睡魔さんの選択

「景くんって音楽やってんの?」

 あたしがそう聞くと景くんは驚いたような表情をした。リュウグウノツカイがその横を踊るように泳いで行った。

「やってる。なんでわかったの?」

「いや、はじめて部屋にお邪魔した時、部屋にキーボードがあったのを思い出して。CDもたくさんあったし」

 景くんは少し照れ臭そうにしていた。海面に近いところでは大量の銀の魚が群れをなして泳いでいる。

「うん、やってる。音楽はずっと好きで、キーボードは中学の頃に始めた」

「すごいじゃん。将来も音楽やりたい感じ?」

「うん。それを仕事にできたら一番いいけど……」

「いいじゃん。スティービーワンダーみたいで。今度なんか一曲弾いてよ」

「え? でも……あそっか。楽器も出せるんだ」

「もちろん! グランドピアノだってパイプオルガンだって、望めば出てくるよ」

「じゃあ次会うときにでも……練習しておかなきゃな」

「約束だよ!」

 揺らめいていた青い光が突然消えた。あたしたちの頭上をジンベエザメが通ったのだ。


 zzz


「お疲れ様でぃーす!」

 事務所のドアを開けると同時にあたしは言った。

「レムちゃんなんか最近いいことあった?」

 部長がそんなことを聞いてきた。

「え、そう見えます?」

「うん。最近契約数も増えてきてるし……俺としては嬉しいけど」

「あ〜やっぱ『お試し券』の効果ですかね」

「何にせよ、この調子で頑張ってよ」

「もちろん! 同期ナンバーワン目指しますよ」

 そんな軽口を叩きながらあたしは自分の席に着いて、パソコンを起動する。今日は月初めなので先月とった契約をパソコンでを整理しなくてはならない。悪魔だってデスクワークもするのだ。

「ねえ、レムちゃん」

 キーボードをカタカタやってると向かいの席に座っているフラミュが話しかけてきた。

「あ? なに?」

「レムちゃん、最近人間に会ってるでしょ?」

「ぶふっ」

 あたしは飲んでたミルクティーを噴き出した。

「な、なんで……」

「私昨日事務所に忘れ物しちゃって、一回帰ってきたんだけど、机の上にレムちゃんの荷物が残ってたから、あれ? 召喚されてるのかなーって」

 こいつ……見てたのか……

「まあ、確かに会ってたけど、それがなに? 仕事終わった後だし、問題ないでしょ」

「なんでわざわざ仕事終わった後に人間に会うの〜?」

「……」

 墓穴……!

「大丈夫だよぉ。部長に言ったりしないし。それより教えてよ、どうやって誘ったの?」

「はあ!?」

「あれ、違うの?」

「違うわ!」

 と、反射的に言ってしまったが、もはや完全に特定の人間と会っていることを認めてしまったようなもんだ。

「な〜んだ。私てっきりレムちゃんもそういうの始めたのかと思って」

淫魔あんたらと一緒にしないでよ……っていうか人間を落とす方法なんてあんたの方がよく知ってんじゃん。あたしに聞かなくても」

「ん〜でもほらレムちゃん普通にやったら人間なんて絶対落とせないじゃん?」

「は……?」

「だってほら、レムちゃんの目気持ち悪いし、おっぱい小さいし、それでどうやって人間を誘えたのかな〜って気になってさ。勉強になるかもしれないし」

「……」

「でもそういうんじゃなかったんだね。ま、そりゃそっかあ! レムちゃんだもんね。それか相手の人間の性癖がよっぽど歪んでるか…」

「おい」

 あたしは、自分の中で黒いものが沸き立つのを感じた。

「今、なんつった?」

「……は?」

 フラミュの顔からすっと表情が消えた。あたしたちの間の空気が張り詰めたように重くなる。あたしの机の上のミルクティーのペットボトルがベコッと凹んだ。

「ちょ……ど、どうしたの二人とも」

 一触即発の空気を破ったのはトイレから戻ってきた部長だった。あたしらの尋常ならざる雰囲気を見てうろたえている。

「いえ、何も。じゃああたし失礼しますね」

「う、うん……お疲れ……」

 事務所の備品のシースルーコートを乱暴にひっつかんであたしは外に出た。フラミュの方は見なかったが、奴がこっちを見てるのはわかった。


 zzz


 夜の街を飛びながらあたしはさっきの自分の言動を反省した。

 淫魔ってのは概してプライドが高い。中でもフラミュは自分の能力の高さを鼻にかけ、無自覚に人を見下したような発言をする。でもそんなのわかってたことじゃないか。いつもならスルーするのに、なんであたしは今日に限ってあんなに頭に血が上ったんだろう。

