国芳覚え書き

神城 朱

第1話

 盛夏という言葉がぴったりの日のことだ。まともな仕事が回ってこないので、双六や立版古などの手遊び絵をいくつか描き上げ、自分が空腹なのに初めて気が付いた国芳は、「いけねえ、金がねえ」と独り言ちた。辺りはもう暗くなり始めている。


 家の中を見回しても、質に持っていけるものは、見当たらない。ひょいと目を外に向け、「あれくれえなもんか」と立てかけてあった葦簀をひょいと担ぐと、てけてけてけと往来を歩き始めた。頭の中はもう、今から食べようと考えている寿司でいっぱいだ。


 向こうから男が芸者としっぽりやって来る。うらやましいこったなぁと思いながら歩いているうちに、だんだんとその男の輪郭がはっきりしてきた。

「国貞兄い・・・」

声にこそしなかったが、こっちのバツの悪さが伝わったのか、あっちも気が付いたようだった。とはいえ、育ちのいい国貞は、国芳をからかう訳でもなく、ただすれ違いざまに頷いただけだった。


 どさっ

国芳は担いできた葦簀を傍の河原に放り捨てた。

くそう。当代一の売れっ子絵師様かい。こちとら、この有様よ。今に見てろ、国貞。おめえなんか、とっとと追いついて、追い越してやらあ。

悔しさでぎりぎりと歯を食いしばり、空腹も忘れ、今来た道を早足で引き返す。

描いてやるぜ、自分の絵をな。


 この数年後、国芳は水滸伝の絵があたり、売れっ子絵師となった。これは彼が晩年語った転機の夜の話である。

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国芳覚え書き 神城 朱 @AKA_KAMI

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