晴の日の紫陽花

藤原湾

前編:秘めたものは

 静かに茶碗が床に置かれた。

 その茶碗は床にあたりコトンと小さな音を立てる。茶碗から手が離れ、その手は座っている膝へと移る。全てがゆっくりと落ち着いて行われた。あまりにも静かすぎて、外の五月雨の降る音がとても大きく聞こえる。

 私はその行動にほぅと安堵のため息をつく。ついでにと、かしこまって正座していた足を崩す。

 しかし次の瞬間、膝におかれていた手が強く握り締められる。そして、眉間に幾重も皺が入り、濃い色の双眸はこちらを睨んだ。

 やばいと思ったときには既に遅し。

「この馬鹿娘が!」

 部屋に怒声が響いた。響きすぎて耳を塞ぎたくなるぐらいに、だ。

 私は思わず瞳をつむる。瞳の奥がじんじんと痛む。響いた声が消え去るのを待って、瞳を開けた。

 その瞳にまず映ったのは、凛とした風情で座っておられる“馬鹿娘”陽花子さまだった。


 時は平安、道長を頂点として藤原一族が栄華を極めていた頃。その栄華は、上流貴族のものでしかなく、下流貴族は苦しみに喘いでいた。そして、その下流貴族の娘は教養を身につけ上流貴族に仕えることが当たり前となりつつあった。私の主人、藤原秀恭さまもその例に洩れず。一人娘の陽花子さまに教養を一生懸命つけさせた。そして、来る今日。秀恭さまは、彼女にこう切り出したのだ。

