異界のヌートリアの共闘の記憶

のらきじ

異界のヌートリアの共闘の記憶

 乱杭歯を見せつけてくるネズミの笑顔にも似た威嚇の表情は、僕の気持ちを暗たんとさせた。美的に言ってそれはあまりにも醜かった。そして僕の顔も目の前のネズミと大して変わりはしないのだ。


 ネズミの足元には同じくらいの体格の、腐りかけたネズミの死体があった。後ろ足の一本が不自然に折れ曲がっている。そのせいで死んだのだろう。そして同族に食べられている。


 この森の中、他に食べ物がないわけではない。僕らはミミズだってバッタだって食べられる。まだ柔らかい腹をした子供のアナグマを狙うこともある。毒でちょっぴり舌が痺れるのを我慢すれば、鈍いカエルを食べるのが一番簡単で、歯ごたえがよくて美味だと思う。あえて同族を食べる意味はない。


 どうしてだ、と問いかけたかった。だが、僕らの不器用な舌と下品な歯ぐきは器用に音を鳴らすことができない。おおよそ僕らの間に言葉じみたものがあるとして、それはもっと大雑把な、体全体を使うような仕草でしか表すことができなかった。今、彼がやっているように。歯をむき出しにして二本足で立ち上がり、体を大きく見せるとか。


 僕は怯えたふりをして身をかがめ、少しずつ後ずさりをした。背を向けるにはまだ距離が足りなかった。僕らの闘争は単純だ。どちらかが先に首に噛みつく。噛みついたなら死んでも離さない。それだけ。だからやすやすと背を向けるわけにはいかない。耐えがたいほど醜くても、あの笑顔を見つめていなければならない。






      〇




 そう遠くない過去、僕らは群生していたはずだった。祖父や祖母と肩を並べてカエルを食べていた思い出がある。食べてもいいカエルと、食べると半日は動けなくなるカエルの違いを教えてもらった記憶がある。それなのに、今僕らは群れとして暮らしていない。何故だか一匹一匹、オスもメスも小さな縄張りを作って、そこを必死に守っている。繁殖期だけ何かを思い出したように苔むした木の上で折衝するが、子育てもろくにしないから、子供はまともに育たない。あらゆる母親は子どもを非常食か何かと勘違いしているのではないかと思う。僕らに蔓延している同族食いの病はそれほどにひどい。


 病、と呼ぶしかないだろう。流行だとは思いたくない。食べられるから食べているのだとも思いたくない。お互いをそこまで味気ない、「食物」だと思い込んでしまったのは何故だろう。どうかしているのだと思う。そんなふうにしなくても食べ物はあるはずだ。この森には一年中潤沢に雨が降る。木々も果実も虫も、何もかもが僕らのためにある。


 ここは楽園じゃないか。


 なのにどうして、お互いの首に噛みつこうとするんだ。


 目の前の笑顔に対する暗い怒りが僕の歯ぐきをむき出しにさせる。十分に後ずさりながらも、僕は彼の短慮を待っている。食わないまでも殺してしまいたいとは思う。体の大きな彼が池のほとりに陣取っているせいで、僕はカエルという道楽を奪われてしまっている。


 同族を食べてはいけないと思う僕は、おかしいのだろうか。


 みながやっているように、やればいいんじゃないかとも思う。でも、それができたら苦労はしない。






      〇




 結局カエルを諦めて逃げかえってきた僕の縄張りに、傷を負った若いメスが入り込んでいるのを見つける。彼女は僕から逃げようとしたが、相当疲弊しているのか、短い足をもつれさせて、泥の中に倒れた。前歯が痛々しいほどに欠けている。誰かに負けてきたのだろう。


 彼女は媚びを売るように尻を向ける。繁殖期でもないのに。その馬鹿馬鹿しさに気付いていながらも諦めている。興奮してやれればどんなにいいかと思うが、あいにく勃ちはしなかった。


 彼女から少し離れたところに座って、夜を待つことにした。彼女はしばらく凍り付いたように尻を持ち上げていたが、やがて意味がないと分かったのか、楽な格好になって、そのまま寝息を立てた。




 夜になると、僕は鼻先で彼女を起こした。食われると思ったのだろう。断末魔のような薄汚い叫び声を上げたが、我慢していると、次第にそれも収まった。鼻先で押すように樹木に押しやる。その樹木は僕のお気に入りだった。適度に古く樹皮の隙間からいい具合の汁を出す。そのまま舐めてもいいし、寄ってくる虫を食べてもいい。


 彼女は困惑した様子で鼻を鳴らすばかりだった。仕方ないから歯を寄せて、樹皮にしがみ付いていた甲虫を一つむしり取った。


 もがき苦しむ虫をぶちぶちと噛み潰していると、彼女は例の笑顔になって僕を警戒した。虫を食べるなんて信じられないというような、軽蔑。こんな野蛮なメスにも何かを軽蔑できるような思慮分別があるのかと、僕は少しまいってしまった。異性に軽蔑されるのも、ずいぶん久しぶりのことだった。


