか、そんな当たり前のこと、今更切羽詰ったように言うな」
肝心なときにかっこつけられない不器用さが、今はたまらなく愛しい。セレーナはギュンターの背中に腕をまわし、身体を預けた。
「ありがとう」
「――おう」
その後のことは、記憶が切れ切れになってしまった。ギュンターに抱きかかえられ、力が抜けたことで、今までの疲れが思い出したように押し寄せてきたのだ。
遠のく意識の中で、久しぶりの陽光と、大きな歓声を、かろうじて感じることができた。うっすらと目を開けると、はるか頭上に、真っ青な空が広がっていた。どんなに手を伸ばしても、決して掴むことはできない。太陽はあまりに遠いところから、ちっぽけな自分達を見下ろしている。けれど探し求めた光は、そこではなくすぐ側に、手の届くところにあった。
「なんだよ、くすぐったいな。俺の顔、何かついてる?」
「ううん、なんでもない」
それを最後に、セレーナはゆっくり目を閉じた。
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