影まで焦げた

古月

影まで焦げた

 その汽車は定刻よりも十分遅れて出発した。

 汽笛を鳴らし、蒸気を噴き上げ、ゆっくりと走り出す。大勢の見送りが手を振り、楽器隊が激励の音楽を演奏する。


 走り始めた列車の窓を開けてあの人が身を乗り出すと、私は知らず追いかけるように駆け出していた。


「私、あなたに言わなきゃいけないことが!」


 ずっと押し込めていた言葉がとうとう口をついて出た。でもその言葉は再度鳴らされた汽笛にかき消されてしまった。


「帰ってくるよ、俺。必ず帰ってくる」


 頭に被っていた帽子を振って、あの人はそう言った。そう思えた。あるいは、思いたかったのかもしれない。

 汽車はどんどん速度を上げて、私は乗降場の端にたどり着いてしまって、もう追いかけることはできなくなってしまった。


 みるみるうちに小さくなる汽車の後ろ姿を、私はずっと見送っていた。見えなくなってしまってからもずっと目を離せなかった。

 これは一時の別れかもしれない。今生の別れかもしれない。どちらになるかは誰にもわからない。だからずっとあの人を見守っていたいと、そんな思いが私の中にあったのかもしれない。


 汽車が見えなくなると楽器隊は演奏をやめ、見送りに集まっていた人たちもぞろぞろと引き返していく。思い出したようにセミたちが大合唱を始めていた。その音を背中に聞きながら、それでも私はまだ立ち尽くしていた。


 本当はもっと話したいことがあった。伝えたい言葉があった。でも、言えなかった。だって仕方ない。あの人は私にとって最も親しく、最も慕う人だったけれど、どうして別れを惜しむ親子の間に割り込んでいけるだろう。あの人がおば様と手を取り合い、抱き合うのを、どうして邪魔できるだろう。ただでさえ今朝は慌ただしく時間がなかったというのに。


 日差しが痛い。じりじりと肌を焼く。焦げ付きそうなほど強い太陽の光。


 ああ、どうして今日という日はこんなにも美しく、青く、晴れ渡っているのだろう。

 今日があの日みたいに雨だったなら、私は泣くこともできただろうに。あの人が「行ってくるよ」と旅立ちを告げたその日、夕立の音を聞きながら大好きだった赤い服を破り捨てた。あんなふうに包み隠さず、この心をさらけ出せたなら良かったのに。


 この呆れるほどに、遠い空。憎たらしいまでの澄んだ青。


 私と同じ空の向こうにあの人はいる。そう思えば、まだ少しこんな晴れ空も許せるだろうか。毎日こんなふうに、あの人の行く先を照らしてくれるなら、好きになれるだろうか。

 そうしていつかあの人が帰って来て、ただいまと言ってくれるなら。そのときもまた今日みたいに晴れていたら。私はきっと、こんな青を好ましく思えるのだろう。


 こんな、絵の具のように青い景色を。


「……あれ」


 何だろう、あの、青色の中にポツンと落ちた黒い点――。































 ――――――閃光。































 1945年8月6日、午前8時15分。


(了)

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影まで焦げた 古月 @Kogetsu

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