 僕は精一杯の親切を込めて、乱暴に彼女の尻を鼻先で押しやった。彼女はそれでも、虫を食べようとも樹液をすすろうともしなかった。彼女が空腹に負けてそうするまでに三日かかった。三日間、僕は少しも眠らずに、彼女が飢え苦しむのを見守った。眠ったら僕が食われるだろうから、眠れなかった。






      〇




 彼女が同族以外の食べ物の味をしっかりと覚えた頃、繁殖期がやってきた。僕らは当然のようにやることを済ませた。彼女は出会ってから見たこともないほど穏やかな顔で、歯ぐきも見せずに眠りについた。


 僕は無性に、どうしても彼女にカエルを食べさせてやりたくなった。そのためなら同族を殺すことも問題ではないと思った。――食いはしないが。べつに殺してもいいだろう。むしろ、何故今まで、同族を食べる連中を放っておいたのだろう。野放しにしていたら彼女も、これから彼女が産むであろう子供たちも食べられてしまう。先回りしなければ。




 実際僕は幸運だった。池のほとりを縄張りにしていた彼は、もうずいぶんと歯が欠けていた。首筋には何本も別の個体の歯が食いこみ、膿んでいるような腐った臭いの気配もあった。


 僕は自分でもうんざりするほどいい笑顔をしながら彼にまっすぐ向かっていった。彼は例によって威嚇のために二本足で立ち上がった。僕は付き合わなかった。分厚い皮膚と毛皮で覆われた首に拘る必要はない。アナグマの子供を食べるときのように、柔らかな下腹部に、噛みついた。引き裂いた。背中に鋭い痛みを何度か感じたが、彼が腹部に感じているであろう痛みほどではなかった。


 歯にひっかけて引きずりだした胃腸をしつこく踏みつけていると、やがて彼の動きは止まった。僕の背中に吐息をもらして、覆いかぶさった。


 僕はそのまま、彼から離れるべきだった。けれど、僕の心のどこかに残っていたのであろう無邪気な好奇心が、僕の顎を動かした。


 肉も、内臓も、血も、取り立ててうまくはなかった。濁った味がした。こだわるほどの美味ではなく、そして涙が流れた。


 僕らは何か間違ったものに支配されている。


 弱って絶滅しようとしている。本能を切り分けることすらできない愚昧のせいで。






      〇




 咥えられるだけのカエルを持ち帰った彼女の傍に、一匹の毛皮のない猿が座っていた。その猿の顔を見た瞬間、僕は何もかも思い出した。僕に言葉を与え、僕の軽蔑に形を与え、僕の悲しみを石みたいに重くしたのは彼の仕業だった。彼はどうやってか、右腕をひねるだけで僕に言葉を与えたのだ。




「久しぶり。元気にやってるみたいだね」


 猿は器用に動く舌を使って流ちょうに喋った。真似をしたかったが、僕がやってもうめき声と歯ぎしりを合わせたような、なりそこないにしかならない。


 だから僕は心で伝えるべき言葉を考えた。それだけで伝わるはずだった。この猿はそれほど狡猾なのだ。




 どうして僕をこんなふうにしたんだ?




「大きくて空っぽな脳みそを持つ異界のヌートリアくん。君たちは今、とある大きな存在によって、在り方を歪められているんだ。君らがお互いを食べようとするのは、元からじゃない。それが当然だと思い込むように、歪められたのさ」




 大きな存在とはなんだ?




「俺らはシンプルに外敵と呼んでいる。外敵は知的生命体の認識に介入し、そこを足場に世界に向かって自分を広げる」




 外敵?




「君が自分の種族を軽蔑する原因は、君の種族の内側にはないってことさ。自分たちを責める意味はない。代わりに敵を倒さないといけない」




 お前は味方なのか?




「君にはそうは思えないだろうけど、君たちヌートリアと僕らはかなり近しい生き物なんだ。君たちが外敵にやられて全滅すると、僕らもそれなりに困るんだ。だから君に言葉を与えた。手始めに」




 手始めに?




「群れを作って暮らすといい。君の妻や子供は君のようには物が考えられないだろうが、行動で示して、学ばせるといい。何を食べて、誰と共に生きるべきなのか。君の違和感を世界に向かって突き付けてくれ。――共倒れせず、生き延びてくれ。それだけでいい」




 ――猿は共食いをするか?




 僕が少し考えてからそう尋ねると、




「するときもある。でも、しないように努力している」




 猿はたっぷりと考えてからそう答えた。






      〇




 猿は二本足で器用に森の奥へと歩き去った。


 あるいはあの猿こそが「外敵」ではないかと僕は思った。祖父母の記憶も、同族食いへの軽蔑も、何もかも奴が僕に植え付けて、そのせいで僕は余計に苦しんでいるのかもしれない。


 だが、幸福に眠り続ける彼女の笑顔を見ながら思う。


 やはり、食べたくはない。


 だから、あいつの敵が僕の敵でもあるのだろう。




「いいだろう。僕が生きている限り、君らと共に戦おう」




 そう呟いたはずの、口から漏れ出てくる言葉はやはり、唸り声にしかならなかった。

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