私たちは、何に怯えているのか?

吉野茉莉

クラムボンは死んだよ。

『クラムボンは死んだよ。』

『クラムボンは殺されたよ。』

『クラムボンは死んでしまったよ………。』

『殺されたよ。』



『それならなぜ殺された?』



 窓からは大きな満月が私たちを覗き込み、二人を照らしています。その光は彼女の背中に突き刺さっているのでしょう。私は窓を背にして椅子に座っています。机の上に置かれた本に月光が置かれていますが、表紙は読めるか読めないか、という具合でした。

 顔はドアを向いていました。それは彼女を待っていたからです。待ち構えていた、というほどの気概があったわけではありません。もし来たならば、まず顔を合わせよう、と思っていただけのことです。

 今は私のその後ろに彼女が立っていて、私の背中にもたれかかっています。

「ねえ、まだお話をしてくれるかしら?」

 くすくす、と彼女が笑いながら言いました。

「わかりました。何の話がよいでしょうか」

「そうね、やっぱりこのことを話してもらいたいわ」

「わかりました。そうしましょう」



 まず、私にとっての事の始まりから話します。

 私は自室の机の前に座り、誰に強制されたわけでもない日課の読書をしていました。就寝時間が近づき、廊下はしんと静まりかえっていました。いつも口数の多い同室のサヨコさんは、数日前から実家に帰っています。

 そもそも、この長期休暇中の寄宿舎に、私以外の誰が残っているか知りませんでした。私は両親が流行病にかかり、病状は酷くないものの、私に移したくないと言われたので、直前になって帰省を取りやめていたところでした。他の生徒も、おおむね似たような、何かしらの事情があるのでしょう。

 おそらく、残っているのは十人かそこらでしょう。私は夕食の時間にぱらぱらと所在なさげに座って食事を摂っている生徒を、私も同じく所在なさげにしながらぼんやりと見ていました。普段話している同級生たちがいないからでしょう、一人一人距離を取った食堂は寂しそうな明かりに包まれていました。

 当の私といえば、普段も一人でいることが多く、それも気にしない性分であったためにそれほど寂しさは感じませんでした。

 斜め向かいに、長髪の生徒が座っていたのを思い出します。今になって思えば、彼女が今回の被害者だったのだと思います。

 彼女もまた一人で食事をしていました。

 いえ、どうだったのでしょう。

 もしかしたら、今目の前にいる彼女が近くにいたような気もします。記憶は曖昧で、確信はありません。ともかく、私が気にも留めていなかったことは事実です。

 食事が終わると、私は自室に戻り、読書をしていたのはさきほどお話した通りです。

 最下級生の私の部屋は二階にあります。

 上級生たちは三階、四階に部屋があります。

 私はそろそろ眠る時間が来たのだと、キリの良いところで本を閉じて眼鏡を外しました。そうです、そのとき、私は眼鏡を外していましたので、はっきりとすべてを見たわけではありません。いいえ、それは言い訳でしょう、見たくなかった、というのが事実です。

 読書灯を消してなお、月の光が強く部屋に射し込んでいました。そこでカーテンが開けっぱなしであることに気づき、ベッドに向かう前に窓辺に近づきました。

 満月でその大きさはこちらへ覆い被さってきそうなほどでした。

 何となしに月に見とれて、私はカーテンを閉める手を一瞬躊躇ってしまったのでした。思い返せば、それが悪かったのでしょう。

 そこで、私は彼女と目が合ったのでした。

 窓の外、真っ逆さまに落ちていく彼女と。



 ここまで言い終えて、ふう、と私が息を吐きました。

「彼女の名前は」

「シズカワ」

 言いかけたところで、彼女が待ってましたとばかりに口を開きました。

「そうです」

 それは、窓から飛び降りた彼女の名字でした。

「もちろんご存知ですよね」

「ええ、それはもちろん」

 あっさりと溜めもなく彼女が言いました。

 確認するまでもないことでした。

「ところで、貴女はそのとき何を読んでいたの?」

「話には関係ないと思います」

「いいから。ここで隠し事はなしにしましょう。誰にも言わないわ、わかっているでしょう?」

「……乱歩、江戸川乱歩の人間椅子です」

「ふうん、見かけによらず物騒なものを読むのね」

 興味があるのかないのか中途半端な声を彼女は出しました。

 だから言いたくなかったのだ、と私は心の中で毒づきました。

 私の読書趣味については、同室のサヨコさんにも教えないようにしています。頭を覗かれているようで気恥ずかしいですし、あまり私たちが読むには具合が良くないという類の本であることは自覚をしていましたから。

