後編:それから

「……というわけなんです。けれどまだその人は陽花子さまを訪ねていません。だからその人を待ちたいようです」

 話し終えて息をついてから、おそるおそる秀恭さまの顔を見る。

 相変わらず眉間を険しくしていたが、いきなりすくっと立ち上がった。そして何も言わず隣の部屋に入っていく。

 私は何か粗相をしてしまったか、気を悪くするようなことを言ってしまったかと慌てる。

 しかし北の方さまが相変わらず優しく微笑んでいた。

「陸奥、近くに寄りなさい」

 その北の方さまの言葉に従って、彼女の手前まで行く。

 するともう少しというように手招きされる。

 私は内緒話が出来るほどの距離まで近付いた。

「陽花子に伝えなさい。左大臣家にお仕えする件は白紙に戻せませんが、日にちを延ばすことはできます。あの子が気の済むまで待っていただきましょう?」

 北の方さまのその言葉に私は一度頭を下げてから、聞く。

「あの……秀恭さまはどう思って……?」

「あの方は、勝手にしろと思っていますよ。何も言わずに去ったのが証拠」

 そしてまた北の方さまは微笑む。

「行きなさい、陸奥。あの子はあなたの帰りを待っていますよ」

 そう言われて私はその部屋を出た。

 案内してもらった女房にまた送ってもらう。

 寝殿の端のところでその女房とは別れた。


 陽花子さまの部屋へ行くと、彼女は脇息にうつぶせていた。

「あの、陽花子さま? 起きているなら話を聞いてください」

「……なぁに、陸奥」

 起きていることを確認して私は口を開く。

「紫陽花の君を待つことが出来ます」

「え……?」

 結論から言うと、彼女は驚いたように脇息から顔を上げる。

「本当に? あの人を待つことができるの?」

「はい。できます」

「良かった……」

 彼女は手を合わせて目を細める。

 それから私はそれに至った道筋を話した。

 全て話し終わると陽花子さまは呟く。

「陸奥がそんなに積極的だとは知らなかったわ」

「私もです」

 そう言って外を見る。

 雨は降り続いていた。音が聞こえる。

 思いのほか夜が近づいてきたので、私は陽花子さまに声をかけた。

「明かりを持ってきます」

 外へ出ると一段と音が激しく耳に入る。

 雲の切れ間から光がさしてこないかと軽く目線で雲をなぜた。


 あれから幾日も経った。

 皐月が終わり、水無月が始まろうかというある日。

 久しぶりの雨が降った。五月雨の最後の雨だろう。簡潔に言うと、皐月は晴れの日が多く訪れた。

 そのたびに陽花子さまは、楽しそうに良い香をたきしめ、美しい衣に身を包み外を見ていた。

 なのに。

 そのいずれの日にも、あの“紫陽花の君”は訪れなかった。

 日に日に顔から明るさが消え、他の女房達が何事かと心配するまでになった。

 それでも陽花子さまは、待っていた。

 あの“紫陽花の君”を。


 ただそれも今日まで。

 久しぶりに降った雨は、ますます陽花子さまを憂鬱にさせた。

「……陸奥、父さまと母さまに会うわ。支度を」

「陽花子さま?」

 怪訝そうに私は彼女を見つめた。

「もう、終わり」

 陽花子さまはぽつりと呟く。

 俯いて肩を震わす。

 それを止めようと彼女自身の手が肩にかかる。

 鳴咽がもれ、瞳にきらりと滴が光る。

「……陽花子さま」

「もうたくさん。もういや……」

「待たないのですか?」

「待ったってあの人は来ないじゃない……」

 晴れの日に香をたき、良い衣を身にまとい彼を待つ彼女が頭に浮かぶ。表向きは見えなかったが、彼女は何度も何度もひどく失望していたのだろう。

 私はそっと彼女の肩を抱いた。

 途端、陽花子さまは声を上げて泣く。

 その髪を梳きながら、驚いて声も出ない女房に彼女の言う通りにするように指示をおくる。

「大丈夫です、陽花子さま」

 彼女は涙で濡れた顔でかすかに何度も頷いた。

 他の女房による衣擦れが聞こえ、私は彼女を己から引き剥がす。私の着物の袖で彼女の頬に張り付く涙の跡を拭い去る。

 彼女から普段着の衣を脱がし、他の女房が持ってきた衣をかわりに着せる。それからその裾を整える。

「……行きましょう」

 陽花子さまのその言葉に頷いた。


 御簾の内に入る陽花子さまの背中を見ながら私は御簾の外に座った。

 ぴっと背筋を伸ばして座る。

 待っている間はとても長く感じられた。

 私の肩が背筋ののばしすぎでかたくなりつつあった頃、陽花子さまが出てきた。

「……決まったわ」

「それは……おめでとうございます。いつですか?」

「明後日よ」

「そうですか……え?」

 頷いていた私はその言葉に顔を上げる。

 決まった明後日に仕えに出るなんて初めて聞く話だ。

「……良いじゃない。早く忘れ去ることが出来るから」

 それからは二人黙ったまま部屋に帰った。



 次の日は晴れたので、私は市へ出た。

 陽花子さまはやはり気になっているようで、暗い顔をしている。だから何か気を晴らせるようなものがないか探しに市へ出てきたのだ。

「良いものはたくさんありますが、条件に適うものは……」

 道の左右に並ぶ店を見つつ、呟く。

 結局良いかおりのする小さな玉を買う。中に香が入っているのか転がすたびにふわりと甘いかおりが漂うものだ。

 それをそっと布に包んで、後は店を冷やかした。

「もうこんな時間ですか」