 職場の人間関係こじらせてもいいことないんだから、反省反省。ま、あいつアホっぽいし一晩たったら忘れてるだろ。


 ……というあたしの推測が大間違いだと分かったのは次の日の夜だった。

 あたしは武春くんに召喚されて彼の寝室にいた。

「契約を解除したい? なんで?」

 武春くんの突然の申し出にあたしは驚いた。

「君めっちゃ使ってたじゃん!」

「なんでそれを……でも仕方ねえんだよ」

「どういうこと?」

「もうあんたのじゃ満足できないんだ。……知っちまったらもう……」

 言いながら、武春くんは恍惚の表情を浮かべた。

 あたしの能力を超える快感? そんなのあいつらしかいないじゃないか。あたしは武春を問い詰める。

「誰にたぶらかされた?」


 zzz


 案の定、武春を籠絡したのはフラミュの野郎だった。あの乳、どういうつもりだ……? こんな露骨な嫌がらせをしてくるなんて……。

 あたしはハッとする。フラミュはあたしの取った契約書を見たんだ。じゃあ、景くんの名前も……。

 即座に翼を広げ、彼の住むマンションまで飛んで行く。まさかとは思うがあいつ……。

 景くんのマンションが見える。彼の部屋の窓を開けて中に入る。

「景くん!」

「あれ、早かったねえ」

「す、睡魔さん……?」

 フラミュは景くんの上に覆いかぶさりベッドに押し付けていた。景くんは抵抗してるようだけど、女と言えど悪魔のフラミュの方が力は強い。

「フラミュてめえ……どういうつもり? 人の顧客に手ェ出しやがって」

「ん〜なんか分かってないみたいだから教えてあげようと思ってさ」

「は?」

「あのね? レムちゃんみたいな子は調子に乗っちゃいけないんだよ? それなりに頑張ってればよかったのに、あんなこと言うからさあ。私がその気になればレムちゃんの客なんてぜ〜んぶ私のものになるんだよ?」

「……ッ!」

 言い返したかったのに、言葉が出なかった。

 そう。あたしの能力は所詮『まがい物』だ「現実に近い」ってだけで現実じゃない。圧倒的なリアルを提供できるフラミュには……

「そ……そんなことない!」

「え?」

「睡魔さんの力は十分すごいよ! あなたなんかよりよっぽどいい!」

「景くん……」

「うふふ。そう言えるのも今のうちだよ。一度私を知ったら君の方から『契約してください』って言いたくなるから……」

 フラミュは景くんの顔に自分の顔を近づける。

「やめろ!」

 あたしはフラミュの肩を掴んだ。その途端、ガバッとキスされた。フラミュに。

「う……む……?」

 え……な、何この展開?

 だが、すぐに意味が分かった。体の自由が効かなくなり、あたしは床に倒れたのだ。野郎、事前に媚薬かなんかを口に……

「うふ。耐性がないとよく効くでしょ? そこで見てなよ、お客を奪われる瞬間を。……ひょっとしてこの子? 会ってた人間」

「う……あ」

 ふざけんじゃねえ! そう言いたかった。だけど脳が痺れて呂律ろれつが回らない。

「さ、君の番だよ。景くん、だっけ? 見えなくてもわかるでしょ? この柔らかさ……全部君のものにしていいんだよ……?」

「あ……ああ……い……」

 フラミュは景くんの顔を自分の胸で挟んだ。


「嫌だね。あなたみたいなのおっぱいじゃ」

「は……? 何を……!?」

 フラミュは気づく。自分の自慢のバストが、まるで老婆のそれのように垂れ下がっているのを。

「い……いやあああ!! なっ、なにこれっ!? わ、私の胸が、手がなんでこんな……!? こ、声まで……!」

 胸だけではなく、声も歳を重ねたようなしわがれたものになっていた。手も顔も皺が深く刻まれ、かつての美貌は見る影もなかった。

「そ、そんなああああ!! あああ……」


「う……うう……わ、私のおっぱいがあ……ああ……」

 ベッドから転げ落ちたフラミュはわかりやすくうなされていた。馬鹿な奴だ。あたし相手にあんなに近づくなんて。

 キスされた瞬間にあたしの能力で眠らせてやった。あとはおなじみの夢操作で悪夢を見せてやったというわけ。夢オチはあたしの専売特許だ。……まあ、あたしもこんなザマだからカッコつけらんないけど……

「睡魔さん!」

 景くんはあたしとフラミュに交互に触れたあと、あたしを抱き起こした。

「大丈夫!?」

「うん……しばらくすれば効果も切れると思う……ていうか景くん、今なにであたしとフラミュこいつを区別した……?」

「……ご、ごめん。その、胸の大きさで……」

「エッチ……」

 景くんは赤面する。あたしは痺れる脳を抑えながら話し始めた。

「景くん……ごめんね……」

「え?」

「あたしのせいで景くんはこいつに襲われるところだった……ほんと……ごめんなさい……」

「そんな……睡魔さんのせいなんかじゃないよ」

「ねえ……あたしさ……景くんに会えて、景くんのおかげで毎日楽しいんだ……だから……景くんの寿命をこれ以上減らすのはもう嫌なんだ……はは……悪魔失格だね…それに、またこうやって景くんに迷惑をかけちゃうかも……」

「睡魔さん……?」

「だから……さ、景くん……あたしとの契約……もう、終わりにしようよ……ね……?」

 景くんは、何も言わずにあたしの言葉を聞いていた。

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