「で、それから、それから?」

 彼女は子どもが絵本の続きを急かすように私に言いました。



 それからの数時間は、実はよく覚えていません。きっと、私の中のどこかが信号を発して、記憶を消そうと走り回ったのでしょう。

 私がしたこと、しなかったこと、見聞きしたこと、しなかったこと、は記憶というよりは、映画を見るように他人事として思い出すことができます。

 ドスンという音が聞こえました。

 私は窓を開けて、下を見ました。

 月下に人間が倒れているのを見ました。

 どこからか悲鳴が聞こえました。

 三階の生徒だったかはわかりません。

 廊下の電灯がつきました。

 寮母が駆けて行くドタドタという音が聞こえました。

 それは庭ではなく上、おそらく悲鳴の方へと向かっていました。

 しばらく経って、自動車が寄宿舎にやってくる音がしました。

 寄宿舎中の明かりがつき、廊下で寮母により点呼が行われました。

 何があったか、この段階では何も言われませんでした。

 各自、部屋に戻り鍵をきちんとかけるように言われました。



 翌朝、全員が食堂に集められました。

 心なしか昨夜よりも人数が少ないような気がしました。少なくとも一人は減っていたでしょう。

 寮母から話があり、就寝時間前に上級生が自室の窓から転落して命を落としたことを告げられました。一様に驚き、言葉を失いつつも、薄々は知っていたことでしたので取り乱すような生徒は誰一人いませんでした。

 それぞれ事情はあるものの緊急事態ですから、今から実家に連絡をして、帰省する生徒も出るだろうと思いました。

 転落した。

 寮母は状況についてそれだけを言いました。

 その不可思議さに気が付いてたのは私だけだったのでしょうか。

 それとも、みな気が付いていて、あえて言葉にしなかったのでしょうか。

 寮母は事故だとも、自殺だとも、殺人だとも言いませんでした。

 解散して、生徒たちは談笑することなく足早に自室に戻っていきました。帰省の手続きをするものもいるからだろうとも思っていたのですが、もしかしたら、やはり寮母の発言による不穏さを感じ取っていたのかもしれません。

 何より、寮母のそばに一人の男性が立っていたことが、私たちの目の引きました。この寄宿舎に入ることができる男性など、出入りの業者くらいなのです。その人物は、外出したときに街でよく見る、警察官の制服を着ていました。

 私もみなと同じく自室へと戻りました。

 部屋に戻りましたが、窓側には近づきたくありませんでした。窓そばの机から一冊の本を取り出して、ドア寄りのベッドに腰をかけて、窓は見ないように寝転がって本を読み始めました。

 本はいつものように、探偵が殺人犯を追い詰める娯楽小説です。

 文字を追いながら、頭に入っていないのがわかっていました。頭では、転落した彼女のことばかりを考えていました。

 ただ転落して亡くなったことだけを知らされれば、何も思わなかったかもしれません。私は彼女のことを知りません。しかし、私は、たとえ一瞬であっても、生きている彼女に会ったおそらく最後の人間なのです。そのことがずっと頭を占めていました。

 勝手に運命めいたものを感じていたのでしょう。

 行け、と何かに突き動かされているようでした。

 私は本を閉じ、身体を起こしました。

 小声でよし、と呟いた私は、間違いなく、不謹慎にもこれが殺人であることを期待していました。



 ドアを出た私は、建物の中央にある唯一の階段を上がり、四階の彼女の部屋へと向かいました。部屋を通り過ぎて、中の様子をうかがいました。

 ちょうど、警察官が部屋を出て、反対方向へと向かうところでした。階段で下に降りるつもりなのでしょう。彼の背中を見ながら、気が付かれないように部屋へと入りました。部屋の中には誰もいませんでした。警察官はたった一人だったようです。ですので、警察はこれを事故、あるいは自殺として処理するつもりなのかと思いました。

 部屋の構造は私の部屋とまったく同じものでした。ドアを抜けると左右にベッドがあり、窓側へとクローゼット、机があります。二人部屋なので、対になっているのです。変わったものはなく、荒らされている様子もありません。