 ふと空を見上げると、さんさんと頭上から降っていた光がずれている。足元も見ると、影が長く伸びている。

 私は長居してしまったかと急ぐように足を動かした。

 市を外れ、しばらく歩いたそのとき。

「わぁ……」

 透かし見た家の庭に、わさわさと咲き誇る紫陽花の花が揺れていた。青紫の花弁は、ひらりと風になびいて落ちる。

 その花たちは陽花子さまがもらった紫陽花とよく似ていてすばらしかった。色などまったく同じだ。

「でも、紅い紫陽花はないようですね」

 少し見てみたかったなと私は呟く。

 そしてふっと顔を上げた。

「……あなたは」

 私は動けなくなる。

 震える指で彼をゆびさす。

 そっと口を開く。

「……紫陽花の君?」

 ばつの悪そうな顔をしていた彼はゆっくりと頭をたてにふった。


 私は屋敷に帰るとすぐさま陽花子さまの部屋を訪ねた。

「陸奥? 市は面白いものでもあった?」

 その言葉に、買ってきた玉を渡す。彼女は楽しそうにころころとそれを転がした。それを見ながら私は答える。

「はい、楽しかったです。陽花子さまに預かり物をしています」

「預かり物?」

 不思議そうな顔をしている陽花子さまに、後ろに隠していた青紫の紫陽花を差し出した。

「! これは……」

「紫陽花の君が持ってきていた花と同じものです」

 目を見開いたまま、彼女は花を受け取る。

 かさりと花弁がゆれた。

「あの人に会ったの?」

 その言葉に首を縦に振る。

 陽花子さまはゆっくりと口にする。

「……わたくしのことは忘れていなかったの……?」

「はい。こちらに来れないことを何よりも悔やんでいました」

「なら、なぜ来ないの?」

 私の言葉を気遣って言っているのだと思ったのか、悲しそうな色を瞳に浮かべる。

「なぜ来ないの? 今年の五月雨の季節に来ると、言ったのはあの人よ?」

「理由があるのです、陽花子さま」

「その理由って? 恋人より大切なものなの?」

 瞳から涙が零れ落ちるのをみた。私は慌てて彼女の瞳から涙をぬぐいさる。それでも、涙はとまらない。ぽろぽろと落ちて彼女自身の着物に染みをつくる。

「陽花子さま、良く聞いてください」

 私は落ち着けようと彼女の肩をつかんだ。陽花子さまはびくっと動きを止めて私を見る。

「紫陽花の君は、母上を卯月に亡くされたのです」

「え……」

陽花子さまは聞き返す。私はもう一度同じ言葉を繰り返した。

近い親族が死ぬと長い間物忌みとしてこもらなければいけない。その間は恋人のもとに通うことも禁じられる。だから、陽花子さまのもとに彼は来れなかったのだ。

「……そう。わたくしを忘れたわけではないのね?」

もう一度確認のように陽花子さまは聞く。視線は青紫の紫陽花へと注がれていた。

彼女の質問に私は是と答えた。その証にと私は一つの名前を口にする。

「あの人は、晴紫さまというそうです。約束が守れないから、名前だけでも告げておくとのことです」

 彼女の口からほぅっと安堵のため息が出た。それから私を見る。私の手を取ってそれを額あたりに持っていく。

「ありがとう、陸奥。明日は心置きなく左大臣家へ仕えに出れるわ」

「良いのですか? 逢わなくて」

私は驚いて聞く。しかし彼女は微笑む。

「いいの。彼はいつか会いに来てくれるから。その証に名前を渡してくれたから」

陽花子さまは、五月雨の合間にさす陽光できらめいているように見えた。


 次の日。陽花子さまは牛車に乗って左大臣家へ向った。私は、その姿を後ろから見送った。


 一年後。

 陽花子さまは家へと里帰りした。

 私は頭をたれて言う。

「おかえりなさいませ」


 陽花子さまは床の上に直接座っていた。

「雨ばかりの皐月に、里帰りなんてするものじゃないわね。庭を見ることもできないもの」

「陽花子さま、今日は晴れていますよ?」

「そんなの数日だけじゃない」

「そうですか? でも、その晴れ間に庭を楽しんで見ては? 紫陽花も綺麗に咲いていますよ」

 私がそうすすめると、そうねと同意するような素振りを見せる。やや時間を空けて御簾を上げるように指図した。私は御簾をするすると巻き上げる。巻き上げながら口を開いた。

「そうそう、珍しい紫陽花もあります。今日は晴れですから」

「? 何の話をしているの?」

 不思議そうにしている彼女を尻目に、私は隠れている人を陽花子さまにわからないよう手招きする。その人はすっと近付いた。

「!」

 陽花子さまは息をのむ。そして一心に一点を見つめる。その先には光の中に佇む人がいた。その人は紅い何かを持っていた。目が光になれてきてそれは輪郭を描きはじめる。だんだんとはっきりしたそれは紫陽花を示した。同時に人の顔もはっきりとしてくる。それにつれて陽花子さまは瞳を大きく見開いていく。

「……晴紫さま」

 陽花子さまはぽつり名前を呼ぶ。彼は嬉しそうに微笑んでうなずく。

「二年前の約束を果たしに参りました」

 その言葉を聞いて、顔が緩んだ陽花子さまは彼に近寄っていった。

 紅い紫陽花はこの二人をいつまでも見守っていた。


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晴の日の紫陽花 藤原湾 @wan_fuji

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