「お前、左大臣家に仕えに出ぬか?」

 しかし、陽花子さまが返した返事は、あっけないほどきっぱりとした否定だったのだ。


 私は、御簾の外へ出て秀恭さまを見送った。それから、残された茶碗を片付ける。

「……」

 それが終わった後に、陽花子さまの方を見る。

 彼女は、しゃんと背筋を伸ばして座っていた。

「陽花子さま、もう事情を話すしか……」

 私がそう提案すると、こちらをむいた彼女が言う。

「なぜ?なぜそう思うの?」

「……もう仕えに出ることは避けられない予定だと思います。だからせめて時間を稼ぐために事情を話して……」

「そう……」

 彼女は私の話を遮って、それから黙り込んでしまった。

 私はあららと呟いて後ずさりする。御簾のところまでくると、そこで私は控える。

「陸奥」

 凛とした声が部屋に響いた。私は下げていた頭を上げて、返事をする。

 だが、それだけだった。

 私はそっと陽花子さまの顔を伺う。

「……分かりました」

 彼女は瞳を閉じて微笑し、かすかに頷いていた。

 私はそれを賛成の返事として受け取る。

 そして御簾を巻き上げ、私は外へ出た。


 私は御簾の外へ出た。

 ざぁざぁと降る五月雨はやむ気配を見せない。

 どんよりと曇る空は人をより暗い気持ちにさせる。

 はぁっと深い深いため息をついて、歩き出した。

 いくつか角を曲がり、雨で濡れたところを迂回しながらいくと、意外に時間がかかってしまった。

 私は秀恭さまの女房に部屋まで案内してもらった。

 御簾の前まで来ると、その女房が来訪を知らせる。

 心臓がばくばくばくと大きな音をたて始める。唇を無意識に噛む。

 一度、拳を握った。それから御簾をくぐった。

 くぐると、そこには秀恭さまと北の方さまがおられた。

「……陸奥か。何の用だ」

「陽花子さまのことです」

「……何の用だ」

 彼女の名前を出した途端に、秀恭さまの眉間に数本の皺が寄る。

 思わず退く準備をしてしまう。しかし、ここに来た目的を忘れてはいけないときちんと向き直る。

「陽花子さまが左大臣家に仕えることを渋っている理由です。お願いします、ぜひとも聞いてください」

「親不孝者にどんな言い訳があるのだ」

 そんなものなど聞くかという態度を見せた秀恭さまの肩を、北の方さまがゆるく叩いた。

「秀恭さま。陽花子ももう大人ですよ。話を聞いてあげましょう?」

 その言葉に、秀恭さまは北の方さまの笑顔と私の緊張した顔を眺められた。

「……分かった」

 そう小さく呟いて居住まいを正された。

「その理由とやらを話してみろ」

私はうなずき、口を開く。

「実は、陽花子さまには通う男がいるのです」




 去年の今ごろ、五月雨の季節。

 外では鬱陶しい雨が降り続けていた。

 雨の立てる音で予定より早く起きた私は、大きく口を開け欠伸をしながら外へと出る。すると一層雨の音が強まったように感じた。

 それでも務めを果たせねばと衣をはおり、外へ出た。

「……あれ?」

 遠くの階に一組の男女がいるのが見えた。

 いずれかの女房が男を通わせているのなら良かった。私がどうこうする問題ではない。

 けれど。 

「陽花子さま……」

 紛れもなく女の方は、彼女だった。

 私は音を立てないように彼女たちに寄っていった。そして柱の影に隠れる。

 だんだん声が聞こえやすくなり、容易に会話が聞き取れた。

「……また今夜」

「ええ、待ってるわ」

 男は雨の中を走り去り、陽花子さまは微笑を浮かべてこちらと反対方向へ去ろうとする。

 私はたっと走り寄り、彼女の袖を掴んだ。

「……! 陸奥!」

「陽花子さま、説明してください?」

 そういえば以前から怪しい点はあった。

 突如出現した紫陽花の花。

 早く就寝されて、女房たちは早々に下がらなければいけなかったこと。

 どうして気付かなかったのだと自分をなじる。

 その私の態度に、陽花子さまはため息をついて答えた。

「部屋で話すわ」

 歩き出した彼女にそっとついていった。


 陽花子さまが御簾内に入りそれに続くと、向こうにみずみずしい青紫の花が見えた。

「……紫陽花」

「あの方がくれたの。綺麗でしょう?」

 陽花子さまは愛しげに花弁を撫でる。

 その問に私は頷く。その花は、他意なしに見てとても美しかった。

 ただいつまでも花を愛でているわけにはいかないので、口を開く。

「陽花子さま、『あの方』というのはだれですか?」

 その言葉に反応して、陽花子さまは紫陽花の花弁から手を離した。そしてきちんと居住まいを正す。ぴんと背筋を張るその姿に、覚悟のほどが見える。

 私はその様子を見て、全てを語ろうとしていることを感じ取った。

「……あの方を始めて知ったのは、今年よ。今年の……そうね、皐月に入ったあたり」

 五月雨が振り出した頃だと思い出す。

 その男は皐月とは名ばかりでうっとうしい雨ばかりが降る季節をなぜ選んだのだろう。そんな疑問が浮かぶ。

「何度か文のやり取りをして、それで好きになったの。訪ねて来るようになったのはついこの間よ」

 頬をやや染めて告白する。

「その人の素性は?」

 私が先を促すように聞くと、黙った。

 一度虚空を眺めそれから向き直る。

「陸奥、怒らないでね」

「何ですか?  そう言うなら怒りませんが?」

 それどころか、呆れて怒りの言葉も出ない状態だというのに何を言うのだろう。私は首をかしげつつ、返事をする。すると恥ずかしそうに陽花子さまは口を開いた。

「し……知らないの」

「……は?」

「だから、知らないの。ただ私はあの方のことを“紫陽花の君”とお呼びしているだけで」

 私はめだまがこぼれおちそうなぐらいに目を見開いた。