 窓は開けっぱなしになっていました。やはり、近づくのは躊躇われました。窓は私の腰ほどの高さからあって、よほど身を乗り出さなければ落ちることはありません。

 彼女の持ち分は入って右側であることは知っていました。部屋の前には目の高さに左右にネームプレートが掲げられていて、その通りに部屋割りがされているからです。

 彼女の机には教科書が高さ順に整然と並んでいて、少なくとも私よりは几帳面であることが伺えました。

 机の引き出しを開けるかどうか、これが一番躊躇いました。いかに探偵といえども、死者の生活にどこまで踏み込んでいいのでしょうか。もしかしたら、決定的な証拠があるのかもしれません。あるとすれば、ここである可能性が高いでしょう。

 私は数秒悩んで、ここを開けないことにしました。やはり私は警察でも探偵でもなく、ただの真似事であることを自覚したのです。

 机から目を離し、クローゼットを開けて、服を眺めます。私と同じ制服が掛けられていて、その他の服も質素なものばかりでした。彼女の性格は知りませんが、たぶん、おしとやか、大人しい、物静か、といったものではないでしょうか。

 クローゼットの中は、レモンのような、ほのかに酸味のある匂いがしました。不快ではありません。

 それからこそりとドアを開けて、部屋をあとにしました。

 得られた情報と小説で手に入れた意地の悪い思考回路を存分に使い、うろうろと私は寄宿舎中を歩きました。

 わずかな手がかりを元に犯人を見つけるためです。

 そう、当然のことながら、私は犯人を寄宿舎にいた生徒、寮母に絞っていました。実際には、もっと絞り込んでいました。

 そのあと、私は四階の一室の前に立ちました。

 明智小五郎の気分がなかったか、と言われると否定できません。

 私は、身近に起きた出来事に足を突っ込んでみたくなった、それが本心です。

 好奇心は猫を殺すというのなら、私はまさに一匹の気を張った猫でした。

 そして私はその部屋のドアの下に手紙を挟んだのでした。

 夜に待つ、と。



 夜になりました。

 コツコツ、とドアを叩く音がしました。

「どうぞ」

 私が言いました。

「こんばんは」

 ドアを開け、彼女が首だけ出して挨拶をしました。髪が重力に従って、下へさらりと垂れています。

「こんばんは」

 私も同じように返します。

「入ってもいいかしら?」

「かまいません」

 私は手に持っていた読みさしの本を机の上に開いたまま裏返しておきました。栞がたまたま見つからなかったからですが、いつもこのようにぞんざいに扱っているわけではありません。もしかしたら、私にも多少の緊張というものが存在していたのかもしれません。

「こんばんは、しろやぎさん」

 彼女が私に向かって言いました。

「貴女がくろやぎさんでなくて良かったです」

 またも同じように私が返します。

「頭が良いのね」

「それほどでもありません」

 私の返しのことを言ったのでしょう。私は謙遜をしておきました。

「いいわ」

 彼女が部屋に一歩入り、右手でドアを閉めようとしました。

「ドアは閉めないでください」

「あら、どうして?」

「万が一、逃げやすいように、です」

「おかしなことを言うわね」

 彼女が口元に手を当てて笑いました。

 そのまま、彼女はドアを閉めました。

「大丈夫よ、何もしないわ。それに呼び出したのは貴女よ」

「……くろやぎさんでないのなら、手紙は読みましたか?」

「ええ、もちろん、それとも読まずにここにこれると思う?」

「それはそうですね」

 また一歩、一歩と私に近づいてきます。

 私の正面ではなく、座っている私の右横に立ちました。彼女が右手で私の頬に触れました。そのまま私の横を通り過ぎ、窓辺まで行きました。私からは見えませんが、開いているカーテンの向こう側、月を眺めているのでしょう。

「ああ、ああ、そうだわ、やっぱりここは真下だわ」

 ぼんやりとした自分に納得させるような声で、外に向かって彼女が言いました。

 それから彼女は座っている私の背後に回り、膝を少し落として背中にのしかかるようにして、両腕を私の肩の上において絡ませてきました。

「さて、貴女の話を聞かせてもらえるかしら?」

 彼女が耳元で囁きました。

「いいですよ」

 私はかいつまんで、飛び降りた彼女の部屋に入ったことを告げました。

「それは、良くないことだわ」

「そう思います」

「それで、貴女はどうしたの?」

 彼女は興味津々、というわけではなく、静かに私に聞きました。彼女が喋るたびに私の首に息が吹きかかります。

「まず、私は対象者を四階に絞りました」

「それはどうして?」

 彼女が合いの手を入れました。

 思考を整理しながら、物語の演者になりきったつもりで私が説明をします。

「階段です。三階や二階の生徒は真ん中の階段を上らなくてはいけません。あのとき、彼女が落ちてから、すぐに悲鳴が聞こえました。その声を聞いて寮母さんが上に駆け上がりました。寮母さんがいるのが一階だとしても、三階以上に駆け上がるまでに、誰かに会う可能性が高いのです。ですから、今回は四階の生徒である可能性が高いと推測しました」

