睡魔さんの寝坊

 家に帰ったあたしはなかなか眠れなかった。ベッドの中で延々とスマホをいじっていたり、溜めていたアニメの録画を消化したりした。

 それにも飽きて、起き上がって一階に降りて冷蔵庫の中の炭酸水を飲んだ。時計を見たら午前7時だった。人間なら起きる時間だろうけど、あたしら悪魔にとっては深夜だ。

 あたしが住んでいるのは、高級住宅街の一角に建つ二階建ての一軒家だ。一人で住むには広すぎることこの上ない。

 なんでこんな立派な家に住めてるのかというと、あたしの同僚の悪魔たちは皆こんな感じで家を支給されているのだ。さらにこの辺の一帯は悪魔たちが固まって暮らしている。人間たちは知らないけど、悪魔はこうして人間界に根付いているってわけ。

 しばらくダイニングテーブルに座ってぼんやりしていたけど、それは眠いからじゃなかった。むしろ頭は冴えていた。あたしの脳裏に浮かぶのは昨日の–––数時間前に一緒に過ごした景くんの姿だった。あの『奇妙』な少年が頭から離れないでいた。

 景くんの笑顔、人間に気持ち悪がられたこの目を「かわいい」と言ってくれたこと。

 ……いや、恋に酔ってる小娘か!

 はっはっは、ありえないっつーの。何十年生きてると思ってんだ。あたしがあんな子供の、しかも人間にうつつを抜かすなんてありえない。どうかしてるぜ。

「……」

 あたしは自然に玄関に向かう。備え付けのポールハンガーにかけてあった透明のレインコートを着た。ちなみに雨は降ってない。快晴だ。

 ドアを開けて外に出る。太陽の光を浴びるのは実に久しぶりだった。吸血鬼ヴァンパイアじゃないけど、夜の世界に生きるあたしらにはこの光はちょっとツライ。

 だが、あたしは黒い翼を広げて空に飛び上がった。こんなことをしてるのに人間たちが騒がないのは、さっき装着したレインコート型の悪魔道具『シースルーコート』の効果だ。これを着ると周囲の人間から姿が見えなくなる。着た状態で翼も広げられるスグレモノだ。

 雲ひとつない青空の下、あたしは目的の場所を目指す。「睡魔」らしく三度の飯より惰眠が好きなレムちゃんにしては、ガチでありえない行動だった。


 zzz


 たくさんのドアが並ぶ廊下を歩きながら、あたしはしまった、と思った。とんだ誤算だった。今まで一度も方法であの部屋に行ったことが無かったから、どれが彼の部屋なのか分からない。しゃあねえ一回外に出るか……

「行ってきます」

 廊下を曲がった先で声が聞こえた。–––景くんの声だ。

「私も下まで行くよ」

 今度は女の人の声がした。景くんの母親だろう。

「大丈夫だよ、一人で行けるって」

「うん……でも、心配だから」

 二人分の足音が近づいて来る。このままだとあたしと鉢合わせるが、あたしはシースルーコートを着てるから二人の目に映ることはない。

 それにしても過保護なお母さんだな。景くんはもう高校生なんだから、何を心配することがあるんだろう。そう思っていると曲がり角から二人の人物が現れた。景くんと景くんのお母さんが。そう言えば、起きている景くんを見るのはこれが初めてだった。


 あたしは景くんの姿に釘付けになった。その必要もないのに息を殺した。

 二人はエレベーターの前まで着た。一階にいたエレベーターが少しづつ昇ってくる。

「景、あんた彼女でもできた?」

 お母さんが突然そう言った。景くんは吹き出した。

「な、なに!? 急に」

「最近なんか楽しそうじゃん。特に朝とかよくニヤニヤしてない?」

「そ、そう? ま、まあ、好きなバンドの新譜が出たし……」

「ふ〜ん……」

 お母さんは完全に納得してないようだった。

「でも……彼女じゃないけど、新しい友達はできたよ」

「いい子なの?」

「うん、すごく」

「そう……よかったね」

 エレベーターが到着した。扉が開く。

「ここまででいいよ」

「そう? じゃあ、気をつけて行ってらっしゃい」

「うん、行ってきます」

 景くんはエレベーターに乗り込んだ。あたしは羽を広げて、吹き抜けから一気に一階まで舞い降りた。

 エントランスからエレベーターの前に走る。エレベーターの扉の隣には内部を映すカメラのモニターがあって、そこに景くんの姿が映っていた。

 当たり前だけど、景くんの顔は、眠っている時と同じくどこか幼さの残るあどけない顔だった。そして、目も眠っている時と同じように

 景くんの左肩には通ってる高校のカバンがかかっている。そして右手には、白い、杖のようなものが握られていた。

 あたしはシースルーコートの前ボタンを外し、脱いだ。これであたしの姿は周りの人間に見えてしまう。エレベーターが一階に到着する。扉が開いて、景くんが外に出てきた。

 景くんは何も言わなかった。持っている杖の先が、あたしの足の先に当たる。

「あ、すいません。失礼しました」

 景くんはそう言ってぺこりと頭を下げただけだった。あたしを避けて、エントランスへと向かった。

 あたしはしばらく、呆けたようにその場に立ち尽くしていた。


 zzz


 家に帰ったあたしはベッドに倒れこんだ。普通なら眠くて仕方ない時間のはずなのに、いろいろなことが頭を駆け巡っていて眠れなかった。仕方なく、あたしは自分で自分に能力をかけた。