 そのまましばらく、動けない。

「……本当ですか!?」

 私は叫んだ。

 頭の中を整理しようと慌てる。

 相手も知らない逢瀬というのはありえるのか。

 ありえない。相手も知らぬというのにどうやって思いをつなげるのか。

 けれど……と思案中。

 確かに相手も知らぬまま一夜を過ごすということはありえないことではない。それどころか、多い方だ。

 しかし自分の主人に当てはまるとは思っていなかった。

「……うそだといって……」

 陽花子さまに男が通っていたということだけでも衝撃的事実なのに、それだけではあき足らず。相手の素性が分からないと来た。

「……良いですか、陽花子さま」

 私は何とか立ち直って、そう口にした。

「なぁに?」

「今度その人が訪ねてきた場合に、まず素性を聞いてください。素性を」

 そこで私はため息をつく。

 陽花子さまは私に言う。

「今度というか、今日になるわね」

「きょ、今日ですか……?」

 あまりに多い逢瀬に驚く。

「ええ。だから、お願い」

「はい?」

 可愛く手を合わせられる。

 私は御簾の方へとにじりよる。

「今日の夜は陸奥もついてて、ね?」

「……」

 何も言えなかった。

 もう一度大きく私はため息をついた。


 その日の夜。雨は相変わらず降っている。そのために闇夜となっていた。

 私は御簾内で陽花子さまの横に控えた。

 今日もはやばやと他の女房たちを局に返し、この部屋にいるのは陽花子さまと私だけだ。

「……本当に来ますか?」

「くるわよ、本当に」

 幾度とくりかえした会話をもう一度くりかえす。

 私は諦めて自分の局に帰りたくなった。

 女房が寝ていられる時間は短い。だから、少しでも寝たいのだ。要するに眠い。

 瞳がふぅっと揺らぎまぶたが落ちる。正座している上半身がゆらりくらりと揺られ始めた時。

 この部屋から一番近い妻戸ががたがたと音を立てた。

「……来たわよ、陸奥」

 陽花子さまはうれしそうに呟いた。

 私はまぶたを必死に開けようとしてがんばる。

 うっすらと開いた隙間から見えたのは、背が高く痩身の男だ。

「今夜もよく来てくださって……」

 陽花子さまが頬をやや赤く染めて言う。

 相手は微笑しながら手に持っていた紫陽花を渡す。

「今日も綺麗に紫陽花が咲きました」

「ありがとう」

 彼女はお礼を言い受け取った紫陽花を私に渡した。

「あの方は、毎回とてもきれいな紫陽花を持ってきてくださるのよ。だから“紫陽花の君”と呼んでいるの」

 そっと耳元で告げられた。

 私はうなずき、竹製の花瓶に生けた。

 私を見てその男が言う。

「……そちらは?」

「朝、わたくし達を見かけてしまったようで」

 困ったように笑う陽花子さまが私にあいさつを促した。

 それを受けて、頭を下げる。

「陸奥といいます」

「陸奥……殿ですね。よろしく」

「あの、一つ良いですか?」

 口を開いたついでと思い、質問する。

「陽花子さまに付く女房としては、あなたの素性を知りたいのです。教えてください」

 その言葉に、彼は一瞬きょとんとする。しかしすぐに微笑んで外に目を向けた。そこには五月雨のしずくとそのしずくに濡れた紫陽花がある。

「雨がよく降りますね。けど、もうすぐ上がってしまいます」

「?」

 いきなりいわれた言葉は私にはわけが分からずに、首を傾げる。

 その男は目を伏せて突然の別れを告げる。

「今年ここを訪ねるのは今日が終わりです」

「なっ、なぜ!?」

 陽花子さまが身を乗り出して聞く。

 雨が上がっても関係なく訪ねてきてくれるだろうと期待していたらしい。

 反対に私は五月雨の季節だけではないかと予想していた。

 その予想は見事に当たった。

「来年の五月雨の季節、雨と雨の間に太陽が顔を見せる時。あなたに紅い紫陽花を贈りましょう」

「紅い紫陽花……?」

 陽花子さまが首を傾げつつ呟く。

 私も首を傾げた。

 青や青紫の紫陽花を見たことはあるが、紅い紫陽花は見たことがない。

 彼は続ける。

「そのとき、素性を明かします。それまで待っていてください」

 そして彼は一首呟いた。

 陽花子さまも涙をこぼし、それに返歌する。

 二人が交わした歌は、別れの歌だった。

 彼が外へ出ていくのを二人して呆然と見送った。


 私はかろうじて陽花子さまより先に正気を戻した。

「……陽花子さま?」

 おそるおそる声をかける。しかし、彼女から返ってきたのは吐息の音だけだった。顔を見ると青ざめている。

「陽花子さま、しっかりしてください」

 もう一度声をかけると、はっと気づいたように身体を起こす。

 それを見てから、私は居住まいを正して頭をたれる。

「陽花子さま、すみませんでした」

 素性を訊ねてしまって。

 それで相手が去ってしまって。

「……陸奥いいのよ。別にあなたが悪い訳ではないわ」

 その言葉に頭を上げる。

 悲しそうに笑っていた。

「陽花子さま……良いのですか、あれで」

「ええ」

 着物の裾を直す。しゅるりと衣擦れの音がした。

「ほら、雨が上がる云々と言っていたわよね? 早かれ遅かれ今日という時は来たのよ。それに……」

 そこで陽花子さまは言葉を切った。八の字に下げられた眉毛が更に下がり、下唇がかみ締められる。

「それに、また来年も来てくださるといったもの。それを待つの」

 保証のない約束。

 けれど、二人にとっては大きいのだと私は知る。

 特に陽花子さまにとっては。

「……また来年紅い紫陽花を楽しみにして待ちましょう」

 私は一言、そう声をかけた。


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