「階段で見つからない予定だったら?」

「結局、今回は見つからなかったのですから、四階である可能性が高いでしょう」

「それで?」

「四階にいた生徒は貴女を含めて三人でした。なので、その三人の誰かであるとして、一人一人を確認していきました」

 そうは言っても、一人一人に貴女は彼女を突き落としたのですが、と聞いてまわるわけにはいきません。私は警察ではないのですから。彼女たちが部屋を出るときを見計らって、昼食の時間にすれ違うのがせいぜいでした。

「ふうん」

 彼女が生返事をしました。

「私は彼女の交友関係を知りません。知りませんが、貴女と関係があることは知っています」

「そうね、それはそうだわ」

 彼女が首肯しました。

「なので、貴女ではないのか、と私は目星をつけました」

「それだけ?」

「そうです。それから、貴女のことをつけました」

「それは、気が付かなかった」

 本当に気が付かなかったかどうかはわかりません。ただそう言っているだけかもしれません。

「貴女の部屋の前に、これが落ちていました」

 私は胸ポケットから、ハンカチーフで包んだものを取り出しました。

 さらさらの粉が、ほんの少しだけ落ちているのを私は発見していたのでした。

「それは、なに?」

「花粉です。白い花粉は、彼女のクローゼットと同じ匂いがします。たぶん、鈴蘭」

 もう一度、鼻に近づけて匂いを嗅ぎました。

「それに私、鼻が良いんです。今も貴女は同じ匂いがします。これは今気が付きましたが」

「そう」

 素っ気なく彼女が言いました。

「どうですか?」

「どう?」

 彼女が首を傾げたので、こつんと頭と頭が当たりました。

「だから、貴女が彼女を殺したのです」

 私がそう言い切りました。

 私の斜め後ろにいる彼女の表情を見ることはできません。彼女は言葉に詰まり逡巡するかと思いましたが、すぐに明るい声で肯定をしました。

「ええ、そうよ」

「否定はしないのですね?」

「ええ、そうだわ。私が彼女を殺した。部屋に入って、窓を開けて、彼女を誘い込んで、首を締めて、窓から突き落としたの」

 つらつらと箇条書きのように、抑揚なく彼女が言葉を紡いでいました。まるで、殺意や悪意などどこにもないかのようにです。

「ふふ、これは想定していなかった?」

「実は、否定されるものだとばかり」

 てっきり拒絶されるものだと思っていましたので、拍子抜けしてしまったことは事実です。

「私は決めていたの。もし誰かが私のことに気が付いたのなら、はっきりと言おう、と」

 彼女の言葉が本気なのかどうかはわかりませんでした。

「さて、どうしようかしら」

 彼女が私の口に自身の人差し指を当てました。まるで口止めを促すように、です。それから、彼女は私のハンカチーフの粉を指に取り、それを自分の口へと運びました。

「気をつけて、鈴蘭の花粉には毒があるのよ」

 毒を飲み込んだ彼女が唾液で濡れた指を再び私の唇に押しつけます。

「あとで十分に手を洗っておいてね、目にでも入ったら大事だわ」

「自首してください」

 唇に指の感触を覚えながら、上下に動かして彼女に言いました。

 彼女は伸ばした人差し指を横にして、私の唇の隙間にぴったりと合わせました。

「そうね、それが一番簡単なのだけど、それよりも、今この場をどうするか考えているの」

「どういうことですか?」

「貴女、何も考えていなかったの?」

「……そうでした」

 彼女の言う通り、私は彼女が犯人だと伝えることばかりに気を取られていて、それからどうすべきか何も考えていないことを、たった今、気が付いたのです。

「貴女、頭が良いのか悪いのかわからないわ」

 呆れたような声で、彼女が言いました。

「すみません」

 なぜか私は彼女に謝ってしまいました。

「もう少し、ここにいてもいいかしら? 悪いことはしないわ、たぶん」

「そうですか、絶対、というのなら」

 私は彼女の申し出を修正しつつ受け入れました。



 そうして、さきほどのように幾ばくかの会話を交わしたあとのことです。

「いずれ警察が来ます」

 私がそう告げても、彼女はくすくすと笑い続けるのでした。

「そうすれば、貴女は捕まります」

「ええ、そうでしょうね」

 彼女はその言葉に怖じ気づく気配もありませんでした。それくらいはわかっていたのでしょう。警察も馬鹿ではありません。彼女の死体を丁寧に調べれば、首を締めたあとが見つかり、他殺であることもわかるでしょうし、ここにいた人間を一人一人調べれば彼女にきっと行き当たるでしょう。