 夢を操るだけがあたしの能力じゃない。「睡魔」の名を冠する通り、あたしは任意の対象を即座に眠らせることができる。睡眠薬と同じようなもんだから、こっちは人間に貸したりしないけど。

 能力の作用で、あたしはすぐに眠りの底に落ちた。

 夢を見たような気がする。あたしの能力の産物じゃない。単純でぼんやりとした、普通の夢だ。あたしはお花畑の中心にいて、丸く刈り取られたその空間にはパラソルと丸いテーブルが置いてあって誰かが座っている。あたしはテーブルに座って、その「誰か」とおしゃべりする。どこか幼さの残る少年と。


 携帯の着信音で目が覚めた。部長からだった。

「レムちゃん? 今何やってんの?」

 あたしたちは夜の7時までに事務所に行って、そこから契約を取るために各々出かけていく。で、今の時間は? 8時32分? ……オーケーオーケー。オーライオーライ。

 睡魔のあたしが『寝坊』とはね。どうかしてるぜ。

 全速力で事務所に向かった。当然ながら部長にはたっぷり小言を食らった。その最中「睡魔なのに云々」というフレーズが4回ぐらい出てきたのがクソムカついたが、平謝りした。

 でも契約の方は『お試し券』がうまくいったのか好調で、二人のご新規さんを獲得できた。でも、あたしは嬉しさよりも景くんに早く召喚されないかな、とかそんなことを考えていた。

 景くんが再びあたしを呼んだのは3日後のことだった。召喚された先は大きな映画館だった。誰もいない客席の真ん中に景くんは座っていた。

「睡魔さん!」

「やあ、景くん。こんばんは」

「今日は映画を見たいんだけど、睡魔さんは今大丈夫だった?」

「うん。今日はお休みだからね」

「よかった! じゃあ、何を見るかなんだけど……」

「景くん」

「……? どうしたの?」

 あたしは深呼吸して、次の言葉を言う。

「君、目が見えなかったんだね」


 zzz


「え? 知らなかったの?」

 それが景くんの第一声だった。

「てっきり最初から知ってて、だから僕に話を持ちかけたのかと思ったよ」

「いや、知らなかったよ」

「そうだったんだ……」

 景くんはぽつりと話し始めた。

「僕は生まれつき目が見えなかったから、『美しい』とか『かわいい』っていうのがどういうことなのかピンとこなかったんだ。それは日常生活には特に必要ないものだけど、でも『美しさ』ってどんなものなのかなあ。ってぼんやり思ってた。そしたら睡魔さんが現れたんだよ」

 景くんはあたしと出会って初めて視覚を得た。リンゴも、ウユニ塩湖も、九份も、自分の手さえ、彼は初めて目にしたのだ。

 確かに、あたしの能力は脳に直接刺激を与えているようなもんだ。だからって目の見えない人間にも視覚を与えることができるとはあたし自身も知らないことだった。

「初めて『見る』世界は本当に興味深かったよ。まあ、何もない世界に慣れた僕には情報が多すぎて疲れちゃうから、たまに夢の中で見るくらいでちょうどいいけどね」

 あたしは相槌を打つこともできず、ただ頷くだけだった。

「でも……まさか僕がこうして世界中のいろんな場所に行けたり、親しい人の顔を見れたりするとは思わなかったよ。だから……僕、ほんと睡魔さんに出会えて良かったと思ってるんだ」

「うん……」

 としか、あたしは言えなかった。もっと言いたいことがあったはずなのに、言葉にできなかった。

「で! 映画なんだけど、睡魔さんなんか見たいのある?」

 景くんはいつもの調子で言った。なんだか緊張してたあたしが馬鹿みたいだ。

「ここは君の夢の中なんだから、君の見たいもの見なよ」

「そう? じゃあ父さんが面白いって言ってたやつにしようかな」

 照明が落ちて客席が暗くなる。配給会社の社名がスクリーンに映し出される。

 景くんはやはり目を輝かせながらスクリーンをじっと見つめていた。


 あたしも、君に出会えて良かったよ。


 とは言わなかった。上映中に喋るのはマナー違反だろ?

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