「でも、もし誰も私を捕まえに来なかったら?」

「私が告発します」

 するりと彼女の右腕が、私の胸と服の隙間に滑り込みます。冷たく柔らかい感触に心臓が掴まれたような気になりました。心臓が大きく一跳ねして、身体がびくんと震えました。

「貴女、拒否をしないのね」

 意外そうに彼女は言いました。

「抵抗しましょうか?」

「いい返事ね」

「大声を出しても、誰も助けてはくれません。それに貴女のような殺人鬼が何をするかわかりません。私の読んでいる本では、しばしば抵抗をした人が次の被害者となっています。それならしない方が良いでしょう」

「素敵」

 彼女は指を立てて、二足歩行をするこびとのように私の身体を歩かせます。そのたびにくすぐったくて身が捩れそうになるのを私はなんとか耐えようとしていましたが、そのわずかな反応を彼女は楽しんでいるようでした。

「私、ここを出たら、結婚する予定だったの」

 彼女がはっきりとした声で私に言いました。

 ここは良妻賢母の淑女を育てるための学校です。ここを出た同級生たちの大半がそうであるように、彼女もまた卒業後の進路が決まっていたのでしょう。

「これでご破算になるわ」

「ご破算にしたかったのでしょうか」

「ええ、そうね、こんな傷物を誰も欲しがらないわ」

「そのために、彼女を殺したのですか?」

 確かに、彼女の言うように、人を殺した女など誰が欲しがるでしょうか。この学校に通っている良家の人間だからこそ保たれている私たちの価値を帳消しにしてあまりあるでしょう。

「彼女も、同じだったわ」

 被害者のことを言っているのでしょう。彼女もまた、ここを卒業したあと、結婚が決まっていたのでしょう。

「逃げたいと言っていた」

「だから」

「そう、だから、私が逃がしてあげたの」

 逃がした、と彼女は言いました。言い訳のつもりはないようでした。

「籠の鳥を逃がすように?」

「ええ、籠の鳥を逃がすように」

「彼女が殺してくれと言ったのですか?」

「いいえ、でも私にはわかったわ」

「それは、傲慢な考えではないでしょうか。人間は、人間の気持ちなどわかりません。貴女は、ただ単に、人を殺したかっただけです」

「そうね、そうかもしれない」

 強い言葉で断罪した私に、彼女は否定しませんでした。私も、物語の探偵のように少し正義に酔っていたのかもしれません。

「ええ、そうです」

「でも、ああ、そうだわ、それに、月がとても綺麗だったから。そうよ、あの月がすべて悪いんだわ」

 背後の窓から私たちを照らす丸く大きな月のせいに彼女はしているようでした。もちろん、それは冗談のつもりでしょう。

「どこまでが本当ですか?」

「さあ、本当のことなんて誰にもわからないわ、ねえ、そうでしょう?」

「そうですね」

「ふふ、素直な人」

「素直なだけが取り柄だといつも言われています」

 それが私に対する周りの評価でしたが、それが揶揄であることは当然重々に承知していました。

「貴女、お相手はいるの?」

「いいえ。ここを出たら教師になるつもりです」

「探偵ではないのね」

「はい」

 今のところ、彼女たちのように結婚が決まっているということはありません。両親からも可愛げのない私のことだから結婚相手もそうそう見つからないだろう、だからせめて自立するようにと言われていました。これは彼らなりの優しさというよりは、諦めの気持ちが込められているようでした。

「そう、素敵なことだわ。まだまだやれることがあるということだもの」

 彼女がとても羨ましそうに嘆息しました。その息が私のうなじに温かく吹き付けられました。

 彼女がゆっくりと手を引き抜き、私の前に回りました。

「そうだわ、貴女のお名前を教えてくれるかしら? 手紙には号室しか書いていなかったから」

 両足をぴったりと閉じている私の膝の上に、彼女はまたいで座りました。思っていたよりは華奢な彼女の体重は、私にも苦痛を感じさせないほどの重さでした。

「復讐しに来たりしませんよね?」

 彼女は部屋の前のネームプレートを見ていなかったのでしょうか。そんなはずはないだろう、と私は思いました。

「どうかしら?」

 含みのある言い方で、彼女は悪戯っぽく笑います。

 彼女の両手が私の首にかかります。真綿を締め付けるように、という表現が似合うほど、彼女は時間をかけて私の首を締めていきます。

「それで」

 私が無抵抗であることを知ると、つまらなそうに彼女は力を緩めました。

「アマノです。アマノショウコ」

「良い名前ね、ご両親に感謝して」

 気に入っても嫌ってもいない、平凡な私の名前を彼女はお世辞として褒めてくれたのでした。初めて他人から名前を褒められましたが、特に私の心は動かされませんでした。

「シズカワさん」

 被害者と同じ名字を私は呼びました。

 それは彼女の名字でもあったからです。

「何かしら?」

「お姉様のご冥福をお祈りしています」

「ありがとう、姉がお墓に入ったら伝えるわ。たぶん、お葬式には間に合わないでしょうから」

 冗談なのか、本気なのかわからない口ぶりでした。

「貴女がいつ墓前に行けるかはわかりませんが」

 数年、十数年、あるいは死ぬまで、もしかしたら死んでも、彼女は姉の前に立つことはできないのではないでしょうか。

「結構言うわね」

「たまには、そういうのも悪くないでしょう」

「ええ、ええ、そうだわ」

 ケタケタと彼女は嬉しそうに笑いました。その笑顔を見て、いまさらながら彼女が殺人鬼であること、姉に手をかけたこと、そうしようと思えば私も同じようにできることに気が付いて、空恐ろしいものを感じました。

 彼女は狂っているのでしょうか?

 月夜に狂わされたのでしょうか?

 彼女を前に平然としていられる私も狂っているのでしょうか?

 なんとなく、私もそちら側なのでは、という気がしてきていました。

「大丈夫よ、貴女は自由ですもの」

 その考えを見抜いたのか、彼女が落ち着いた、樹脂のような弾力のある声で私に語りかけました。

「最後に、聞かせてほしいのだけど」

「なんですか」

「彼女は、どんな顔をしていたのかしら?」

 彼女は落ちていく自分の姉のことを聞いてきました。

 私と上下反対に一瞬だけ目を合わせた彼女は、どうだったのかと。

「私は、彼女の顔など」

「いいえ、きっと貴女は覚えている。ダメよ、隠し事はなしってさっき言ったでしょ」

 誤魔化そうとした私を彼女が咎めました。

 ああ、なんていうことを言うのでしょうか。

 それだけは思い出したくなかったのです。

 それだけはうやむやにしたかったのです。

「彼女は、そうです。微笑んでいました」

 あの刹那で何を感じ取れたと言われるかもしれませんが、私は確かに、それだけははっきりとわかっていたのです。

 彼女の動機を肯定したいのではありません。彼女の言葉に引きずられて、記憶を捏造したのでもありません。私は、死が刻々と迫ってきている彼女の姉が、満足そうに微笑んでいるのを見ていたのでした。

「話してくれてありがとう。最後に姉に会ったのが、貴女で良かったわ」

 彼女が感謝の言葉を述べました。

「それじゃ、いくわ」

 そう言って、彼女が私の首元に唇を押し当てました。耳元から微かに鈴蘭のような匂いがしました。

「……そうですか」

「さようなら、探偵さん」

「……さようなら」

 彼女は、別れの挨拶をしたあと、触れるか触れないかのような接吻を私にしました。何から何まで私の初めての経験であったことは言うまでもありません。

 伏し目がちな私を、たぶん月光がそうさせたのでしょう、彼女は少しだけ寂しそうな表情で見つめたあと、立ち上がりドアを開けて出て行きました。



 翌日、彼女は寄宿舎から姿を消しました。

 警察が行方を追っているようです。

 彼女がどうなったのかはよく知りません。

 ときどき、折に触れて彼女のことを思い出します。

 けれども、そのあとの人生、ついぞ彼女に出会うことはありませんでした。



 これが、私の人生で唯一、探偵の真似事をしたときの話です。

 ええ、私は熱に浮かされていたのでしょう、危ないことをしたのはわかっています。

 それとも、ひょっとするとすべてが幻だったのかもしれません。

 彼女も、彼女の姉も、あの寄宿舎の夜も、一切合切が一夜の夢だったのかもしれません。

 そうであったのなら、と思うときもあります。

 それでも、この告白を人生の終わりに記したことは意味があるのだと思います。



 私の幻燈はこれでおしまいであります。

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